サプライズ
家の人たちと接するとストレスしか感じないから、僕は普段から自分の部屋にこもることが多い。
父さんと母さんからは、昔からチクチクといびられた。小さな子供をいびるなんて、彼らは相当僕のことが嫌いだったらしい。
家族揃って食事をするなんて苦行の代表格だ。
朝食は親が忙しくて時間が無いからまだマシ。でも、夕飯は鬱になる。
だから、小学校の頃は、夕飯の時間の前になったら家を抜け出して、暗くなった寒い公園でよく時間を潰した。
葵と初めて出会ったのはその頃だ。彼女もまた悩みを抱えていて、しばらくすると僕らは夜の公園で二人っきりで会うようになった。
葵は自分の家族と居るのを負担に感じていて、僕らの家族が少し離れたおばあちゃんの家へ行く時も一緒についていきたいと言い出すくらいだった。
僕から親にお願いしただけなら実現しなかったかもしれないけど、晴翔も葵に懐いていたから、僕の親は葵の親へ話をしてくれた。そんなわけで、葵をよく僕のおばあちゃんの家へ連れていったりもした。
僕も葵と同じで自分の家族と居るのは負担だったから、僕らは互いに寄り添ってなんとか気持ちを支え合っていた。
その頃はまだ晴翔との関係もそれほど悪くなかったから、団地で遊ぶ時も、おばあちゃんちへ行く時も、葵と遊ぶ時は晴翔を連れて行くことも多かった。
今になって考えればそれが致命的なミスだったのだ。あの二人のキスシーンを見せつけられた時、葵を晴翔に会わせなければよかったと僕は心底後悔した。
けど……もし、なにかの間違いであのまま僕と葵が付き合っていたとして、付き合った後に葵を晴翔に紹介することになった場面を想像するとゾッとする。
きっと、葵は頬を赤らめながら、晴翔へ熱い視線を向けたに違いないから。
付き合った後に──最悪、結婚などしてしまった後に寝取られるなんてことになっていたら……。
想像するだけで死ねる。
話は逸れたが、葵と傷を舐め合ううちに、僕は家族に戻れるようになっていった。僕が辛うじて家族と繋がりを保てるのは、葵のおかげだ。
だが、それもまた限界が近づいている。今日の食卓なんて特にひどかった。
僕のことが嫌いなくせに家族一緒の食事を強制するなんて、どういう理想を持っているのか理解に苦しむ。
そろそろ「部屋で摂る」と言ってやるべきだろうか。完全に引きこもってやったらこいつら一体どうするのだろう?
……わかりきってる。「やっぱりな」と思われるだけだ。
次はクズだなんだと言われ始めることになるだろう。そんなことをしても、奴らに与える心理的ダメージは何ら重くはない。完全に想定内の出来事だ。僕がこの状況から解放されるには、自分で稼げるようになって、この家を出て行くしかないのだ。
肋骨はまだ完治していないが、動ける程度には痛みは引いている。
安静にしつつ学校へは通っていい、という医者の判断で、僕は今日、登校することになっていた。
僕が住んでいるのは、首都郊外の街にある市営住宅の高層マンション群「空のまち」。
空、花、樹、海、の四種類の団地が密集している高層マンション群だ。鉄筋コンクリートで作られたこのマンションは特になんの変哲もないマンションで、特徴は二〇階を超えるということだけだ。
ただし、都心のほうは、郊外とはまるで違う。
首都名称は、人型アンドロイドの人権が認められた時に「シンクレア東京」へと改名された。どうやら、人型アンドロイドの開発者がシンクレアさんという名前らしい。
三百階を越える超高層ビルが立ち並び、五〇階の高さでビルの合間を縫うようにびっちりと道路が走る。それによって下層階は光を遮られて常夜のようになり、ネオンが光るスラム街と化している。
権力者やお金持ちが住むエリアは五〇階以上の高層階。下層と上層を繋ぐエレベーターは認証がないと往来ができないが、そもそも下層と上層を通しで行き交うエレベーターなどほとんど存在しないため両者の隔絶は決定的で、貧富の差は激しさを増している。
空中を走るエアロトレインが行き交い、しかしその駅は上層に設置されているため下層の住人
が利用することはない。
ワープシステムが隆盛を極めてからは、空中都市や空中ショッピングモール、海底都市などが建設され、土地の有効利用も促進されている。が、投資費用の回収のためかそれらの施設利用料や住居費は割高だ。
なんにせよ、僕はそんなところとは無縁の、ローカルで昔ながらの街並みを、歩いて学校へ向かおうとしているところ。
マンションのエントランスから出て団地の敷地内を歩いていると、後ろから女の子の声がした。
「よっ」
ずっと、幸せの象徴として彼女の声を聞いてきた。だから、声を聞いただけで僕は瞬間的にそれが誰だかわかる。
僕の肩をポンと叩いてニコッとする彼女は、セミロングでダークブラウンの髪。
一見すると清純そうに見える正統派美少女なのに、彼女の微笑みはどこか悪そうな印象があって、口を開けば大人しさや清純さを感じさせないSっ気漂う女の子。
声をかけてきたのは、葵だ。
葵は僕と同じ「空のまち」の六号棟に住んでいるから、登校の時には顔を見かけることもある。
でも、今みたいに肩を叩いて声をかけてきたりすることは、ここ最近──言わば中学生になって以降はなかった。
だから、こんな事態にどう対応するかなんてまるで事前想定していなくて、どうしようもなく鼓動が高まってしまう。
「……どうしたの」
「どうしたって、普通に登校だよ、少年。そういや大怪我したって聞いたけど。大丈夫だった?」
「まあ……まだ治ってはないけどね」
……晴翔と、どこまでいったかを尋ねたい。
もう、したのか、と。
もしまだなら、まだ間に合う──とか思っていたのだろうか。
そんなわけないのに……
葵が僕のことを「少年」だなんて言うのは、きっと僕が幼く、ゆえに恋愛対象外であることを暗に示しているのだ。
心に希望を秘めることすら許されない高嶺の花。昔、少しばかり仲が良かったからといって調子に乗るなと言われたかのようだった。
何を話していいか全くわからないよ。
神様、葵が先に何か話してくれるように、お願いします……。
そんな僕の祈りが届いたのか、葵は、別に僕が望んでもいない話をし始めた。
「時にゆうちゃん、何やら女の子と相合傘してたんだって?」
誰が見ていたのか知らないが、この感じでは、僕が入院している間にクラスで噂になってしまったのかもしれない。
そして葵の耳に入った。葵にだけは、このことを知られたくなかったのに……。
僕は、何を言っていいのか分からず黙っていた。
「おめでと。まあ、幸せにやってよ」
「……ありがと」
「葵をものにする」という観点で見た場合には絶望的とも言える発言を、本人の口から直接聞かされた。
心のどこかに居座る未練が、いつまでも僕の心をヤスリのように削っている。
「あたしもね。もう知ってると思うけど、兄貴のほうには一応きちんと言っとかないといけないと思ってさ」
「…………」
「あたし、晴翔と付き合うことにしたんだ」
事実をありのまま受け入れるのが、耐え難いほどに苦しい。
僕は、葵の顔を見ることができなかった。
でも、葵は、僕が彼女の顔を見ようが見まいが、別にどちらでも良かったのかもしれない。
「ま、よろしくね」
颯爽と歩いて行く葵の後ろ姿を、僕は、ただその場に立ち尽くして眺めていた。
◾️ ◾️ ◾️
晴翔と葵がラブラブしているところを想像しながら歩いたせいで何度か電柱に頭をぶつけたし、どうやって学校に辿り着いたのかすらまるで記憶がない。
気が付けばいつの間にか自分の席に座っていたし、始業のチャイムが鳴ったのにも気づいていなかった。
僕の席は最後列で、窓際だ。
葵は、僕の席より一つ前の列の、二つ右。その気はなくとも、目が勝手に葵のことを追い続けてしまう。
今までずっと、葵のそばに居たいと願い続けてきた。
同じクラスになって、ずっと葵のことを見ていられる。なんて幸運なんだろう、と幸せすら感じていた。
今、それが苦痛で堪らない。
一緒に居たくない。視界に入れたくない。葵を見るたびに、晴翔のことも思い出すんだ。
このままじゃ、気が狂っちゃいそうだよ……
授業の内容なんて、何一つ頭に入りそうになかった。
朝イチから胃が痛くて既に吐きそうだ。こんな調子じゃ、お昼ご飯なんて喉を通るのか?
今日は早退させてもらおうかな……と、頬杖をついて窓の外へと顔を向けた。
ガラガラと、教室の扉を開ける音が耳に入ってくる。
担任が教室に入ってきたのだろう。扉を閉める音も鳴った。
好きな人が自分と同じ学校や職場にいる人は、身近に愛する人がいて天国気分なんだろうなぁ──なんて今までフワフワ考えてたけど、その人との関係が破綻した途端、天国はこんなふうに地獄の最下層へと早変わりするんだ。
地獄って、案外身近にあるんだな。幸せが大きい分、反転したとき不幸も深くなる。
そりゃそうか。「1」にマイナスを付けても「マイナス1」だけど、「10」にマイナスを付けたら「マイナス10」だもんな。もっとも神に近いと言われた全天使の長・ルシファーが堕天したら魔王サタンになったのと同じか。
すなわち、地獄を味わいたくなければ天国を味わわなければいいという結論に。
うん。そういうリスクを考えると、好きな人なんて、同じコミュニティ内で作らないほうがいいのかな……でも、別に意図的に同じコミュニティで作った訳じゃないんだけど。
中年男性教師・佐久間の声が聞こえる。
「はい、静かに。朝のホームルームを始めるぞー。今日は、まず最初に転校生を紹介する。さあ、自分で挨拶して」
ウダウダ考えながら、窓枠で四角に切り取られた水色の空をボーッと眺めていると、なんかリンのことを思い出した。
リンの瞳の色は、この空と似ているかな。
紺碧……いや、まだもう少し明るいか。
天色? かな?
スマホで表示した色見本を眺めながら比較検討していると、元気な女の子の声が発せられた。
「初めましてっ! 私、リン・ラミレスっていいます。よろしくお願いしまぁすっ!!」
僕は、弾かれたように前を向いた。
紛うことなきリンの姿がそこに。
それも、きっちりうちの高校の制服──チェックの短いスカートに、紺のブレザーを着込んで佐久間の隣に立っていた。
なっ……
なんじゃそりゃぁああああああっ!?
僕は、朗らかな笑顔を向けてくるリンを見ながら、呆気に取られて心の中でこんなふうに叫びつつ。
うん。やっぱ天色かな、と思った。