13. 婚約されるそうです。
ケビンに襲われたあの日。
「身体の方は正直ですね。診療所へ行きましょう」
女性騎士のモニカ・ポルポラに手を握られ、自分の指先が小さく震えていることにようやく気付いた。
「フェルミン」
モニカがフェルミンの元へ行き、何ごとかを耳打ちすれば、フェルミンが頷いてレナの元へと歩いて来た。
「どうしたの?」
「診療所へ連れて行きますから、大人しくしてて下さいね」
そう言って、即座に横抱きにされてしまった。
物凄い高さに驚いて思わず首にすがりつく。
「怖いからおろして」
「モニカ先輩からの命令なので背けません」
イグナートが片眉を上げてこちらを見ていた。自業自得と言いたいのだろうか。
叔父様は時々とても意地悪だ。
マリエッタとサーシャがキャーキャー言うので、従姉弟同士なのに恥ずかしくなってしまい、フェルミンの首元に顔をうずめた。
なぜか二人にはもっと騒がれてしまい、顔を上げることができなかった。
あれから三週間。
「もう耳は大丈夫ですよ?」
鼓膜は破れていなかったし、耳鳴りも治まったのに外出させてもらっていない。
事件の当事者なので仕方がないのだけれど少々息が詰まってしまった。イグナートやフェルミンの代わりに護衛として邸にモニカが来てくれていたのはとても楽しかったけれど。
今回の事件で一番驚いたのは、マルガリータのことだろうか。レナの事件と同日に起こったことらしく、イグナートの忙しさは凄まじく、会うたびにクマが濃くなり疲労感を増していた。
それでも二日と空けずに様子を見に来てくれたのは、嬉しかった。疲れた顔をしていたので申し訳なかったけれど、やはりどこか人恋しさのようなものがあったから。
そんなイグナートも、領地に行ってセザールとアドラを連行した後ぐらいから、少しずつ時間に余裕が出たようだった。顔色も良くなってきて、一緒に食事をすることも増えた。
なぜ罠だと知りながら無茶をしたのかな、と言って三時間ほど説教されたのには参ったけれど。
あれはもう二度とくらいたくない。
フェルミンは自業自得ですと言って庇ってくれなかった。
叔父様怖い。
ちなみに、オリヴィアがトリスタンの実子ではなかったと聞いたけれど、あまり驚かなかった。
ビルバリ子爵家に黒目の人が生まれたことは一度もなかったから。色にうるさいアティーム国の家系図には髪と瞳の色も一緒に残されており、遡っても一人もいなかったのだ。
アドラの家系に黒目がいるのだろうと思っていたのだけれど、その辺りはイグナートにもわからないようだった。一応、父親の目星はついているとか。
またアドラとトリスタンが離縁したため、オリヴィアはアドラの実家であるヘストン男爵家に戻されている。
それにしてもトリスタンが実は浮気していなかった、という話には驚いた。リズとイグナートが想い合っていると勘違いしていたことにはもっと驚いた。
正直、父がよくわからない……。
よくわからないけれど、母を愛していたという話は理解できた。
優しい顔で母を見つめていた記憶があったから。
だから私は、母に似たかったのだ。
少しでも父に愛されたくて。
「これはレナへの罰でもあるからね。外出はもうしばらく禁止だよ」
「叔父様って鬼だったのですね」
「いや? じゃじゃ馬なお姫様の手綱捌きが得意なだけだよ」
「はぁ。マルガリータ様の話ですか?」
「君だよ」
「えぇぇぇ。この国のお姫様といえばマルガリータ様なのに」
不満の声を上げると、イグナートはどっさりと書類をレナの前に置いた。
「なんでしょう」
「決済書類だね」
「えぇぇぇ、これは代行の叔父様が」
「生憎、まだ代行じゃないんだ。このゴタゴタのせいで陛下と予定が合わなくてね。ずいぶん先になりそうだから」
「ってことは」
「うん、レナの仕事だね」
やりますよ?やりますけれど!!
笑顔が怖いです!!
「私では判断できないことが多すぎて」
「そうだね。それは私が手伝ってあげよう」
「それってもしかして、私を当主に育てようとしてませんか?」
「どうだろうね」
「そんなことないよって言ってください」
「思ってもないことは言えないからなぁ」
口を尖らせたら、その顔も可愛いから役得なだけだと言われてやめた。
当主としての教育は受けてはいるけれど、実務経験が全くない。長らく祖父が当主を務め、トリスタンとイグナートが補佐をしていた。
今思えば、祖父は本当にレナを当主にと考えていたのか疑問が残る。
イグナートに聞きながらひとつひとつ書類を確認し、判を押したり、不可にチェックしたり、要相談の箱へ入れたりした。
我が家の領地は資源があるわけでも特産品があるわけでもないが、領地から領地へと人が流れる場所に位置していて、宿屋や飲食店が盛んな地域だ。それゆえ、よほど酷い商売をしない限り普通に稼げる。領民も代々商売人たちなのでしっかりした人が多い。税も他と比べて高いわけでもないので、領民は割と裕福なほうだと思う。
イグナートの言う通り、トリスタンは祖父の築いた手法に従い、手堅い領地運営をしていたようだ。
「そろそろ休憩にしよう」
「もうそんな時間ですか?」
気付けば二時間以上経っていた。
「ちょうどお客様もいらしたようだからね」
玄関前のポーチへと出てみれば、今日も華やかなマルガリータがエルメルトのエスコートで馬車から降りて来た。
アーロンではなくマルガリータの侍女と護衛が付き従っている。
エルメルトからマルガリータのエスコートを譲られたイグナートが応接室に向かう。必然的にエルメルトがレナをエスコートしてくれたが、近付くととても良い香りがするのでドキドキして困る。素敵な男性は香りまで素敵なのね、などと納得してしまった。
イグナートとマルガリータが隣同士で座り、レナの隣にエルメルトが座った。
マルガリータがオリヴェルのせいでレナがケビンに襲われてしまったと言って頭を下げるので慌てて止めた。
「マルガリータ様のせいではないです!!」
イグナートも、その話は何度もしたよね、と言ってマルガリータを説得してくれた。
アンが淹れてくれたお茶を飲み、マルガリータが落ち着くのを待ってから、イグナートがあらたまって話があると言うので何だろうと首を傾げてしまった。
「実はね。私とマルガリータ様が婚約することになってね」
「へっ!?」
はしたない声を上げてしまった。
昔から確かに仲は良かったと思うけれど……。
いつからそういう……?
マルガリータ様は、最近離縁されたばかりだ。
「私たちは、決してやましい関係ではないよ。マルガリータ様は幼い頃からオリヴェル様と婚約されていたし、私も十七歳で幼馴染と婚約していたからね。マルガリータ様の護衛に就くことも多く、お会いする機会は多かったけれど」
「誤解なさらないで下さいね、レナさん。わたくしの、本当にわたくしの片想いでして、もう十年以上拗らせて、それはもう煮詰まり過ぎて。元夫などと呼びたくないですが、アレが、そう、アレが酷かったものですから余計にもうイグナート様が眩しくて! 颯爽と助けに来て下さいますでしょ!? それなのにご本人はとてもクールで。決して恩を着せようだとか、そんなこともなく。本当に何度も何度も助けていただいたの。わたくしこう見えて臆病なものですから」
こんなマルガリータは知らない。
レナは目を丸くした。
「妻を亡くして十年以上経って、フェルミンにすら再婚しろと言われていたんだけどね。そうしたくとも想い人は人妻だったし。私は不倫なんてものをする気はないし、女性からの離縁は難しい上に、身分差があるし」
そういってチラリとマルガリータを見つめる目が優しく、とろけそうな顔は艶めいていて、見ていたレナの方が真っ赤になってしまった。
イグナートはまだまだ男盛りだし、マルガリータも美女のままだし。お似合いだと思う。少々ーーいや、かなり驚いたけれど。
「身分差なんて! イグナート様は副騎士団長様ですし!」
「ーーこの為に出世したと言ったら、あなたに笑われてしまいそうだ」
「まぁ! 喜びこそすれ笑うなど!!」
二人の世界である。
ここに居ていいだろうかとエルメルトを見れば、なぜかレナを見てニコニコしていた。
「ところでアドラさんは、わたくしが女公爵だと知らなかったようですわ」
「あぁ、そういえば公爵夫人になれると思ってたとか言ってるみたいだね」
「なれるわけありませんのに。オリヴェルは侯爵家出身ですし、次男ですわ」
「オリヴィアなんて名前つけちゃうあたり、オリヴェル様に執着してたんだろうね」
「まぁ。喜んで差し上げますのに」
「二人とも牢の中だけどね」
肩をすくめるイグナートはとても楽しそうで、長らく一人だった彼がこの先幸せになれるならと心が温かくなった。
「……エルメルト殿下、勝手にレナの手を握らないで下さいよ」
「バレたか」
「油断も隙もないんですから。レナもちゃんと断りなさい」
「すみませんっ」
思わず下を向いてしまった。
気付いたら繋がれていたのだけれど、不快じゃなかったので、なんて言えばもっと怒られそうだったので口は開かないでおいた。多分、正解だと思う。
叔父様怖い。




