恥の文化、罪の文化
大学の帰り、道端で財布を拾った。女性ものの財布で四万円ぐらい入っていた。
一瞬、これをとっても委良いんじゃいという声が聞こえてきた。二つ折りの財布で、別にブランドものでも何でもない物だった。いかにも金持ちそうな財布だと、それはそれで困るが、中途半端に貧乏臭い財布を片手に持ち、迷っていた。
よく漫画であるように悪魔Aと天使Aが囁いていた。
悪魔A『とっちゃえよ。誰も見てないぜ?』
天使A『ダメです。警察に届けなさい』
悪魔Aの言う通り、他に見ている人もいなかった。車の通りはあるが、歩道には僕以外誰もいなかった。悪魔Aの声がだんだんと大きくなる。
『いいじゃん、いいじゃん。とっちゃえよ』
悪魔Aの声は案外チャラかった。
しかし、近くにあるコンビニから女性二人組が出てきた。二人は会話に夢中で、僕の事など見ていなかったが、人目が気になる。それに、中途半端に貧乏臭い財布を取るのも恥ずかしくなってきた。
僕はそのまま交番に向かい、財布を届けた。住所を書いたり、手続きをした後、警官には褒められてしまった。
「こんな立派な若者がいるとは、素晴らしい!」
「いえ」
僕は恥ずかしくて下を向いてしまう。本当は盗もうか悩んでいたとは、決して言えない雰囲気だった。しかも人目を気にした行為だった。
そういえば、行動原理が人目である事が多かった。マスクだってウィルスが怖いというよりは、みんなマスクをしていて、後ろ指刺されるのが嫌だったからだ。他の感染症対策も似たような動機でやっている。
着る服もそうだ。人目を気にして地味で無難なものばかりだった。もっと言えば大学も自分で決めたというよりは、世間体で通っているところがある。他にも何かを選択する時は、大抵人の目を基準にしていた。自主的に考えて決断した事などほぼ無かった。
その心の根っこには、恥の概念があるのだろう。人目を気にするのも、浮いたり、空気を読めない事をしたく無いという恥を避けたかった。
そう言えば大学の比較文化の授業で、日本は恥の文化、アメリカは罪の文化といっていた。キリスト教が根付くアメリカは、人目よりも神様の視線を気にするらしい。無宗教の自分のは、全く意味がわからない概念だったが。
財布を届けたわけだが、警官に褒められるような事はしていない。人目を気にして恥をかきたく無かっただけ。たぶん、財布を交番に持っていた動機は、これだろう。まして財布を落とした人の為でもない。誰も見ていなければ盗んでいた。
そう思うと、自分は悪魔Aと親和性を自覚してしまった。災害などでは犯罪が増えるというが、日本人は人目が抑止力になっている為、それが崩れたら、大変な事になると思ったりした。
表面的にはいい事したのに、モヤモヤしていた。気分は重いまま、翌日大学に行くと、キャンバスの自動販売機のゴミ箱を掃除している学生がいた。隅にあるゴミ箱で、誰も見てはいないのに。
「あのー、何で掃除してるんですか?」
思わず声をかけた。おそらく体育会のサークルに所属していそうな体格の良い男だった。
「いや、単に汚かったかたさ。それに、こんな風に見えない所も神様が見てるだろうそね」
「神様?」
「ああ。俺は子供の頃からクリスチャンだしな」
男はそう言って額の汗をぬぐった。
これが罪の文化の概念なのか。確かに人目ではなく、神目線が行動原理なのは、僕みたいに色々悩まずに楽そうにも見えてしまった。
「財布が落ちてたら届ける?」
「もちろんさ。落とした隣人が困ってるだろうしね」
「盗もうか迷わないの?」
意地悪な質問をしてしまった。そんな綺麗事は良いのか、納得出来ない気持ちにもなる。
「迷うよ。でも、最終的には神様の視線の怖いからな」
男は明るく大笑いしていた。何だか自由そうで、少し羨ましいとお思うぐらいだった。
ちなみに財布は無事に持ち主に届けられ、御礼の葉書をもらった。ちょっと微妙な気持ちになってしまったが、嬉しかった。今後は良い事をしたらもっと素直に喜びたいので、神様の目線とやらも少しは意識したいと思ったりした。