1. 婚約破棄されました。
古めかしい、よく言えば趣のある鏡台の前で、レナは溜息を吐いた。
リスでいうところの頬袋にぎっしりと綿が詰まった顔を胡乱な目で見る。
毎度のことながら唾液がどんどん綿に吸われて口の乾きがひどい。
侍女のアンは、手を止めたレナを見て不思議そうな顔をした。
「お嬢様、どうなさいました? いつもの綿ですが、入れ心地が悪かったですか?」
「ひれほほち……」
「お嬢様が一番上質だと仰っているサウザ伯爵領から仕入れた物で間違いないですが、大丈夫ですか?」
サウザ伯爵領の綿は確かにいい。
我が家の布製品はタオルやシーツ、タオルケットまでみんなサウザ産だ。滑らかな手触りで、子供の頃からサウザ産の虜で……
いえ、綿の話ではなくて……
アティーム国では男女問わず下膨れの顔立ちが美しいと言われている。
金貨が革袋にたんまりと入ってる様を表しているからで、富の象徴と言われているからだ。
髪もまた革袋を連想させる茶色が最も美しく、黒髪も、掴んだ財を逃さないという意味があり、とても歓迎されている。
瞳は、革袋に入っている金貨を象徴していると言われる金、もしくは琥珀色が好まれる。
さらには下膨れでなくとも、顔の大きい女性は福を招くと言われており、特に商家などで歓迎されている。男性も小顔より大きい顔の方が美形と言われ、とても人気がある。
一に下膨れ、二に茶や黒の髪、三に金や琥珀の瞳
下膨れの茶髪の子どもが平民に生まれたら、貴族がこぞって養子縁組を持ちかけるほどだ。そうしてまで家に下膨れや茶髪を取り入れ続けた結果、貴族の多くが美しいとされる要素を何かしら携えた容姿をしている。
そんな中、レナは貴族でありながら金髪碧眼の顎の尖った小顔という不器量さだ。
金や銀などの輝く髪は成金を意味することから下品だと言われ、碧の瞳は金貨を失ったことを意味するため、とても嫌われている。
そして尖った顎は、財を食い潰すと言われ浪費家の象徴として眉を顰められるのだ。小顔でもせめて顎が丸ければまだよかったのだけれど。
詰めていた綿を口から全て取り出すと、レナは目を伏せた。
「綿を入れるのは、もう止めるわ」
「ですがお嬢様、また奥様にネチネチと……」
「今さらよ。それに、元から学園では外していたじゃない? 授業に支障が出てしまうし、ご飯どころか飲み物すら飲めないし。どうせ外すのに、苦労して毎日綿を詰めるのもなんだか馬鹿らしくて」
「それは確かに……そうですね」
「もう見せる相手がいないと言えば、お義母様も納得してくれるかも」
鏡の中のアンが悲痛な顔をしていることは見なくてもわかってしまった。
* * *
レナ・ビルバリの十八歳の誕生日パーティーがビルバリ子爵家にて開かれた日のこと。
参加者への挨拶周りを終えたあと、婚約者のケビンが居ないことに気付き、庭園へと赴いた。
しばらく歩いていると、ケビンと義妹であるオリヴィアの声がしたのでそちらへ向かい、柱の陰に身を潜ませた。
「お義姉様に申し訳ないわ」
「仕方ないだろう。どうしたってオリヴィアに惹かれてしまうんだ……だから」
「ケビン様は本当に私のことが……?」
「あぁ、愛してる。心から」
「嬉しい」
「お願いだオリヴィア、僕はもう君としか結婚は考えられないんだ」
「……わかったわ。お母様にお願いしてみる」
「本当かい? ありがとう」
耳をそばだてる必要もないほど、世界に浸った二人の声は静かな庭園に響いていた。外灯が映し出したふたつの影が重なる。その行為がしばらく続いたあと、ぱたぱたと足音を響かせ、オリヴィアは邸内へと戻って行った。
隠れていたレナには気付かなかったらしい。
義母のアドラに話に行ったということはケビンとオリヴィアの二人が婚約するのは決定事項だろう。
同じ年齢のレナとケビンは卒業して半年経ったころ結婚する予定だった。
あと一年足らずとなっている今、ドレスの採寸すらしていないのは、アドラが後妻に入ったことで準備が滞ったから。
そして、ケビンのオリヴィアを見つめる熱い視線に、早くから気付いていたレナがそれとなく結婚にまつわる全てを遠ざけたから。
誕生日より前に言ってくれたら、こんなパーティーすら開かずに済んだのに。
そんなことを思っていると、ケビンの友達が、いつの間にか彼を取り囲んでいた。
「上手くいったか?」
「あぁ。アドラ夫人に頼んでくれるって」
「やったな。アドラ様そっくりの絶世の美少女と婚約できるなんて」
「いや、確かにオリヴィアは美少女だけど、僕が惚れたのはそこじゃなくて」
声をおさえることもなく交わされる会話に、レナがどれだけ軽んじられているかがわかる。
「またまた~」
「でもさ、レナ嬢は婚約破棄で疵物になるんだろ? それなら婚約破棄前にお前が女にしてやったらどうだ?」
「それはいい案だな!」
「待て、さすがにそれは」
友人二人の暴言に、ケビンが慌てた様子をみせた。
「なに勿体ないこと言ってんだよ、オリヴィア嬢は確かに美少女だけど結婚までは時間もかかるし、婚前交渉に持ち込むなんて、女を知らないお前には無理だろ? お前、それまで童貞でいるつもりか?」
「そうそう。醜女と何年も婚約者でいてやったんだってケビンも言ってただろ? その褒美としてもらっておけよ」
「どうせどっかの爺さんの後妻ぐらいにしかなれなさそうだし、純潔じゃなくたって平気だろ」
「ケビンだってオリヴィア嬢といざって時に失敗したくないだろ? いい練習になるぞ?」
「顔に綿まで詰めて媚びまくって、涙ぐましい努力をしていたのに可哀そうじゃないか。最後の思い出に抱いてやれよ」
「協力してやろうか?」
酷い会話ね。
心の中で溜息を吐いて、レナはその場を後にした。これ以上はレナがいないことに気付いた者が探しに来るかもしれない。とりあえず証拠は掴んだ。
アドラ発案の頬に詰めた綿を抜いて握り締めると、邸内へと静かに戻った。
「レナちゃん、どちらにいらしたの?」
真っ赤なドレスに身を包んだアドラは、たっぷりとした茶髪を揺らしながら近付いて来た。さながら舞台女優のような仕草と声で、どうすれば注目を浴びるかを心得ている。
「すみません、少々喉が渇いてしまいまして」
「あら、それで綿を外してしまったの? 酷いお顔なんですから、飲み終えたらまた入れておかないと下品ですわよ」
「申し訳ありません」
「まぁ、お話があるからいいですわ。許してあげます」
「はぁ、ありがとうございます……」
レナは適当に返事をして遠くを見つめた。
何を言われるのか既にわかっているし、そんなことぐらいではもう傷つかない。
招待客はアドラの大きな声にチラチラと様子をうかがっていて、いつもは無関心な父のトリスタンまでもが気にしているようだった。
「お集まりいただいた皆さん」
アドラの芝居がかった声に視線が集まった。
「今日はレナちゃんのお誕生日パーティへ来てくださってありがとうございます。せっかくのお誕生会だというのに、婚約者のケビン・エルウッドさんが直ぐにでも婚約破棄をして、あたくしの可愛いオリヴィアと婚約したいと仰っていますの。あたくしのオリヴィアの美しさに抗えなかったのですね。殿方は皆、美しい女性が大好きですから仕方のないことです。あたくしのオリヴィアじゃなければ愛せないと仰るケビンさんの気持ち、痛いほどおわかりになりますでしょう? どうか皆様、あたくしのオリヴィアを愛してしまうケビンさんの気持ちに免じて、美しい二人を祝福して下さいませんか?」
少女かと思うような首の傾げ方をしてアドラが言った。
アドラは女学生時代から変わらぬ美貌を維持しているらしい。この国の最上級とも呼ばれる茶色の髪と瞳を持った、下膨れ美女だ。
その美女が、レナより四つ年下のオリヴィアを連れてトリスタンの元に後妻として一年前に嫁いで来た。
彼女は長らく独り身で、父親のハッキリしない子どもを生んだことで有名だった。それすらも美女というだけで社交界では許されていたようなので、この国の下膨れや色に対する執着は凄まじい。むしろ美人な子を生んだことで、アドラの価値は上がったようだ。
ちなみに二人がビルバリ子爵家に来る前、トリスタンからオリヴィアが父の実子であると告げられている。母が健在なころからの関係とわかり、落胆したのは言うまでもない。
一瞬静まり返った会場内は、庭園から戻って来たケビンの友達からの拍手につられるようにしてバラバラと徐々に盛大なものになっていった。
義母が嬉々として発表するという、どう考えても異常とも言える婚約破棄だが、美女は何をしても許されるのだろう。
遠くのトリスタンが眉をひそめたのが不思議なぐらいだ。ケビンとオリヴィアなら、さぞかしトリスタンが喜ぶような見目麗しい子どもが生まれるに違いないのに。
ケビンは自分が婚約破棄を言い出したとバラされて、ご自慢の大きい顔を歪めていた。もしかしたら、即刻婚約破棄になってしまったせいで、閨の練習ができなくなって悔しかったのかもしれない。
ケビンからの視線を感じたけれど、それは綺麗に無視した。
「まぁ、皆様ありがとうございます。レナちゃん、婚約者がいない身となり不安でしょうけれど、ご心配なさらないで。あたくしがしっかりと、あなたのような醜女でも受け入れて下さる殿方を見つけて差し上げますから、あたくしに感謝なさってね?」
アドラは誰もが美しいと称讃する笑顔を浮かべ、うっとりしながら言った。