トイレの駄女神と潔癖王子
「ふう……たまには一切魔法を使わずに自らの力で額に汗かき掃除をするというのも、なかなか気持ちが良いものだな……」
トイレの中で新品同然の輝きを放つ便器の前で仁王立ちして、惚れ惚れした表情で独り言を呟いているのはこの国の第一王子アラン。異常なまでの潔癖ぶりで有名な彼は、今朝も日が昇る前に王宮のトイレを隅々まで清掃していたのです。本来ならば、当然未来の王太子がすべきような仕事ではないのですが、王宮に元々仕えていた清掃係は、彼の厳しすぎる仕上がりのチェックに音を上げて皆白旗を上げ、逃げ出してしまったのでした。
その時、突然目が眩むような光とともに、どこからともなく純白のドレスをまとい、柔和な微笑みを浮かべた世にも美しい女性が宙に悠然と浮かんだ状態で姿を現しました。
「清らかな心を持つ者に祝福を与えましょう……私の名は……」
「何だ貴様は! さては、近頃巷で噂になっている、トイレに出没する亡霊だな!?」
「誰が亡霊よ! 浄化の女神イザベラ様に向かって不敬ですよ!」
名乗りをあげようとして出端を挫かれたうえに、亡霊扱いされたのが気に食わなかったようで、彼女は穏やかで神秘的な仮面をかなぐり捨てて怒りを露わに、地団太を踏んでいます。
「浄化の女神……聞いたことが無いな……」
「まあ、最近はあんまり活動していなかったから地上では知られていないかもしれないけど……この神々しい光輪で大体分かるでしょう!」
「おお……」
あんぐりと口を開け、目を輝かせるアランを見て、フンと鼻を鳴らし自慢げに胸を張るイザベラ。
「今更気付いたのかしら。全く、鈍い人間もいたものだわ」
「これは非常に便利だな! うっかり見落としていた僅かな汚れが照らされてはっきりと浮かび上がっている! よし、そのままもう少し右奥を照らしてくれ」
「女神の光背を照明代わりにしないで! ……そもそも、何で高貴な女神がよりにもよってトイレなんかに現れないといけないのよ……うぅ……」
急にうずくまって鼻をすすりながらイザベラは愚痴りだしました。彼女の説明によれば、本来女神は天界から人々の願いに応じて、それぞれが司る加護を与える務めがあるのですが、何度注意してもサボってばかりいるイザベラに業を煮やした天界の長によって地上へと追放されてしまったそうです。
「完全に自業自得じゃないか。情けない駄女神もいたものだ……いや、しかし……待てよ……」
「はっ……何? ……ちょっ……止めなさい!!」
何を思ったか急にイザベラへ腕を伸ばすアラン。その手は彼女の身体をすり抜け虚空を掴みます。
「あああ……最悪……」
「ほう……地上で信仰されなくなったことにより、女神として実体化することさえできなくなっているのか……だがそれでこそ好都合だ! ……よし、イザベラ! 僕の妻になってくれ!!」
「はあああ!? 分を弁えなさいよ人間! どうして私が、たかが王子風情と結婚しなくちゃいけないのよ!」
コンプレックスを刺激されて落ち込んでいるところに、追い打ちのように軽々しく求婚されてイザベラは声を荒げました。アランは潔癖すぎる性格ゆえに、元々定められていた婚約者に直接手を触れることさえ嫌がり、愛想を尽かされ婚約を解消されてしまっていました。王太子妃候補探しは懸命に続けられたのですが、彼の変人ぶりを知るものが進んで手を挙げる訳もなく、最近はほんのりと諦観ムードが漂っていました。
「王太子妃となれば相応の家格が必要とされるが、女神ならば何の問題もない。何より直接手を触れなくても良いというのが素晴らしいではないか! なに、イザベラにとっても悪い話じゃないぞ。婚約を発表すれば全王国民に君の存在を周知させ、あっという間に信仰を取り戻すことができるだろう。世継ぎ問題も本来の力さえ戻ればなんとかなるだろうし……」
「勝手に話を進めないで!」
「……それとも……このままトイレの中にずっと居座り続けたいのか?」
痛いところをつかれてイザベラは黙り込みます。宙に浮かびながら眉間にしわを寄せ、うんうんと唸りながらしばらく考え込んだあと、おもむろに口を開きました。
「……あくまでも契約のようなものよ! 人間界で言う『白い結婚』は貫いてもらいますからね!」
「ああ、純白というのは素晴らしいものだ! そう、まるでこの煌びやかに輝く便器のように!!」
「……結婚を便器に喩えるような男の妻になるなんて……はぁ……きっと生涯天界の笑いものになるのね……」
イザベラは自嘲気味に呟きました。浄化の女神としての性によるものなのか自らの心の一部が、アランに惹かれ始めていることも、彼女を苛立たせていたのです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
二人の婚約は意外なほどすんなりと祝福されました。国王も王妃も重臣たちも、皆揃って王太子妃が見つからないことを苦にして胃に穴が開くほど悩んでいたことも大きな理由の一つですが、アランが彼らを説得するため「身を清めようと森の泉で沐浴していたところ、王子の穢れのない心に反応して浄化の女神イザベラが現れ、お互いに一目惚れした」という真っ赤な嘘を言葉巧みに並べたことも効果がありました。
アランの難儀な性格も美化されて、イザベラの体面も保たれるというだけでなく、神話のように不思議でロマンチックな物語をすっかり信じ切った国王達は諸手を挙げて二人の婚約を喜んだのでした。王子と女神が結ばれたという衝撃的なニュースは、瞬く間に王国全土、さらに全世界へと広がりました。
「どうだ? 少しは女神の力が戻って来たんじゃないか?」
「そうね……光も大分強まって来たでしょう? どうしてまだ実体化できないのかが解せないのだけれど」
「ああこれだけ明るいと便……とても、助かる……君がいてくれて……」
「……アラン、熱でもあるの?」
ここしばらくは、どういう心境の変化かアランもイザベラに対してそれなりに敬意を持って接するようになっていました。その変化をくすぐったく感じていた彼女は少し茶化したように尋ねました。
「……持って生まれたこの厄介な性分のせいで、随分周りに迷惑や酷い思いをさせてきた。悪気があるわけではないのだが、自分自身でも抑えられない衝動で嫌われるというのは精神的にかなり堪える。だからこそ、開き直って変人扱いされたまま、孤独に生きていくことを覚悟していた……イザベラに出会えて、僕は本当に嬉しかったんだ……」
「アラン……私……」
イザベラが何かを言いかけたその瞬間、二人が出会った時よりも遥かに眩しい光に包まれて、彼女は忽然と姿を消しました。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「えっ!? 何!? どうして……」
「落ち着いてください、イザベラ。私があなたを呼び戻したのです」
目の前には、彼女を人間界に送った張本人である天界の長、ルイズがにこやかな笑みを湛えていました。
「なぜそんなことを……? もしかして私がアランと結婚しようとしたからですか?」
「いいえ、あなた達の仲を引き裂くつもりは毛頭ありません。むしろ私も喜んでいるのです。しかし、あなたは未だに実体化できない理由に気付いていませんし、記憶もまだ戻っていないようですから、老婆心ながら背中を押してあげようと思ったのですよ」
ルイズの言葉の意味を咀嚼できずに、首を傾げるイザベラ。
「元々浄化を司る神は二柱いたのです。一柱は勿論あなた、そしてもう一柱は……」
「アラノス……」
ふいに口を衝いて出た名前に、イザベラは切なく胸が張り裂けるような懐かしさと愛しさを感じていました。
「ええ、その通りです。やっと記憶を取り戻し始めたたようですね。あなたたちは天界でも知らないものがいないほど有名なバカップ……大変仲睦まじい神々でした。地上の人々からの信仰も篤く、休むことなく世界中へ加護を振りまいていました。ですが、あるとき下界で恐ろしい流行り病が猛威を奮い出したのです」
当時の光景に想いを馳せたルイズは目を伏せ、唇を震わせています。
「あなたたちも必死で人々を病から守ろうとしましたが、天界からの干渉には限りがあります。更に、追い詰められた人類の一部には信仰を捨て、あるいは神を呪うものさえ現れました。人間の祈りが神の力となる一方で、その呪いは神を苦しめ蝕む毒となります……」
「あなたが苦痛に顔を歪める姿を目にすることに耐えられなくなったアラノスは、誰にも告げずに人間界へと向かいました。あるときは研究者になり、またあるときは医者になり、何度も命懸けで人々のために、そして誰よりあなたのために病と闘いました。彼の尽力のおかげで病気への対抗策も整い、やがて世界は再び平和になりました。ただ、失われた信仰だけは元通りになりませんでした……」
「更にあまりにも転生を繰り返し、下界に長く留まり過ぎたアラノスは、天界へ戻る術も、神であったころの記憶も失ってしまったのです。そして力が弱まり大切な彼を地上へ追いかけることも叶わず、ただ見守ることしかできないあなたは、正気を保つために記憶を封印することにしました……」
「ですが、あなたの魂はアラノスのことを忘れるなんて許さなかったのでしょう。抜け殻のように無気力になったあなたを見て、胸が痛みました。彼の人間界行きを止めることができなかったのは私の責任でもありましたから。そこで、天界の長としての権限で、あなたを罰として地上へ送ることにしたのです……」
「さて、昔話は終わりました。あなたが実体化できないのは、心のどこかでそれを望んでいないから。アランに触れられるようになってしまったら他の女性と同じように拒絶されるのではないかと恐れていたからです。でも安心しなさい。なぜなら……」
すでに枯れ果ててしまうのではないかというくらいとめどなく涙を流し続けていたイザベラでしたが、ルイズの言葉を聞くと再び子供のように大声で泣き出してしまいました。彼女が落ち着くまでルイズは母親のように背中を優しく撫でていました。
「さあ、アランの元へ戻りなさい。今頃きっと大騒ぎしているでしょう。これからどうするかは、あなた達二人で話し合って決めるべきです」
「本当にありがとうございました、ルイズ様……一体何とお礼を申し上げたらよいのか……」
「構いませんよ。あなた達二人が一緒にいないと私もなんだか落ち着きませんからね。アランにもよろしく伝えてちょうだい」
深々と頭を下げたイザベラは再び地上へと戻りました。ルイズが予見した通り、王宮を隅々まで駆け回ったあと、気が動転したままのアランは「国中のありとあらゆるトイレを探して回るんだ!!」と叫びながら側近達に無理やり羽交い絞めにして取り押さえられているところでした。
「イザベラ!!! 一体どこへ行っていたんだ!!! その泣き腫らした目……まさか天界の長とやらに虐められていたのか!? よし、僕を天界に連れて行ってくれ!!! 一番偉い神だろうが関係ない!!! 大切な妃に涙を流させた責任を取らせて……なっ!?」
イザベラは我慢できずアランに勢いよく抱きつきました。一瞬彼の身体がぴくりと震えましたが、そのまま恐る恐る彼女の背中に手を回します。
「……イザベラ、触れられるようになったのか? ……なぜだろう……理由は分からないが……全く嫌な感じがしないんだ……むしろ懐かしいような……ありえないことだが……遠い昔、君とずっとこうして一緒にいたような気が……」
イザベラは何も答えずに彼の胸に顔を押し付けたままでした。少しでも口を開くとまた嗚咽してしまいそうでしたし、今はただ、この平凡で幸せな時間を味わっていたかったのです。そんな気持ちが通じたのか、アランもまた黙ったまま、ほんの少しだけ腕の力を強めて彼女を抱き締めました。
イザベラは溢れ出す喜びに浸りながら、ルイズの言葉を思い返していました。
「……アランは誰にも触れることができない訳じゃないわ。そうではなくて彼の魂があなた以外の女性に触れることを拒否しているのよ。本当にあなた達ってバカップ…………ふふっ……バカップルね」




