2.クラスメイトの相談
◇ ◇ ◇
——ありがとう。マヤが背中を押してくれたおかげで、もう一度みんなと向き合うことができた。
そう言った結衣の襟元には、1学期になかったシルバーのチェーンが見え隠れしていた。
結衣が友人たちと仲直りできたことは本当によかったと思う。
それと同時に、自分が知らないところで結衣が持つ深い関係が、マヤには少し羨ましかった。
それはそうとして、夏休みの期間中、悩みに悩んで苦しむ結衣を見ていただけに、穏やかに笑う彼女の幸せそうな表情にマヤは心底安堵した。
夏休みの騒動が新学期のクラスに影響するのではと心配していたが、それも問題はなさそうだ。すべては周囲に対する遠慮をやめた結衣と、担任の吉澤が教室の空気をうまく操ったからだ。
何事も起こらないなら、それに越したことはない。
しかしこの先の平穏な学校生活を期待して迎えた新学期のこと。
マヤは思わぬ事態に直面する。
2学期が始まって、2日目。
たった2日。まだ2日しか経っていないのに……これはどういうことなのかと、いるかどうかもわからない神様を恨みたくなった。
……少しばかり、結衣に試練を課しすぎではないか。
*
昨日、始業式があった。
そして本日、通常の授業が始まった。
順調に一日のカリキュラムを終えて放課後になった。
ホームルーム終了後、結衣はアルバイトに行くためすぐに下校した。それを見送ったマヤは教室に残って三國の迎えを待っていた。
その時、とあるクラスメイトから相談を受けたのだ。
深刻な顔で憔悴しきった彼女が話しだしたのは、結衣のことだった。
なんでも昨日の部活終了後に部員たちでおしゃべりをしていたら、結衣と柳の話題になったらしい。
結衣についてマヤが高校に入学してからというもの、度々学校でうわさになっていた。そのため話しをしていた部員全員が話題に食いつき、その場は先輩後輩の上下関係に関わらず盛り上がった。
あいつは1年のくせに生意気。
柳虎晴さんに目をかけてもらって調子に乗ってる。あいつ自身は大したこともないくせに……。
お決まりの陰口をひととおり言いあって、その場は解散となった。そうして夜になり、部員で共有しているアプリのグループチャットに、そのクラスメイトに向けて先輩から指令が来たそうだ。
——明日から、高瀬のこと無視ね。
その部活の所属者で、結衣とマヤと同じクラスに在籍しているのは彼女だけだ。
先輩はグループチャットで全員に向けて命令していたが、あれは絶対に自分に対しての指示なのだと彼女はマヤに言った。
さらには今日の朝練習終了後、例の先輩から直々に念押しされたそうだ。
今日はどうにか結衣と接触せずに過ごせたけれど、このまま先輩の命令に従い続けて、罪悪感を抱いたまま学校生活を送れる気がしない。
でも自分から結衣に事情を説明するのは、どこで部活の関係者が見ているかわからないので怖くてできない。
「だから、津月さんの口から高瀬さんに、わたしのことを伝えておいてほしいの」
彼女はそうとう追い詰められているのか、今にも泣きそうな顔をしていた。
始業式後のホームルームで吉澤がクラスにした牽制は、効果覿面だったらしい。そうでなければ彼女がここまで悩むこともなかっただろう。
「吉澤先生に、このことは?」
マヤが訊くと、彼女は力なく首を横に振った。
「できれば、先生には言いたくない」
うなだれる彼女の気持ちを、マヤはわからないでもない。
なかば脅しともとれる口調でこれ以上迷惑をかけるなと言いきった担任に、昨日の今日で問題が起こったとはなかなか言いづらい。
あるいはことが表沙汰になって、先輩の指令を先生にばらしたのが自分だと周囲に知られ、部活に居づらくなるのを彼女は憂慮しているのかもしれない。
そうやって彼女に同情する一方、マヤは自分が冷めた気分で彼女の言葉を聞いていることを、とっくに自覚していた。
先輩には怖くて逆らえない。先生にはチクリがバレるのが嫌だから打ち明けられない。
でも、自分が一方的に結衣を無視することは、罪悪感にさいなまれてできそうにない。
だから、わたしが安心したいから、わたしがあなたを無視することをどうか許してほしい。
——つまりはそう言いたいのよね。
「自分のために、結衣に犠牲になってほしい」と彼女の頼みを直訳してしまうわたしも、やはりどこかひねくれているのかもしれない。
なんにせよ結衣が誰かの害意にさらされている現状は、マヤにとっても心地よいものではなかった。
——でもこれは、本人に伝えていいのかしら?
結衣のことだ。おそらくこの程度の陰口は気にも留めない。
しかし夏休みが明けて、ようやく心の枷が外れた友人に再び憂いを運ぶのは、少しばかりためらいがあった。
目の前で困り果てるクラスメイトの頼みを、簡単に聞き入れてよいのかどうか……。
「津月さーん」
返答に迷う最中に大きな声で呼ばれて、マヤの肩がびくりと跳ねる。
驚いて声のしたほうを振り向けば、帰り支度をしていた田所がいて「むかえ」と言いながら視線でドアを示した。
教室の入り口には、いつの間にか三國が来ていた。
口を一文字に結んで不機嫌そうにドアにもたれる三國に、マヤではなく、マヤと話していたクラスメイトが慌てた。
「じゃ、じゃあ、わたし部活に行くねっ」
早口に告げるや否や、彼女は急いで教室をあとにする。
あっけにとられながらもマヤは田所に礼を言い、三國の元へと向かった。
*
「——くだらない。そんなものさっさと高瀬に伝えて、早く自分でどうにかしろと言ってやればいい」
帰り道、マヤが先ほどクラスメイトと話していた内容を三國に相談すると、迷うことなく言い切られた。
「だいいち、あいつのことでマヤが悩んでいるのが気に食わない」
教室からここまで、三國はずっと不機嫌だ。
大きくなってもいじけた時の口調は昔と何も変わらない。子供のころから見てきた彼の拗ねた態度が可愛くて、マヤについ笑ってしまう。
「そうね。結衣にはちゃんと伝えるわ」
「うん。それがいいよ」
三國は満足そうに顔をほころばせた。
「でも、結衣はわたしにとって大切にしたい友達だから、悩むことくらいは許してほしいわ」
穏やかになった三國の表情が、少しだけ拗ねたものに戻った。寂しそうだけど嬉しそうで、でもどこか悔しさが滲む複雑な心が、繋いだ手の力加減から伝わってくる。
「……高瀬はたぶん、自分に向けられた悪意を知るのより、自分のことでマヤが悩んでいるほうが嫌だと思う」
そこらへんのあいつの考えは、わからないでもない。腹立たしいけど。認めたくないけど……、と小さく呟く三國の手を、マヤは強く握った。
◇ ◇ ◇
他人が向けてくる敵意は不快だけど、耐えがたい苦痛というわけではない。
ただしわたしが平気だからといって、周囲もまた平気であるべきだとは思っていない。
好奇の色を帯びた視線を苦手とする人はいて当然だし、他人からの嘲笑によって心を壊す人が世の中に溢れていることも、別段不思議でもなんでもない。
コミュニケーションのひとつとして世の中に蔓延しているいわゆる「グチ」というものは、話している者たちと、それをはたから見ている第三者とで、内容の捉え方に大きな温度差が発生する。
当人たちは日ごろの悩みや不安を互いに打ち明けて、共感しあって、そこから安心と満足感を得ているのだろう。しかし事情を知らない他人にとっては、他人のグチはただの悪口にしか聞こえない。
傷つく人がいるから、悪口は言わないほうがいい。
そう胸を張って主張できる人間は、果たしてどれくらい存在しているのだろう。
悪口はよくない。いじめはもっといけないことだ。
そんなことは誰もが頭で理解している。
それでも、たとえ誰かを傷つけると客観的に考えればわかる行為であっても、加害に対する正当性を見つけてしまえば人は視野が狭くなり、心の枷を失う。
そこに自ら手を下す行為に対し、達成感と興奮を覚えてしまえばもう止まらない。
グチと同様、自分を不快にさせる誰かに向けた攻撃を「いじめ」だと自覚する人間は、人が思っているよりも少ないのではないか。
とはいえいじめの定義には、受け手の主観も重要だと全力で訴えたい部分もある。
例えば、今のわたしの状況についてはどうだろう。
街中に中学の恩師との関係を示唆する噂話を広められる。
学校中からいらぬ注目を浴びて、ひそひそと囁かれる。
時にはわざとこちらに聞こえるように陰口を叩かれ、廊下を歩けば見知らぬ生徒からビッチだぶりっ子だのと野次が飛ぶ。
人によってはこれは大問題なのかもしれない。
ただしわたしは、自分が平均的な人間より他人の悪意に耐性があるのを自覚している。
わたし自身も決して洗練潔白で品行方正というわけでないので、事を荒立てるのはできれば遠慮したい。
当事者であるわたしの意志を無視して、あたかもこちらの気持ちを代弁するかのように被害を問題視しようとする人が今のところいないのは、大変ありがたい。
それに今の理不尽としか言いようのない立ち位置を放置している点について、わたしにだって多少の思惑はある。知らないところで発生する押しつけがましい正義は求めていない。
わたしは誰かの助けを必要としていない。だけど追加の害意はもっと求めてない。
珍獣扱いしてくるのなら、遠巻きに観察するだけにとどめてほしかった。
もっともこれは希望であって、まったく期待はしていなかったけど——。
「なんかごめん。巻き込んでしまったね」
困り顔で心配してくるマヤに、柳さんとの関わりが広まったことで生じた問題に放置を決め込んだ自身の判断を少しだけ悔いた。
見ず知らずの他人に生意気だと言われようが、わたしに怒りを向けてくるぶんはいくらでも構わない。
しかしその余波がマヤに及ぶのは不本意だ。
ことが大きくなれば周囲に影響が出てしまう。そうなれば一番に被害を被るのは、わたしと親しくしているマヤだ。
こんなのわかりきっていたことだろうに。もっと早くに対策を取っておくべきだった。
「わたしは大丈夫なのだけど、結衣は……」
「問題ないよ」
マヤに相談を持ちかけた件の彼女との接点は、在籍するクラスが同じというだけだ。
同じクラスにいるからといって毎日話しをする必要もないわけだし、学校生活を送るうえで彼女とコミュニケーションをとる機会を探すほうが難しい。その程度の関係だ。
普通に生活していても、先輩とやらに命じられた「無視しろ」という状態は成立している。
あとは気持ちの持ちようで、当人が罪悪感に駆られて思いつめなければいいだけだろう。
「彼氏さんにこのことは?」
「昨日の帰りに話したけれど、まずかったかしら」
「ううん、むしろ逆。言っておいてくれて助かる」
部活の後輩を利用してわたしに攻撃をしてきた誰かさんは、そのうちまったく傷付く様子を見せないわたしに苛立ちを覚えるだろう。
そうなる前にわたしのことなんて飽きて忘れてくれたら嬉しいけれど、これは希望的観測にすぎない。
次は別の手を使ってこないとも限らないから、対策は必要だ。
マヤを守るという点において、三国翔吾ほど頼りになる男はいない。情報は共有しておくべきだろう。
部活の先輩に命令されたという、件のクラスメイトを責める気はない。先輩にいいように使われているのは災難だと思う。
でもね、その人災のしわ寄せをわたしやマヤに押しつけてきたところで、彼女の望みどおりに動いてやる筋合いはわたしにない。
しかしそれはさておき、わたしは何よりも加害の大元が気に食わなかった。
逆らえない後輩を駒に使って、いい御身分なことで。人に攻撃方法を伝授しながら自分は高みの見物とか、武器商人みたいなことしてんじゃないよ。
1限目の授業が終了してすぐに席を立つ。教科書を机の中にしまっている例の彼女の真横に立った。
「無視していいよ。これはわたしの、ただのひとりごとだから」
前を見たまま言葉を発すれば、視界の端で彼女の肩がびくりと揺れた。
「事情はひとまずわかった。その点はあなたの好きにすればいい。だけど、もしも次、マヤにわたしとの繋ぎ役を押しつけるようなことがあれば、その時はわたしが直接部活の先輩とやらに話をつけに行くよ」
今のはわたしのひとりごと。だから相手の反応は気にしない。言うだけ言って、教室を後にした。
2限目の授業が始まるまで、時間に余裕はある。
それでももたもたしていられない。
階段を下りて、2年生の教室がある廊下を進んだ。
行きついた先は2年4組の教室。
目的の人物である三國翔吾はすぐに見つかった。
幸いなことに、教室の中をのぞいたわたしにあちらが気づいた。
視線と顔の向きで廊下を示すと、彼はこちらの意を汲んで席を立ってくれた。
三國翔吾が教室を出てくる前に、わたしも歩き出す。
時間差をつけてていてきてくれるのを見越してゆっくりと階段を上り、特別教室が並ぶ4階の人気のない廊下に着いた。
そう待たずして姿を見せた三國翔吾は、わたしと3メートルほど距離を置いて立ち止まる。
表情の消えた顔で、彼は口を閉ざしたまま品定めをするかのようにこちらを見降ろしてきた。
「現在、わたしが置かれている状況は、把握しているつもりです」
挨拶もなく本題に入る。
相手の反応は期待していない。わたしの言葉を聞いてくれれば十分だ。
「学校の人たちがわたしに対して何をしてこようが、それは別にいいんです。でも、わたしのことでマヤにまで被害が及ぶのは、本意ではありません」
マヤの名前に、三国翔吾の眼差しが剣呑なものに変わる。
本当に、わかりやすい人だ。
「これに関しては、あなたも同じはず」
沈黙を貫く彼に、うっすらと笑いかけた。
「彼女の安全のために、ひとつだけ協力してもらえませんか?」
「……内容による」
警戒心を前面に出した男の唸るような呟きに、笑みが深まる。食いついてくれて助かった。
一呼吸おいて、表情を引き締め真剣に三國翔吾と向かいあう。
「今すぐに、というわけではありません。ただこの先、少々困った相手が、わたしの想定している行動をとってきた際に、してほしいことがあります」
これはもしものための提案だ。
そしてこの男は、マヤを守るためなら手段を選ばない。
「聞こう」
短い了承の言葉に、密かに胸をなでおろす。
マヤのために、なんて押しつけがましい大義名分は使わない。
こんなものは自分の精神安定のために行うただの自己満足だ。
三國翔吾は恋人を。
わたしは友人を——。
共通する大切な人を守る目的で、わたしはその日、三国翔吾と密約を交わした。




