9.傷に塩と慰めを(下)
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
気持ちのやり場がどこにも見当たらなくて、机に額をくっつけて目を閉じた。
わたしの授業放棄を吉澤先生は諦めたのか、注意してくることはなかった。
そのまま2限目が終わる。
前を見ると、吉澤先生が宿題のプリントを配布していた。前の席から来た紙を受け取り、机に入れる。
先生の退出と同時に、教室の張り詰めた空気が一斉にゆるんだ。
みんなが疲れた表情になっていて、グループで集まって話している姿はどこもかしこもぎこちない。
「……高瀬」
わたしに声をかけてきたのは、榎本君だった。
口をへの字に曲げながらも、心配そうな顔をしている。
「何か用事?」
突き放すように訊けば、彼は視線をさまよわせた。
「用事というか、お前、本当に——」
——大丈夫か? そう言いたいのは予想できた。
でもね、あんたに心配されたところで、わたしは何も変わらないんだよ。
「大丈夫じゃなかったとして、榎本君に何が出来るの? 興味本位の声かけなんていらないよ。そんなことなら空気みたいに扱われるほうがよっぽどいい」
「っ! そんなつもりじゃっ」
「じゃあ何? 榎本君はわたしのために何をしてくれるの? わたしがこうなった元凶を裁くとか。思いあがってんじゃないよ。一介の学生ってとこであんたもわたしも立場は同じで誰も——っ!?」
いきなり襲った後頭部の鈍痛に、口が止まって手で頭を押さえた。
痛い。
ものすごく痛い。
「悪い。こいつ今ご機嫌斜めなんだ」
脳天を貫く激痛に耐えていると、上から声がした。
どこも悪いなんて感じていない口調。しかも謝罪はわたしではなく、榎本君に対してだ。
その声でわたしを殴打したのが誰だかすぐにわかった。
「……凍牙…………」
「野良猫に威嚇されたとでも思って許してやってくれ。飼い主不在で情緒不安定になってんだ」
「お、……おお」
唖然としていた榎本君が流れにまかせて首肯する。
「連れてって落ちつかせるから、これ置いといてくれ」
凍牙がわたしの机に放り投げたのは、厚さが5センチはある国語辞典。それで殴ったのか!?
「行くぞ」
「ちょっ、なに勝手に」
手首を掴んで無理やり立たされる。凍牙はそのままわたしを廊下に引きずって行く。
「おまっ……、ほんとに待って! これから授業!!」
「黙れ騒ぐな喚くな静かにしろ。そんなに注目を浴びたいか」
「この手を放せば済むことだよね!」
どんどん前に進むせいで、下り階段でこけそうになった。
1階まで下りて、向かった先は教職員用の昇降口。そこから外に出て、さらに歩く。
「……って、靴は!?」
「はいてるだろ」
「これは上靴!」
「気になるなら避難訓練とでも思っとけ」
こんな連行型の避難訓練あってたまるか。
連れて行かれた先はもはや定番となっている第二体育館の非常階段だ。
校舎を迂回しなかったので、いつもより早く来れた。
次からはこの方法を使おうとか、そんなこと考えている場合じゃない。
手を振り払ったら、簡単に凍牙はわたしを自由にした。いったいなんだというのだ。
凍牙が怒っているようには見えない。
感情の読めない目をして、彼はわたしの前に立っていた。
凍牙がスマートフォンをわたしに見せる。
「武藤を呼ぶぞ」
「どうして? いらない」
喉の奥から出た声は、自分でも驚くぐらい低いものとなった。
いらない。関係もない。
なぜ春樹を呼ぼうとするのか、意味がわからない。
「今のお前がそれを言うか。自分の感情持て余して見境なく人に当たり散らしてんだろ。トラウマ抱える被害者が出る前に飼い主に押し付けるのは当然の判断だ」
……何が当然だ。
だめ。
こんなとこで泣くな。
春樹の名前に動揺してはいけない。
わたしがみんなを頼れたのは、過去のことなのだから。
「喧嘩して、勝手に行方をくらまして、つらくなったから助けてください? そんな虫のいい話が通用すると思ってるの?」
こんなくだらないことで、春樹がわたしを思い出す必要はない。
喧嘩は今も継続中だ。あいつらはわたしを嫌ったまま。それでいいの。
「今のわたしの状況と、春樹たちにはなんの関係もない。わたしの大切な人を、こんな馬鹿なことに巻き込もうとしないでよ。わたしが一方的にみんなのことをまだ好きでいて、幸せになって欲しいって思い続けていられるだけで十分なんだよ!」
「だったら自分の限界ぐらい自覚しろ!!」
怒鳴られて、襟元を掴まれる。
知らない。こんな凍牙は初めてだ。
「自分が傷ついていることを認めろ。強がったところで取り繕えないほど苦しいんだろ。今のお前は弱いんだ。中学の時みたいに、支えになるやつらがいないんじゃ当然だろうが!」
凍牙から目が離せない。放させて、くれない。
突き付けられた現実は、わかりきっていながらも、ずっと見て見ぬふりをしていたことだった。
わたしに仲間はいない。
わたしが自分で遠ざけた。
よりかかれる存在は、どこにもない。
これが今の、——わたしの現実だ。
凍牙がわたしの襟元から手を放す。
後ろによろめいて、階段に足が当たって座り込んだ。
「……ふ、……っ」
嗚咽を噛み殺そうとして、歯が音を立てた。
涙がしずくとなってこぼれ落ち、スカートにしみをつくる。
わたしがいたら仲間のあいだに亀裂ができる。だから、離れた。
幸せを掴んでもらいたくて、安心してほしかったから。
だけど——。
みんながいなくて、わたしは寂しい。
馬鹿なことをしても、止めてくれる人がいない。
一緒に馬鹿をして、笑いあえない。
みんなと離れて、およそ6ヶ月。……たった半年なのに、こんなに苦しい。
——結衣は本当に、仕方がないわね。
そう言って、わたしがすねるたびに抱きしめてくれたあの子も。
隣に座って肩を寄せた。彼女のぬくもりが、今はとても恋しい。
凍牙がわたしの前に、背中を向けて腰掛ける。泣き顔を見ようとしないのは、彼なりの優しさなのだろう。
「櫻庭さんから、昨日起こったことは聞いた」
「……あんのチャラチビ」
どうやら口止めが必要なのは野田先輩だけではなかったらしい。
「話を聞いて、朝のお前の態度に納得した。お前をさらった連中を、殺したくなった。——それぐらいには、心配した」
前を向いている凍牙の顔は見えない。抑揚のない声は、いつも聞いているのと同じ。
彼の言葉に反発心は芽生えず、ストンと胸の内に落ちていった。
「心配してくるやつは頼ればいいんだ。別にあいつらの代わりになろうとは考えてはいない。ただ俺は、お前とここにいるときの空気を壊したくないだけだ」
それは、わたしも同じ。
何を話すわけでもない。ふたりでここにいるだけ。
仲間といるときの騒がしさも、何かを達成する目的もないけど。——凍牙といるのは、楽しい。
いつの間にか涙は止まっていて、わたしはぼんやりした頭で凍牙の後姿を眺めていた。
校舎の喧騒も消えている。とっくに3限目が始まっているのだろう。
「手」
ひとこと言って、凍牙がわたしに手の平を見せた。
顔は変わらず、前を向いたままだ。
「怖いか?」
それは、朝にわたしが手を叩いたから?
罪悪感にさいなまれながらも、ゆっくりと凍牙の手にわたしの手を合わせた。
自分の心臓の鼓動を感じる。
緊張はあっても、胃の不快感や背筋に走る悪寒はない。
合わさった手の平が、凍牙の体温をわたしに伝える。
あの男に触られたときと違う。
あの男たちの手と、凍牙の手はまったく違う。
——ああ、これが人のぬくもりだ。
「……怖くない」
自然と口が動いた。
両手で凍牙の角ばった大きな手を握りしめる。
「怖くないよ」
落ちついたはずなのに、涙腺がまたゆるむ。
凍牙の手を強く握って、再びわたしは泣いた。
久しぶりの人の体温が、わたしが孤独じゃないと教えてくれる。
わたしが話せるようになるまで、凍牙はその手を好きにさせてくれた。
*
3限目が終わって、4限目が始まる。
今度はちゃんとチャイムの音を聞き取れた。
泣きはらしたまぶたは重いが、気持ちは朝と比べ物にならないくらい回復していた。
「……落ちついた」
「そうか。だったらとっとと手を離せ。腕と肩が痛い」
「すみませんでした」
名残惜しかったが。握りしめる凍牙の手をほどく。
凍牙は肩をまわして、二の腕をもう片方の手で揉んでいた。
無理をさせて本当にごめんなさい。
「次があるなら、問答無用で武藤に連絡するからな」
「もうないと思うので本気でやめてください。反省するし、無理は二度としないから」
「この世で一番信用ならない発言だ」
「いや、確かにわたしも自分で言ってて思ったけど。ひとりでできる限界は、今までよりかなり近いところにあるってちゃんとわかったから。苦しくなったら、愚痴ぐらいは付き合って下さい」
普通に学校へ通っているだけなら、こんなトラブルに遭遇するほうが珍しい。次が起こることはまずないと信じたい。
マヤとだって、これからも一緒にいられるとは限らない。
マヤがわたしを今までと違う目で見てくるのは少し悲しいけど、仕方がないと割り切るしかないだろう。
「当たってしまってごめんなさい。怒ってくれてありがとう」
「……ああ」
凍牙の顔はわたしからは見えない。彼が何を思っているか、わたしの知るところでないのは当然だけど。
わたしの中に常にあった貸し借りとか、見返りとか——。そんな言葉は不思議とこの場で出てこなかった。
4限目の終わりを知らせるチャイムが鳴る。
昼休みになってしまった。
ものすごく逃げたい。いっそのこと、忘れていたことにしてサボってしまいたい。
今から吉澤先生の元へ向かうのは、非常に気が重かった。
先生を怒らせた原因は100パーセントわたしなので、初手平謝りは確定として。しかしそれだけで、あの先生は許してくれるのだろうか。
「いくら鬼のような人でもあの人は教師。教師は人間、公務員。昼休みといえど勤務時間。生徒は生徒として接する義務が絶賛発生中」
「何の呪文だ?」
「吉澤先生に謝りに行く自分を勇気づける呪文だよ」
立ち上がってスカートの埃を払う。覚悟を決めて、嫌なことはさっさと済ませよう。
「放課後、皇龍のたまり場に行くぞ。櫻庭さんが話を聞きたいから連れてこいだと」
「それって凍牙の仕事なの?」
「ほかに任せるより確実だと思ったんだろ。俺も用事がなかったから受けただけだ」
「わたしひとりだと来ないと思われているんだね」
「それ以前に、皇龍のたまり場がどこにあるかも知らないだろ」
おっしゃるとおり。
「案内をよろしくお願いします」
「ああ」
購買に行く凍牙と、肩を並べて歩きだす。
身体の横で歩調に合わせて自然と揺れている凍牙の手を、もう一度握りたいと思ったのは内緒だ。
校舎に入ったところで凍牙と別れて、ひとり職員室のドアを開ける。
「失礼します。吉澤先生はいらっしゃいますか」
昼休みの職員室は、昼ご飯を食べる先生で机のほとんどが埋まっている。
1年を担当する教師の机は奥のほうに割り当てられているが、そこに吉澤先生の姿はなかった。
わたしの声に反応して昼食を中断したのは、1年学年主任の横江先生だ。
日に焼けた坊主頭の、テニス部顧問を務める熱血先生である。
席を立って、入口の方へと近づいて来る。
出入り口は邪魔になるので、廊下の端へと移動した。
「高瀬だな」
「そうですが」
「吉澤先生は用事で外されていてな。話は月曜日の放課後にすると伝言を預かった。それと、これを渡しておいてほしいと頼まれた。提出期限は来週の期末テストの数学がある日、だそうだ」
横江先生に渡されたのは、束になった数学の問題集。
ざっとめくってみると1枚ずつページ番号が並び、最後のページには50と書かれていた。
問題数に容赦がない。
それはともかく来週が期末テストって、すっかり忘れていたよ。
「ありがとうございます」
横江先生に何を言っても仕方がないので、素直に頭を下げて職員室を立ち去った。
にしても、吉澤先生め。
いてほしくないときに現れるくせに、腹をくくって会いに行ったら不在とか、どれだけわたしと相性が合わない人なんだ。
そしてなぜ、中学時代のわたしを知っているのか。
あまり話したくないけれど、早めに理由を聞いて納得しておきたい。
情報源にあまりいい予感はしないが、考えたところでどうにもならないので、ひとまずこの件は置いておこう。
やるべきことはほかにもある。
先程危うく当たり散らしそうになってしまった榎本君に謝るため、わたしは教室へと足を進めた。




