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17. レナの決断

 



 人は悩み過ぎると熱を出すらしい。

 絶賛発熱中である。

 関節が痛いし、頭は痛いし、喉があまり痛くないのが救いだけれど、久しぶりの熱はとても苦しい。幼いころはよく熱を出して母が看病してくれたのだけれど、今はせっせとアンが額を冷やしたり水を飲ませてくれたりしている。


「ねぇ、アン」

「なんでございましょう」

「お母様って、よくよく考えたら不思議なかたね? ご自分で私の看病されてたわよね」

「そうなんですよ。使用人にうつると邸内の動きが悪くなるとか仰ってましたね」

「貴族ではあまりないことよね?」

「私はずっとお嬢様付きですし、他家のことは存じ上げないのですがおそらくは」

「そうよね。なんだかふと思い出してしまったの」

「リズ様は、体が弱っているときは人恋しくなるものだからとも仰ってましたよ」

「そう」


 熱の最中に瞼を開ければ必ず母の顔があったのは嬉しかった。痛いといえば背中をさすってくれたし、時には抱き寄せて眠ってくれたこともあった。その後、母に風邪がうつってしまうこともあったのに、周りが止めてもやめなかったのを覚えている。


 そして熱が下がり始めると、横で色々な物語を読んでくれたのだ。退屈して治りきらないうちにレナが寝台から飛び出さないようにしていたのかもしれない。


「そういえば、熱が下がり始めたころ読んでくれた物語は、パティロニア語だったりファルエイネ語だったりしたわ」

「確かに、お嬢様にとたくさんの本を購入されていらっしゃいました」

「それで自然と言葉を覚えてしまったのよね」

「いえ、それだけではなくお嬢様自身も他国の本を積極的にお読みになられていましたよ」

「そうだっけ?」

「そうですよ~。わからなければその都度リズ様に質問されてました」

「でも変ね? うちの図書室にはもうないわよね?」

「本が多くなり過ぎて他国の修道院に寄付したり、他国に行かれる子供に持たせたりなさっていたのかと」

「なるほど」


 マルガリータとイグナートとリズが、オリヴェルの不貞により生まれた子の行き先に苦心した話は最近聞いたばかりだ。オリヴェルの派手な女性関係はレナでさえ知るところではあったけれど、内情は思った以上に酷いものだった。


 学園でもオリヴェルに初めてを捧げたなどと自慢する子がいた。あまり信じていなかったが、レナが知らないだけで本当の話だったのかもしれない。最近では婚約者がいても恋愛を楽しむ子が増えてると聞く。保守的なアティーム国も変わりつつあるのだろうか。ついていけそうにはないけれど。


「さぁ、少し眠ってくださいませ」


 新しいタオルを額にのせて、アンが微笑んだ。


「私はしばらくここにおりますからね。起きたら果物を食べましょうね」


 重くなる瞼を閉じれば、すぐに夢の世界へ落ちていった。









 リズは黒髪に琥珀の瞳で、下膨れではないものの、黒髪美人と言われていたと思う。夜会には最低限しか参加せず、茶会を我が家で開いたことはなかった。客人といえばマルガリータで、多忙なので半年に一度ぐらい。

 トリスタンが夜会に出かけても同伴しないことさえあった。


 祖父とは気が合ったようで、後から聞いた話ではトリスタンとは一度もデートせずに結婚したというのに、祖父とはご飯を食べに行ったりと仲がよかったらしい。


 それって、仲がよかったというレベルなのかしら。


 そう思ったのはリズが病に倒れてからだった。

 アーロンとの婚約が成立しなかったあの夏の後、急に秋めいて寒くなった朝、リズは心臓を押さえて倒れてしまった。すぐに医者が呼ばれ、病状などの説明を聞き、付き添って看病していたのは祖父だった。


 顔だけ見たいと言っても、あまりリズの部屋には近寄らせてもらえなかった。

 気が滞っている場所に、レナをあまり入れたくないのだと言われた。


 母の愛を疑ったことはない。

 祖父の人柄を疑ったことなどない。

 父とは距離があって、触れ合いも少なかったけれど、いま思えば一番貴族らしい接し方だったかもしれない。


 頭をもたげた不安が拭えず、熱のだるさもあって嫌な気分で目覚めた。

 夢見の悪さで、胃のあたりが重い。


 嫌な夢だった。


 リズに祖父が口づけていた。

 額や頬ではなく、唇に。


 扉の隙間からのぞいてしまったレナは、一目散に邸内を抜けて四阿に向かった。

 人のいる気配に身をすくませたものの、走っていた足は止まらなかった。


 そこにいたのは、肩を落としたトリスタンだった。

 涙を流しながら現れたレナに、困った顔をしたトリスタンが横に座るように言う。

 珍しいことなので素直に従った。

 メイドも従僕もいなかったので、トリスタンはお菓子どころか紅茶もなくただ座っていた。レナが横に座っても、何を話すわけでもなく二人で庭を眺めた。


 いま見た夢は、本当に夢だったのだろうか。


 パチパチと瞬きをしてから、顔を横に向けた。額のタオルがずるりと落ちる。

 ちょうど視線の先に、エルメルトからもらった絵が飾ってある。

 アンもジルドもベンでさえも、この絵に魅入られ、絶賛した。


「お嬢様の美しさがよく出ております」

「うちのお嬢様は世界一ですからね」

「これは家宝ですなぁ~!!」


 ぼんやり絵を眺めていたら、果物と花の活けられた花瓶を抱えたアンが室内に入って来た。


「お目覚めでしたか」

「ええ、つい先ほど。素晴らしい薔薇ね」

「エルメルト殿下からです」

「まぁ」


 咲き誇る薔薇はテーブルの上に飾ってもらい、手紙だけを受け取った。


「そちらの箱は?」

「こちらはアーロン様からです」

「アーロン様?」

「はい。ジルドが受け取ろうとしていなかったものを、たまたま通りかかって受け取ってきました」

「なぜそんな失礼なことを」

「婚約が成立しなかったあの件が、どうしても許せないらしいです。エルメルト殿下からのお花とお手紙を届けてくださったのに、アーロン様本人からのお見舞いを断るだなんて、さすがに見逃せませんでした」

「ジルドったら、昔のことなのにどうしちゃったのかしら。アンが通りかかってくれて助かったわ」


 箱には綺麗なチョコレートが詰まっており、その店のロゴを見て目を細めてしまった。


「どうかなさいました?」

「サウザ領でアーロン様にいただいて、美味しいと言ったチョコだわ」

「まぁ! それを覚えていらしたんですね」


 頷いて手紙を開けば、早い回復を願うとの簡潔なメッセージが書かれていた。

 エルメルトの手紙も開いたけれど、こちらはビックリするほどの長文がしたためられており、最後に愛の囁きまであったので顔が真っ赤になってしまった。


「お熱が上がりました?」

「ダイジョブよ、お返事を書くからテーブルを持ってきてくれる?」

「先にフルーツを召し上がってくださいね。こちらも先ほどフェルミン様が大慌てで届けてくださって。置くなり急いでまた騎士団に向かわれたので、お昼休みのお時間ギリギリだったようです」

「まぁ。後でお礼をしなくては」

「皆様、お嬢様がお元気になられることを一番に望んでいらっしゃいますよ」

「……そうね」


 アンの言葉に微笑んでフェルミンが届けてくれた果物を食べた。ベリー系の果物がたくさん盛り合わせてあった。レナの好きな果物ばかりだ。

 フェルミンの心遣いに、感謝しながらひとつひとつ丁寧に味わう。


 フェルミンの想いには応えられなくても、私たちの関係が壊れるわけでも、なくなるわけでもない。

 フェルミンはレナの決断をきっと理解してくれる。


 そう思えるのは、二人の関係がそんな表面的なものではないと知っているから。






 * * *






「叔父様、ご相談したいことがあるのですが」


 遅くに帰って来たイグナートに声をかけた。

 レナが起きていたことに驚いたらしく、コートを脱いでいた手が止まり、それに気付いたジルドがそそくさと脱がせていた。


「もう起き上がって大丈夫なのかい?」

「はい。ご心配をおかけしました」

「私はこれから夕食なので、それが終わってからでも?」

「いえ、私もご一緒します」

「まだ食べてなかったの?」

「寝たり起きたりしていて時間がズレてしまったのです」

「そうか。なら一緒に食べよう」


 フェルミンは騎士団に泊まるらしく、相変わらずの忙しさのようだった。


 イグナートと向かい合わせで座り、レナは野菜スープとパンのみの食事にしてもらった。遅い時間とはいえイグナートの皿には大ぶりのチキンのソテーが二枚に、サラダがたくさん盛り付けてあった。


 密かに、人がたくさん食べるところを見るのが好きなので思わずニコニコしてしまう。イグナートはひと口が大きいので、レナが食べるときの四倍ぐらいの大きさにお肉を切っていた。


「レナにもあげようか?」

「いいえ。叔父様がモリモリ召し上がっているところを見るのが楽しいだけです」

「ベンみたいなこと言って」

「私も本当は、料理を作るのが好きなのですけれど」

「貴族令嬢はせいぜいクッキーを焼くぐらいだからね」

「そうなのです。それすら最近はできていなくて。ベンがあまり厨房に入れてくれないですし」


 まだ食欲がそれほど戻っていないので、パンをスープにひたして食べた。胃に優しい味で、身体があたたまる。柔らかく煮込まれた野菜を味わいながら、この柔らかさはレナのためにあらかじめ用意されていたものだと思った。



「さて、相談があるということだけれど」


 数分後、ほとんど食べ終えてしまったイグナートがメイドに紅茶を頼んでから言った。レナはホットミルクにして欲しいと伝える。


「エルメルト殿下との結婚についてなのですが」

「……うん、まぁ、その話だよね」

「はい」

「受けるの?」

「はい。お受けしたいなと思っています」

「そうか……」


 目を細めたイグナートが何を考えているのかレナにはわからない。

 寂しそうでもあり、嬉しそうでもあった。


「叔父としても、ビルバリ子爵家の当主代行としてもレナの決断を支持するよ」

「……ありがとうございます」

「他国にレナが行ってしまうのは、とても寂しいけどね」

「……申し訳ありません」

「謝らなくていい。レナは自分の未来を自分で決めていいのだから」

「ですが、ビルバリ子爵家をフェルミンと叔父様に押し付けて……。もともと他国へ行こうとしていた私が、いまさらこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、嫁ぐとなれば別だと思います。本来なら政略結婚をするべきですし、そんな勝手なこと、許されるはずがないのです」


 祖父はレナに選択の余地を残してくれていた。

 リズもレナが人生を選択できるよう教育してくれていた。

 それでも、勝手をしてもいいよという意味ではないだろう。


「前にも言ったけれど、むしろはじめから私が当主を務めるべきだったんだ。兄上には今のように領地経営を任せ、私が王都で当主として生活すればよかったわけで。それを選ばなかった大人の選択ミスなのだから、レナが憂うことは何もないよ。ビルバリ子爵家の領地運営は上手くいってるから、政略結婚なんて必要ないし。フェルミンにも好きな人と結婚していいと言ってある」

「そうなんですね……ありがとうございます……」

「なに、浮かない顔だね。他にも心配なことがあるのかな?」


 イグナートが優しく聞いてくれた。


「では、この国としてはどうなのでしょうか? 私のような……という言い方は、これからはしないようにしようとは思っていますが……見目が悪いと散々言われてきた女が、他国の王子妃になるなど。やはり色々と騒がれるのではないかと」


 思わず目を伏せれば、イグナートの優しい声がレナを包んだ。


「レナがそれを気にするのは仕方ないだろう。でもね、それに関しても動きがあるんだよ――実はね」


 イグナートの話す内容に、レナは驚きを隠せなかった。




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