7.魔女の本領(下)
空気を支配しろ。
主導権を握れ。
平気な顔を続けろ。
怯えていると思われてはいけない。
相手の有利を崩しにかかれ。
いつもどおりに。
わたしならできる。
金髪の男が襟元に手をかけてきた。
引きちぎるようにして、カッターの前立てが左右に開かれる。弾けたボタンがコンクリートに転がった。
「これからヤられるってのに、ずいぶん余裕なツラしてやがんな」
男があらわになった腹部に触れた。
気持ち悪い。——顔に出しちゃいけない。
「言っとくけど、わたしは泣き寝入りなんかしないから。誘拐、暴力、強姦。あんたがやらかすことは警察からあんたの学校、親も、ありとあらゆるところにぶちまけるよ」
「言ってろ。——おい」
控えていた男に目配せして、金髪は命じる。
近づいてきた男はズボンのポケットからスマートフォンを取り出して、背面のレンズをわたしに向けた。
「誰かに喋った時点で、てめえの強姦写真はネットに流す。てめえはここで泣き寝入りするしかねえんだよ!」
「はっ、あははっ」
腹に力が入ってしまって、殴られた箇所が痛んだ。
皮肉だ。声を上げて笑ったのなんていつ以来だろう。
「……何がおかしい」
ブラジャーと胸のあいだに入り込んだ男の手が止まる。
眉間にしわを寄せて、怪訝な顔で見てきた。
それでいい。わたしを異常だと思え。
お前が手を出そうとしている女は普通じゃないと理解しろ。
「誘拐、暴力、強姦に脅迫が追加。さっきも言った。わたしは泣き寝入りなんてしない。あんたがわたしの強姦写真を誰に見せようと、好きにすればいい。その時点で、お前は女の卑猥な姿を写真に撮って人に見せるのが趣味な変態だって、世間に認識される。あいにくわたしは自分のプライドよりも、あんたを社会的に蹴落とすほうを優先するよ?」
笑え。嘲笑って見下しつづけろ。
両手を拘束する男の手がかすかに震えている。
スマートフォンを向ける男は画面とリアルのわたしを見比べて、不安そうに視線をさまよわせた。
——ちっ。
大きな舌打ちが聞こえた。
金髪の男がいらだちを顔に滲ませながら、ブラジャーの下にくぐらせた手で、胸をつかむ。
気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……——笑え!!
口の端を釣り上げて、目を細める。
「——っ、そんな目で見てくんじゃねえ!!」
男の平手が左の頬を打った。
脳が揺さぶられてガンガンする。
頰の内側が切れて、口の中に血の味が広がった。
——大丈夫。意識はある。頭は動く。
まだ、笑っていられる。
にやり、と。顔の鈍痛を無視して嘲笑う。
息を詰めた金髪の男は明らかに動揺していた。
歯を噛みしめたそいつはうつむき気味になり、わたしの顔を見ようとしなかった。
胸を触れていた手が下に移動し、スカートをまくり上げる。
「……おいこいつ、頭おかしいって」
頭上にいる男が、震える声で金髪に言った。
聞こえているはずの金髪は反応を返さず、臀部に触れてきた。
吐き気がする……耐えろ!
掴まれた手首に、微細な振動が伝わってくる。
天井を仰ぐように正面を向けば、手を振るわせる頭上の男——わたしを拘束するそいつと目があった。
「見ていただけ。自分はなにもしていない。なんて言い訳が通じると思うな」
笑うのをやめて、鋭くその目を睨んで告げる。
「お前も同罪だ」
「——ひぃっ」
拘束するためしゃがんでいた男が尻もちをついてあとずさった。
手は離れた。
自由になった手の平を床につけて体を支え、狙いを定めて右足を思い切り振り上げる。
馬乗りになっていた金髪の股間に、わたしの膝が容赦なく命中した。
「——ぅぐっ!」
股間に手を当てて呻く男の下からはい出て、床を見渡す。
さっき男が散りばめたペンケースの中身から、最も鋭利なもの——シャーペンを掴んだ。
唖然として周りの連中が固まるなか、もだえる男に今度はわたしが馬乗りになった。
何も持たない左手の親指で、男の喉仏の下部を強く圧迫するように押す。残りの指で首を掴み、爪を立てる。
そして右手のシャーペンは握りしめるように持ち直し、男の左目に突き付けた。
痛みが引いて次第に状況を理解したのだろう。
わたしの下にいる男が首を掴むわたしの左手をはがそうとしてきたが、力はあまり入っていない。
「心配しなくても殺しはしないよ。あんたの命なんてくだらないもの背負って生きるなんてことしたくないからね。……でも、わたしはアンタの片目程度なら笑って持っていける」
シャーペンの先と眼球まで1センチもない。
男が少しでも動けば迷わず刺せる位置だ。
「まぶたには骨がないからねぇ。残念だけど、いくら目を閉じようと眼球は守れないよ?」
正真正銘、見下して笑ってやれば、男の額から冷や汗が流れた。
視界の隅で、携帯電話を構えて立ち尽くしていた男がマヤに近づくのが見えた。
「動くな」
わたしの低く唸るような声が、建物に反響する。
「自分の行動のせいで、こいつの片目から光が消える。——わかっていてその子に何かしようとしてるんだろうね?」
「……っ、やめろ。頼む、から!」
わたしの下にいる男の懇願にマヤの肩に腕をかけていた男も、マヤから離れた。
吐き気がひどく、胃が重い。
もう少しだけ、がんばろう。
あと少し、だから。
今弱みを見せたら、全部が台無しになる。
「た、頼むから……止してくれ」
がくがくと、男の顎が震えている。
必死の懇願を、冷やかにあざけり笑ってやった。
「さっき、あんたがわたしの上にいたときに、わたしが『やめて』って言ったら、あんたは行為を中断した? しないよね? わたしも同じだよ」
「……っ、頼むっ、俺が悪かった!」
「悪かったから、なに?」
とぼけるように首をかしげると、男は絶望の色を目に宿した。
しんとした建物に、踏切の音が遠くから聞こえた。
電車の音に混ざって、低く唸るような轟音が耳に届く。
遠ざかる電車に反比例して、重低音はどんどん大きくなる。
——やっと、……か?
開きっぱなしのシャッターから、いくつものバイクのライトが差し込んだ。
「……あ、ああ」
希望の光を見たように、わたしの下にいる男が笑う。
「助けて、助けてくれ!!」
左目に突き付けられた切っ先などお構いなしに男が叫ぶ。
バイク集団の先頭にいた男がヘルメットを取って建物内に入ってくる。
見知った顔に、思わず安堵の息がこぼれた。
「時間切れ。あんたたちの失敗で終わり」
左目からシャーペンを離して男の上から退く。
5歩ほど離れると、我に返った男が飛びかかってきた。
「こんの、アマァ!」
男の振り上げたこぶしはわたしに届く前に、瞬時に割って入った第三者の手中に吸収された。
その人は男のこぶしを握ったまま、長い脚を上げて男の鳩尾を膝で蹴り上げる。
蛙の潰れるような声がして、男は床に崩れ落ちた。
これは痛い。
「ずいぶん状況理解に苦しむものを見た気がしたが……」
気絶した男には目もくれず、バイクで駆けつけたその人——日暮先輩はわたしに言った。
*
肩の力が抜けると同時に疲れがどっと押し寄せてきた。
とりあえず、散らかった荷物から体操着のジャージを探す。
「マヤ!!」
わたしを犯そうとした男よりもはるかに綺麗な金色の髪をした長身の男が、マヤへと駆け寄った。
動揺と心配を隠しきれないその瞳に、ああこの人が三國翔吾かと他人事のように思う。
「……マヤ?」
マヤと目線を合わせるように、三國翔吾が屈む。
口を押さえていた両手をゆっくりと胸元に下ろしたマヤは、ぱくぱくと唇を動かすが、声が出ていない。
「マヤ、もういいよ」
ジャージを拾い上げて埃を払う。
「ありがとう。助かったよ」
もう喋って大丈夫という意味合いを込めて言うと、マヤの目からひっきりなしに涙がこぼれた。
「あ……あぁ、あああああぁぁ——!!」
泣き声が建物内に響き渡る。
三國翔吾はマヤを強く抱きしめた。
ジャージを羽織って、前のファスナーを閉める。
床に落ちている筆記具をペンケースに入れ直し、散らばった教科書やノート、弁当袋をカバンに押し込んだ。
マヤは本当に、よくがんばった。
次に自分がどうなるのか、わたしを使って見せつけられながらも、わたしの言いつけを守り続けた。
彼女が泣いたり、わたしを庇う言動をしていたら、男たちが自分たちの有利を思い直すきっかけになってしまっただろうから、何もしないでいてくれたのは、本当に助かった。
5人の男たちは日暮先輩の指示により建物の一か所に固められていた。
皇龍の人たちに囲まれて、全員顔が真っ青だ。
トートバックに体操服と私服を入れて立ち上がる。
立ちくらみで体がふらついた。
「結衣ちゃん」
心配そうな顔で、野田先輩が歩み寄る。
この人も来ていたのか。
「踏切の音、していましたけど」
「……え?」
「ここって駅から近いんですか?」
「まあ、500メートルほど行ったら駅はあるけど」
「そうですか」
手に持った荷物を肩にかけて出口に向かう。
「ちょっ、結衣ちゃん!」
慌てた野田先輩がわたしに手を伸ばした。
たったそれだけのことに背筋がぞっとして、頭の血が下がっていく。
とっさに距離を取って向き合った。
「……なんでしょうか」
わたしの異常に気づいた野田先輩は近づくのをやめた。
「疲れてるんです。早く帰って休みたいんです。詳細の報告は後日にしてください」
「それはいいんだけど、送るよ? タクシー呼ぶし」
「いりません。密室に知らない人とふたりきりなんて、今はなりたくないです」
「だったら、俺も一緒に乗って——」
「そんなの人口密度が上がるだけで、何の解決にもならないでしょう」
——駄目だ。
口は動くのに、思考が正常じゃない。
わたしの言った言葉に、周りの皇龍の人たちが殺気立つのがわかった。気を使っているのにその態度はなんだ、とでも言いたいのだろう。
首の後ろに電気が流れたようにビリビリと痺れる。
いらいらして、頭が痛い。
「……すみません。気が立ってるんです。なりふり構わず、話す人全員に喧嘩を売ってしまいそうなんです。お願いします。まっすぐ家に向かいますから、ひとりで帰してください」
皇龍というチームが街でどんなに憧れの対象となっていても、わたしにとっては数回話しただけの顔見知り程度の人たちだ。
マヤのように全面的に信頼して身を寄せるなんて、とてもできそうにない。
心配してくれた野田先輩には悪いと思うが、総長である日暮先輩の許可を得て、わたしはひとりで駅に向かった。
太陽は傾いて、山に沈みかかっている。
スカートにジャージという奇妙な服装のうえに頬をはらしているわたしを、道行く人が注目しないはずがない。
駅が近づくにつれ、好奇の視線は増えていく。
私服に着替える気力もなく、駅の改札をくぐった。
男の目に突き付けたシャーペンはホームのゴミ箱に捨てた。
女性専用車に乗り込み、混み合う車内で好奇の目に耐える。
3駅過ぎて、最寄りの駅に着いた。
電車を降りて改札を抜ける。
とりあえずマンションには帰らずバイト先に向かった。
「もう明日から来なくていいから」
店の裏口にさしかかったところで、ゴミ出しをしていた店長とはち合わせた。
薄暗い路地で、わたしを一瞥した店長は淡々と言った。
覚悟もしていたし予想もできていたけど、どうしようもないやるせなさが込み上げてくる。
言い訳をしても、わたしが無断で遅刻した事実は消えない。
時給と立地の良さから、店が求人を出せばすぐに応募者が殺到するのは知っている。業務に支障をきたす人間を雇い続ける理由は、この店にないのだ。
「……お世話になりました」
頭を下げたわたしが言い終わる前に、店長は店の中へと入っていった。
重い足を動かしてマンションへ進む。
視界がぼやけて、周囲の視線はもはや気にならなくなった。
いつ繁華街を抜けて学校を通り過ぎたのか、はっきりと覚えていない。気がつけばマンションへとつづく坂道にいた。
夕焼け空が藍色に染まる時間。
最後まで坂を登り終えて見えた玄関前に人が立っているのを見て、心臓が跳ねた。
背格好からして男だ。それだけで背中から汗が噴き出す。
自分とは無関係なはずだと言い聞かせつつ、警戒しながらも男のいる玄関へと進む。
そして。——そこにいたのが先回りした野田先輩だとわかったとき、思わず頭を抱えた。
……いや、うん。心配してくれているんだろうけど、さあ……。過剰にわたしが反応してしまっているだけ、なのだけどね。
緊張したところから気の抜けた落差に、足の力が抜けてしゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
そんな弱々しい声を出されたら、責めることもできない。
「すみません。なんでもないです」
気を取り直して立ち上がった。
「遅かったみたいだけど」
「ゆっくり歩いていましたので。ご心配をおかけしました」
「いいよ。じゃ、総長には報告するから」
ひとりで帰ると駄々をこねたわたしが無事帰宅したかを確認するなんて、どんだけお人好しなんだ。
スマートフォンをいじる野田先輩を見て、思い出した。
「ごめんなさい。携帯電話、壊しました」
「ああ、気にしなくていいよ。結衣ちゃんが無事なら目的が達成できたようなものだし」
「弁償は?」
「古いやつだったし、買い替えが決まってたから気にしないで」
嘘か本当かの判断は付けられないが、そう言ってくれるなら助かる。
「……俺が嫌なら、水口を呼ぼうか?」
「なんでそうなるんですか。いりませんよ。必要ないですし、部外者巻き込もうとしないでください」
「でも」
「いいんです。ここがわたしの家ですし、あとはもう寝るだけです。今日のことあいつに伝えたら、本気で怒りますからね」
野田先輩と話した回数なんて、両手の指で数えきれるほどだけど、それだけでも十分にわかってしまった。
この人は優しすぎる。
他人を放っておけない、人生で常に貧乏くじを引いてしまう苦労人なのだろう。
「そこまでしていただかなくていいんです。そんなことより、今日の一件、皇龍ではどんな見方をしているんですか?」
頭を整理してからと思ったけど、目の前にこの人がいるなら今でもいい。
わたしも少しは落ち着いた。
早いうちに知らせておこう。
「西の連中の計画的な行動、かな。繁華街で騒ぎを起こして、一時的にマヤちゃんの護りが手薄になったところを狙われたわけだし」
「……わたしの考えを、聞いてもらえますか」
これは難しい話でも、ましてや計画的な犯行でもない。
「繁華街の騒ぎは、ただタイミングが重なっただけです。今回わたしとマヤが拉致されたことと、皇龍はおそらく無関係です」
突き詰めた動機に皇龍が出てくる可能性はあっても、やつらの目的は皇龍というチームにはなかったはずだ。
「なに、どういうこと?」
「あの5人はマヤに恋人がいることを知らなかった。マヤは皇龍幹部の恋人としてではなく、津月マヤとして狙われたんです」
わたしが言ったことへの野田先輩の理解は早かった。
どこかに電話をかけて、わたしとマヤをさらった男たちが、なぜわたしたちを狙ったのかを厳重に問いただすよう命じた。
「結衣ちゃんとマヤちゃんって、学校以外で一緒にいたことってあったりするの?」
「いいえ。クラス内で行動を共にしているだけです」
「わかった」
野田先輩の目つきが変わる。あとは任せても問題ないはずだ。
わたしは、わたしのすべきことをやる。
「失礼します」
軽く頭を下げて、カードキーを取りだした。
玄関の自動ドアを開いて中に入る。
「おやすみ。ゆっくり休んでね」
「はい。おやすみなさい」
わたしがエレベーターに乗り込んで扉が閉まるまで、野田先輩は見届けてくれた。
自分の部屋に着いてドアを開けると、室内は熱気がこもっていた。
電気をつけて、カーテンを閉める。
どんなに暑くても、窓を開ける気になれなかった。気休めに換気扇を回して空気を循環させる。
脱衣所でジャージを脱いだ。
ボタンの取れたカッターシャツをゴミ箱に押し込み、服を全部脱ぎ捨ててシャワーを浴びた。
あの男に触れられた場所は真っ先に石鹸をつけたタオルでこすった。
皮膚が赤くなっても、止めることができなかった。
風呂場の鏡に映った、頬をはらした自分の顔に失笑する。
何度も体を洗って、脱衣所で部屋着に着替えた。
髪をドライヤーで乾かすことなく、朝から広げたままになっている折りたたみベッドへと急ぐ。
——これ以上我慢が出来ない。
ベッドの上。
枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。
辛かった。怖かった。嫌だった。
知らない男に体を好きに触られたことも。
平気な顔をして人を傷つけようとした自分自身も——。
シャーペンを握りしめていた右手の感覚が消えない。
助かるためとはいえあんな状態でも笑っていられた自分が、今になって嫌になる。
マヤが羨ましい。頼れる人がいるマヤが。誰かに支えられているマヤが——。
意地を張って人の手を拒んでいるのはわたしなのに……。
馬鹿みたいな矛盾だ。
羨ましいなんて感情を抱く自分を、どうしようもなく嫌悪する。
考えること、思うこと、感じること。
自分の置かれた状況。
取り巻く環境のすべてに嫌気がさして、ただただひとりで泣き続けた。
*
我ながら便利な頭をしている。
ひととおり泣いて落ちついたときにはもう、脳みそは現実を直視してこれからどうするかを考え始めていた。
時刻は夜の10時40分をすぎたところ。
抱きしめていた枕から、涙で濡れたカバーを外して洗濯機に入れる。
はれた頬には災害時の避難袋に入っていた湿布を貼り付けた。
濡らしたタオルに保冷剤を挟んで、泣きはらした目を冷やす。
ベッドの上、壁にもたれた状態で膝を立てて座った。
頭の中を整理しよう。
拉致した5人に、心当たりはない。
やつらはマヤが皇龍幹部、三國翔吾の恋人だとは知らなかった。
わたしとマヤが無差別に拉致の対象となったとは、考えにくい。
——聞いたとおり、生意気でえらそうな女だ。
あのとき男はそう言った。
では男は誰に聞いたというのか。
わたしを生意気でえらそうとみなしている人間は——。
蒸し暑い室内。冷めた頭でこれからすることを淡々と
組み立てていく。
——泣き寝入りなんて、絶対しない。
このままじゃ、終われない。




