↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR

異酒屋

作者: 雪河馬
掲載日:2020/02/27

濃い霧のせいか、通い慣れたはずの帰り道に迷ってしまった。

それは現実の霧より、むしろ心の中の霧だったのかもしれないが。


駅を出て踏切を渡り、二つ目の信号を右に曲がった。

そのまま一本道を5分も歩けば家に着くはずなのに一向にたどり着かない。

どこかで間違えたかと思い引き返してみたが、見覚えのない景色が続くだけ。

そのうち住宅街を歩いていたはずが、いつの間にか家も見えなくなる始末だ。

いい加減うんざりしてきたところに右前方に灯りがみえてきた。


近寄って見ると、今どき珍しい赤い提灯に異(・)酒(・)屋(・)と書かれている。

わざと間違えたのだろうか、好奇心をくすぐられる。

晩酌の習慣は捨てたのだが、今から家に帰って飯の支度をするのも面倒だ。

引き戸を開けて中を覗き込む。


「お帰りなさい。」

入った途端にそんな感じで声をかけられ、おもわず「ただいま。」と返す。

「おそかったですね、康介さん。」

私は久美子にコートを手渡した。

「ちょっといそぎの仕事が入ってきてね。でもなんとか片付いた。」

「あら、それはよかったですね。ご飯用意しますんで先にお風呂に入ってください。」

「ああ、わかった。」


湯船につかり、大きく伸びをする。

こんなにくつろいだ気持ちになるのは久しぶりだ。

考えなければいけないことがあるが、今じゃなくても良い。


風呂から上がると、夕飯の支度ができていた。

赤魚の西京焼きにじゃがいもとタコの煮物、茄子の浅漬けに味噌汁。

若い頃とは好みが変わった。

今は焼肉などよりこういう和風のメニューが好ましい。


久美子がキッチンから尋ねる。

「ビールでいいですか?」

「いや、ご飯でいいよ。晩酌はやめたんだ。」

「あら、そうでしたっけ。」


これからのことを考えると気が重くなるが、今しばらくはと考えて先送りする。


「なあ、明日、久しぶりに海浜公園でも行かないか。」

「あら、めずらしいですね。いったいどうしたんですか。」

「いや、長い間ふたりで出かけていないなと思って。」


久美子はご飯茶碗と味噌汁を私の前に置きながら言った。

「そうですね。昔は俊介を連れてよく3人で行きましたね。そういえば初めてのデートも海浜公園でした。」

「そうだったな。あいつは元気にしてるのかな。」

「どうでしょうね。康介さんに似て連絡をよこさない子ですから。」

「なあ、おまえは僕と結婚して幸せだったか。」

久美子はそれには笑って答えなかった。

「康介さんは明日、大切な用事があったのでは。お忘れになったんですか。」

「ああ、そうだったな。」


少し口籠る。

確かに大切な用事があったはずなのだが、思い出せない。

「海浜公園には次のお休みにいきましょう。これからはいろんなところに連れて行ってくださいね。」

「ああ、なるべくそうするよ。」

残された時間を・・・、とは言えなかった。


夜11時、隣で寝ている久美子に呼びかける。

「もう寝たか?」

「まだ起きてますよ。どうしましたか。」


いつまでも先送りにはできないし、気は重いが、言わないといけない。

「今日、精密検査の結果が帰ってきてな、ちょっと悪かったんだ。」


暗闇の中、数秒間の沈黙が長く感じられた。

「あと、どれくらいですか・・・・。」

「3ヶ月と言われた。」


久美子は私の右腕に身体を預け、肩の部分に頬を寄せた。

「大丈夫ですよ、康介さん。大丈夫・・・・・。」

「ありがとう・・・・・。」


私は左手を久美子の背中に回して彼女を抱き寄せ、嗚咽した。


朝、少し遅めの朝食を二人で食べる。

久美子は他愛のない話をして昨日の夜の話題には触れない。

私もそのことには触れずに、行先不明の目的地へ出かける準備をする。

玄関で久美子が紙袋を手渡した。

「忘れ物ですよ、康介さん。」

私はその紙袋を受け取り、「じゃあ、行ってくる。」と言った。

久美子は優しい笑顔で私を見送る。

「いってらっしゃい。お待ちしてますよ、康介さん。」

奇妙なことを言うと思ったが、そのまま家を出た。



異酒屋の引き戸を締めると、太陽はずいぶん高くなっていた。

久しぶりの酒に飲まれてしまったのか、どうも記憶が曖昧だ。

気がつくとカウンターに突っ伏して眠っていた。

勘定を支払おうにも店の人は誰もいないので、手帳をちぎって連絡先を残して外に出た。


気がつくと右手に紙袋を握りしめている。

中を覗き込むと、線香とライターが入っていて、霊園の入り口に私は立っていた。

そうだ、今日は久美子の10回目の命日で、私は彼女に会いにきたのだ。


入り口近くの花屋で仏花を購入し、墓に供えて手を合わせる。


「久美子、もうすぐお前のところにいけそうだよ。」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。