4.悪魔が来た(下)
「わたしも人のこと言えませんが、あんまりむきにならないほうがいいですよ。こいつ、根っからの柳さん属性ですから」
「……そういうことは先に言え」
成見の存在自体を無視することに決めたらしい吉澤先生は、わたしに隣の席に座るよう指示する。
一方の成見はというと、いつの間にか静さんから紅茶を受け取り、凍牙の向かいで優雅なティータイムと洒落込んでいた。
「右手を出せ。とっとと終わらせるぞ」
言われたとおりにすると、吉澤先生は捻挫で腫れた手首に触れて舌打ちした。
さっきまで氷嚢を当てていたため、患部は冷たくなっている。
「ちゃんと冷やしてはいるみたいだな」
「常にはさすがに無理ですけど」
静さんに言われなかったら確実に放置していたわけだけど、これは言わないでおこう。
足元の紙袋から吉澤先生が何かを取り出す。
透明のプラスチックに入った黒いゴムバンドのような物体。パッケージの説明書きは英字だった。
「そんなにひどいんですか?」
乱雑にプラスチックを開けていく吉澤先生に、成見が横から口を出した。
「骨までは異常がないと聞いているが、捻挫は放置すると後に響くからな」
言いながら、黒いバンドの穴のあいたところをわたしの右手の親指に通し、手首をきつく締めてマジックテープで固定した。
「慣れたらひとりでも付けられるだろ。日中はちゃんと固定しとけ。下手に動かしたら靭帯が伸びきったままになるぞ」
吉澤先生がわたしに白い紙袋を渡してきた。
「湿布と塗り薬だ。面倒でも忘れずにつけとけ」
「これのためにここまで来たんですか?」
「一応のけじめだ。あほがあほなことやらかしたのは俺の耳にも入っている」
先生だめだよ。それを今言われるのはまずい。
ぽろりとこぼされた内容に、恐る恐る成見をうかがう。
成見はティーカップをソーサーに置いただけで、こちらを見ようともしなかった。
追及がないのが逆に不気味で、安心できない。
「さてと、じゃあそろそろ皇龍の本拠地に乗り込もうか。悪いけど凍牙、案内よろしく」
成見の軽い口調に、凍牙はため息をつきながらも立ち上がった。
「弱みでも握られた?」
あまりにも凍牙が成見の言いなりすぎて思わず訊いてしまった。
「こいつの厄介なしつこさを知りながらお前はそれを言うか?」
「そうだね。頼みごとのひとつやふたつは、素直に聞いておいたほうが後々おかしなことにならないよね」
どうやら弱みを握られたのではなく、たんに諦めているだけのようだ。
「こいつと連絡先を交換してしまったことが、俺にとって中学時代の最大の失敗だ」
「心外だなあ。さすがに傷つくよ」
そう言いながらも成見は心の底から楽しそうだった。
「お前、皇龍に用事ってことはどこかのチームの所属か?」
鋭い視線を成見に向け、吉澤先生が問いかける。
威圧感をものともせず、成見は笑って答えた。
「モノトーンですよ」
「………ああ」
わたしと成見を見比べて、吉澤先生は納得したようだった。
「皇龍に行くなら早いうちにしとけ。夕方からアークでは祭りがある」
「祭り、ですか?」
季節的に夏祭りだろうか。
屋内でするのだったら、ひょっとするとクラブのイベント的なものなのかもしれない。
「久しぶりに柳が張り切っていたからな、かなりの規模になりそうだ。どんちゃん騒ぎに巻き込まれたくなかったら用事は午前中に済ませろ」
「そうします」
成見はお代はいらないという静さんをやんわりと断り、凍牙と自分の分のお金を払って店の外に出た。
「不安因子はちゃんと取り払うよ。そんなものに結衣が気をやる必要なんてどこにもないから、そっちはそっちで答えを見つけなよ」
見送りに出たわたしに、成見が言った。
「明日、柳さんの店に来い」
最後に凍牙がそう告げて、ふたりはカプリスに背を向けた。
冷房のきいた店に入ってから、凍牙の言った言葉に時間が指定されていなかったことに気づく。
まあ、明日もバイトがあるし、終わってからしか行けないことはあっちも把握しているだろう。
静さんと話し込んでいた吉澤先生は、わたしが戻ると早々にカウンター席から立ち上がった。
「祭りは皇龍所属者以外は参加できない。間違っても今晩アークに来るんじゃねえぞ」
「誘われたところで行きませんよ」
はっき伝えると、吉澤先生は無言、無表情でわたしを見下ろした。
「……なんですか?」
「お前見てるとため息をつきたくなるな」
それは自分の生徒に言っていいことなのか。
「わけがわかりません」
「そのうちわかるだろ。まあ頑張れや」
まさか吉澤先生に励まされる日が来るとは思ってもみなかった。
それにしても含みのある言い方だ。
皇龍か、ひょっとして柳さんがらみで何かあるのか。
吉澤先生は静さんとあいさつを交わし、さっさとカプリスをあとにした。
その後、わたしはようやくカプリスの仕事につくことができた。
バックルームで伝票とパソコン内のデータに違いがないかをチェックする。
日付と店名の入ったはんこを伝票に押して、カプリスと雨知らず、それぞれのファイルにとじていった。
それが済んだら無理のない程度で、店に出て接客を手伝う。
土曜日といえど昼時にはお客さんの来店もそれなりにある。
オーダーは伺ったものを覚えてカウンターでメモし、静さんに渡した。
慣れてくれば左手でトレーを持って料理を運ぶこともできた。
昼のピークを過ぎると、静さんはまかないにサンドウィッチを作ってくれた。
14時にさしかかろうとする店内で、カウンターに座って昼ご飯をとる。
2組いたお客さんの対応は静さんが調理と一緒に担当した。
食事が済むころには店内も落ち着いたので、その後はバックルームで夏休みの宿題にいそしんだ。
夕方になり、閉店作業の手伝いにホールへ行く。
お客さんはいなかったが、静さんはキッチンで料理を作っていた。
ラストオーダーの時間になった。
新たに来店する人もなさそうなので、店のドアに鍵を閉めて少し早いが閉店した。
レジの精算を先にこなし、悪戦苦闘しながらも店内の掃除を済ませる。
全ての仕事が終わって退勤しようとした時、静さんは大きな保冷バッグをわたしに差し出した。
受け取ったはいいが、かなりの重量だ。
「これは?」
「余り物でいろいろ作ったの。作り置きのできるものばかりだから、冷凍庫に入れておけばいいわ」
保冷バッグのファスナーを開けてみると、隙間なく無数のプラスチック製容器が敷き詰められていた。
「その手じゃお料理も難しいでしょう」
「そうかもしれませんが、さすがにこれは」
「受け取ってほしいの。 ちょうど店の食材を空っぽにしたかったし、捨てるなんてもったいなくてできなかったから」
結局、成見のように角を立てずに遠慮する方法を知らないわたしは、静さんに押されてありがたく料理を受け取ってしまった。
今度違う形で何かしらのお礼はしようと心に決める。
*
実際片手の料理は予想以上に困難の連続で、昨日の夜は途中で挫折して何も食べていなかった。
静さんの好意は素直に嬉しいし、とても助かる。だけどここまでしてもらうと、悪い気もしてしまう。
重たい保冷バッグを肩にかけてマンションに帰る。
途中、心の中はずっともやもやしていた。
それはなんの前触れもなく不意打ちで成見が来訪したことによるものなのか。
静さんの優しさに甘えすぎている自分に対する危機感なのか、わたしには判断がつかなかった。
この腑に落ちない感覚の正体はなんだ。
確かな言葉にできるほどの根拠はない。だけど、今日一日の流れを思い返すと、何かがしっくりこないのだ。
普段起こらない出来事が頻発したから、無意識のうちに物事に過敏になっているだけなのか。それとも……?
考えても埒があかない。
なのでマンションに付いたころには、思考はは仲間のことに切り替えた。
夜になって今日のうちにするべき家事を終えた。
手持ち無沙汰になると、いろいろなことが頭の中を駆け巡る。
わたしは綾音と春樹と昔のような関係に戻りたかった。
だけど、きっとそれは願ってはいけないことだ。
あの時みたいに、綾音が我慢を強いられ苦しんでいるのに、わたしがそれに気づけない状態なんて二度とあってはいけない。
だったらどうすればいい。
わたしは、春樹が好きなのか?
一緒にいて楽しい相手だ。嫌いなはずがない。
春樹はわたしがもしも好きだなんて伝えたら、どんなふうに返すのだろう。
少なくとも、綾音が危惧するようなことにはならない。きっと、わたしは振られる。
そうなると、昔のように気さくな関係に戻ることはできるのか。
いろいろな可能性と想定が、自分の思いを見えなくする。
正直な気持ちで春樹と綾音に向き合えないのは、ふたりに対しても不誠実だ。
怖くても、人の答えに合わせず自分の気持ちに正直にならないといけないのに……。
考えが空回って、その夜も結局答えにたどり着くことはできなかった。




