6.魔女の片鱗(上)
空気は時として毒になる。
目には見えず、人体に直接影響のないこの毒は、じわじわと人の心を蝕んでいく。
張り詰めた緊張感や、一目瞭然の敵愾心なら毒とは言えない。
例えるなら、長い年月の経過によって脆くなった縄が、左右に引っ張られた状態。
少しずつ、……本当に少しずつ。
縄の繊維が千切れていくのを見続けるような、じれったい感じ。
そんな空気が今、1年4組の教室に充満している。
一見するとみんな普段通りにすごしているのだが、どうしても違和感がぬぐい去れない。
気持ち悪いもやもやが胸に溜まる。この感覚はものすごく苦手だ。
——わたし、翔吾と別れたから。
おかしな空気がクラスを包み込んだその日、マヤはわたしにそう言った。
*
大型連休が明けた2日目、マヤは学校を休んだ。
「津月はどうしたか知っている奴はいるか?」
朝のホームルームで吉澤先生がクラス全体に訊いてきた。なので颯爽と挙手をする。
「お腹が痛いから朝は行けないとのことです。体調が戻れば登校するそうですが、今日はどうなるかわからないって言ってました」
理由はなんでもいい。ひとまず適当に報告しておく。
先生は眉間に皺を寄せるも、最終的には「そうか」と一応の納得を示した。
見るからに怪しまれているけど、深く追求してこないならよしとしよう。
一カ月もたてば先生の威圧感にもそれなりに慣れた。
これぐらいは自然に流せる。
平然と吉澤先生に言ってのけたわたしに、クラスの見た目やんちゃ組がぎょっとしていた。わたしとしてはこっちの反応のほうがびっくりするよ。
そんなにあの先生が怖いのか。
マヤが不在だからといってわたしの学校生活で何かが変わるというわけもなく、一日はいつも通りに過ぎていった。
あえてひとつ変化を挙げるとするならば、体育の授業のストレッチで、二人一組に余ったわたしは先生と組んだ。その時に「高瀬は柔軟性がある」と褒められたくらいだ。
本当に、確認できる変化なんてなかった。
放課後はいつも通りバイトに行く。
挨拶をする相手もいないので、さっさと下校しようとしたところ、いつかのように原田さんに呼び止められた。
「高瀬さん、今日は」
「バイトだね」
「またぁ? 高瀬さんって週何でバイトしてるの?」
「だいたい週6日で時々休み、かな」
嘘は言ってない。
「へ……、へぇ」
原田さんは若干引き気味だった。
彼女が気を取り直した時、わたしに向ける表情に微かな変化があったのは見逃さない。
ランク付けがあったな。
同情がこもったような眼差しの奥。自分の優位を確信したような愉悦を原田さんが抱いたのを察する。
どうせバイトに明け暮れている点から、勝手にわたしの家庭内事情を想像したのだろう。どうでもいいことだから好きに考えていればいいよ。
「高瀬さんはさぁ、津月さんのことどう思ってるの?」
「どうって?」
話題を変えてきたけれど、結局はこれが本題なのだろう。
こっちはさっさと話を切り上げたいのだけど。
「みんな言ってるよ。三國さんの幼馴染だからって調子に乗りすぎてるって。ゆっちぃなんかさぁ、この前ブスは三國さんの背景でも目障りだって、爆笑してたし」
楽しそうに話すには、内容が陰湿だ。
そして、一方的に告げられる言葉に彼女のずるさを垣間見る。
みんなとか、誰かは知らないがゆっちぃという人の話として人をけなし、彼女は自分の意見として負の言葉を言おうとしない。
いざというとき、「自分はそんなこと思ってないし、言ってない」で逃げられる道を確保している。
防衛術かもしれないが、これはずるい。
ここで相槌を打ったらわたしも「そう思っている人」の仲間入りか。
「よくわからないけど、わたしとマヤはクラスで一緒にいるだけだから。じゃあ、バイトに行くね」
バイバイとは言わず、原田さんを置いて教室を出る。
この一カ月で「お互いに都合のいい関係」から、わたしにとってのマヤの立ち位置は少しだけ親しいほうへと移動した。
原田さんの発言が少々不快に感じたのはその為だろう。
マヤが今日学校を休んだ本当の理由はわからない。
それでも、彼女に何もなければいいと、そう思わずにはいられなかった。
次の日、登校した時にはマヤはすでに席に座っていた。
本鈴と同時に教室に入ったわたしは、席にカバンを置く間を惜しんでマヤの元へと向かう。
「おはよ」
うつむいていたマヤが顔を上げる。
腫れた目元。
マヤは泣き明かしたひどい顔をしていたが、そこを心配するには時間がない。
「休み、腹痛ってことになってるから」
「……えっ?」
理解が追いついてなさそうだけど、説明している暇はなく、吉澤先生がクラスに入ってきた。
急いで自分の席へと移動する。
「ホームルーム始めるぞ」
だるそうな先生の声に、クラスがしんと静かになった。
出席を取り終えた先生がマヤを見る。
「津月、体調はもういいのか?」
「はっ、はい」
「ならいい。次からは生徒に伝言を頼まずに、直接学校に連絡を入れるようにしろ」
「……はい」
いきなり話を振られて焦ったようだったが、危機は脱した。
無断欠席した生徒には事前連絡を入れた欠席の場合と違い、欠席報告を兼ねた反省文の課題が出される。
欠席した理由から始まり、今後はどうしていくかを起承転結でレポート用紙にまとめて提出しなければならない。反省文の長さに決まりはないが、担任のお許しが出ない限りは延々とやり直しをさせられるらしい。
さらに言えばこのクラスの担任は吉澤先生だ。
慈悲なんて微塵も持ち合わせていないので、先生の気が済むまでやり直しは容赦なく続く。
マヤの欠席に理由をつけたのはこのためだ。
「ありがとう、反省文は免れたわ」
ショートホームルームが終わって、マヤがわたしの席に来た。
表情が暗い。何かがあったのだとすぐにわかった。
だからといって、本人が望まない部分にわたしが踏み込むのもためらわれる。
「2回も使える手じゃないから。次からはちゃんと自分で学校に連絡しようね」
気づかないふりが、わたしたちの距離では無難か。
「ええ。気をつけるわ。……あのね」
わたしが立ち入ろうとしなかった場所のことは、マヤが自分から教えてくれた。
「わたし、翔吾と別れたから……っ」
マヤの瞳は涙で潤んでいた。
「……そっか」
わたしは慰めの言葉は言わずに、相槌だけで口をとざした。
視界の中心にマヤを置いたまま、周囲を観察する。
クラスメイトは自然を装っていたが、マヤの様子をうかがう目はそれなりにあった。
茶髪、金髪のやんちゃ系男子は心配そうにマヤを気にしている。
ほかにも。
前の席の廊下側にいるのは、原田さんのいる集団か。
5、6人の女子がちらちらとマヤを見ては、楽しそうに笑っている。
言いようのない不快な感覚に、胸の奥が疼いた。
「1限目、さぼろっか?」
とても授業を受けられる状態じゃないだろうに。今にも泣きそうなマヤは、それでも気丈に笑って首を横に振った。
「昨日さんざん泣いたから。もう大丈夫」
まったく大丈夫には見えないのは、伏せておくべきなのだろう。
席に戻ったマヤの後ろ姿は、わたしの席からでもわかるぐらいに意気消沈していた。
マヤは、慰めてほしくてわたしに恋人と別れたことを言ったんじゃない。
これは、わたしに対するただの「報告」だ。
昼の弁当は恋人と食べるから、わたしと一緒には食べれない。それを伝えられた時と同じ。
高校の、クラスで共に過ごすにあたって、最低限必要な情報交換をしたまで。
わたしたちはお互いにとって利害の一致した都合のいい存在で、この曖昧だけど安定した関係は、互いに慰め合うということを拒絶していた。踏み込みすぎたら、戻れなくなる。
それでも、落ち込んだマヤを見ていると、適切なはずの距離感が、ほんの少しじれったく感じた。
「お昼はどうする?」
「教室で食べるわ。わざわざ移動するのも面倒だし」
「そう」
「あ、結衣は食べたいところがあるなら行ってきてね。こんなことで気を使う必要ないから」
という会話がなされたのは4限目が終わってすぐのことだ。
彼氏と別れたから一緒に食べようとは、マヤは言わなかった。それがどれだけ都合のいい話なのかを、理解してしまっているのだろう。
ただ、少しは頼ってほしいとも思ってしまうのは、わたしの甘さが出てしまっているのかと考えたり……。自分から手を差し伸べようとしないで、マヤが助けを求めるのを待っているのもどうなのか……とか。
……なんというか、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
クラスの空気は明らかに変わった。
誰も何も言わない。
しかし多かれ少なかれ、クラスのほとんどがマヤを気にして意識に入れている。
心配であったり、好奇心であったり、理由はそれぞれ違うけれど。
改めて三國翔吾という男の影響力を実感させられる。
マヤにとってこの別れは不本意だったとは見ていてわかるが、三國翔吾からしたらどうなのだろう。
気にしてしまうぐらいには、あのクラスの空気が嫌で嫌でたまらない。
「……どうしたものか」
この呟きはただのひとりごと。
第二体育館に、凍牙は来ていない。
弁当を食べ終えて思案に暮れていたのだが、あまりいい策が浮かばない。
最終的にわたし自身がどうしたいのかがはっきりしていないからだろう。
さらには現状を打破するための情報がそろっていない。
そして情報を収集してまで率先して何かしたいことがあるのかも不明瞭だし、結論はひとまず様子見で終わってしまう。
結局はわたしも傍観者なのだ。
*
マヤから恋人と別れた報告を受けた翌日。昼休みの第二体育館の非常階段にて。
「——女子は難しい」
つい凍牙に愚痴を漏らしてしまった。
相変わらず教室の空気は気持ち悪い。
そんなところでマヤは今日も昼ごはんを食べている。
クラスに変化があったとしたら、悪いほうにだろう。
原田さんのグループが、あからさまにマヤを見下すようになった。
先生のいないところでは、本人に聞こえるように三國翔吾を話題に上げる。
ふっきれたと言わんばかりに気にとめないマヤが、彼女たちには気に食わないようだ。口撃は今後ますますひどくなるだろう。
「三國翔吾と恋人が別れた件か?」
「よくわかったね」
「この前廊下で津月と話していただろう。三国翔吾の件については学校中に広まってるぞ。俺のクラスでもその噂で持ちきりだ」
「まあね。マヤ自体は済んだこととして終わらせようとしているけど、それに周りが黙っていないから。うちは教室全体が常に嫌な雰囲気だよ。壊したくて仕方がない」
「……教室をか?」
「今の空気を」
とてもじゃないけど長く続いてほしくない。
マヤより先に、わたしが駄目になる。
変化をもたらすにはマヤの話を聞くのが最善だとは思うが、はたして彼女がそれを望むかが疑問だ。
心の内を聞くのは、関係がより深まることに繋がる。
わたしは、それをよしとするのか。
マヤは、それを望んでいるのか。
自分の問いにも答えが出せず、今ひとつ踏ん切りがつかない。
「昔は、こんなに悩まなかったのにな」
どういうわけか、ことあるごとに過去と比べる癖が最近できた気がする。
それだけあのころのわたしは怖いもの知らずだったのだと思い知る。
「くだらない。が、少しは成長したんじゃないのか」
感傷に浸っていたが、凍牙の声に我に返った。
「なにが」
「他人への気遣いを覚えたのは立派な成長だろ」
「失礼なことを言ってくれるね」
軽口を叩きながら、ふと気づかされた。
別にわたしは、昔とそう変わっていない。
他人に対して気遣いができる優しい人間になれたわけじゃないのだ。
今回は単にマヤという人間が、わたしにとって他人よりも身近な存在となっただけ。
少ない時間であっても、彼女と話して、共に過ごして積み上げたものがあるからこそ、こんなにも迷いが生じてしまっている。
「結衣」
名前を呼ばれて凍牙を見た。
階段の下段にいる彼は軽くこちらを振り返り、静かに口を開いた。
「俺は、お前がどういう女か知っている」
それは、昔を含めてのわたしを。ということだとすぐにわかった。
「お前が自分の本性を隠していることについても、特に何も言うつもりはなかったが……、そんなに悩んでまで、上っ面のいい子を演じ続ける理由がそもそもお前にはあるのか?」
「学校生活を平和にすごすためだよ。ほかに理由なんてない」
「精神的に我慢を強いられている状況が、お前にとっての望んだ平和か」
言ってくれる。
凍牙こそ、ちょっと顔を合わせないうちに随分と優しくなったね。
「好きなようにやればいいだろう。津月に本性がばれて嫌厭されようが、どこで誰が壊れようが、『ここ』は変わらないんだ」
当然とばかりに言われた言葉が胸の中に落ちていく。
まさか凍牙に励まされて、背中を押してもらえる日が来るなんて思いもしなかったよ。
わたしは勝手な人間だし、基本自分のためにしか動かない。
マヤに見せていない黒い部分だってたくさんある。
でも、凍牙はわたしの中学時代を知っていて、それでもこの場所を共有していられる。
もしもクラス中がわたしを敵としたとしても、たとえマヤと決別しても——、わたしの居場所はここにある。
凍牙はそう言ってくれたのだ。
「……ありがとう。ちょっとやる気出た」
「ほどほどにしておけよ。俺は眠れる獅子を起こしたつもりはないからな」
照れくさそうに凍牙は顔を背けた。
わたしを励ましておきながらそんな態度をしてくるのが、ちょっとおもしろかった。
「大丈夫だよ。わたしは獅子じゃないから」
「ネコ科は同じだろ。にゃんこ」
「猫じゃないって。ミィくん」
薄ら笑いで凍牙を見下ろせば、無表情だった顔がわずかに引きつっていくのがうかがえた。
背中を押してくれたことには感謝するけど、ここを譲るつもりはない。
そっちがその気ならこっちだって相応の呼び方をするまでだ。
「………引きずるな」
「当然」
調子が戻った。
凍牙がいるこの場所が、わたしをわたしでいさせてくれる。