9.今も昔も間違いだらけ(中)
そこから何の進展もなく冬休みを迎えた。
クリスマスや大晦日といった年末のイベントは家で過ごした。
正月、家族は父の実家へと泊まりで出掛けたけど、わたしはひとり家に残った。
親戚が集まるあの場所は小さいころから苦手だった。
正月のあいさつは去年も参加していない。
わたしが父の実家に行かなくなった原因は、一昨年の正月にある。
その年の元旦、かねてから出会うたびに嫌がらせをされてきた4つ年上の従姉妹に、中庭で洗面器に入った水をぶっ掛けられたのだ。
真冬の冷水はさすがに寒い。
人目がないゆえに調子に乗っていた従姉妹は、たまたま涼君が通りかかったことで顔を青くした。
自分の着ていたコートをわたしに被せながら、なぜこんなことをしたのかと詰問する涼君に彼女は言った。
——だってその子、「高瀬」の子じゃないんだもの。
彼女の言葉に頭が真っ白になったわたしと違い、涼君は冷静だった。
——そんな理由で人に冷水あびせられるあんたを俺は軽蔑する。
冷たく言い捨てると、涼君は涙目の従姉妹を放置してわたしの手を引いた。
泊っている部屋で次の日用に持って来た服に着替えたわたしは涼君に連れられて、両親にも告げず早々に家へ帰った。
あとになって涼君から電話で事情を聞いた両親は、わたしたちを怒らなかった。
父は涼君に「よくやった」と褒めて、箱買いしたビールを渡したぐらいだ。
そんなこともあってわたしと涼君は、昨年の正月に父の実家に行くこともなく家に残った。
「父さんの兄貴や弟たちの嫁さんは、学歴志向の強い人が多いからなあ」
昨年、家を出る前、父はわたしにそうこぼした。
「それが悪いことだとは言わないが、それだけに目がくらむのも世界が狭くなっている気がしてもったいないと父さん思うんだ」
わたしを慰めるというよりは、自分の考えをただ伝えているだけのような口調だった。
「結衣は、学校は楽しいんだろう?」
中学2年、順風満帆だったその時のわたしは迷わずうなずいた。
「だったらそれでいい。大丈夫、疲れる大人の付き合いに、嫌々参加する必要はない。留守中の食事も涼がいれば心配ないだろうしな」
初老の父はそう言って朗らかに笑っていた。
今年、さすがに長男が2年連続で正月行事に不参加なのはまずいと思って、涼君にはわたしに構わず行ってほしいと訴えた。
常識から外れた行いを子供がしすぎると、今度は母が親戚の攻撃対象となってしまう。
「受験勉強なんていい口実があったものね。勉強なんてしないくせに」
家族が出発する直前、妹に言われた。
嫌みのつもりで言ったのだろうが、実際わたしは勉強なんてする気がなかったし、妹の嫌味は正解である。
家の中でだらだらするだけで元日は終わった。
1月2日の昼過ぎ、突然家の呼び鈴が鳴った。
居留守を使おうか迷ったものの、2階の窓から訪問者を確認して玄関へと走る。
「よう」
「明けましておめでとう」
訪ねてきたのは、洋人と有希だった。
寒空の下、刺繍の入った奇抜なジャケットを着込む洋人と、黒いトレンチコートの有希。
今日の有希はコンタクトレンズではなく眼鏡をかけているため、より真面目な学生に見える。
いつものことながらこのふたりは、かつあげする側とされる側ぐらいのギャップがあった。
「おめでとう。新年早々何やってんの?」
「初詣と、今から洋人の家で勉強見てやるんだ。新年早々でもこいつは油断すると取り返しのつかないことになるからな」
「俺を理由に正月の親戚回りをばっくれたやつがえらそうに言うんじゃねえ」
やれやれといった感じの有希に、すかさず洋人が言い返す。
「神社と洋人の家の延長線にここがあるから、いるなら渡しておこうと思って」
有希から手渡されたのは、白い生地に金色で合格祈願と刺繍されたお守りだった。
「どうせてめえは初詣なんざ行かねえんだろ」
「人が多すぎるからね」
「だったら俺と有希からで貰っとけ。言っとくが、俺の次に受験危ないのはお前だからな」
ぶっきらぼうに言い放つ洋人の言葉が胸に刺さる。
「……うん。ありがとう、大事にするよ」
嘘を笑って隠し、お守りを握りしめた。
「長引きそうなのか?」
主語のない有希の質問が何を示しているかはすぐに察した。春樹と綾音のいさかいのことだ。
「どうだろうね。ちょっとわかんないや」
苦笑するにとどめたわたしに、有希も洋人もそれ以上追及してこなかった。
「そんじゃ、お前も勉強さぼんじゃねえぞ」
「ほどほどにがんばるよ。菜月の家には寄って行かないの?」
同じ通りの5軒隣にあるのだから、ついでにいけない距離じゃない。
顔を見合わせた有希と洋人の答えは、わたしの予想どおりだった。
「年明けから馬に蹴られるのはごめんこうむる」
「俺も有希に同じだな」
「うん。わたしも言っときながらうあめたほうがいいと思った」
年が変わって2日目の今日、例年通りなら菜月は成見と過ごしていることだろう。
ひょっとするとふたりで初詣に行って、家にはいないかもしれない。
有希と洋人が帰ったあと、貰ったお守りは机の引き出しの中にしまった。
見えるところにぶら下げるのは、心が苦しくなってどうしてもできなかった。
その日の夜、こたつで眠っているところに涼君がひとりで帰宅した。
家族の帰りは明日の夜になるはずなので、完全に油断していたところでの登場だった。
朝から何も食べていないことを怒られて、晩御飯は涼君お手製の鍋をふたりでつついた。
「今日の朝、母さんが台所で小耳に挟んだことを告げ口してくれたんだ。今晩俺に見合いの話を持ち出そうとする親戚がいたらしい」
「それで逃げ帰ったんですか」
「結婚相手ぐらい自由に選ばせろっての。優秀な血がどうのこうのって、おばさんが俺を褒めた時にはさすがに寒気がしたぞ」
散々愚痴りながら、涼君は鍋のシメの雑炊までしっかりとたいらげた。
*
新学期が始まっても、わたしと春樹のこう着状態は相変わらずだった。
綾音とも、あの日以来顔を合わせていない。
3学期が1週間ほど過ぎたある日の放課後、わたしは担任から呼び出しを受けた。
職員室に行ったものの、そこから担任と一緒に誰もいない会議室へと場所を移動した。
ふたりきりの会議室で、パイプ椅子に向かい合うように座ったわたしに、担任は言いにくそうに切り出した。
「高瀬は、5組の鈴宮とは友達だったな」
「……はい」
今ちょっとぎくしゃくしてますとは、言う必要のないことだ。
「先日5組の先生がな、鈴宮が何人もの女子に囲まれているところを見られたんだ。すぐさま仲裁に入られて鈴宮はなんともなかったんだが……」
担任が口ごもる。
わたしの顔色をうかがう目には、疑いの色が滲んでいた。
「……その、囲んでいた女子たちに5組の先生が話を聞いたところ、そいつらは高瀬に命令されて鈴宮を呼び出したんだと言ってきたらしいんだ」
なるほど。真偽を確かめるための呼び出しだったのか。
「身に覚えがありません」
正直に告げたところで、おそらく疑いは消えない。でも、他に言いようがない。
「……そうか、わかった。先生は高瀬を信じよう」
担任はわたしを完全に信じたわけじゃない。
受験を控えた自分のクラスで問題が起きてほしくなかったから、ここで話を終わらせたのだ。
疑惑の火は完全に消火されず、また別の場所で燃え広がる。
担任の呼び出しを受けた日を境に、中学校全体でわたしを見る目が変わった。
ひそひそ話に、疑いと好奇の視線。
保身に走ってわたしの名前を出した女子たちが、どうやら生徒内にも嘘の言い訳を広げたようだった。
うわさはさらなるうわさを呼び、学校中の生徒があることないことを面白がってささやいた。
——高瀬結衣は、本当は昔から武藤春樹が好きだった。
だから、鈴宮綾音をずっと邪魔に思っていた。
前から人の知らないところで高瀬は鈴宮をいじめていた。
高瀬は前にも、咲田菜月をいじめていたこともある——。
勝手に流れるうわさなんて、しょせんは憶測が飛び交っているにすぎない。
憶測——つまりはそうであったら面白いと思う部外者の願望だ。
人の不幸は蜜の味。有名な春樹を取り巻くわたしたち仲間の歪みに、学校中が興味を持って食いついた。
他人がとやかく言ってくるのはどうでもいい。
そんなことよりも、教室での春樹との冷戦状態がわたしにとって頭痛の種だった。
クラスメイトと親しげに話し、わたしに見向きもしないくせに、弁当はひとりで食べて誰の誘いにも応じない。
そんな春樹の些細な振る舞いに、わたしは密かに安心していた。
同時に、気を使わせているというのが申し訳なくて、もうわたしを気にしないでほしいという矛盾した思いに駆られ続ける。
春樹といる教室は、だんだんと息苦しい場所になっていった。
どうしようもなく苦しくて、もうすぐテストもあるというのにわたしは授業をよくさぼるようになる。
教室の空気は、知らないうちに毒へと変わっていた。
*
1月の終盤。
昇降口で靴を履き替えて帰ろうとしたわたしに、数人の女子が近寄ってきた。クラスメイトと、そうじゃない人もいる。
「何?」
「あの……、高瀬さん、あのうわさって、本当なの? 高瀬さんが鈴宮さんをいじめたっていう……」
ああそのことか。
校内でうわさは相変わらず続いていたが、それをわたしに直接訊いてくる人がいるとは驚きだった。
緊張しながらも上目遣いで聞いて来た女子に、自分の中で周囲の煩わしさが我慢の限界を突破した。
わたしと綾音が喧嘩したことで、あんたたちになんの影響があるのか。仮にわたしが綾音をいじめていたとしても、それがそちらとどう関係してくるのだ。
綾音と親しい仲というわけでもないだろうに。
綾音のために怒っているようには見えないよ。
自分の興味を満たすために、わたしを使うな。
そっちがその気なら、わたしも軽い気持ちで、ひとつあんたたちを使ってやろうか。
「……いじめ、か。どうなんだろうね」
否定も肯定もしていない、わたしのあいまいな返しを、彼女たちは肯定と受け取った。それが彼女たちにとって心の奥にある、望んだ答えだったのだろう。
「……そんな」
悲痛な顔をする集団を、冷めた目で見つめた。
馬鹿馬鹿しい。
わたしがここで違うといったところで「本人はいじめを認めなかったけど……やっぱり怪しいよね」といった形でうわさを広められるだけだ。
春樹たちは——仲間はこんなもの信じない。
菜月たちが校内と自分たちの温度差に、くだらないと高をくくっていることはよく知っていた。
みんなはわたしと春樹と綾音の軋轢に当分首を突っ込んでこない。だから、ことさら都合がいい。
「ひどい……高瀬さんのこと、信じてたのに」
名前も知らない同級生が、まるで自分が被害者であるように、悲しげに表情をゆがめる。
信じていたからなんだ。
わたしはあんたの信じたとおりに動かないといけないのか。
「あいつらはみんな、優しいからね」
うわさ話の的にされる息苦しさ。常に注目される窮屈さ。
何もかもが嫌になり、うわさに翻弄される人間すべてを壊してやろうと決意した瞬間だった。
目の前の女たちが悲劇のヒロインとなるのにわたしが使われて、校内がさらに過ごしにくいギスギスした空気になるようならば、周り全部が敵になるほうが何十倍もましだ。
春樹たちとも3月でお別れなら、決意が鈍る前に離れるべきだろう。
仲間にこれからの計画を悟られて、思いとどまるように説得されるのも怖かった。
教室の空気にも、もう疲れた。
思い悩むことに行き詰まり、疲労した頭は手頃で安直な道に、迷わず突き進む。
「優しいあいつらのことだ。わたしがそんなことしたって知っても、許してくれるよ」
口角を吊り上げて言ったわたしに、彼女たちは目を見開いた。
「……許せない」
彼女たちは排除すべき共通の敵を無事に見つけられたようだ。
使命感に駆られたその目があまりにも滑稽で、思わず笑ってしまう。
その態度が彼女たちの怒りを増長させた。
それから3日とたたず、わたしは学校中の「悪」となった。
*
教室では春樹がいるので、誰も表だってわたしに手を出さない。
でもひとたび廊下に出れば、周りの生徒が悪口を叩いてくる。
人目のない場所ですれ違った生徒から、腹にこぶしを入れられたこともあった。
そんな周囲の憎悪は、はっきり言ってどうでもよかった。
疑心や興味を満たすために遠巻きに見られていたころと違い、ここまではっきりした敵意にすがすがしさを覚えたぐらいだ。
だけど。
当時もうひとつ、わたしの精神を追い詰めていた存在が家の中にいた。
「また勉強してないの? そんなのだから兄妹の中でもひとりだけ違うって言われるのよ」
正月に父の実家へ行ってから、妹がわたしをなじる頻度は格段に上がった。
誰かの影響を受けたということはなんとなく察するけど、ここまでくるとたとえ妹であったとしてもげっそりしてしまう。
「あんたがそんなのだとわたしも恥ずかしいの。高瀬って名乗りたいんだったらもっと必死に頑張らないと……」
「何やってんだ、結衣の部屋のぞいて」
いつも家族のいない時を見計らってわたしの部屋に来る妹だが、タイミング悪く2階に上がってきた次男に見つかったようだ。
「……や、もう用事は済んだわ」
妹は逃げるように自分の部屋へと戻っていった。
取り残された次兄は、不機嫌な顔でわたしの部屋に入ってきた。
「ばれてないと思っているようだが、はっきり言って最近のあいつは度がすぎる。父さんと母さんがあいつに甘いのは今に始まったことじゃないが、結衣に味方をしてくれる人も、家族にはいるだろう?」
淡々と話す次兄が示している該当者はひとりしかいないのですぐにわかった。
「もうすぐ入試の結衣が、あいつの嫌みに付き合い続ける必要はないはずだ。それが原因で志望校を落ちても、結局は自分の責任にしかならないんだぞ」
「……うん。そうだね」
めったに会話をしない次兄は、自分にも他人にも厳しい人だ。
公平な傍観者は直接わたしに手を貸すことはないけれど、たまにこうして助言をくれる。
1月の終わり、わたしは人生で2度目の家出をした。
*
「ねえ、結衣。あんた最近家にいるの?」
2月の2週目の月曜日。廊下ですれ違った菜月に捕まった。
「塾の帰り、夜にあんたの家の前を通っても自転車が見当たらない気がするんだけど」
「ああ、ちょっと今、涼君とこに家出中だから」
なんでもないことように話したつもりが、菜月には呆れられてしまった。
「……ひょっとして、妹ちゃん?」
菜月はわたしの妹のことをよく知っている。
家が近所だから、小さいころはよく3人で遊んでいた仲だ。
大きくなるにつれ、妹は菜月のこともあまり良く思わなくなっていったようだが。
「ちょっと反抗期なんだよ。わたしは鬱憤を晴らす攻撃対象にちょうどいいみたいだけど、こっちはさすがに疲れた」
春樹と綾音のこと。学校の状況。
菜月たちを騙し続けるのも、かなりの心労だった。
目の前の菜月に、綾音が重なる。
わたしと、菜月の彼氏である成見がつるむことは、これまでに何度もあった。
その度、菜月はどんな気持ちだったのだろう。
わたしは菜月にまで、不安な思いをさせてしまっていたのかもしれない。
「……ごめん」
今さら謝っても遅いが、気付いたら言葉にしてしまっていた。
「何が?」
首をかしげる菜月はいきなりされた謝罪の理由に見当もつかないのだろう。
「ううん。なんでもない」
「おかしな子ね。それよりあんた、春樹と綾音には——」
「高瀬さーん。こんなとこで何やってるの。次移動教室なんだから、早く行かないと遅れちゃうよ!」
同じクラスの女子がわたしに腕を絡めた。
そのまま力を入れて、階段へと引っ張ろうとする。
「ちょっと」
話しを中断されて、菜月から戸惑いの声が上がった。
「咲田さん、さっき市宇君が捜してたよ」
一連のやり取りを見ていた廊下を歩く名前も知らない女子が、こっそりと菜月に耳打ちする。
見事な連係プレーだ。
「えっ」
はっとして、菜月は自分の教室に顔を向ける。
「行ってきなよ。わたしもこれから授業だから」
「あ、結衣!」
焦る菜月にひらひらと手を振った。
強引に腕を引く女子の力に逆らわず、そのまま階段を下りた。
「思いあがってんじゃないわよ。あんたなんか、咲田さんに助けを求める資格なんてないわ」
踊り場でわたしを突き放して、彼女は言った。
知ってるよ、とは心の中で思うだけにとどめた。
あんたたちにわたしを裁く資格があるのかなんてことも、もはや訊く気力もない。
自分で仕掛けておきながら、彼女たちが信じて正しいと疑わない「正義」がどうしようもなくおかしく思えた。




