25.こたえあわせ(下)
夕方になると、みんなはバイトやモノトーンのたまり場へと、それぞれの用事で病室から出ていった。
わたしは最後まで残って、面会時間が終わるまで綾音と一緒にいた。
病院を出て、すぐ近くのバス停でバスを待つ。
乗ったバスは駅とは反対方向へ進んだ。
しばらくして大きな通りでバスを降りる。街灯のついた静かな住宅街に入り、わたしが高校入学まで住んでいた実家へと歩いた。
一軒家の呼び鈴を鳴らすと、しばらくして玄関の灯りがつく。
妹が出たら嫌だなとひやひやしたものの、家から顔をのぞかせたのが母だったのでほっとした。
「まあ、久しぶりね。おかえりなさい」
わたしに気づいた母が小走りで門扉へと駆けてくる。目尻に皺の寄った小柄で優しい女性は、以前マンションに来てくれたときと何も変わっていなかった。
「お伝えしたいことがあって来ました」
家に入ってゆっくりするつもりはない。今日はけじめをつけに来ただけだ。
「中学3年の3学期、いじめにあってました」
わたしの言った言葉を母が理解するのに、少しの時間を要した。やがて母は驚きに目を見開き、手で口元を覆う。
「友達と喧嘩したんです。そのころから、何もかもがどうでもよくなって。人に相談してどうにかできたはずなのに、それすら面倒に思えて、何もしませんでした」
体育館倉庫に閉じ込められたとき、事故だと言い張ったわたしに両親は渋い顔をしながらも深く追求してこなかった。
のちに当時の担任から聞いた、ごみ箱に捨てられていたカバンのことも、きっとこの人は知っている。
進路のことでも、たくさん心配をかけた。こんなわたしのひとり暮らしを許して、本当は心配でたまらないだろう。
そんな気持ちをわたしに見せない、母はとても強い人だ。
だけどね、わたしも甘えてばかりじゃ駄目なんだ。
だって強いはずの母は今、目の前でとても苦しそうな顔をしている。
「でも、もう大丈夫です。大切な友達とはちゃんと仲直りできました。あの時ご迷惑をおかけして、すみませんでした。——心配してくれて、ありがとうございます」
頭を下げて正面を向くと、母は泣いていた。顔のしわを深くして、彼女は何度もうなずき鼻をすする。
「……よかったわ」
目元をぬぐって微笑む母はいつまでも感傷にひたろうとしない。すぐに切り替えていつもの母に戻った。
「晩御飯は食べていかないの?」
「はい」
この家に足を踏み入れるのは、少なからず抵抗がある。
わたしのなかではまだ、その時じゃないのだ。
「涼君のところにも、これから報告に行こうと思います」
必ずまた、ただいまを言いに帰ってくるから。
「そう。きっとあの子も喜ぶわ」
顔をほころばせた母は「行ってらっしゃい」と言ってわたしを送り出した。
強くて優しい人だ。
血の繋がりは関係ない。あの人がわたしを育ててくれた母親だというのは確かなのだ。
生みの親のことをどうして黙っているのか。
わたしはいったい、誰の子どもなのか——。
いつかちゃんと聞こうと思う。
次に実家へと足を踏み入れるのは、両親と向き合うときだと決めている。
だから今は、帰らない。
踏ん切りがついて覚悟ができるまで、もう少しだけ、父と母の優しさに甘えていたいんだ。
*
8月31日。
静さんたちは旅行から帰ってからものんびり休暇の余韻を楽しんでいたようで、ようやく今日からカプリスの営業を再開するとのことだった。
仕事の始まりの日は、凍牙が柳さんから受けた連絡をわたしに伝言してくれた。
当日の朝、早めにカプリスへ行くと、しばらく休みだったというのに店はこの前来た時と同じような状態だった。店内も調理場も綺麗に掃除済みで、空になっていたフリーザーの中にも食材が詰め込まれている。
静さんに聞くと、昨日のうちに柳さんと営業に向けての準備をしたらしい。
良くしてもらっているお礼にと、先日買った花瓶を静さんに渡すと予想以上に喜んでもらえた。
「とてもうれしいわ。お店に置きましょう。飾るお花は虎晴くんに決めてもらおうかしら」
どこに花を飾ろうかと静さんは店のあちこちに花瓶を置いて迷っていたが、最終的にはレジの後ろにある棚の上に落ち付いたようだ。
「本当にありがとう。水を代えるのは結衣ちゃんの役目よ。わたしがするとどうしてかすぐに枯れちゃうの」
冗談を言いながらも静さんは楽しそうに、まだ何も活けられていない花瓶を眺めていた。
そんな静さんを見ていると、こちらまで嬉しい気持ちになる。
その日、いつかの約束を遂行すべく凍牙をカプリスに呼んでランチを奢った。
凍牙は昼食後もカプリスにいて、店に現れた柳さんに一連の騒動の顛末を伝えていた。耳に入る説明からして、感情は込めずあった事実を的確に、そして洗いざらい柳さんに伝えたようだ。
わたしが春樹にバケツの水を吹っ掛けたくだりで、柳さんは爆笑する。お客さんのいない時間でよかったよ。はっきり言ってこれは営業妨害だ。
「で、そのおいたの過ぎたガキどもの詳細な情報はお前、持ってんのか?」
「俺が持ってるわけないでしょう。あなたなら皇龍に聞けばすぐに手に入るんじゃないですか」
呆れ気味の凍牙の声が店の奥まで聞こえてきた。
「……この期に及んで何しようとしてるんです」
一番動いたらいけない人が重い腰を上げようとしているのは気のせいか。
終わった騒動が再び繰り返されるのかと一瞬ひやっとしたが、柳さんはあっさりと気分を変えた。
「やっぱやめとくわ。これは次にもしガキどもが動いたってパターンのほうが楽しめそうだからな。そんときは『大人』が出張るって宣言してあるんだよなあ?」
にやにやと笑いながら柳さんは言ってのける。これは本気だ。
「その時があったら春樹に言って真っ先にやつらをあなたに差し出します」
「おっ、高瀬、お前ちゃんとわかってんじゃねえか」
調理場から口を挟んだわたしに、柳さんが親指を立ててきた。
食器を洗いながらあほどもに念じる。絶対、今後わたしたちに関わるんじゃないぞ。
柳さんがしゃしゃり出て人を巻き込まないなんてあり得ないんだから。
バイトが終わった後、凍牙と一緒に街へ出た。
8月は今日で最後だが、明日と明後日が土曜と日曜になるので夏休みはあと2日ある。残り少ない長期休暇を満喫するためか、繁華街は同年代の者でいつも以上にごった返していた。
わたしが柳さんのお気に入りだという奇妙なうわさは、いたるところに浸透しているらしい。行く先々でわたしと凍牙を見て顔を引きつらせる人が続出するのにももう慣れた。
とはいっても、こちらとしては不本意なことには変わりない。
柳さんのお気に入りとか、そんな気苦労の耐えないポジション、代われるものなら代わってやると言えないのが悔しい。
柳さんに目にかけてもらったおかげで、わたしは静さんの店で働けている。ここだけは、本当にこのひとつの事柄に関してだけは、少しだけあの人に感謝してないわけでもない。
陽が落ちたころ、凍牙と2人で晩御飯を食べた。
チェーン店の牛丼は凍牙の奢りだった。
腹を膨らませ、商店街を通ってマンションへ帰る。いつもとどおりマンションに続く上り坂で、凍牙とわたしは別れた。
次の約束はない。今度会うのは高校の第二体育館の非常階段になるだろう。
もうすぐ夏休みが終わる。
中学の時みたいに、毎日仲間と会うことはない。顔を合わせる機会は格段に減っても、目に見えない繋がりはちゃんとある。
ここには凍牙とマヤがいる。
わたしはひとりじゃない。
8月の終わり。
わたしの心は、今までに感じたことがないほどに満たされていた。




