11.異質な子(下)
不審者から始まり「名無しの権兵衛」と名乗った彼の本名は、野田 明良というらしい。
この高校の2年生で、皇龍の幹部だと言われた。
「それで、野田先輩とお呼びしていいんでしょうか」
呼ぶ機会があればの話だが、一応の確認はしておく。
「ぜひ、それでお願いします」
階段を駆け下りて一気にしゃべったからか、野田先輩は膝に手を当ててぐったりしていた。
「水口君さあ。この子ホントになんなの。人のペース乱すのウマすぎじゃね?」
「誤解ですよ。こいつはただ人のペースに合わせるのが、壊滅的に苦手なだけです」
「あー、すんげーわかるわ、それ。お前そんなのとよく一緒にいられるな」
「コツがあるんですよ」
……人のことを目の前でべらべらと。
「初めて聞いたよ」
コツってなんだ。
「お前、過度に気を使う奴は重く感じて避けようとするだろ」
「それは当たってるけど」
「つまりそういうことだ」
端的すぎる。
そのコツは凍牙が人との距離を取るのがうまいから言えることだよ。
気を遣わずに、だけども相手にとって触れられたくない部分を回避しながらの付き合いなんて、そうそうできるものではない。
「ま、なにはともあれ結衣ちゃんに何かあったときは、水口が出動の方針で——」
「俺はこいつの保護者じゃないですよ」
「何かある前提の話ってなんですか。直ちに何もないように努める方針に修正してください」
立ち直った野田先輩にすかさずふたりで異論を唱える。というよりも、この人とはこれ以上関わりたくないんだから、これからのことなんて考えないでよ。
「——それで、水口と結衣ちゃんがそろった時点で俺は自分の精神保護のため退却させてもらうわ」
野田先輩はこっちの言葉を無視して言い切ると、そのままさっさと帰って行った。
……逃げた、と言ったほうが正しいか。
嵐が去ったように廊下が静かになった。
凍牙と2人きりになって、自然に力が抜けていく。
今日はたくさんしゃべったから疲れた。
家に帰ってもうひと頑張りしないといけないのが、すごく気が重い。
その前に、凍牙に聞いておかなくてはいけないことがある。
「明日の弁当、リクエストはある?」
「から揚げ」
がっつり肉できたな。
「了解」
マニアックなおかずを言おうものなら却下したが、から揚げ弁当なら大丈夫だろう。
明日は早起きして、駅前の24時間営業のスーパーに買いに行こう。
頼みを聞いてくれたぶん、少しぐらい豪華なものにしようと決めた。
*
高校に在籍する大半の生徒は、校門を出ると駅のほうへ曲がって下校する。
凍牙ともそこで別れ、わたしは反対の住宅街へと歩いた。
学校から徒歩約15分の場所にある5階建てマンションが、現在住んでいるわたしの家である。
部屋は4階。間取りは1K。
もっと大きなところじゃなくていいのかと、一緒に物件を探した母に言われたが、掃除が大変だからと断った。
むしろもっと小さくて安いアパートでいいと訴えもしたが、セキュリティーがちゃんとしていないところでのひとり暮らしは認めないと脅された。
そんなやり取りもあって、最終的に落ち着いたのがこのマンションだった。
父も母も、わたしに優しい。
兄妹の仲は一部よろしくないところもあるが、取り立てて問題にならない程度だ。
家族について一番の問題は、わたしの内面にあるのだろう。
勝手にひとりで気まずくなって、家族を離れた。
たったひとつの質問すらできないまま、ずるずると年月ばかりが過ぎていく。
——心の矛盾は溜めたままだと腐っていく。
原田さんに言ったことは本当だ。
不安なのだと一言でも言えたら、何かが変わったのかもしれない。
上辺だけ取り繕い、仲間を拠り所にして逃げ続けたわたしは、家族と向き合うタイミングを完全に見失った。
それでも両親は、何も言わずに味方でいてくれる。
父も母も、おそらくわたしの口が開くのを待っているのだろう。
だけどわたしは、大事なことを言い出せないまま、引きずり続けるしかできない。
父と母、一番上の兄はわたしのことを理解してくれている。
彼らはわたしの電話嫌いを知っているから、ひとり暮らしをするといっても、無理に携帯電話を押しつけようとしなかった。
持ちたくなったらいつでも言ってねと。高校に入学する前に、母はそれだけ言ってくれた。
大通りからそれて少し坂道を登ると、わたしの暮らすマンションが見えてきた。
約束をしていた人物は、入口の横で待っていた。
ジーパンにTシャツというラフな格好でも、細身に整った顔立ちのおかげでやたらと目立つ。
入口手前の柱に腕を組んでもたれかかる男性の足元には、大きな紙袋が置いてあった。
この男の名前を、高瀬 涼という。
わたしと13歳年の離れた、高瀬家の長男だ。
「すみません。遅くなりました」
小走りで駆け寄ると、涼くんはわたしに気づいて顔をほころばせた。
彼の色素の薄い髪と瞳は、母からの遺伝だ。
髪も瞳も真っ黒のわたしとは、似ても似つかない。
「俺が早く着きすぎただけだ。そんなに待ってないから大丈夫だよ」
そう言って、わたしの頭に大きな手を乗せた。
頭を撫でるのは、涼くんにとって弟妹にする挨拶だ。
幼少のころから会うと必ずやってくる。今やわたし以外の弟妹は嫌がって避けられているらしいが。
カバンからカードキーを取り出して玄関横の機械にスライドさせる。自動ドアが開いた。
紙袋を持ち上げた涼くんがわたしに続いて中に入る。
「持ちましょうか?」
「いや、重いものだから俺が持つよ」
苦笑する涼くんが手に持つ袋をのぞくと、大量の缶詰が入っていた。これはわたしじゃ無理だ。
「……お願いします」
「そうそう、結衣は甘えておけばいいんだよ」
またこうやって、涼くんはいつもわたしを甘やかす。
こみ上げた気恥ずかしさを紛らわそうと、一足先にエレベーターのボタンを押しに行った。
電話が苦手なわたしと家族の通信手段は、手紙が主となっている。
涼くんから、様子を見に来るので空いている日を教えるようにというハガキが来たのは、2週間ほど前のことだった。それもご丁寧に、往復はがきで。
返信用はがきには涼くんの住むマンションの住所がすでに記入され、後はハガキを切り取って日にちを書くだけ。
どれだけ用意周到なのかとあの時は感心したものだ。
5月のバイトが休みの日を書いてポストに入れると、3日後「10日に行く」とだけ記されたハガキが郵便受けに入っていた。
そして今日が、5月10日の木曜日。
涼くんは宣言通り、わたしの様子を見に来たのだった。
4階の部屋に案内して、電気をつけてカーテンを閉める。
折りたたみのベッドをたたんで壁につけ、ローテーブルを部屋の真ん中に置いた。
「引越しのとき以来だが、何も変わってないってどうなんだ」
「だいぶ変わりましたよ。教科書とか、学校に必要な物が増えました」
部屋の隅に重ねて置かれた教科書は、一か月半前にはなかったものだ。
「本棚くらい買ってやるぞ」
「いりませんよ。そんなに場所にも困ってませんし」
涼くんを部屋に残し、キッチンに置いてくれた紙袋を開けた。
サバ、コーン、シーチキン、果物——。
いろんな缶詰をかき分けると、下にはお米が入っていた。コシヒカリ、10キログラム。これは相当重かっただろう。
「母さんからだ」
部屋のほうから声が届く。
「ありがとうございますと伝えてください。とても助かります」
「心配してたぞ。仕送りの口座から家賃以外引き落とされてないって」
「バイトが楽しくって、わたしの収入だけで他はなんとかなりそうなんです」
給料は食費と光熱費、消耗品でほとんど使い切ってしまうのが実情だけど、今のところやりくりできている。
服や嗜好品を買っている余裕はあまりない。
学費と家賃のほかは頼らないと決めたのは、つまらないわたしの意地だ。
「つってもなあ。高校生の収入だろ?」
「涼くんにだけは言われたくありません」
すかさず言い返せば、隣の部屋にいる涼くんが押し黙った。
高瀬家にはわたしと涼くんの他、二人の弟妹がいる。
わたしより2歳年上の次男と、1歳年下の次女だ。
4人兄妹の一番上、高瀬家の長男であるこの人と、わたしは実家で一緒に暮らした記憶がない。
その昔、中学生で夜遊びを覚えた涼くんは、高校入学を機に父から家を追い出されたらしい。
当時のわたしは3歳で、そのころのことはまったく覚えていない。涼くんいわく、下の弟妹が真似をするには早すぎるということで、夜遊びに飽きるまでは実家に住むなと父に言われたそうだ。
しかも涼くんの場合、わたしと違い実家からは家賃など一切の援助はなかった。
父が涼くんに払ったのは、引越しの費用と3年間の学費だけ。
それでも涼くんは3年間高校に通って、大学に進学した。
いったいどんな仕事をしてそれだけ稼いでいたのかは謎だ。
美人のパトロンでもついていたのかと疑わずにはいられない。
追い出されたといっても、涼くんは家族と縁を切ったわけではなかった。
ときどき実家に帰ってきてはわたしたちと遊んでくれたし、父とも一緒に楽しく酒を飲んでいた。
両親がわたしのひとり暮らしを許してくれたのは、涼くんの実績があってのことだろうと推測している。
涼くんは現在、実家近くのマンションにひとりで暮らしている。
実家には帰らないのかと以前聞いたら、「夜遊びが楽しいんだ」と笑って言われた。
これは、一生帰ってこないかもしれない。
「働き方にコツでもあるんですか。とてもじゃないですがバイトの給料で家賃までは払えませんよ」
「こんだけしっかりしたマンションだと当然だろうな。俺の高校時代の暮らし方は、結衣が卒業してから教えてやる。真似でもされると俺が親父に怒られる」
「真似のできることですか?」
「結衣ならやればできるかもな。100パーセント実家に連れ戻されるが」
「…………」
「言っておくが犯罪まがいなことはしてないからな」
知りたいけど、今は深く追求しないでおこう。
「夕飯はどうしますか?」
「手料理頼む。母さんに報告しなきゃなんねえんだ」
……プレッシャーをかけてきたな。
「わかりました。ちょっと待っててください」
冷蔵庫のお茶をコップに入れて持って行くと、涼くんはすでに寝転んでくつろぎモードだった。
懐かしいのか、わたしの教科書をめくっている。
「おう。ゆっくりでいいから食べられるものを要求する」
「……チャーハンにしますので失敗しません」
相手が涼くんなので、いつも食べている手軽なもので大丈夫だろう。
チャーハンに野菜スープ。あとは冷蔵庫の冷ややっこで十分だ。
変に手の込んだものを作ると、失敗したときに母になんて報告されるかが怖い。
ひとり暮らし歴、イコールわたしの料理歴なので、レパートリーは少ない。
最初のころは手順がわからず、もやし炒めで最初にもやしをフライパンに入れてしまっていた。
出来たもやし炒めはキャベツが半生だし、歯ごたえのないもやしははっきり言ってまずかった。
自力での限界を感じて本屋で料理の基礎を立ち読みするようになって以来、少しずつ作れる品数も増えていっている。
「ああ、あとこれ。忘れないうちに置いておくぞ」
「なんですか?」
「中学の卒業アルバム。実家に届いたらしいから持ってきた」
「……そうですか。ありがとうございます」
いらないとは、さすがに言いづらかった。
わたしの通っていた中学校では、卒業アルバムに卒業式の写真を載せる。
そのため式の一ヶ月後くらいに、卒業アルバムは各家庭へと郵送されるようになっていた。
とはいえわたしは卒業式に出席していない。
あえてその日を、このマンションへの引越しの日に選んだから。
両親も涼くんも、卒業式くらいちゃんと出ろとは言わなかった。
卒業証書は式のあった夜に、中学校へわたしと母で取りに行った。
「いらなかったら捨ててしまえ。母さんが持て余してたから、一応持ってきただけだ」
涼くんは中学最後にわたしに起こったことを知っている。
だから、中学校のわたしの思い出がつらいものだと思っている。
「処分はしませんよ。しばらくは見る気にもなれないでしょうけど」
出来上がったチャーハンを盛り付けて運ぶ。
大皿がひとつしかないのでそっちは涼くんに。
わたしのぶんはどんぶりに入れた。
あぐらをかいた涼くんが目を細める。
「本当に、楽しかったんです。つらかったのは、最後だけです」
言うだけ言ってキッチンに逃げる。
野菜スープをスープ皿とお椀に盛った。
冷ややっこの小鉢は奇跡的に同じものが二つあった。
不安だったが、スプーンとお箸もそれぞれ二つずつ揃っていた。
何度か往復して料理をローテーブルまで運んでいく。
「……来客用の食器くらいは用意しようか」
「家族以外はおそらくここに来ないので、今のところは必要ないかと思います」
父や母が訪ねてくると外食になるだろうし、食器の出番がない。
「現状でそれを言うか。明らかに不自然なことになってるぞ」
「食べれないことはありません」
どんぶりに盛られたチャーハンと、お椀のスープはもちろんわたしの取り分だ。
客人にこれで食べろとはさすがに言わない。
ふたりで手を合わせて、晩御飯を食べ始めた。
晩御飯の感想は、「まあまあ」という可もなく不可もないものだった。
食べられるものを食べているのだとわかってもらえただけ、よしとしよう。
冷ややっこのために出していた醤油を涼くんがチャーハンにかけていたのは、この際見なかったことにする。
会社勤めの涼くんは明日も仕事なので、食後すぐに部屋を出た。
帰りにお小遣いと称して万札を一枚渡されたから、ありがたく受け取った。
これが親なら意味もなく断るのだろうから、兄というのは不思議なものだ。
ひとりになった部屋で食器を片づけて、ローテーブルを壁に立てかけた。
床に置かれたままの卒業アルバムは、中を見ずにクローゼットの奥にしまう。
折りたたみのベッドを広げて仰向けに倒れこんだ。そういえば、制服のままだった。
シャワーを浴びて、それから歯も磨かないと……。
頭は働くのに、体がだれて起き上がれない。
——中学時代が楽しかったのは、本当だ。
説得力がなくても、真実だから。
楽しくて楽しくて、大切なことを見落としてしまっていた。
その反動が、中学3年の最後に一気に来てしまっただけだ。
ひとり暮らしも、仲間のいない高校も、全部わたしが選んだもの。
ひとりになる覚悟は、出来ていたはずだ。
だから——。
思いもよらない再会に、甘えるのはおかしい。
凍牙を、仲間の代わりになんて思っちゃいけない。
友達でいいと言われて、舞い上がってはだめだ。
こんな状況を作ったのはわたしなのに——。
寂しいなんて、思うこと自体が間違いだろう。
*
空気は時に、毒となる。
幼少のころから、父と母、そして家族に口では言い表せない違和感を感じていた。
いつからなんて覚えていない。
息子たちと娘では、接し方や育て方が違って当然かもしれない。
でも、そういうものじゃなくて……。
漠然とした不安は、いつもわたしに付きまとっていた。
すべてを理解したのは、小学校3年のとき。
偶然両親の話を聞いてしまった。
「……結衣は、敏い子ね」
「ああ。血は争えんようだ。……あいつに、そっくりだな……」
前後の会話は覚えていない。
でも両親に感じていた違和感を受け止めるには、これだけ聞こえれば十分だった。
——家族のなかで、違っていたのはわたしだった。
本当はうすうすわかっていたのかもしれない。
ただ見て見ないふりをしていただけ。
それを知ってしまったからといって、日常が変化することもなく。
実家を出るまで、以前と同じおかしな空気の中を、わたしは何年も暮らし続けた。
——わたしは一体、誰の子供なんですか。
ずっとずっと。
たったひとつの問いかけを、わたしは未だに両親に言えないでいる。




