3.脅したのは
◇ ◇ ◇
野田が最初に出会ったころに比べて、結衣は変わった。
他人を巻き込んで自滅に走ろうとする危うさは消え去り、現在の結衣は周囲が向ける好奇の目にもどこ吹く風だ。
注目を完膚なきまでにスルーしながら学校生活を謳歌する結衣の姿を、野田は2学期になって何度か校内で見かけた。
「結衣ちゃん」
「なんですか、野田先輩」
一度、野田は結衣にとって理不尽でしかないこの仕打ちを案じて声をかけたことがある。彼なりに、ある種の責任を感じていたのかもしれない。
しかしその時の結衣は野田の心配をよそに、うんざりとした表情でこう言った。
「別に野田先輩がわたしのことで心を痛める必要はないでしょう。むしろ何も起きていないのに、皇龍の人に気にされるほうが迷惑です」
やんわりとした、しかし明確な拒絶。
柳虎晴と高瀬結衣の繋がりについての情報を街に広めたのは誰か。結衣が把握していない、なんてことはないだろう。それなのに、野田をはじめとした皇龍の面々を彼女は責めようとしない。
かつての一歩を踏み外せば狂気に変わる、不安定な精神状態の高瀬結衣はもういない。
だが、周囲の敵意をものともせず普通の生活を送る結衣は野田からすればやはりどこか不気味で、この先に不安を感じずにはいられなかった。
*
要注意人物1年代表の高瀬結衣が何の目的もなく2年の教室に現れるわけがない。
警戒する野田をよそに結衣はまんまと三國を釣り上げ、ふたりでいずこかに消えてしまった。
野田も三國に同行しようかと考えたが、これ以上結衣を目立たせるのはまずいと思いとどまる。
呼び出したのが三國という点で、用件はマヤに関する内容だろうと推察できた。
皇龍とは無関係な話に深く突っ込むのはどうかと迷いつつ、好奇心に負けて教室に戻った三國に用件は何だったのかと訊いてみる。
三國は野田を一瞥し、興味なさげに「つまらない話だ」とだけ告げた。
「だからそのつまらない話がなんだったのかを訊いてんだよ、俺は」
追及したところで長年の友人は腕を組んだまま微動だにしない。こうなるとたとえこっちがどんなにうるさく騒ごうが三國は一言も漏らさないことを、経験から知っていた。
野田は諦めのため息を吐き出し、恨みがましく三國をねめつけ……そして、おや? とあることに気づいた。
いつも三國はマヤ以外の女に近寄られると不機嫌な空気をまき散らすのだが、そういや今回は平常心で帰ってきた。
——もしかして、こいつは結衣ちゃんを女とみなしていない? いやいや、まさか。さすがにそれはないはず。
先ほどの短時間で、三國と結衣は何を語り合ったのか。主題はマヤのことで間違いないはず。
そして会話を終えた現在の三國の情緒から考えるに、ふたりの間で何かしらの目的が一致したのか。もしくは、結衣が話した内容は、三國にとって利のあるものだった……?
2限目の開始を知らせるチャイムが鳴り、野田の考察はいったん打ち切りとなった。
三國と結衣の接触は気になるが、皇龍に関係しないことなら多少は目を瞑ってもいいだろう。
悪い想定ばかりを考えたところで、視野が狭くなるだけだ。
結衣についても過剰に警戒せず、イレギュラーな行動に目を光らせておけば今のところは十分のはず。
ひとまずは放置。それが最善だ。
——と。野田が達観を決め込んだ3日後。
高瀬結衣は再び、2年の教室に現れた。
*
授業と授業のあいだにある休憩時間。
野田と三國の所属するクラスに立ち入った結衣に気づいた生徒は、片手の指の数にも満たなかった。
集中した授業から解放され皆が自由に過ごす教室を、結衣は足音を立てず、しかし颯爽と突き進む。
この子ってば、存在感は薄いくせになんて堂々と歩くんだ。
早々に結衣を見つけていた野田はひとりで感心した。
「今朝、靴箱の中です」
結衣はそう言って紙切れのようなものを三國に手渡し、さっさと教室を出て行ってしまった。
入室してから退出まで、10秒もかかっていない。
「今の、結衣ちゃんは何だったんだ」
三國に歩み寄り、野田は単刀直入に訊いた。三國は不機嫌そうに野田をチラリと見て、無言で四つに折られた紙切れを手渡した。
これはつい先ほど結衣から受け取ったものか。
念のため、後ろから覗き見をしてくる者がいないか注意を払いつつ、野田はノートを切り取ったであろう紙を広げる。
B5サイズの紙の中央には、罫線を無視していびつな文字が記されていた。
津月マヤから離れろ
従わなければ お前のせいで 奴は学校に来れなくなる
紛れもない脅迫文だ。
文字の色と紙の滲み具合からして、赤色の油性マジックで書いたのだろう。
筆跡を隠すためか、どの文字も線が過剰に波打っている。もしかしたら、あえて利き手と反対の手で書いたのかもしれない。
いや、字の汚さや使用された道具などこの際どうでもいい。問題なのはメモの内容だ。
これを結衣が三國に手渡したということは、どこぞの命知らずがメモで脅したのは、結衣とみて間違いない。
そして彼女はマヤを守るため、速やかに三國へと手紙を託した。
……本当に、それだけか?
俺は何か、重大なことを見落としてないか?
心の中でひとり焦る野田の手から、三國が紙切れを奪う。
三國はどこまでも冷静だった。最愛の女性が危険にさらされているにも関わらず、この余裕な態度。どう考えても、何かある。
「マヤちゃん、大丈夫なのか」
「手は打つから問題ない」
「ああ、そうかよ」
お前と結衣ちゃんの共闘とか、不穏でしかないんだが……。
じっと紙切れを睨みながら、三國は静かに口を開いた。
「高瀬がたやすく出方を予想できる程度の、くだらない小者だ。本腰入れて首謀者を狩るまでもない」
「現段階では、か?」
野田の問いに前を向いたまま三國は動かない。この沈黙は肯定だ。
マヤに対する害意を目の当たりにした三國が怒り狂わなかったのは幸いだが、引き続き注意は必要だと野田が判断したところで授業開始のチャイムが鳴った。
事態は思わぬ方向に突き進む。
まさか、結衣に脅迫文を送った小者の親玉がクラスの中にいて、野田たちの話に聞き耳を立てていた、とは——。
軽い気持ちで後輩に出させたはずの手紙を、受取人となった結衣が三國に密告するという想定外の展開を間近で目撃し、そいつが顔面蒼白になって震えていた、とは——。
野田は知る由もない。
*
結衣がマヤの危機を三國に任せて終了、なんてことでは終わらないだろうと、野田も予想できていた。
己の勘に従い、定時より早く終わった4限の授業後、チャイムを待たず教室を出た三國について行く。
こいつが面倒臭そうにしながらも俺の同行に文句を言わないあたり、やはり何かある。
三國の目的地は予想どおりというか。やはり結衣とマヤの在籍するクラスだった。
風を通すために開けっぱなしになった教室のドアの向こうに、眠たそうに頬杖をついて授業を受ける結衣の姿があった。
結衣も廊下に立つ三國に気づいたようだ。
一瞬目が合ったようだが、彼女はすぐに意識を黒板へと戻した。
——俺たち、というよりも翔吾を発見した際、あの子の口がわずかに吊り上ったように見えたのは気のせいか……?
ほどなくしてチャイムが鳴り、教師が授業の終了を告げ足早に退出していく。
教室の生徒たちが昼食の準備をしようと椅子から腰を浮かせようとした、その時——。
ダンっ! と、重く大きな衝撃音が結衣のいる教室に響いた。
「ちゅうもーく」
よく通る声が室内のざわめきを抑えつける。
最初の音は、結衣が自らの両手を机に叩きつけたものだ。
野田は廊下の天井を仰ぎ見た。
一番何もしてほしくない女の子が、動いちゃったよ。
授業後の開放感からくる浮足立った喧騒が消えていく。生徒たちが動きを止めて何事かと音の出所を凝視する視線を集め、立ち上がった結衣は教室の前方へと歩いた。
「……おい、やめろ。高瀬」
そう言ったのは、野田も知っている後輩だった。皇龍に所属する榎本が、顔を引きつらせて訴える。
「なにを?」
教壇の上に立って振り返った結衣が、不気味に笑って訊いた。
「お前が今からやろうとしている何かをだよ! どう考えてもろくなことじゃねえだろ!」
榎本は結衣に叫んだあと、前側のドアに近いところに立つ三國と野田に助けを求める視線をよこしてきた。
期待に添えず申し訳ない。
野田は軽く手を振って「無理だ」と拒絶する。
悪いな。ここで乱入したら、間違いなく俺が翔吾と結衣ちゃんに怒られるんだ。
もうね、現在進行形でふたりがよこしてくる眼力が「部外者は口を挟むな」って、どストレートに訴えてきてんだよ。
今後の信用問題に関わるので、ここは傍観者を貫かせてもらうとしよう。
結衣はさっさと野田を意識から外し、榎本を冷たく突き放した。
「もう遅いよ。まあ、何かするのはわたしじゃないけどね。文句があるなら命知らずの誰かさんに言って」
それはそれは楽しそうに、魔女はにっこりと微笑んだ。
「先に謝っておこうか。みんなごめん、わたしの今後の安心のために、ちょっと犠牲になってくださいな」
珍しく意気揚々と弾んだ結衣の口調が恐怖を誘う。
言うだけ言って、結衣は教壇を降りた。彼女が退くのに合わせて、三國が教室に入る。
室内にいた者たちの意識はすぐに結衣から三國へと移された。
まさかの恋人の登場にマヤは目を見開いたが、クラスの大勢に混ざるマヤがこの場で三國を止めることはなかった。
皇龍幹部としても名が知れた三國翔吾を前に教室の緊張が高まる。
注目を浴びるなか、三國はポケットから4つに折られた紙を取り出し広げてみせる。
「津月マヤから離れろ。従わなければ、お前のせいで奴は学校に来れなくなる」
低い声で言い放ったのは、今朝結衣が渡してきた手紙に書かれていたことだ。
教室の生徒は驚愕して近くにいる者同士で顔を見合わせる。
「これは書いたのは誰だ?」
次いで発せられた問いかけに、今度は水を打ったように室内は静まり返った。
誰もが三國の逆鱗に触れぬよう固唾を飲んで息を潜める。
時間が経過するにつれて、どこか納得したような雰囲気が漂いだした。
教室にいる者たちの顔つきにはさほど恐怖というものは見受けられない。
名前を出されたマヤが誰よりも驚いているのが、教室全体を観察していた野田からはよく見えた。
後輩たちの反応は、まあ当然か。
三國が恋人を溺愛しているのは周知の事実である。
そんな男の手によってさらされた、脅迫が書かれた1枚の紙きれ。
馬鹿な真似をする奴がいたものだと、皆が呆れるのも無理はない。
……って、あれ? なんかこの状況、おかしくないか?
事態を傍観していた野田が首をかしげた。
そもそもあの手紙は結衣に出されたもののはず。
しかし三國の言い方だと、後輩たちは脅迫を受けたのが現在絶賛立腹中の三國であると誤解してしまわないか。
なんだこれは。
今この教室で、とてつもない勘違いが発生している気がする。
それにしても。
すっかり蚊帳の外となった結衣は役目を終えて素知らぬふりでも決め込んでいるのかと思いきや。野田の予想に反し様子が違った。
結衣は睨んでいるともとれる鋭い目つきで、ひとつの場所を見つめていたのだ。
だがそれも少しの間のことで、野田の視線に気づくと興味が失せたと言わんばかりに窓の外を眺めだす。
野田は結衣が睨んでいたであろう方向を観察し、いろいろと合点がいった。
そこにいたのは、うつむいて身を縮ませている、ひとりの女子生徒だった。
教室にいるほぼ全員が顔を上げて翔吾を見つめているから、その女子生徒の背中を丸めて首が下がった姿はやたらと目立つ。
なるほどな……と、野田はひとりで納得した。
「知っていると思うが、俺はマヤを傷つけるやつに容赦しない」
うわ、すんげー直球で言ったな。お前らしいが。
マヤちゃん、顔を真っ赤にして俯いてしまったよ。
「これを書いた奴を知っているなら、そう伝えておけ」
「は、はいっ」
皇龍に所属している後輩たちが、腹の底から返事をした。
三國はここで犯人捜しをするつもりはないらしい。
紙切れをしまうと、ガラリと雰囲気を変えて嬉しそうにマヤのところへ歩み寄る。もはや教室にいる他の生徒たちへの興味は失せていた。
糾弾はこれで終わり。
ということは、何がいったいどうなったのか。
野田は教室から一歩身を引いて考える。
結衣のクラスメイトは本当に、ただ巻き込まれただけなのだろう。
彼らからすれば、これは脅迫を受けた三國が、犯人に対して忠告に来たということになる。
最初の結衣の行動は、自分も三國と同様マヤを害する存在には容赦しないと、クラス中に示したと捉えられるのか。あるいは「マヤを守る」という点においては、結衣と三國は結託していると周知させるための行動——とか。
だが脅迫文を書いた張本人からしてみれば、手紙は結衣に宛てたはずだったのに、まさかの大物が出てきてしまったという状態だ。
あの脅迫は三國に出したものじゃないと弁明するのは、自分が高瀬結衣を脅迫したのだと告白するのと同じなのだ。
どちらにしろ、マヤを脅しの材料に使ったことで三國が怒っている状況も変わらない。
そして、手紙を書いた張本人のみが知っていて、他の生徒たちには示されなかった情報がもうひとつある。
三國がした忠告によって、当事者とその他に分けられる認識の大きな差はなんといってもここだろう。
結衣が自分にされたことを、三國に密告したという事実。
ちくり。告げ口。言い方はいろいろある。
場合によっては問題を解決する有効な手段になるが、タイミングやその後の対応を誤れば加害者の火に油を注いでしまいかねない。
結衣と三國の情報共有は、確実に加害者側にばれた。
今回の場合は、果たしてこの事実はどう転ぶだろうか。
一抹の不安を抱えた野田に構わず時間は進む。
「マヤ、行こっか」
「行くって……、どこに?」
冷徹に怒る姿から一転、甘々な彼氏に戻った三國の変わりようにマヤはたじたじだった。
「ん? 昼飯。遅くなってごめん」
「え、……ええ」
完全な犬モードになった三國に促され、マヤは机の横に下げてあるカバンを手に取った。
しかし結衣のことが気になるようで、席を立ちながらもマヤの顔は教室の隅から自身の席に戻った友人を追っている。
教室内は未だ三國の存在にピリピリとした空気が流れているが、徐々に平常の昼休みを取り戻しつつあった。
後輩たちは三國と野田を気にしながらも、それぞれ昼食を取るべくぎこちないながらも動きだす。
「じゃあわたし、ちょっと行って来るから。彼氏さんとごゆっくり」
カバンを手にした結衣が何事もなかったかのようにマヤに話しかける。
「三國でいい」
マヤの横に立つ三國が犬モードをやめて不機嫌そうに言った。
「お前の言い方はあからさますぎていらいらする」
きょとんと三國を見上げた結衣が確認するように視線を横にずらす。答えを求められたマヤは、はにかみながらうなずいた。
そんな友人に対し、結衣は小さく笑った。
さっきのわざとらしい笑みとは違い、自然な表情だ。
「わかりました。では三國先輩、あとはよろしくお願いします。マヤも、またあとで」
これはマヤへの説明を三國に押しつけて逃げるつもりだ。
マヤに軽く手を振った結衣は野田の立つドアへと足を進める。教室を出るころにはもう優しい笑顔は消えていた。
「わかっていると思いますが、余計なことはしないでくださいね」
廊下ですべて見ていた野田に釘を刺すことも、結衣は忘れない。
「君はそれでいいのか」
もともと皇龍の上層部に属する三國翔吾の恋人として、マヤも学校で何かと目立つ存在だった。
一学期と比べればなりを潜めたものの、マヤに対して嫉妬心や不満を抱いている者は少なからずいるわけで、それらは些細なきっかけでいつ敵意に変化してもおかしくないのだ。
三國と結衣が今回行った牽制は、マヤを守るという目的においては絶大な効果をもたらすだろう。
だがこのやり方だと、三國を後ろ盾にして守られたのはマヤだけで、結衣の直面している問題はなにも解決しない。
これではマヤに向きかけていたヘイトを結衣が強制的に自分自身へと引き戻しただけだ。
「憤りの捌け口は必要でしょう」
野田は結衣と肩を並べて廊下を歩く。周囲に聞かれないように声を潜める結衣にならい、野田も声量を落とす。
「そうかもしれないけれど、君ならもっと簡単に相手を黙らせられるだろうに」
階段を下り、ふたりは一階の廊下で足を止めた。見えるところに人はいない。
つまらなそうに、心底面倒だと言いたげに結衣はため息を吐き捨て、目を細めた。
「みんながみんな、野田先輩のように図太い神経をしていれば、わたしもこんな苦労はしませんよ」
……今のは褒めているのか、けなしているのか。
「くれぐれもよろしくお願いします。余計な真似をするなら、先輩も遠慮なく巻き込みますからね」
靴箱で下靴に履き替え、結衣は校庭へと去っていく。
加害者を全力で叩こうとしない甘い一面に意外性を感じながら、野田は結衣の背中を見送った。
根拠はないが、野田はなんとなく確信していた。
結衣にとっての災難は、おそらくこれで終わらない。
◇ ◇ ◇




