異酒屋
濃い霧のせいか、通い慣れたはずの帰り道に迷ってしまった。
それは現実の霧より、むしろ心の中の霧だったのかもしれないが。
駅を出て踏切を渡り、二つ目の信号を右に曲がった。
そのまま一本道を5分も歩けば家に着くはずなのに一向にたどり着かない。
どこかで間違えたかと思い引き返してみたが、見覚えのない景色が続くだけ。
そのうち住宅街を歩いていたはずが、いつの間にか家も見えなくなる始末だ。
いい加減うんざりしてきたところに右前方に灯りがみえてきた。
近寄って見ると、今どき珍しい赤い提灯に異酒屋と書かれている。
わざと間違えたのだろうか、好奇心をくすぐられる。
晩酌の習慣は捨てたのだが、今から家に帰って飯の支度をするのも面倒だ。
引き戸を開けて中を覗き込む。
「お帰りなさい。」
入った途端にそんな感じで声をかけられ、おもわず「ただいま。」と返す。
「おそかったですね、康介さん。」
私は久美子にコートを手渡した。
「ちょっといそぎの仕事が入ってきてね。でもなんとか片付いた。」
「あら、それはよかったですね。ご飯用意しますんで先にお風呂に入ってください。」
「ああ、わかった。」
湯船につかり、大きく伸びをする。
こんなにくつろいだ気持ちになるのは久しぶりだ。
考えなければいけないことがあるが、今じゃなくても良い。
風呂から上がると、夕飯の支度ができていた。
赤魚の西京焼きにじゃがいもとタコの煮物、茄子の浅漬けに味噌汁。
若い頃とは好みが変わった。
今は焼肉などよりこういう和風のメニューが好ましい。
久美子がキッチンから尋ねる。
「ビールでいいですか?」
「いや、ご飯でいいよ。晩酌はやめたんだ。」
「あら、そうでしたっけ。」
これからのことを考えると気が重くなるが、今しばらくはと考えて先送りする。
「なあ、明日、久しぶりに海浜公園でも行かないか。」
「あら、めずらしいですね。いったいどうしたんですか。」
「いや、長い間ふたりで出かけていないなと思って。」
久美子はご飯茶碗と味噌汁を私の前に置きながら言った。
「そうですね。昔は俊介を連れてよく3人で行きましたね。そういえば初めてのデートも海浜公園でした。」
「そうだったな。あいつは元気にしてるのかな。」
「どうでしょうね。康介さんに似て連絡をよこさない子ですから。」
「なあ、おまえは僕と結婚して幸せだったか。」
久美子はそれには笑って答えなかった。
「康介さんは明日、大切な用事があったのでは。お忘れになったんですか。」
「ああ、そうだったな。」
少し口籠る。
確かに大切な用事があったはずなのだが、思い出せない。
「海浜公園には次のお休みにいきましょう。これからはいろんなところに連れて行ってくださいね。」
「ああ、なるべくそうするよ。」
残された時間を・・・、とは言えなかった。
夜11時、隣で寝ている久美子に呼びかける。
「もう寝たか?」
「まだ起きてますよ。どうしましたか。」
いつまでも先送りにはできないし、気は重いが、言わないといけない。
「今日、精密検査の結果が帰ってきてな、ちょっと悪かったんだ。」
暗闇の中、数秒間の沈黙が長く感じられた。
「あと、どれくらいですか・・・・。」
「3ヶ月と言われた。」
久美子は私の右腕に身体を預け、肩の部分に頬を寄せた。
「大丈夫ですよ、康介さん。大丈夫・・・・・。」
「ありがとう・・・・・。」
私は左手を久美子の背中に回して彼女を抱き寄せ、嗚咽した。
朝、少し遅めの朝食を二人で食べる。
久美子は他愛のない話をして昨日の夜の話題には触れない。
私もそのことには触れずに、行先不明の目的地へ出かける準備をする。
玄関で久美子が紙袋を手渡した。
「忘れ物ですよ、康介さん。」
私はその紙袋を受け取り、「じゃあ、行ってくる。」と言った。
久美子は優しい笑顔で私を見送る。
「いってらっしゃい。お待ちしてますよ、康介さん。」
奇妙なことを言うと思ったが、そのまま家を出た。
異酒屋の引き戸を締めると、太陽はずいぶん高くなっていた。
久しぶりの酒に飲まれてしまったのか、どうも記憶が曖昧だ。
気がつくとカウンターに突っ伏して眠っていた。
勘定を支払おうにも店の人は誰もいないので、手帳をちぎって連絡先を残して外に出た。
気がつくと右手に紙袋を握りしめている。
中を覗き込むと、線香とライターが入っていて、霊園の入り口に私は立っていた。
そうだ、今日は久美子の10回目の命日で、私は彼女に会いにきたのだ。
入り口近くの花屋で仏花を購入し、墓に供えて手を合わせる。
「久美子、もうすぐお前のところにいけそうだよ。」




