5:俺の脳内選択肢が、逃亡を全力で邪魔している
錬金術師は、山田に向かって聞きなれない言葉を発した。
「ぬ□;&*フ%。璽レ+ョゐ○¥菟$ホ#ィ、きヱテ、コ獅、キれ騎レテ」
(敵ではありません。言葉は判りますか? ワターシ、アナータ、トモダーチ)
音声としては何を言っているのかわからない。にもかかわらず、山田は微妙なニュアンスに至るまで完璧に意味を理解できた。
「+にv禰×ュょ@ぴ朮」
(あ、はい、判ります)
驚いたことに、山田が発した言葉が謎の音声に変換された。
錬金術師はほっとした様子を見せたが、彼女の表情には警戒心が現れている。山田の檻に向かって徐々に近づいてきたが、少し離れた所で不安そうに立ち止まった。
(訳者注:以下翻訳文のみ)
「ご気分はいかがでしょうか。治癒魔法を付与して、状態異常もすべて回復させておいたのですが…」
(魔法?何を言っているんだ?それにしても声まで綺麗って、完璧か?)
山田は少し困惑したが、ご気分は、と問われて自分の体の状態が昨日までと違っている事に気が付いた。
鉛のように重かった肩は羽根のように軽く、動くたび痛んでいた腰も今は何ともない。かすんでいた目は眼鏡をかけていないのに遠くまでよく見え、胸焼けが続いて不快だった胃も回復している。体に活力がみなぎって恐ろしいほど体調が良い。
(しかも気持ちが妙に安定している。脂汗が出るほどストレスを感じているのにパニック障害をおこしていない。気力を出した反動で鬱になって動けなくなってもいない。若い女性が目の前にいるのに会話もできている。まるで神様に特別な能力を授けられて、別人に生まれ変わったかのようだ)
「あの、大丈夫ですか?」
その声で我に返った山田は、あわてて錬金術師に返答した。
「あ、はい、とても気分が良いです。あなたが助けてくださったのですか?」
そう問うと、錬金術師の表情が曇った。
少し間を置いて、彼女は山田に話しかける。
「……助けた、と申し上げたいのですが……今、誰かに復讐したい、世界を滅ぼしたい、そういうお気持ちをお持ちではありませんか?」
「……? いえ、特にありませんが」
「では何かを滅茶苦茶に壊したいとか、生き物を引き裂きたいとか」
「まったく思いません」
錬金術師は敵意感知と偽証検出の指輪に反応が出ていないことを確認すると、空間収納から手帳と筆記魔道具を取り出して日付と時刻を記入し、『破壊衝動なし、殺戮衝動なし、もしくは高度な偽装能力』と手早く書き込んだ。
山田は錬金術師の手の中に突然出現した手帳を見て、目を白黒させた。普通の地球人は、「異次元空間に物体を出し入れできる魔法」が存在しているなど想像すらしない。
「空間収納という言葉を説明無しで理解した人は、一般社会において普通の人とは言わない」
と、山田はのちに語っている。
「あの、自分はどうして檻に入れられているのですか?」
「ごめんなさい、あなたが敵対的な存在ではないという確証がありませんでしたので。……そこから出たいですか?」
「それはもう」
「では檻から出ても暴れたり、誰かを傷つけたりしない。勝手にここから逃げだそうとしない。お約束いただけますか?」
「約束します」
「では誓約を」
錬金術師が指を振ると、空中から一枚の紙が現れた。
「汝、我が許し無くして文物を損ね、あるいは生ある者の心身を害し、命数を奪うことなかれ。また許しを得ずして我が魔力の及ばぬ地に赴かぬと誓うべし。その誓約が偽りとなりし時、牛頭天王の霊威により汝に千本の針を飲ませ、その喉を破らん」
錬金術師が澄んだ声で詠唱すると共に、白い紙の上に見たことのない紋様が青く光りはじめた。
「そ……それは……???」
「クマノの誓紙です。お受け取りください。」
錬金術師は檻の隙間から、青く光る紙を挿し入れてきた。
「強要はいたしません。本当に約束が守れるならば『はい』と」
山田は少し躊躇した。
(もしかしたら、自分は何かとんでもない契約をしようとしているのではないか。
うっかり『はい』と答えたら莫大な請求が来るのではないだろうか。あの時のように着払いでカニが3箱来るとか。ああ、開けなければ返品できたのに)
しかし、山田の脳内に『いいえ』は選択肢として浮かんでこなかった。
(『はい』と答えたら臓器を抜かれるとしても、この檻の中で一生を終えるよりましだろう)
客観的に見るとあまりましではないようにも思われるが、山田は思い切って答えた。
「……はい」
その瞬間、山田が持っていた紙が青い焔を発して瞬時に燃え上がり、山田の右手も焔に包まれた。
「うわっ!!」
だが不思議に熱さは感じない。気が付くと手に持っていた紙は灰も残さずに消滅し、山田の右手の甲に謎の紋様がうっすらと残った。
「これで約定成立です。右手の宝珠紋は忘れないようにするための目印にすぎませんので、手を切り落としても効力は変わりません。意図的に約束を破ると即死しますから、ご注意なさってください」
そう言うと錬金術師は手をあげ、見えない誰かに命令するかのように空中に語りかけた。
「管理者権限において部屋付きの人工精霊達に命ずる。囚われし者の特別監視を終了し、通常業務に復帰せよ」
その言葉が終わると同時に、どこかから鈴を鳴らすような音が聞こえた。
錬金術師が山田の檻の縁をなぞるように指を動かすと、山田を閉じ込めていた檻はゆらぐように滲んで消滅した。
山田は何がおきているのか状況が理解できず、声もなく口をぱくぱくと動かすのみである。
「さて……次は……と」
錬金術師は形の良い唇に指をあて、少し首をかしげながら山田に視線を向けた。
「は、な、何、でしょうか」
「男と女が同じ部屋にいるのですもの。する事は決まっているでしょう?」
「え、と、言いますと、そ、それは」
「性欲の解消」
そう言うと、錬金術師は優しげに微笑んだ。