23.再び⑸
「帰りはひとりなの?」
病院から家まではかなりの距離がある。
まだ残党がいるかもしれないので心配になって聞いてみたら、菜月は大丈夫だと首を横に振った。
「お母さんが迎えに来てくれるわ。しばらくはひとりで行動しないようにしてるから」
エレベーターに乗り込んで6階と1階のボタンを押す。
「今度、高校でできた友達に会わせなさいね。綾音も誘って女子だけで遊びに行きましょう」
「いいの? どんな人かもわからずにそんなこと言って」
「問題ないわ。その子のことは知らないけど、あんたの人を見る目は信じてるから」
照れることをさらっと言ったね。
「機会があったら誘ってみるよ」
三國翔吾が許可してくれるかはわからないけど。
エレベーターが6階に到着した。わたしは菜月の腕を離す。
「じゃあ、また」
「ええ。近いうちにね」
こちらに手を振る菜月をドアが閉まるまで見送った。
壁に掛けられた案内板で病室の位置を確認する。
綾音のいる部屋は現在地から最も遠い、廊下の突き当たりにある角部屋だ。
ドアの横に掲げられたプレートはあらかじめひとり分の名前しかはめ込めないようになっている。
鈴宮綾音と表記されたその部屋は個室だった。
春樹は病室内でなく、廊下に設置された長椅子に腰かけていた。
「綾音は?」
「往診中だ」
ドアの横の壁にもたれかかる。背中に体重を預けてずるずると下にしゃがみ込んだ。そのままわたしも医者が出てくるのを待つ。
「……綾音が暴行されたことよりも、綾音の顔に傷ができたことを嘆かれた」
誰に、なんて聞かなくてもわかる。そんな人は身近に綾音の父親ぐらいしかいない。
「自分の娘という商品価値が落ちるのは、あの男にとって許しがたいことなんだろうね」
「責任とって綾音は俺が貰うっつったら、まんざらでもないって顔してたけどな」
そりゃそうだろう。綾音が怪我を負ったおかげで武藤と鈴宮の繋がりがより確実なものになるのなら、それほど喜ばしいことはないはずだ。
昔から、綾音の父親がわたしは苦手だった。
春樹と仲良くなったころ、たまたま小学校に来ていた綾音の父親に下賤の子供と蔑まれたのが始まりだ。どうやらわたしのような一般庶民が武藤のご子息と意気投合したことに納得できなかったらしい。
綾音とわたしがふたりでいたところを目撃された時は強烈だった。綾音の父親はわたしなんかと遊ぶんじゃないと人前で自分の娘を怒鳴りつけ、平気で彼女に手をあげたのだ。
春樹と綾音が恋人になり、春樹があの男を上手くあしらうようになってからはそういったことはなくなったけど、かつての出来事はそう簡単に忘れられるものじゃない。
「耐えろよ」
嫌な記憶を思い出したわたしに、春樹が低い声を喉から絞り出した。
「どうあがいても、ガキのうちから刃向かって勝てる相手じゃない。俺も綾音も、武藤の名前ですらあいつにとっては上にのし上がるための便利な踏み台だ。今はそう思わせとけ」
まっすぐに突き刺すような視線に迷いはない。
自分の娘は武藤の後継者に上手く取り入った。あの男がそう考えていても、わたしたちに問題はない。綾音と一緒にいられるなら、下手に見られようがどうでもいいのだ。
「ヘタにたてついて警戒されるよりも、優越感に浸って油断させといたほうが後々が楽だろ。俺たちが社会に出て、それぞれが大人としての社会的な地位を確立するまでの我慢だ」
「わかってるよ」
やつの喉元に食らいつくのはそれからだ。
子供のうちは内心を隠して踊らされているふりをしていればいい。
窓の外が薄暗くなり、制服を着た看護士がせわしなく廊下を行き来していたけど、奥まったこの場所にまで足を運ぶ者はいなかった。
「……好きかもしれないって、考えたんだ」
「何をだ?」
「春樹を」
打ち明けるのが気まずくて、膝に手を回して縮こまる。
春樹からの返事には少し間があった。
「……嫌いなのか?」
「や、好きだけど。そうじゃなくて、恋愛感情として……」
うかがうように顔を上げると、眉間にしわを寄せた春樹と目が合ってしまった。
なんというか、喜怒哀楽のどこにも当てはまらない複雑な表情だ。
「で、どうなんだ?」
下手に笑い飛ばさないところがずるい。
こいつはわたしがなんと言っても真剣に受け止めてくれるのだろう。
「もしも春樹と結婚して一緒に暮らすとなると、3日もたたずわたしの胃に穴があくことが予想された」
真面目になってくれたところ悪いが、とんだ杞憂だよ。
想像力を膨らませていた春樹が口に手を当て顔をそらす。
「その前に俺とお前で式を挙げると想定した時点で、いったい何のコントだってならないか?」
「あー、言えてる」
成見と洋人が爆笑しそうだ。
「そういうもんじゃないだろ、俺たちは」
そうだね。
この関係に、恋愛感情なんて、どこにもありはしない。
「周りがどうとらえたところで、お前が悩んで他人の感情を背負う必要もないだろ。少なくともお前が俺の近くにいるのを嫌がる女と、俺が将来一緒になることはない。たとえ綾音であったとしてもだ」
おいそれはどうなんだ、と言おうとしたわたしを春樹は視線だけで黙らせた。
「綾音は、俺が不安にさせない。またあんなことになるなら、どれだけ時間がかかっても誠意を尽くす。綾音が不安になるのはお前のせいじゃない。俺に対する信用が足りないだけだ。だからなあ」
続けざまに言われた声には疲れが垣間見えた。
何を思い返して呆れているのか。
「戻ってこいよ。お前がいないと周りの連中が自由になりすぎて手に負えないんだ」
告げられたひとことひとことが重い。これが、春樹の答えだ。
「わたしも、春樹のそばにいたい。——だから責任がないなんて言わないで」
恋愛感情と友情の違いも考えようとせず、目をそらし続けていたわたしにだって落ち度はある。
「ちゃんとわたしから綾音に話すよ。聞いてくれるかは、わからないけど」
「心配ないだろ。綾音だってあのころと変わったんだ」
春樹はそう断言した。
わたしが言葉を返す前に、綾音のいる病室のドアが開く。
「ゆっくりお休みになられてますよ」
女性の医師が小声で春樹に伝えて、看護師を連れて去っていく。
立ち上がった春樹が指でわたしも腰を挙げるようジェスチャーする。綾音に会えということなのだろう。
緊張しながら春樹に続いて病室に入った。
点滴の管が腕に刺さり、仰向けでベッドに横たわる小さな体。
眼帯がしてある右目の下、頬の部分もガーゼで覆われた綾音の左目は、虚ろに開かれ天井を眺めていた。
「綾音」
顔の近くで春樹が呼んで、ようやく綾音はわたしたちに気づいた。
焦点が合わずさまよっていた綾音の左目がわたしに向けられる。
一瞬見開かれた瞳はすぐに細められた。唇がゆっくりと動く。
「気にすることなんてないのよ。全部、わたしが自分でしたことだから」
気丈に振る舞って綾音は笑う。青い痣になった口の端が痛そうだ。
「危ない目にあえば、少しは関心を寄せてもらえるかもしれないって、そう思ったの。怪我をすれば、結衣は心配してくれるんじゃないかって、頭の中で考えたわ。そんな打算があっての結果よ。だから、みんな何も気にしなくていいの」
力の入らない淡々とした口調で綾音は言い切る。
春樹は何も言わず半歩下がり、綾音に近い場所をわたしに譲った。
手の届くところにあった椅子を手繰り寄せ、わたしは綾音のすぐそばに腰を下ろす。
「そうやって自分を卑下にするの、綾音の悪い癖」
昨年の12月だってそうだ。
周りを正当化するために、綾音がへりくだる必要なんてないんだよ。
少なくとも、わたしたちの前では正直にあり続ければいいんだ。あの時だって、それでよかったんだ。
「綾音が自分のことをどう思っても、危ない目にあった事実は変わらないよ。怪我をしたのも、痛くて怖かったのも」
わたしたちがすごく心配したことだって、綾音がどんなに強がっても、何も変わらない。
綾音の顔から無理やり作った笑みが消える。
何かを言おうとした口はすぐに閉ざされ、再び開かれたものの声にならなかった。
彼女の言葉を待たず、わたしは思いを告げた。
「無事でよかった」
また話ができる。生きているなら、次がある。
言えることなんて、これひとつで十分だ。
「——……結衣……っ」
伸ばされた手にわたしの右手を重ねる。手の平は熱く、綾音の手首に出来た擦り傷には薬が塗られて肌が赤茶色になっていた。
「大好きなの。……あなたと一緒にいたいの……っ」
嗚咽を混じらせ綾音は何度もごめんなさいと繰り返す。
「うん、謝るのはあとにしようよ。今は休んで、今度ゆっくり話そうよ。また、主張が食い違うかもしれないけれど」
ぎゅっと、綾音が手に入れる力が強くなった。
「そうなったとしても、どこにも行かないしちゃんと向き合うって約束する。一方的に押しつけたり、卑屈になるのじゃなくて、ちゃんと納得するまで話をしよう。勝手にいなくなったこと、わたしも反省してる。諦めないで、次は言葉を尽くして考えようよ」
「…………うん」
涙で顔をくしゃくしゃにして、綾音がうなずいた。
感情が高ぶってなかなか落ち着けないようだ。
春樹から渡されたガーゼのハンカチで綾音の目元を軽くぬぐう。
素手で触れた額は熱をもっていて、無理をした体が休息を必要としているのは明白だった。
「少し休もうか。苦しい時にいろいろ言ってごめんね」
「……うー……」
幼子が駄々をこねるようにいやいやと首を振って、綾音はわたしの手を離そうとしない。掴まれた右手の捻挫に響くため、力で引きはがすのは無理そうだ。
「心配しなくてもまた来るよ。今日も面会時間ぎりぎりまでここにいるから」
言いつつ春樹をうかがうと、無言で腕時計を見せてきた。
現在時刻は19時40分。面会時間は20時までだったはず。病院を出るまであと20分しかないじゃないか。
「綾音、熱が下がって体が良くなって退院した時には、結衣が好きなところに付き合ってくれるらしいぞ」
ちょっと春樹、いつ誰がそんなことを言った。
「……ほんと?」
春樹の言葉に綾音が目を輝かせる。
「ああ。だから今はゆっくり休んで早くよくなれ。お前がまた無茶して入院が長引けばこいつの気が変わりかねないからな」
「……いや」
「うん。わたしも嫌だな」
ここは春樹に乗っかっておく。
綾音はしぶりながらも手を布団の中に戻し、体の力を抜いた。もともと体力が限界だったのか、すぐにうとうとし始める。
「……クリスマス、今年は一緒に過ごしましょうね」
「ああ。去年何もできなかった分、盛大にするか」
春樹の提案に綾音は嬉しそうに微笑む。
「……卒業旅行も行ってないわ」
「そういや前にそんな話もしてたね」
「………誕生日も、結衣におめでとうって、言えなかったわ」
「今ちゃんと聞いたから。何なら綾音の誕生日に一緒に祝ってもらうとするよ」
「……ふふ、すごく楽しみ」
次第に声が小さくなり、眠りに付いた綾音を見届けてわたしと春樹は病室を後にした。
「家まで送ってやる」
「実家? だったら遠慮しとくよ」
「……現住所までだ」
「それは助かる」
そんな会話をしながら病院を出て駐輪場のバイクスペースまで足を進める。
「俺の運転になるがいいか? 嫌なら車寄こすぞ」
「別に嫌じゃないよ。何か問題あるの?」
「いや……お前って妙なところで神経質だからな……」
運転が荒いとかなら遠慮したいところだけど、免許を取っているなら乗せてもらって構わないだろう。
急に立ち止まった春樹がわたしを見下ろしてくる。
照明の逆光になって表情はうかがい知れないが、数秒もたたないうちに再び歩き出しす。
「そういやここまでは凍牙の後ろに乗ってきたんだな。ヘルメット持参している時点で問題はないか」
ひとりで自己完結してしまった春樹はそれ以上何も言ってこなかった。
春樹の腰につかまって、安全運転でマンションまで送ってもらったのだが、わたしの荷物は全て柳さんの店に置いてあることを思い出した。
それを春樹に伝えると、道案内はちゃんとしろとだけ言われて、雨知らずまで届けてくれた。
「いるもん持ってとっとと出てこい」
バイクのエンジンをかけたまま店の外で待っていた春樹の後ろに乗って、再びマンションへと向かう。
本日買った大きな荷物は後日回収するとした。
マンションの玄関口でバイクから降りる。
「ありがとう」
「次はいつ来るんだ? 迎えをよこすぞ」
「いいよ。そんなことしなくて。明後日、ちゃんと自分の足で綾音に会いに行くから」
そのころには綾音の体調も少しは良くなっているだろう。
「わかった。俺たちもお前を待っている。時間はいつになる?」
「面会時間内のいつか」
「アバウトすぎだ」
「朝方に出るから昼ごろに着く予定」
もの言いたげにしながらも春樹はそれ以上は突っ込んでこなかった。
「……夕方に来たら蹴り飛ばすからな」
そう言い残しバイクにエンジンかける。
わたしがマンション内へと入るのを見届けて、春樹は帰っていった。
部屋に帰ってシャワーを浴びる。
バイクに乗って普段使わない筋肉を酷使したためか、太ももの内側が筋肉痛だった。
浴室から出て、マヤと寝るために床に下ろしたままになっていた敷布団に寝そべり天井を眺めた。
まぶたが重い。いっそこのまま眠ってしまいたい。
いろんなことが起こった。いいことも嫌なことも、たくさんあった一日だった。
綾音はいつ退院できるのだろうか。
成見と洋人はもう家に帰っているのか。
解決していないことはたくさんあるけど、意識を保っているのも限界だ。
今日はもう寝よう。
灯りを消す作業すらも億劫になって、そのまま睡魔に逆らわずそのまま目を閉じた。




