絶対に、渡せない①(葵視点)
「いいかい、葵。世の中を生き抜くには、頭が良くなくちゃいけない。大人になったら、頭の良さがものを言うんだ。だから、今から一生懸命に勉強しないといけないんだよ」
「どうして? お友達はお外で遊んだり、習い事もピアノを習ったり──」
「そうだね。ピアノを習うと、指先を使うから頭も良くなる。だから、もし葵が習いたいなら、習ってもいいよ」
うちの親は、あたしに習い事をさせることに関しては躊躇がなかった。
お父さんは、あたしたちに贅沢をさせられないことを、ずっと謝っていた。
うちはお金があんまりないらしい。お金を稼ぐには、頭が良くなくちゃいけない。
だから、頭が良くなるように、勉強、勉強…………。
お金がないのに、習い事に使うお金だけは惜しまなかった。
習い事は何をしてもいいと言われたけど、「絶対にやりなさい」と言われていたのはお勉強。だから、幼稚園の頃からあたしは算数と国語と英語の習い事をしていた。
うちの塾は全国にあって、そこでやってる全国統一テストの小学校一年生が受けるやつがもうすぐで。
算数はまだ得意なほうなんだけど、英語が最近難しいのが気になる。
幼稚園の頃は「すごいね、よくできるね」って褒められてばかりだったし、まあいけるかな……。
なんて甘く考えていたけど、テストの当日、愕然とした。
英語が、やっぱりダメだ。小学校の高学年で習うようなのが出てきて、めちゃくちゃ難しい。
結果、ボロボロだった。
まっすぐ家に帰れなかった。
ひたすら外で時間を潰していると、あたりが薄暗くなってきて街灯が点灯し始める。あたしは「空のまち」団地内にある公園のベンチに座った。
お父さんとお母さんに、なんて言おう?
完全に日が落ちて、なかなか寒くなってくる。
我慢しながらしょぼくれていると、男の子がやってきて、隣のベンチで寝そべった。
その子は空を見上げていたけど、あたしに気づいて、こっちのベンチにやってきた。
「ねえ、一緒に星空を見ない?」
「星空? こんな街中じゃ、いつまで待っても星空なんて見えないよ」
そんなこともわからないのか。
お父さんの言う通りだ。やっぱ、頭が良くないとこんなことすらわからない。
あたしは、絶対に、こんな子みたいにはならない!
「まあ、『星空』は言い過ぎだけどさ。あっちの空に、ほら」
男の子が指差す先には、一つだけ、よく光っている星があった。
「……だから何?」
「星を見てると、いい気分になれるよ。それにほら、夜空だって、僕らを包み込むように広がっててさ、なんか世界の広さみたいなものを感じられて、神秘的な気分にならない?」
ならない。夜空なんて見て、何になるんだ?
こんな子に構っているのは時間の無駄に思えた。
そんなことより、あたしには時間がない。さっさと帰って勉強しないと。
黙って立ち上がり、六号棟へと歩いていく。
振り向くと、男の子はさっきまであたしがいたベンチに寝そべって、夜空を眺めていた。
塾の全国統一テストは、二年生になってもある。
あたしは、次こそいい成績を取るために、いっぱいいっぱい勉強した。
でも……
やっぱり英語は苦手で。それに、算数も、どんどん難しくなっていって。
あたし、基本的に国語が苦手なのかな……どの教科も、文章問題がよくわからないのかも。
不安は的中した。
問題を見た瞬間に難しいって思ってしまって、それからはプレッシャーで訳がわからなくなって、英語だけじゃなくて、算数も、国語も、うまくできなかった。
家に帰って、報告する。
お父さんとお母さんは、悲しそうな顔をした。
「なあ、葵。最初のうちに頑張っておくのが大事なんだ。今サボると、後で取り返しがつかなくなるんだぞ」
お父さんは、焦ったように言う。
一生懸命にやったつもりだったのに。また、ダメだった。
「つもり」じゃダメだ。もっと。もっと頑張らないと。
遊びすぎなのかな。友達とは、もう遊ぶのをやめよう。
勉強しないと。もっと、もっと。
うっ……
「ちょっとだけ、お外の公園で休んできていい?」
もう外は暗かったけど、我慢できない吐き気が襲ってきて、あたしは外へ行くと言って家を出た。
六号棟から出て公園のベンチに座り、うつむいて息を整える。
はあ、はあ。
なんだろ、これ。息が苦しい。
「大丈夫?」
誰かが、声をかけてくる。
見上げると、同い年くらいの男の子だった。
あれ。なんか見覚えがある。
ああ、そうだ。去年、ここで声をかけてきた……
男の子は、あたしの背中をさすってくれた。
すると少し楽になって、吐き気は治まった。
「具合、良くなった?」
「うん。ありがとう……」
辺りは日が落ちて暗く、遊んでいる子供はいない。
こんな時間に外に一人でいるなんて、この子はどういう子なんだろう。
そんなこと言ってるあたしだって、人のことは言えないけど……
「あなた、おうちに帰らなくていいの? もう暗いよ」
「んー。僕、家族、嫌いだから。あんまり家にいたくないんだよね」
「…………そう」
こんなことをあっけらかんと言うなんて。
悪い子だ。きっとこの子はろくな家で育ってない。
「君こそ、なんでこんな時間にベンチに座ってんのさ」
自分から聞いといてなんだけど、元々、私は知らない子に自分の事情なんて話すつもりはなかった。優しくしてくれたから、ちょっとだけ会話くらいしてあげようかと思っただけだった。
なのに、なんでか私は、素直に話してしまった。
「お勉強を、ずっと頑張ってて。でも、テストでいい点が取れなくて。お父さんとお母さんを、がっかりさせちゃった」
「ふーん」
……興味なさそうな返答。
まあ、確かにこの子には関係のない話だ。興味がなくても仕方がない。
でも、あたしだって、あんたになんか興味ないし。
男の子は、あたしの目をじっと見つめる。
なんだろ、と思っていると、あたしの横に座った。
「ねえ、一緒に星空でも見ようよ」
「……前も言ったけど、こんな都会で星空なんて──」
「ふふ。覚えててくれたんだね。じゃあ僕も。あ〜、前も言ったけど、星空は言い過ぎなんだけどね、ほら、あそこに」
一つだけ、明るく輝く星。
「あれが何?」
「秋の夜空に輝く一等星フォーマルハウトだよ。宇宙にあるほとんどの星が見えなくなっちゃう中で、あんなに光って見えるなんて、すごいよねぇ」
「…………」
そう。まさにあたしはそういう星になりたかった。
ずっと一生懸命だった。サボってなんかいなかった。
無理なんだ。あたしには、もう。
でも、がんばらないと、お父さんとお母さんをがっかりさせちゃう。
結果を出さないと、見捨てられちゃう。
「でもね、見えないだけで、この夜空には数え切れないほどのお星様がいーっぱいあるんだよ! いつか、空気の澄んだところに行って、そういう星空を見たいんだよね」
「あたしは」
「ん?」
「見えなくなる星になるわけにはいかない。あの光ってる星みたいに、あたしは目立たないといけない! 空なんて見れなくていい。サボってる時間なんてないんだ。もっと、もっと、がんばらないといけない。もっと!」
声を荒げすぎた。知らない男の子相手に、どうしてこんな。
すると、男の子は、またあたしをじっと見て。
「少しがんばりすぎたんじゃない」
「はぁ……?」
あんたに何がわかんの……
「あんたみたいにフラフラしてていい子供と違うの。あたしは、もっとがんばらないとダメなの。期待されてんの。まだ、あんたみたいに見捨てられてないの!」
はあ、はあ、と息を切らす。
完全に言いすぎた。
まあいい。これで怒っちゃっただろう。さっさとどっかに行ってくれたら──
あ。
柔らかく、ぎゅっ、とされた。
後ろ頭を、よしよし、と撫でられる。
な、なにこれ? どうなってるの……
「もうがんばらなくていいよ。ちょっとだけ休もうよ」
「……だめ。がんばらないとだめ。おうちにいられなくなる」
「じゃあ、ここにいるときだけ、がんばらないのはどう?」
「……ここにいるときだけ?」
あたしから体を離した男の子は、あたしの両頬を掴んで、じっと見つめる。
「うん。ここにいるときだけ。僕と夜空を眺める会、かな」
「なにそれ。そんなの、お父さんとお母さんが、許してくれ──」
「もちろん、二人っきりの、秘密だよ」
「…………」
こんなところで油を売ってる暇はない。
断れ。今すぐに。そして帰るんだ。
目尻から、涙がスッと落ちる。
あれ。なんで泣いてんの? 泣くところあった?
バっカみたい。
「うん」
あたしは、そう言って頷いていた。
「あたし、上原あおい。君の名前は?」
「僕は、佐々木ゆうまだよ」
よく見ると、ドキッとするほど可愛い顔をしている。
こんな気持ちになったのは初めてだ。なんだこれ?
男の子の顔を見れば見るほど、意味不明に心臓が踊り始める。
まあいいか、こういうのも息抜きにはいいかもしれない、とあたしは思いながら、男の子と住所を教え合った。




