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2. 婚約破棄の書類にサインしました。

 



 次の日、朝も早くから婚約破棄の書類にサインするために呼ばれたトリスタンの執務室を訪れた。


 目の前でしかめっ面のトリスタンがイライラと机を指で叩いている。目の下にはクマがあり、寝ていないことは一目瞭然だった。


 なるべく早く立ち去りたいので、素早く書類に目を通した。


 レナが一方的にケビンから婚約を破棄される旨がきちんと書かれており、既にケビンのサインも入っていた。先ほどまで邸内にいたようなので、客室にでも泊まっていたのだろう。


 どうせレナに非があるように書かれるだろうと予測していたので拍子抜けしてしまった。


 ケビンの実家は今ごろ、帰宅したケビンから聞いて大騒ぎになっているだろう。穏やかなエルウッド子爵夫妻の顔が思い出されて、被害者は自分だというのに沈んだ気持ちになる。


 エルウッド子爵に何の相談もせず、ケビンにサインさせたのは正直助かるけれど。

 それだけ可愛いオリヴィアの願いを叶えてあげたいということだろうか。


 それならどうしてこんなにもイラついているのだろう。


 チラリと、上目遣いでトリスタンを見た。


「なぜ抵抗しなかった?」

「……抵抗、ですか?」

「そうだ。婚約破棄などになったらお前の顔では次がないだろう」


 お前の顔ではなどと言われても困ってしまう。レナとトリスタンは悲しいほどに瓜二つなのだから。

 黒髪に琥珀の瞳だった母に似ていればどれだけよかったかと、何度思ったことか。

 この見目のせいでコンプレックスの塊であるトリスタンに愛されなかったのだから。


「はぁ。ですがオリヴィアとケビンは両想いのようですし。ケビンも美形ですから、きっと見目麗しい子どもが生まれることでしょう。お父様にとっても喜ばしいことなのでは?」


 トリスタンは苦虫をかみつぶしたような顔をしただけで、それには答えなかった。


「アドラもアドラだ。なぜあんな場所で」

「それに関しては私にはわかりかねます」


 書類にサインをし、ペンを置く。書類の写しを持って立ち上がった。

 憮然としたトリスタンと対峙していても何もいいことがない。


「待て、次が無いのにどうするつもりだ?」

「お義母様が誰か見つけてくれるそうですよ?」

「それでいいのか?」

「意味がわかりかねます。お義母様に従えと仰ったのはお父様です」


 母親のリズが亡くなってから三年、祖父が亡くなってからわずか一年でアドラは男爵家から後妻としてビルバリ伯爵家に嫁いで来た。


 それから一年という期間で、家令のジルドと料理長のベンと侍女のアン以外の使用人は解雇されたり他家へ放出されたりした。


 オリヴィアが十四歳なので、少なくとも十五年前からアドラと関係を持っていたことになる。

 それを知ったジルドとアンは、再婚に猛反対した。


 トリスタンはそんな二人を解雇しようと動いたようだけれど、そこで彼らの雇用主がレナになっていることを知り、解雇できなかったのだ。

 その書類にはトリスタンもサインしたはずなのだけれど、忘れてしまったのだろうか。それとも、詳しく読まずに言われるままサインしたのか。

 いずれにせよ、書類は王城で管理されているため、契約書を勝手に書き換えることはできない。


 トリスタンの性格を熟知していた祖父が危機を感じて三人だけはレナを雇用主にしておいてくれたのだ。お陰で飢えたり、手紙が届かなかったり、身の回りのことを手伝ってもらえなかったりせずに過ごせている。


「そのお義母様が頬に、綿を詰めれば見れなくもないと言われ、従うしかなかった私が夜会へ行った結果どうなりました?」


 ケビンは会場に着くと逃げる様にレナから距離を取り、陰口を叩く集団に混ざってこちらを睨んでいた。喉が渇いても綿が邪魔で、果実水を飲むこともできず、酷い渇きに苛まれたうえに悪評が駆け巡った。


「会話も碌にできない醜女だと前よりもっと評判が悪くなりました。この国では髪を染めるのは髪色の隠蔽になるため忌避されます。それと同じように、頬に綿を詰める行為は尖った顎を隠すためのものと思われ軽蔑されたのです。その結果の婚約破棄ですよ」

「――エルウッドの小僧ごときが」

「お義母様に従えと仰っていたお父様がいまさら何に怒ってらっしゃるのかわかりかねますが」

「舐められたのは、お前の落ち度だぞ」

「承知しております。見目の悪さで婚約破棄され、ご迷惑をおかけしました」

「どいつもこいつも、馬鹿にしおって!!」


 トリスタンは手の平で机を叩いた。

 ケビンから婚約破棄されたせいで、自分の容姿が否定されたような気分になったのかもしれない。


 結局、お父様はご自分が可愛いだけなのよね。


 それを少しでも寂しく思うだなんて――そんな気持ちは、とっくに捨てさったと思っていたのに。


 アドラの言いなりのトリスタンは、名ばかりの当主だ。

 目を伏せたレナは、話は終わったとばかりに執務室を後にした。





「レナちゃん、もうお出かけなの?」


 薄手のナイトウエアにガウンを羽織っただけの姿で、アドラが顔を出した。オリヴィアもまだ寝ている時間だ。


「はい、今日は日直なのです」

「まぁ。そんな下働きまでするなんて見目が悪いと交代してくれる殿方もいらっしゃらないのね?」

「そうですね」

「綿まで抜いてしまって、ますます馬鹿にされてしまうわよ?」

「もう今さらですから」

「そうだったわねぇ。ケビンさんと破談になってしまったのに、まだ学園に通って、その恥ずかしい顔を晒し続けるの?」

「残りもわずかですから大丈夫です。それでは行って参ります」


 頭を下げると機嫌のいいアドラは、ニコニコしながら手を振った。


 アンと馬車に乗り込み、ベンが作ってくれたサンドイッチを頬張る。朝からローストビーフ入りの贅沢なご飯に頬が緩んだ。


 祖父がベンを残してくれなかったらひもじい思いをしただろう。


 レナちゃんは太ってるから、お昼を抜きましょうね?

 レナちゃん、お胸が下品よ、お昼とお夕飯も抜きましょうね?

 レナちゃん、そのドレスは醜いお顔に似合わないわ。あたくしのオリヴィアにあげましょうね?

 レナちゃん、素敵な鏡台はあたくしのオリヴィアを映すべきだわ。こちらにしましょうね?


 レナちゃん、レナちゃん――――


 母の形見を取られても、その度に容姿を馬鹿にされても、最低限の生活はジルドとアンとベンに守られていたので平気だった。


 大柄で一見すると山男のようなベンは繊細で空気を読むことに聡く、アドラが動き出す前に(今日は何かありそうだと、わかるのだと言う)レナに食べ物をこっそり用意してくれる。

 レナ付きのアンも同じ扱いを受けてしまうのは気の毒だったけれど、お互いの絆は深まるばかりだ。


「奥様って、どこの星で生まれたんですかね」

「ぶっ、笑わせないで、いま食べてるのに」


 思わず口元を押さえたが、アンは聞こえていないかのように遠くを見つめながら言った。


「ふわふわしていて甘くて少女のようで、ドロドロと陰鬱で悪女のようで」

「言い得て妙だわ」


 思わず頷いてしまった。

 ジルドも、アンもみんな必死でアドラとの再婚を阻止しようとしてくれていた。


「お嬢様」

「なぁに?」

「私、お嬢様にどこまでも付いて行きますから、絶対に連れて行って下さいね」


 アンの綺麗な薄いグレーの瞳が真っ直ぐレナを見つめていた。




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