話せない
多分、どっちでもなかった。
彼女は――美緒は、僕が好きでも嫌いでもなかったんだ。
好かれるメリットもなく、かといって嫌われるデメリットもない。
そんな彼女だから、僕はアプローチしたんだ。
『引っ越し?』
父の言葉に、僕はそう紙に書いて聞き返した。
「あぁ。所謂転勤ってやつでな。場所は――」
父が口にしたそこは、ここより随分と遠い県の一画。
異動先の会社は近いが、懸念するべきことがあるのだとか。
「実はな……そこ、母さんと美緒が住んでいる場所なんだ」
父はそう言った。
聞き覚えはあった。いや、見覚えと言った方が正しいだろうか。
父が自身の部屋に保管している、分厚いスクラップのアルバム――その中に”美緒〇〇歳”などという文字が書かれている写真が幾つかあるのを知っている。
高校一年の頃だ。それを父に問いただしたところ、実は姉がいるのだ、と。
その時初めて、随分と幼く古い記憶の片隅に薄っすらといる女の子が、自分の姉であることを知った。
姉四歳の写真に僕も映っているのだが、そこには”拓也一歳”と書かれている。三つ違いだ。
初めは姉の写真ばかりで、途中から僕も映っている写真があって、その写真を境に、分厚いスクラップは二割程度しか埋まっていないのに、以降写真が挟まっていない。
その頃からの別居。
なるほど、覚えていない無理はない。
「それでな、拓也。まぁ頼みなんだが、住所は教えておくから、その家には近付くな」
『どうして?』
「分かるだろ、お前ももういい大人なんだから――それより、大学の方はどうだ? 上手くいってるのか?」
不利な状況に陥ると話題を変える。
追い込まれた父の、いつも通りの手口だ。
『難しいけど、楽しいよ』
追随はしまい。
後から自分で確認すれば良いだけの話だ。
僕の言葉に、父は「そうか」とだけ返して家を出ていった。
朝も早くから出版社へ。
いつだったか聞いた話によると、父と母は喧嘩別れをしたらしい。
理由は、くだらない喧嘩の積み重ね。
もう母も姉の顔も覚えていないから、今更「実は」とか「会うなよ」とか言われても、実感も何もないのだ。
聞き返したのは、どうして会ってはいけないのか、ただその理由が知りたかっただけだ。
だから、逆に。
僕は、母や姉のことが気になって仕方なかった。
ある日のこと。
大学からの帰り、普段が良いのコンビニが改装工事を始めてしまっていた為、いつもとは違う道を通って帰っていた。
そう言えば、父の言っていた母らの住所はこの辺りにあったはずだが――と思っていた刹那。
ガチャ。
不意に開いたある家の扉。
そこから、すらっと高身長で髪の長い女性、そしてその母と思しき二人が出て来たのだ。
図らずも目をやってしまったその姿に、僕の心臓は破裂しそうな程に鼓動が強くなった。
綺麗だなとか、運命だとか、そんなことを思ったわけではない。
かといって、不思議と母に姉だと確信がいったが、それにドキリとしたわけでもない。
ただ何となく――そう。何となく、目が離せなくなったのだ。
姉の顔はとても父と似ていて、母は僕と似ている。
他に似ている誰を並べても分かる程に、僕らが親子、そして姉弟なのだと思ってしまった。
「今日はそれほど長くは――」
母と目が合うと、話していた言葉が中断されてしまった。
向けられたのは強い睨み。
瞬間、何か釘のようなものが刺されてしまったみたいに、僕の身体は動かなくなった。
「どうしたの、お母さん?」
腕にしがみつく姉が、どこか焦点の合っていない目で母を見上げて尋ねた。
すると、はっとして「何でもないわ」と僕から目を逸らし、そのまま家を後にした。
去り際、少しだけ姉と視線が合った気がしたが――きょろきょろと焦点の合っていない視線を見るに、やはり気のせいだったらしい。
またある日。
大学が休校だった為に、僕は思い切ってその家を尋ねてみることにした。
前回確認した折、表札には”木村”とあった。
母の旧姓だ。
いざ家の前まで来ると、足が竦んで、やっぱり今日はやめておこうか、なんて思い始めてしまった。
しかし運命とは残酷なもので、背を向けた僕の後ろからは、扉の開く音が響く。
そこから顔を出すのは、母だ。
僕と目が合うなり、再び向けられる睨み。
しかし、開口一番放たれた言葉は、
「あなた――もしかして…?」
鋭い目つきのまま、耳を打ったのは存外と優しい声音。
反応も出来ぬままに手が空を切る。
「――いいわ。丁度あの子もいないし、入って頂戴」
踵を返し、僕の反応も待たずに家の中へと戻っていく母。
何か、僕のことは把握されているらしい雰囲気だが――さて。
お邪魔します、と心の中で一言。
踏み入った玄関には、母の履物と姉と思しき若々しいデザインのサンダル二つ。
手招かれるままに靴を脱ぎ、廊下を抜け、リビングへ。
「ごめんね、私目が悪くて。ソファにでも座ってて。お茶を淹れるわ」
ペンに紙もない僕には、構いなく、と口にすることも出来ない。
少ししてそれが運ばれてくると、僕の眼前テーブルへと置き、自身も対面に腰を降ろした。
さて――と置いて尋ねられたのは、僕が山本の拓也さんね、と。
こくこくと頷くと、母はやっぱりと溜息を吐いた。
「あの人にそっくり。ちょっと弱腰な目つきに、歩き方まで」
どう反応したものか。
迷って視線を巡らせていると、母はふと、
「喋れないの?」
と。
またも頷くことしか出来ず、動作で以って答えると、ならばとシャーペンにメモ帳を渡された。
「改めてって言うとあれだけど――木村佳乃。まぁあなたの母親よ。転勤、とはメールで聞いたわ。別居中で私も働いてるとは言え、扶養されている身だもの」
『山本拓也。今年で十八になります』
「そう……随分と経つのね」
母はそう呟いて一拍。
疑問符を浮かべる僕に、深々と頭を下げた。
「あの人があなたを引き取る、とは言ったけれど、小さい頃からずっと、ごめんなさい。辛い思いをさせてしまったわね」
と。
僕は紙に『いえ、そんな』と書いてはみたが、実際はまぁ言葉の通りだった。
直感してしまったとは言え、僕はずっと、母の顔も見たことがないとさえ思っていたくらいなのだ。
謝られても、申し訳ない顔をされても、どう返したものかと悩むのが本音だ。
『娘さん、姉は?』
僕は率直に尋ねてみた。
どう返ってくるのか、どうも返してはくれないのか、正直どっちつかずな予想ではあったけれど、母は目を伏せ「あの子は」と切り返す。
「目が見えないのよ、ある時の事故から。今日はその健診よ。時間がかかるって聞かされたものだから、私だけ一旦帰って色々としていたところ」
『すいません、タイミング悪く』
「いいのよ、気にしないで」
そう置くと、今度は母からの質問。
どうしてここに来たのか、と。
「あの人から言われなかったかしら、ここには近付くなって」
『言われました』
「じゃあ、どうして?」
『全然知らないとは言え、家族が気になるのは可笑しなことですか?』
僕は返した。
嘘ではない。ただ、本音が一割二割なだけだ。
すると、僕の文字を呼んだ母は、しばらく腹を抱えて笑った。
ひとしきり笑って、笑って零れた涙を拭いて、改めて僕に向き直る。
「いいわ、そういうことにしておいてあげる。生憎と私一人だけだけどね」
母は悪戯に笑ってみせた。
そして「ただ――」と僕の反応を制して言葉を続ける。
「今日もしあの子がここにいたとして。あるいは、いつかまた来た時や出会ってしまった時は、あの子には”他人”として接して頂戴。これはお願いではなく、命令に近いは」
そんな言い分に、僕は自然理由を問うた。
曰く。
母はもう父を許していて、同時に父も許していて。しかしその上で、これまで続けて来た別居を元に戻し、娘である姉、そして息子である僕に、これ以上迷惑をかけないようにしようという、父からの進言があったのだそうだ。
実は同じことを思っていたらしい母はそれを受け入れ、何も知らぬ子どもたちである僕らには、それを知らせぬままに今までと同じく――ということだ。
「あなたが既に知っていたのは誤算だったわ。あの人、そういうことは何も報告してくれないんだもの」
『すいません。父の部屋でたまたま見つけたスクラップが気になって、僕から尋ねてしまったんです』
「いいわよ。それに実のところ、今あなたとこうして話しているのは、不思議と心地が良いもの」
母は優しい笑みを浮かべて言った。
「さっきも言った通り、あの子は事故で目が見えなくなった。それ以上の苦労を、重荷になるようなことを、もう味わわせたくないの。事故さえなかったら、本当は――」
言いかけたところを、僕が首を振る動作で以って制した。
そして、たった今少し聞いただけの身で思ったことを、文字で記していく。
本音は――五十パーセント程だろうか。
たられば、なんて言ったって仕方がない。
それまでどうして来たかは確かに大切だが、これからのことを考えているのなら、それを尊重するのは当然のことだ。
先で考えが変わろうとも、それまでは今の気持ちが確かな道標。
ちゃんと決めていることを通すのは、至極自然のことなのだ。
『僕は、貴女の意を汲みます。姉のことは全く知らないけど、姉と、何より悩んでいる貴女の言葉を尊重したい』
「――ありがとう」
再び深々と頭を下げて、母は今度は礼を言った。
ありがとう、ありがとうと、繰り返し。
しばらくして顔を上げた母に、僕は『ただ』と書いた紙面を見せた。
『ただ、なまじ知ってしまったからには家族は家族。たまにで良いので、僕にも連絡をください。アドレスは――』
手早く綴って、千切ったそれを渡す。
『姉にも、いつか会えると嬉しいです。声が出ないから、コミュニケーションを取るのは難しそうですけど』
「いつか――そうね。いつか、あなたにもちゃんと会わせてあげる。せっかく知ってしまったんだものね」
いつか、とは、いつか。
いつになろうとも、きっと思うことは同じだ。
記憶上では一度も喋ったことがない相手。そんな相手に対して話しかけるならば、決まって一言目は『初めまして』なんだろうな。
相手は目が見えない、僕は言葉が話せない。
そんな条件で、どうやってそれを示すのかは課題だけど。
「母さんから連絡があった。行ってしまったんだな」
その日の夕餉時。
僕は父の言葉に頷いた。
「行くなと言っただろう――とは怒るまい。諸々話した、とも聞いたからな」
僕はまたも頷く。
同時に、お願いも一つされた旨を話した。
「お願い?」
『娘さん、僕の姉には、他人として接して欲しいって』
「――そうか。まぁ、そうだろうな。向こうも苦労しているみたいだからな」
『驚かないんだね?』
「まぁ、あいつの言いそうなことだからな」
父はそう言うと、珈琲を一口。
ふぅと息を吐いて、しかしまぁと続ける。
「俺も、成長した美緒に会ってみたいものだ。母さんに似て、美人に育ってるだろうな」
『顔はどことなくお父さん似だったよ』
「そうなのか――って、今日はいなかったんじゃなかったか? 二度目か?」
『一度目はたまたま。ほら、交差点沿いのコンビニが改装工事中だったから、迂回したんだよ。あと、その時は一瞬見かけただけだから』
「あぁ、そういうことか」
珈琲二口。
僕の話に怒らないのは、自身でも言っていた通り、母とは繋がっているからだ。
母からの連絡にて事の詳細も聞けば、内容次第で変動する、と。
それならばいっそ、別居を解消しても――とも思ってしまうが、ふと思い出すのは、今日の昼間に聞いた母の言葉だ。
――重荷になるようなこと――
不思議と、鋭く突き刺さる。
許している、とは言っていたが、姉の為とは言え、そんな言葉で僕らが語られてしまうと、少しくるものがあるのだ。
こっちだって、何も知らず、何も知らされず、出来ることを精一杯やって来たというのに。
苛立ちはしないが、どこか寂しさが募る。
『姉さん、目が見えないらしい。昔に遭った事故の所為だって言ってた』
「あぁ、知ってる。入院費は俺が持って、見舞いにも言ったからな」
『そうなんだ。でも、明るい顔してたよ。母の腕を頼りにして、ちゃんと自分の足で歩いてた』
「――そうか」
珈琲三口。
言葉に詰まると、食事よりも珈琲に手が伸びるのも父の癖だ。
そうして迎えた冬。
道を歩いていると、ふと前方に腕を組んで歩く二つの影が見えた。
特に何とも思うことなく、姉には僕の姿は見えず、母も他人のふりをしろと言っていたのを思い出して、僕は二人の横をそのまま通り過ぎた。
でも――
「きゃっ…!」
ふと後方から聞こえた、どすんと人の倒れる音。
路面が凍っていたから無理はないのだが、ただ――そう。ただ何となく、放っておけなくて、どうにも無視が出来なくて。
――大丈夫ですか?――
心の中でそう問いかけながら、僕は姉の手を取った。
「おかあさ――じゃない。えっと、あ、ありがとうございます…!」
どういたしまして。
口に出来ず、ただその手をぐいと引き上げて立たせる。
「え、っと――」
口籠る姉。
どうにかして欲しくて母に視線をおくると、仕方ないなと言わんばかりに小さく溜息。
「声が出せない人みたい。美緒を起こしてくれたのは男性よ。あなたより若いわ」
「男性、ですか。すいません、本当にありがとうございます」
僕は首を振る。
しかし、彼女には届かない。
どうしようか、と迷っている内、彼女は僕に名前を問うて来た。
声が出せないのに、無茶を言う。
少し悩んだ末、僕はふと、握っている彼女の手に目が行った。
これならいけそうだ。
「ひゃっ…! な、何ですか…!?」
急に手に平を這った指の感触に、姉は声を上げながら身体を震わせた。
名前を書いてるんだよ。そう言いたい旨を孕んで、僕はその手を何度かぽんぽんと叩いてみた。
書いてくれるんですか、と彼女が控えめに聞き返すと、僕はゆっくりとそこに自身の名前を綴っていく。
――やまもと たくや――
分かり易く、全てひらがなで。
書いている最中、姉は何だかもどかしいような悩ましいような声で身体をくねらせていた。
「やまもと、たくや――やまもとたくやさんですね。山の本を拓く也、で字は合ってますか?」
『うん』
「そうですか。改めて山本さん、起こしてくれてありがとうございました」
『気にしないで』
それだけ書いて、僕は姉の手を離した。
代わって、ただ見届けているだけの母が「そろそろ」と口を挟む。
「あ、うん。またどこかでお会いしましたら、その時はまたお話しましょうね。本当にありがとうございました、山本さん」
そう言って姉は上体を倒す。
僕は手を振ってみるが――それは母にしか伝わらなかった。
しばらく。
母の許可も僅かだが下り、以降少しずつ出会うようになった。
ふた月置き。ひと月置き。二週間置き。
今では、一週間置き程度。
そんなある日は、姉が公園に行きたいと言い出した。
母に許可を求めると、近くの○○公園ならいいわよ、と。
そういって連れ出し、手を握ってゆっくりと歩くこと十数分。
辿り着いたそこで、僕はいつものように姉の手を取った。
『今日の調子は?』
答えはまぁまぁ。
良くもなく悪くもない。つまりは、いつも通り問題はないということだ。
それを聞いて、どこか安心している僕が居る。
変わって、姉は僕に世界の様子はどうだ、と聞く。
話せなくとも饒舌な僕に、少し前から尋ねるようになった言葉だ。
『いつもより人が多い。ごちゃっとしてる』
視たままの風景を、僕は彼女の手に記していく。
話している内、姉は母に申し訳なさを感じていることを告白してきた。母に迷惑をかけている自分が、自分で情けないのだと。
それは僕も同じで、父に申し訳なさを感じている。
普通の人なら出来て、僕が助けることも出来る筈の行動を、父が一人で全てやっているのだ。
見ていて、あまり快いものではない。
『僕の悩みなんて小さなものだよ』
そう言うと。
「悩みに大きい小さいはありませんよ? 同じ悩みでも、それぞれが思う大きさに姿を変えるんです」
どこか、心が落ち着いた。
その一言で、姉の心の強さが分かってしまった。
自身も目が見えないという状態にありながら、僕にそんな言葉をかけるのだ。
辛いことを辛いと認め、他と比較することなく――けれど前向きに、明るい口調で言ってのけるのだ。
『ありがとう』
気が付いた時には、僕はそう姉の手に滑らせていた。
なまじ知ってしまった事実に、現実に、それを隠して生きなければいけない未来に。
実を言うと、少し息が詰まりそうだった。
「そろそろ戻りましょうか。拓也さんの言う通り、お母さんに心配をかけちゃいます」
姉の一言で意識が現実に戻されると『うん』と返して席を立つ。
少しふらつく姉の身体を支えながら、ゆっくりと。
そのまま手を引いて歩いて、公園を後にして、母の待つ家へと向かっていく。
いつも通り、何も変わらない平和な道を。
そう、思っていたのだが。
ふと聞こえたのは、後方より近付くトラックのタイヤとエンジンの音。
こんな一般道で、随分とスピードを出している。
何となく振り返ると、それはすぐ十メートル程先のところまで迫って、僕らの方へと突っ込んできていた。
彼女を引くのでは遅い。かといって、庇うにしても、あのスピードでは二人とも――
迷った末。
―――ごめん――
そう心の中で叫んで、
「ねぇ、拓也さん。あなたは――」
何を言いかけていたのか。
そんなものに構っている余裕なく、僕は姉の身体を突き飛ばした。
衝撃で頭を――と認識するより早く、思考の速度を超え、僕は遥か上空へと打ち上げられた。
暗い暗い、何より暗い意識の底。
海底より深く、闇より暗い、誰にも触れられない底の底。
誰に声をかけられるでもなく、誰に触れられるでもなく、意識はただ、どこかを自由に浮遊している。
これは、僕の意識なのか?
夢か幻か、あるいは誰か他人の心か?
どちらでもなく、また新しい生命の芽か?
答えは分からない。
意識的に動けず――いや、意識すらも怪しい摩訶不思議な感覚があるばかりだ。
誰かそこにいるなら、何かそこにあるなら、何だって構わない、教えてくれ。
僕は、どこに行けば――
僕は何をすればいい?
――……さん――
誰かの声が聞こえる。
懐かしいのか新しいのか分からないけれど、優しい声。
――たくやさん――
人の名前を呼ぶ声が聞こえる。
それは確かに、僕の名前だ。
――うぅ……――
誰かの嗚咽が聞こえる。
僕の手を強く握って離さない誰かの、消え入るように小さな声。
泣かないで。
君には、明るい顔が似合っている。
誰かは分からないのに、意識ははっきりとしないのに、どうしてそう思えるのだろう。
自分で自分が分からない身で、どうしてそう思ってしまうのだろう。
ふと、左手の平に誰かの指の感触。
すべすべて冷たくて、小さくて、細くて――それでいて力強い指先が、僕の手の平を這っていく。
ゆっくり、ゆっくりと、何か文字を刻んでいる。
あぁ。そうか。
彼女か。
――おはようございます――
それなら、目覚めないとな。
何をすればいいのか定まったのなら、それに従って起きないとな。
相変わらず意識はふわふわと漂っているけど、別に無理に動く必要はない。
どこからともなく広がって来る光を、ただ待っていれば良いだけだ。
君が無事で、本当に良かった。
ただ、生きてくれていて良かった。
元気で居てくれているなら、僕はそれに応えるだけだ。
『おはよう。調子は――』
どちらでもない。
特別陽気な訳でも、下がっている訳でもない。
なら、別にどちらでも良いか。
今の君に相応しい言葉で以って、僕はこのどっちつかずな感覚を表現しよう。
『良いよ』
そう書いた瞬間、僕の手を握る彼女の手が、痛い程に力を強めた。