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嘘は底なし沼の始まり



 舞台の上では、白熱のハイパフォーマンスを繰り広げた選手たちが観客に手を振り、会場は大興奮の渦に巻き込まれていた。

 リンはしばらく舞台の上でインタビューのようなものを受けていたけれど、やがて舞台の裏へ案内されて、一度僕らの前から姿を消す。

 そうして競技を完全に終え、僕らのところに帰ってきたリンは、まだ少し汗で濡れていた。

 

「お疲れ! すっごかったね、あんなの初めて見たけどめっちゃ怖いじゃない」

「はは。はあ……ほんと疲れた。せっかくのデートなのに汗でボトボトだよ。これ、どうしてくれんのって感じ」


 プリプリ怒るリンの体からは、きっとここで借りたのだろう制汗剤の匂いがふわっと漂った。


「じゃあ、競技終わってそのままなの?」

「シャワー借りて、体は一瞬流してきたけどね、顔は洗えないし。お化粧道具なんて持ってきてないんだよね、あたし。反重力ブーツしか持ち歩かない体育会系女子だから、あはは。……ごめんね、夕真。放ったらかしにしちゃって」

「ううん。でも、ほんとに感動したよ! 僕も、ほら。手がもうボットボト。マジで手に汗握る勝負って感じだったね!」


 だが、その手が汗に塗れているのは、葵の体温のせいだった。


 心に雲が掛かっていくのがわかる。

 だけど僕は、「葵とは二度と手を繋がない」という約束を破ったことを、リンには言わなかった。


「……あれ? 晴翔君は!?」


 リンが尋ねたと同時くらいに、舞台の外から晴翔が歩いて戻ってくるのが見えた。

 その晴翔に葵が声をかける。


「遅かったね」

「ごめん、ちょっと腹の調子が悪くて。どうだった?」

「うん、リンはすごかったよ。プロチームに勝っちゃった」

「へえ! やっぱリンちゃん、只者じゃなかったんだ」


 明るく喋る二人に反して、リンの表情には一瞬にして影がさした。


 うわっ、と思ったけど、なんとかポーカーフェイスを貫くことに成功した。

 こんなの、葵と僕が二人っきりになっていたことを心配しているに決まってる!


 そしてリンの不安の通り、まさに僕は葵と手を繋いでいたのだ。どうかリンが疑ってきませんように……と僕は心の中で祈っていたのだが。


 リンは体を僕へ引っ付けて、葵たちへ聞こえないようにしながら心配そうに小声で僕に尋ねた。


「遅かったって……もしかして夕真、ずっと葵と二人っきりだったの……?」

「途中からね。晴翔がトイレに行っちゃったから」

「ねえ。私が競技している間、葵が、その。……大丈夫だった?」

「うん。何もなかったよ」

「……そっか」


 完全に予想の通りの展開に陥る。

 僕は、すぐさま嘘をついた。

 

 葵と手を繋いだ記憶が頭の中で反芻されて冷や汗が出る。

 一瞬だけなら問題なかったのだ。だって今回のは、僕に無断で葵から手を繋いできたのだから。僕には何の責任もなく、こんなに思い悩む必要はないはずだった。


 それが……汗でボトボトになるまで、手を繋ぎ続けてしまった。


 その理由はリンが負ける不安に僕自身が耐えられなかったからだが、果たしてそれは、リン以外の女の子と手を繋ぎ続ける理由になるのだろうか。きっかけとしては確かに葵が唐突に繋いできたかもしれないが、その後ずっと繋ぎ続けたのは自分の意思。自分の意思で、約束を破ったのだ。


 正直に何があったかをリンに話せば、約束を破った僕は間違いなくリンに怒られる。

 いや、怒られるだけならまだいい。仮にリンが僕のことを本当に好きだったとしたら、その気持ちをたちまち消滅させてしまうほどの出来事だったかもしれないのだ。

 そう考えると「怖い」という気持ちが湧いてきて、どうしても話すのを躊躇してしまう。


 僕は、迷いながらも話さないことを決断した。

 

「……なら、いいけどね!」


 リンは微笑んだけど、彼女がスッキリと信じてくれたのかどうかはよくわからない。

 心の底に何かドロドロしたものが残ったまま、僕は話が過ぎ去ったことにホッとしていたが……。

 

「あのさ、ところでさ。競技が始まる前、夕真、ジズに何か言われてたよね」

「ああ……うん。そうだね」

「何を言われたの?」

「まあ……いい競技を見せるから、楽しみにしててね、って」


 リンのことを連れ戻すとか、僕のことを消すだとか、そんなことを言われたってことを、いちいちこのデートの最中に言うべきではないように思ったから、僕はこう答えたんだけど。


 リンは、まるで心臓をギュッと握られたかのような顔をして、僕を抱きしめた。


 さっきまで激しく動き回っていたからか、タンクトップ姿のままのリンの体はほかほかしていて僕の体を優しく温めた。

 香水とかボディソープとかではない、いつもとは少し違うしっとりと湿気を纏った癖になりそうな匂いが、制汗剤と混ざってふんわりと僕の鼻腔を刺激する。


「……嘘。ねえ、夕真。お願いだから、そんな嘘をつかないで。あいつは、そんな顔をしてなかったよ。本当のことを言って」


 僕の心の中など全部お見通しなのか、リンはこう言った。


 それでも嘘をつきとおすことはできたが、ここまで確信を持って言われているのに嘘をつけば、リンの信用をなくしてしまう。

 それに、これはそこまでして隠したいようなことでもない。だから、僕は正直に言うことにした。


「……うん。ごめん。せっかくのデートなのに、こんなことを言うのはあまり良くないかなって思って……。君の言う通りだよ。ジズは、自分が元彼だと言った。自分が勝てばリンを連れ戻すって。リンが勝負を受けなければ、僕のことを消す、って」


 よく考えれば、ジズがリンに耳打ちしたのと同じ内容なのだろう。だから、そもそも嘘をつく必要性などなかったのだ。嘘をつくときにはそんなことまで思い至っていなかった。


 僕が正直に話しても、リンは視線を床に落として、まだ深刻そうな顔をしていた。

 依然としてスッキリしていないように見えるリンは、きっと、この質問をするために、僕を正直にさせる会話の流れを考えていたのかもしれない。


「じゃあ、もう一度聞くね。私が競技をしている間、葵と、本当に何もなかった?」


 嘘をつくというのは、泥の沼に足を突っ込んだのと同じなんだなぁ、と思った。

 気持ちは罪悪感で錘をつけられたかのように苦しく、しかしもう今さら訂正することもできない。その嘘が二人を決定的に切り裂くかもしれない地雷なら、なおさらだ。


 僕はリンに心を縛られ、止まった思考のまま、こう回答した。


「うん。何もなかったよ」


 リンは、悲しそうに微笑んだ。そして、少し離れたところにいる葵のほうを見つめる。

 リンを見つめる葵は、小首を傾げて優しく微笑んでいた。

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