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モノトーンの黒猫  作者: もりといぶき
【皇龍編 上】
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4.無知の災い(上)




今日のバイトは18時30分からと、いつもより時間に余裕があった。


かといっていったん家に帰るのは、うちとバイト先の距離からして無理がある。なので出勤時間が遅い日は、いつも教室で時間を潰していた。


バイト先のファーストフードは駅前にあり、住んでいるマンションとバイト先を線でつないだ真ん中らへんに、ちょうどこの学校が位置している。

ちなみにすべて徒歩で行き来できる距離だ。



教室内はわたしひとりだけで、物音ひとつしない。


3階の教室。窓から見える空はあいにくの雨模様で太陽は見えなかった。

ガラスに遮断された室内で雨音が聞こえないことに寂しさを感じ、窓を開けようと椅子から立ち上がったその時——。


ドアがスライドする音がして廊下側に顔を向けるとマヤがいた。


急ぎ足で教室に入ってきたマヤは、わたしがいることに驚いているようだった。



「まだ残ってたの」


「バイトまでの時間つぶし。そっちこそどうしたの」


「宿題忘れちゃって」


「明日すればいいのに」


「吉澤先生の、だから……」


「あー……」



納得。

あの先生の宿題は授業の応用問題ばかりで無駄に時間がかかる。

間違ってもいいから一度は自分で考えろと常々言われている手前、正解を写すだけでは済まされないのだ。


マヤは教室の後ろにある自分のロッカーの鍵を開けて、ノートを探す。


彼女に背を向けてわたしは当初の目的だった窓の施錠を外し、室内と外の空気を繋げた。

霧のような雨は音を立てずに地面や屋根へと落ちていく。残念ながら、期待した雨音は聞こえなかった。



「結衣は、普通だよね」


「何が? というか、どこが?」



マヤのいきなりの指摘には肝心な部分が抜けていた。


それにしても、「普通」なんて言われたのはいつ以来だろう。

記憶にない。

そもそもそんなことあったっけな。



「わたしに対して、かな?」



首をかしげて苦笑するマヤと、わたしは閉じた窓に施錠し直して向かい合う。


マヤからは期待と不安、そして疑念の表情が見て取れた。

腫れ物扱いしないで自分と接してくれるのはありがたいが、自然体のわたしの態度には裏があるのではと疑ってしまう。そんなところだろう。



「普通というのが大多数を意味するのなら、わたしは普通からかなり遠い人間だと思うけど」



このクラスの「普通」に、わたしは当てはまらない。



「わたしが普通だったら、マヤとこうしてしゃべることもないだろうし」



マヤがわずかに顎を引いて、顔をこわばらせる。

まさか彼女はわたしが教室の空気に気づかない、鈍感な人間だとでも思っていたのか。


このクラスは誰もが、マヤのことを特別視している。

女子はマヤに必要以上に関わろうとせず、男子はどこかよそよそしい。


吉澤先生の効果か、あからさまに避けるような生徒は今のところいないが、マヤがクラスで浮いているのは観察していてよくわかる。



「どうして、わたしのこと、なんとも思わないの?」



……うーん。

そんな聞き方をしてくるのか。



「なんとも思ってないからだろうね。というか、今の質問はちょっと恥ずかしいよ。あえて言わせてもらうけど」


「……え?」


「『どうしてわたしのこと、何とも思わないの?』なんて人から言われたの、生まれて初めてだよ」



3秒後、マヤの顔は耳まで真っ赤になった。



「……いや、あの、その。……自意識過剰とか、そういうのじゃないの」


「知ってるよ」



話が進みそうにないので、これ以上の言及はやめておく。


愛情の反対は無関心だとどこかの偉人が言っていたけど、たしかにそのとおりだと思う。

わたしはマヤを疎んじてはいないし、嫌いでもない。

かといって好きでもなければ興味もないので、彼女に手を差し伸べることはしない。


マヤの言うところのわたしの「普通」は、単にマヤというクラスメイトに対して関心がないだけのことだ。



「わ、わたしね、幼馴染がいるの」



あたふたとしながらも、マヤは必死にしゃべりだした。若干パニックになっている。



「昔からよく一緒に遊んで、ずっと好きだった。中学校を卒業した時に告白したら、彼もすごく喜んでくれて……彼の彼女になれた時はすごく嬉しかった。……だから、あのうわさは、本当なの」



いろいろと打ち明けてくれているところ申し訳ないが、わたしはあのうわさの「あの」の部分をまず知らない。

こちらを置いてけぼりにしてマヤはさらに続ける。



「わたしは、ミクニショウゴさんと付き合ってるの。結衣にはちゃんと、自分の口から言っておきたくて」


「……ああ、そう」



こういうとき、わたしは必要以上に慎重になってしまう。



『ありがとう、ちゃんと自分から話してくれて』


『そんなこと気にしないよ。マヤはマヤだから』



励ましのセリフはいくらでも思いつくが、それを言うのは自分の首を絞める結果に繋がってしまう。


こちらにそのつもりがなくても、慰めと気休めの言葉は相手に仲間意識を芽生えさせるには十分だ。


『だからどうした』と言うあたりが無難な対応なのだろう。

しかしながら、それを口にするにもひとつだけ大きな欠点がある。



「それって、有名な人?」



なにを隠そう、わたしはミクニショウゴという人物を知らなかった。





日が長くなってきたといっても、17時になれば外も薄暗い。雨降りの今日はいつもより視界が悪そうだ。

ちょっといつもより早めに学校を出たほうがいいかな。——と、思考が別のところに行ってしまった。


わたしの前に立つマヤはなに言ってんのこの人と言いたげな目で、こっちを凝視している。

視線に物理的な力があったら、顔に穴が開きそうだ。



「そんなにすごい人なの?」


「え、あ、う……うん。有名だし、すごい、し。……本当に知らないの?」



有名と言われても、時事系のことは入試以降勉強してないからなあ。



「ごめん。わたし新聞取ってないや」


「新聞なんかに載るわけないでしょ!」



焦って返された。

どうやら新聞に載るジャンルでの有名人ではないらしい。


だとすれば、芸人か、アイドルか。


といってもなぁ……。



「わたしのうち、テレビ置いてないから。芸能人とかかなり疎いからわかんないや」



マヤの口端がぴくぴくと痙攣している。

これもハズレか。



「——っ、もう知らない!!」



怒ったマヤはわたしに背を向けて大股で帰って行った。


ひとまずミクニショウゴが芸能人でないというのはよくわかった。しかしこれ以上わたしにどうしろと。


まあ、怒ったマヤを気にかける必要は今のところない。バイトの時間も迫っている。

この件を考えるのはまたの機会に考えよう。


自分の中で完結させて机の上に置きっぱなしだった鞄を肩にかけた。



そうして教室を出た、ところで——。


黒い塊。


ドアの陰でうずくまる不審人物を見つけた。






      *





その人は一応、この学校の男子制服を着用していた。しかしこの時間に人気のない1年生の教室前でしゃがみ込んでいる時点でものすごく怪しい。


教室のドアに身を寄せてうずくまり、肩を震わせているこの男に、走り去ったマヤは気づかなかったのだろうか。


ひょっとして、具合が悪くて動けないのか。

だったら職員室に誰かを呼びに行ったほうがいいのかな。


なけなしの良心を働かせつつも、あまり関わりたくないので見なかったことにする。


昇降口へ行く前に、職員室にいる先生に声をかけておくのが無難な対応だろう。

男の横を素知らぬふりで通り過ぎ、階段へと歩く。



「……う、っぷ。……くくっ」



背後から声が聞こえた。


……あの男、笑ってやがる。



撤回しよう。

この男にかける良心はない。後ろにいるのは本物の不審者だ。


最悪の場合、階段手前にある非常ボタンを押すことも選択肢のひとつに入れておく。



「——ねぇ、本当にミクニショウゴを知らないの?」



不審者の呼びかけに、足を止める。

振り返ると、不審者は腹に手を当てながらも立ち上がってこちらを見ていた。


エンジのネクタイ。制服が本当に不審者本人のものなら彼は2年の先輩だ。


質問から不審者はわたしとマヤの会話を聞いていたのだろう。


ということは、マヤが帰るときにはこの男はすでにあそこでうずくまっていたことになる。


あれにマヤは本当に気づかなかったのか?

あるいは視野が狭くなるほど怒っていたということか。



「そんなに有名な人なんですか?」



無視して帰ろうとしなかったのは、ミクニショウゴがどんな人なのか、一応は知っておきたいと思ったからだ。



「んー……」



不審者が笑みを浮かべてわたしを見る。


好奇の目。


疑いの目。


わたしがミクニショウゴを知らないということを、完全に信じていない目だ。



「この学校にいて、この街に住んでいるなら、知らないほうがおかしいかなー……って」



つまりは地域密着型の人物というわけか。


だったら知らなくても無理はない。

だってわたしはこの街に来て日が浅いから。 街のことについて教えてくれるような知り合いはいない。


唯一まともに話す凍牙とは、思いついたことは言い合うが世間話はほとんどしてこなかった。


それでも、引っ越して1カ月以上経過しているから、街についてまったくの無知というわけじゃない。

学校から10分も歩けば繁華街だし、バイト先もそこにある。


駅前の商店街は、人通りも多い。

街で有名——、となると、思いつくのはひとつ。


今日みたいに遅めの出勤の日、バイト先に行く道から見える大きな人だかりの……。



「駅前広場でいつも歌ってる人ですか?」


「ぷはっ!」



噴出された。

どうやら違うらしい。


不審者は再び腹を抱えて笑いだす。



「あいつが、……歌? ……それはない」



ミクニショウゴがどういう人間かという以前に、これは見ていて腹が立つ。


確定した。こいつは本物の不審者だ。


これ以上は相手にしたくないので、近くにあった非常ボタンを押したらそのまま階段を駆け下りて下校する。


けたたましい警報音に混ざって焦った男の声が聞こえた気がしたが——、知ったことか。






      *







「三國翔吾はここら一帯に縄張りがあるチーム、皇龍の幹部だ。この学校にも皇龍メンバーはそれなりにいる」



昨日の疑問は、次の日の昼休みに凍牙に訊いたらあっさり解決した。



「チーム……つまりは不良ってこと?」


「どうだろうな。皇龍に対するこの街のやつらの認識は、世間一般が想像する不良の認識とかけ離れているからな」


「そんなに有名? というかなんなのその集団」


「知らないほうがおかしいと思われるぐらいにここらでは有名だ。繁華街周辺をはじめとしたこの街の治安に大きく関わる組織で、市民の信頼も厚い。幹部以上にのし上がる条件に顔の良さが入っていると噂があるぐらい、女子からの人気も高い」



説明をさせておいて悪いけど、ちょっとよくわからないってのが本音だよ。


チームが街の治安に関わるって、どういうふうに?

ほかの不良集団に対する抑止力や牽制材料的な意味でなのか。


まさか正義の味方ってわけでもあるまいし。

でもそれはわたしの常識であって、この街の常識には当てはまらない可能性もあるのか。



「治安に関係しているって点について、もう少し詳しくお願い」


「簡潔に言えば、この街の治安維持に皇龍が進んで貢献しているということだ」



意外や意外に正義の味方だったよ。



「男からの憧れもかなりのものだ。……皇龍の幹部が学校に登校すればそれなりの騒ぎになるんだが、知らなかったか?」



たしかに授業中や休み時間に時々、興奮した生徒が「なんとかさんが学校に来た」って騒いでいたような。



「気づいたとしてもそれが皇龍? ってのに結びつかないから、わかるわけがないよ」


「ああ、お前は興味の対象になるもの以外は意識に入れようとしないやつだったな」



否定はしない。

だけどその言い方はどうだろう。



「今のうちに改めておけ。皇龍はこの地域では絶対だ。何かあったとき、知らなかったじゃ言い訳にならないぞ」



うん。


凍牙の話で、皇龍とはなんたる組織かはなんとなくわかった。でもね……。



「少しばかり手遅れな気がするよ。凍牙さん」


「ああ?」



眉間にしわを寄せてこちらを睨む凍牙の機嫌はこの際気にしない。

ひとまずは昨日の一件を伝えることにした。






昨日マヤと話した内容はほどほどに。そのあとで見知らぬ人物から三國翔吾についておかしな質問をされたことを簡潔に凍牙に話した。



「お前、自滅したな」


「返す言葉もありません」



と言いつつも、実のところあまりこの件を重く受け止めてはいない。


もうなるようにしかならないと開き直ったほうが気が楽だし、これでマヤと距離ができても自業自得。わたしが悪いだけだ。



「ちなみに、本人の前では絶対言ってはいけないこととして、三國翔吾が壊滅的に音痴なのは水面下でかなり有名な話だ」


「うわぁ、地雷踏んだね」



あの不審者が笑い転げていた理由はこれか。



「仕方がない。昨日のことを不審者が三國翔吾に告げ口していた場合は、あの不審者も道連れにしよう」



わたしは路上で歌っている人が三國翔吾なのかと尋ねただけで、それで勝手に笑い転げていたのはあの男なのだから。



「そいつはどんな奴だったんだ?」



凍牙が眉を寄せて訊いてきた。



「おそらく2年生の黒髪。性別は男」


「おそらく?」


「他人の制服を奪って着ていた可能性が捨てきれないからね」


「……他に特徴は?」


「笑い上戸だった」



ほかはこれといって覚えていないけど、あの癇に障る笑い方はおそらく一生忘れない。



「……もし次に関わってきたら、顔の特徴ぐらいは口で説明できるようにしとけ」



呆れてしまったが、たしかに不審者の顔立ちに興味がないというのは、もしものときに困る。

次からはちゃんと覚えるように気をつけよう。


それにしても。



「三國翔吾と笑い上戸って、音が似てるね」


「それを人前で言うなよ。皇龍ファンに聞かれたら殺されるぞ」


「了解」



いつも以上に凍牙としゃべったというだけで、わたしは今日も平和だ。




頭の中を整理する。


三國翔吾は、マヤの幼馴染で、恋人。

彼は皇龍というチームの幹部のひとり。


皇龍とは、凍牙いわくこの街の人が憧れるチーム。……ここらへんはまだちょっと腑に落ちないのだけど……。


凍牙の話を信じると、皇龍は規律と秩序をもって街を守っている。

普段は温厚だが、売られた喧嘩は買う。今のところ負けなしらしい。


最強と言われ、街の若者から慕われる大きな集団の中心にいる者——。それがマヤの付き合っている三國翔吾だと。


この街の誰もが知る常識を、わたしは今日初めて知った。


皇龍という存在意義や街の特殊な環境についてはここで考えるべきじゃない。


大事なところは、皇龍という影響力を持った組織の中に三國翔吾が身を置いているということ。そして皇龍の中核にいる三國翔吾が、マヤにとっての大切な人だという事実だけで十分だ。



「……悪いことをしてしまった」


「今さらだな。いったいそれは何をどれだけ遡っての反省だ?」


「つい昨日の、わたしの言動に対する反省だよ。ほかに反省することなんてないよ」


「お前の無駄にいい記憶力をフルに使って昨年の冬あたりまで思い返してみろ。『ない』なんざ絶対に言わせねえぞ」



……ここでそれを持ち出すか。


返答に詰まって逃げるように昼食を再開する。

凍牙はそれ以上何も言ってこなかった。







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