これで最後(夕真視点)/あんたの負けだ(リン視点)
甘味処「ソコラータ」を出たところで、リンはトイレに行きたいと言った。アルティメット・パルクールを終えた瞬間からスポドリをガブ飲みしていたから、もよおしちゃったのかもしれない。
3Dインターフェイスでフロアガイドを確認するまでもなく、天井付近に設置されている案内板によってトイレがすぐそこにあるのは簡単にわかったが、リンはすぐにはトイレに入らず、何やら葵をチラチラ窺いながら躊躇っている様子だった。
……さっきの葵の暴挙に、リンは気づいていたのだろうか?
いや、それはないと思う。気づいていたなら、さすがにあれはスルーしないだろう。
気づいてはないが、葵のそばに僕を置いてこの場を離れることを異常に警戒している感じだ。
リンの様子を見て僕がそれにピンと来たのは、僕も同じ心境だったからだ。
葵の責めはどんどんエスカレートする。このままじゃ、絶対にリンに見つかっちゃう。もう、葵と二人っきりになるのが怖い。
いや、よく考えれば二人っきりではないのだ。
晴翔め! いったい何をやってる!?
この能無しめ! お前の彼女は、僕にとんでもないことをしてるんだぞ!
「晴翔。お願い」
リンがトイレへ入っていくと同時に、葵は晴翔へポツリと言った。
なんだ? 何をお願いしたんだろう。
でも、それ以外、何も言ってない気が……
それを受けた晴翔は、しばし葵と見つめ合っていたけど、やがて含みのある笑顔を作った。
「ああ」
小さく頷いた晴翔が言ったのはそれだけだった。
しかし二人は謎の合図で通じ合ったようで、二人ともがスッキリした顔をしている。
葵は、僕へと向き直った。
「ゆうちゃん。外にある観覧車に乗ろうよ」
「え!? あの……でも、リンは?」
「これで最後。だから、あたしのお願いを聞いてほしいんだ」
優しく、柔らかく、好意に溢れた魅力的な笑顔は、しかしどうやっても崩せそうにない意志を秘めていた。
「ねっ! さあ、こっち!」
「あっ、葵────」
葵は僕の手を引き、どんどん進んでいく。
その様子は心の底から楽しそうで、嬉しそうで────。
僕に真正面からアプローチするリンと、被って見えた。
◾️ ◾️ ◾️
ソコラータにいる途中あたりから、おしっこ行きたいなぁ、と思っていた。
試合が終わってから、我慢できずにちょっと水分を摂りすぎた。運動で高まった金属骨格の熱を受けて、生体組織が熱くなるのだ。そのせいで、葵の近くに夕真を置いたままトイレに行くという失態を犯す羽目になりそうだ。
くそ。ジズめ、あいつが余計なことをしたせいで、こんなところにまで影響が出てんじゃないか! しかもあいつ、捨て台詞に「このまま生きて帰れると思うなよ」とか言ってやがったし。
まあ……冗談だとは思うが。あいつ、しょっちゅうそんなこと言ってたから。
でも、私じゃなくて私の仲間を狙おうとするような本性の奴だから、ちょっと心配だ。あの様子じゃ夕真の顔をバッチリ覚えただろうから、余計に。
今日の朝の占いは一二位だった。最下位だ。やっぱあの番組の占いは当たる。葵にも出くわすし、最悪の展開が続いてる。
「ごめん、ちょっとトイレ行っていいかな。葵も行く?」
「ううん、あたしは大丈夫」
くそ。やっぱ乗ってくれないか。
まあ、ほんの僅かな時間、トイレに行くだけだ。しかも夕真が待つこの場所から遠いところにあるトイレに行くわけじゃなく、目の前にあるトイレ。
晴翔くんもいるし、さすがにそのレベルの短時間で、この人混みの中で、いくら葵とて何もすることはできないだろう。
と、私はこんなふうに状況を分析して、トイレに行くことにしたのだが……
トイレから出てくると、そこにいたのは晴翔くんだけだった。
「え……夕真と葵は!?」
壁に背もたれて腕を組んだ晴翔くんは、目を閉じる。
「案外、間抜けなのかな」
「…………誰が、なんだって?」
流れが変わったことを、私はすぐさま把握した。
フェーズが変わる瞬間を察知し、すぐさま気持ちを切り替える。それは、命を懸けた戦いの中で生き残るためには非常に大事なことだ。
私は、今、とんでもないことが起こったのだと瞬時に理解した。そして、もはや手段など選んでいる場合ではないことも。
「夕真を出せ」
「ダメだ」
「今、この場で殺されるとしてもか」
「殺されてもだ」
目を開けて私を見据える晴翔は、まるで動揺していなかった。
声色を変えてこんな脅し文句を言われれば多少は動揺するだろうと踏んだ思惑すら、予測としては甘かったらしい。
「どういうつもりだ」
「心配すんなよ。別に兄ちゃんの身に危険があるとか、そういうことじゃない」
「そんなことはわかってる。葵が夕真に何をするつもりか、彼氏のはずのお前がなぜそれを手助けしているのか、それを尋ねてる」
晴翔は、天井を見上げた。
何人ものお客さんが、私たちを無視してビークルシティの専門店街を貫く通路を通り過ぎていく。
「……ずっと大好きだった。憧れの人だった。手に入れたいと、願い続けてきた。でも、それはまだ叶わない。葵もまた、願い続けた夢に、チャレンジしている最中だからだ」
「……何を言っている?」
「葵は今、初めて兄ちゃんに真正面からアタックしてる。好きだとか、そんなことを言うのは子供の頃からあったさ。俺はそれを目の当たりにしてずっとショックを受けてきたんだからな。だが、自分の全てをぶつけて兄ちゃんを落としにかかるのは、葵はこれが初めてだ。悪いがあんたにはここで足止めされてもらうぜ」
「…………!!」
目の前の男が言った言葉に、まるで首を刈り取られたかのような衝撃を受ける。
王手をかけられた。なりふりを構っていないのは葵のほうだったのだ。
状況は、もはや私の力の及ばないエリアへ入りつつあるのだと知らされる。
晴翔は、複雑な表情をして言った。
「俺が思うに、この状況に持ち込めるかどうかが勝負だった。本気を出した葵の魅力に、兄ちゃんが抗えるわけはない。残念だがな……あんたの負けだ、リン」
「ネリム!」
私は、すぐにショルダーバッグを開けてネリムを出した。
ネリムは反重力ブーツのバッグから勢いよく飛び出し、水色の小さなエネルギーを噴き出しながらホバリングする。
「夕真の居場所を探して!」
必死だった。もう、時間がないのだ。
だが、ネリムの反応は芳しくなかった。
「あのぉ……ご主人様にこんなことを申し上げるのは何なんだけどね。これまでの経緯を全部聞いてたあたしから一つ言えることはね、あくまであたしは有事の際の職務遂行のためにリンに同行しているのであって、上空からの周辺監視ならともかく、こんな私用には──」
私は、両手でコマンド・ビットを掴んだ。
「お願い。お願いだよ……」
泣いてしまいそう。でも、まだ諦めるわけにはいかない。
涙をこらえてネリムを見据え、お願いを聞き入れてもらえるように祈った。
しばらく無言だったネリムは、はぁ、とため息をついて声を柔らかくする。
「……しょうがないなぁ。一緒に罰を受けるしかないか。いいよ、貸しだかんね!」
「ありがと」
お願い。間に合って……。
どんなに強力な敵と戦う時だって、こんなふうに祈ったことはない。
夕真だから。君のことだから、私は────。
お父さんと夕真に命を助けられた、あれ以来の強敵。
私は、胸の前で両手を合わせて、神様に祈った。




