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見えない 話せない  作者: ぽた
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見えない

 多分、どっちでもなかった。

 彼は――拓也さんは、私が好きでも嫌いでもなかったんだ。

 好かれるメリットもなく、かといって嫌われるデメリットもない。

 そんな彼だから、私にアプローチしてきたんだ。


『今日の調子は?』


 と、彼は私の手のひらに指で書いた。

 一文字書き終える毎に、文字を綴らず私の手のひらを支えている左の指で、私の親指をきゅっと丁寧に押さえて合図を出しながら。


 私は目が見えないから、すんなりと分かるようになるまでは時間がかかった。

 初めの方、彼は一文字一文字間をおかずに書くものだから、なかなか追うことが出来なかったのだけれど、今の方法に落ち着いてからは、それがスムーズに出来るようになった。


 それを提案したのは私。

 我儘を言って、私の分かりやすいように変えてもらったのだ。


「まぁまぁ、ですよ。そんな拓也さんに聞きますが、今日の世界の様子はどうですか?」


 私が口で答えると、また彼は私の手のひらに文字を綴っていく。


『いつもより人が多い。ごちゃっとしてる』


「声はよく聞こえています。子どもが多いようですね」


『休日で、ここは公園だからね』


「そうでしたそうでした」


 通院ばかりで曜日感覚が少しあやふやではあるが、言われればそうだ、という程度には把握できる。

 もっとも、それは彼あっての話なのだけれど。


「今日は少し肌寒いですね…」


 別に、彼に何かを催促したわけではなかったのだけれど。

 彼は文字を綴らないで、代わりに自分が羽織っていたであろうカーディガンを、そっと私の肩にかけてきた。


「拓也さんは寒くないんですか?」


『暑がりだから』


 それは強がりだと分かる。

 末端冷え性なのか、例え夏場であっても、彼はたまに指先が冷たいことがある。


 彼は優しいから。


 似たようなことで、私も寒がりで今日は暖房を入れていたものだから、家を出る際に羽織を持ってくるのを忘れたのだ。


「それじゃあ、甘えちゃいますね」


 文字を綴らずに親指だけ押さえるのは『うん』の意味。

 間隔なく訪れたその感覚に、私は「ありがとうございます」とくるまった。


 彼と出会ったのは、去年の冬。

 近場なら大丈夫だろうと、コンビニで暖かい飲み物を買った帰りのことだ。

 雪が少し溶けてから固まった氷の上で足を滑らせ、尻餅をついた私を、母より早く彼が助け起こしてくれた。

 しかし、彼はそのままで何も言わなかった。


 隣にいた母の言うことには、声が出せない――話せないのだということが分かった。


 彼が、実は家がすぐ近所なのだと知ると、何かと気にかけて母や私を手伝いに来てくれるようになった。

 父と母は、私が幼い頃に離婚してしまっているから、男手は大いに助かっている。

 彼の厚意に甘え、力仕事や私の暇潰しなんかは特に。


 今日みたいに、たまに外へと連れ出しては私の手を離さない。

 転んで怪我でもしたらいけないから。

 彼はそう言うけれど、あの日は路面の状態が悪かったからで…


「いつも、ありがとうございます」


 そんなことは言えず、私はまた感謝の意を述べるばかり。

 これだって本音は本音なのだけれど。


『好きでやってることだから、気にしないで』


「うん」


 頷くと、私の手を取る彼の手に、少し力を込めてみた。

 それで何を伝えようとしているわけでもなかったけれど、何となく――そう。ただ、何となくだ。

 言葉には『気にするな』といった言葉でしか返してくれないから、その所為なのかもしれない。


『あまり長く出てると、またお母さんに心配させちゃうから、そろそろ戻ろうか。外の空気はもう良い?』


「はい、満足です。言ってしまえば、ちょっと気分転換が出来るなら、家のお庭でも構わないんです。ただ、家にずっといるのが窮屈なだけで」


『お母さんに申し訳ない、とか考えてる?』


「それもあります。でも、一番は――私自身が、私自身に納得出来ないと言いますか…年齢だって二十歳を超えてますし、しっかりしないとって」


『何となくは分かる。僕も、父には迷惑をかけてばかりだから』


「お父さん?」


『うん。作家業だから家にいることが多いんだけど、電話とか宅配とか、何にも出ることが出来ないからね』


 その一文を書く指先は、いつもより少しばかり力が弱かった。

 本音――普段はあまり話してくれない、彼の思っている本当のことなのだ。


 それが、どうにも私の境遇と似ているから、少し心が痛くなった。

 目が見えないから電話も取れない。

 目が見えないからハンコも押せない。


 ちょっと種類は違うけれど、抱える悩みは似たような感覚なのだ。


「それは――拓也さんも苦労しておられるんですね」


『そんな。志穂しほさんに比べれば、僕の悩みなんて小さなものだよ』


「悩みに大きい小さいはありませんよ? 同じ悩みでも、それぞれが思う大きさに姿を変えるんです」


 それは以前、私が母から言われたこと。

 こんな悩みがあるんだ、と今のような話を相談したところ、母から返ってきた言葉だ。


 すると、私の手を支える拓也さんの手に加わっている力が、僅かに緩むのを感じだ。


『ありがとう』


 不意に、彼がそんな文字を書いた。

 優しくゆっくりと、ちょっとだけこそばゆいくらいの強さで。


「どうしてですか?」


『ちょっとだけ、救われた』


「――何に、かは聞きませんね。どういたしまして」


 私がそう言うと、彼はそれ以上何も書かなかった。


 どちらかと言えば、救われたのは私の方――


 なんて。

 今は、あまり言える空気ではなかった。


「そろそろ戻りましょうか。拓也さんの言う通り、お母さんに心配をかけちゃいます」


 私の言葉に、彼は親指をきゅっと握った。

 いつもと同じ『うん』を意味する動作。


 私も同じく「うん」と置くと、彼の促しで立ち上がる。

 ふらつきそうになるのを彼が支えてくれるのも、もうお馴染みになってしまっていた。


 不安定な足元にふらつくのも、何も今に始まった事ではない。

 私は元々、目が見えていたのだ。

 彼と同じであろう景色を見、彼と同じであろう私自身の顔を、毎日鏡で見ていた。

 きっかけは――飲酒運転をしていたトラックの運転手による暴走事故に、不幸にも巻き込まれたからだった。


 その当時から暫く、私は何度も自殺を考えた。

 身を投げるか、首を吊るか、方法は何でも良かった。

 ただ母の重荷になりたくなくて、厄介を抱えさせたくなくて、そんなことを思い立っていたのだ。


 しかし、その後の処理に葬儀諸々、時間にお金にとかかることを知ってからは極力生きてやろうと思い始めた。

 せめて面倒は起こさないよう、大人しく、大人しく。

 通院以外でなるべく家から出ず、ただ静かに、誰の目にも触れぬくらいの人生で良かった。


 それを、あの日――


 隣に母がいたと言うのに、傷も痣も痛みもなく立ち上がれたと言うのに、彼はなぜ、私を助け起こしてくれたのだろう。

 嫌味を言いたいわけではない。

 偏見と笑うがいいけれど、何事もなさそうであれば、隣に人がついているなら、見かけても、そうそう駆け寄るような行動には出にくくないのだろうか。


 そういえば、彼も後天的に声が出せなくなったのだと言っていた。

 とある理由があって、急に、と。

 どこか似ている彼に甘やかされて、安心感を得ていたけれど――あまり褒められたものではないな、私。

 でも、それを善しとしてくれている空気が今はあるから、まだしばらくは。なんて考えてしまう私は、やっぱりまだ、用意された空間に甘えているのだ。


 もう少し、しっかりしないといけないのに。

 いずれは彼だって、私の傍から――


 何だろう。

 それは、少し悲しい。

 悲しいし、寂しい。


 私の手を取る彼の手は、私のよりも二回り程大きくて、ごつごつしていて、どうしても離してくれなさそうに逞しい。

 きゅっと強めに握って私を引き寄せながらも、私が転ばないような速さで歩いてくれている。

 声が出せずとも、いや出せないからこそ、行動に心が全て乗っている。 


「ねぇ、拓也さん。あなたは――」


 どうして、そこまで優しくしてくれるのか。

  

 問いかけたところで、私は口を噤んだ。いや、噤まざるを得なかった。

 不意に私の身体が、何かに弾き飛ばされるような衝撃で以って右方へと放り出されたからだ。

 

 彼の手は離れ、成す術なくそのまま地面に倒れ込んで――


 打ち付けられた衝撃で、私は意識を手放した。






 暑い。

 寒い。

 

 どちらか分からない感覚が、私を襲っている。


 纏わりついて離れない重い空気に、遠ざかっては近付いて来る足音。

 ふわりと漂う刺激的な香りの次は、香水のようないい香り。

 そして、ちくりと痛む腕。


 視覚以外の感覚で以って認識するそれらの環境は、どうやら病室であるらしいことが分かる。


 ピ、ピ、ピ、と規則正しい音は心拍を測る機械。

 足音は医師にナース。

 刺激的な香りは薬品で、腕にあるのは注射の痛みだ。


「私……」

 

 呟いた刹那。


「目が覚めましたよ、お母さん」


「志穂…!」


 若い女性の声に次いで届く、母の叫ぶような声。

 ――久しぶりに聞く声。


「どこか痛むところはない?」


「痛み止め? が効いてるのか、どこも痛くはないけど……私、なんで病院に?」


 そう問いかけると、丁度近付いて来た足音。

 私の傍らでピタリと止まって響くのは、低く落ち着いた男性の声だ。


 曰く。

 居眠り運転で突っ込んで来た大型のトラック。

 その事故に巻き込まれて脳震盪を起こしたというのが、事の内容らしいのだけれど。


 巻き込まれて、とは。

 感じた所、何処かが折れている訳でも、痛い訳でもない。

 眠っていたのは確かだから、脳震盪は起こしていたのだろうと分かるけれど――


「巻き込まれて…?」


「えぇ、巻き込まれて」


「私は、トラックと接触したのですか?」


「いいえ、とだけ」


 トラックと接触したわけではない、巻き込まれ?


 一瞬、私は先生の言っていることが分からなかった。

 詳細が欲しくて、先生に「あの」と声をかけた瞬間、


「ただ――」

 

 と先生は置いた。

 私が言葉を続けない一拍遅れて、続けざまに放たれる言葉。


「その現場には、君の他にもう一人いたよね?」


 と。


 詳細を語られるまでもなく、私は激しい動悸に襲われた。

 もう一人――彼に、何かあったのだと理解した。

 

 私は先生に、彼の病室へと連れて行くよう頼んだ。

 しかし先生は、まだ治療中で病室ではないんだ、と答えた。


 それが何を意味するか。

 考えなくとも、直感した。


 大型のトラックに巻き込まれた事故で、脳震盪一つなんてあり得ない。

 彼が、私を護ってくれたのだ。

 不意に感じた横への衝撃は、彼が私を突き飛ばした力。その際のダメージで脳震盪を起こしただけで、元私が居たであろうその場に留まった彼は――


 嫌な予感しかしなかった。






 数日後、私には退院の許可が下りた。

 彼は依然として、処置に検査と回されているらしい。


 食事は喉を通らず、虚しいだけの時間が過ぎていく。

 あの優しい手に触れられない寂しさが日に日に増すばかり。

 いつになったら。明日には。明後日には。

 彼の回復を心待ちにしながら、私は通院ついでに彼の病室へと通ったけれど、そう願う次の日が来る度に彼の状態が一切変わらない現実を思い知らされて――通院の必要がなくなると、私はついに病室へは通わなくなった。


 代わりと言っては言葉が悪いけれど、以前のような生活に戻った。

 母が私の身の回りの世話をする、母曰く”当然”の日々。

 今度また何かが起こらないようにと、外出は極力控えるよう言いつけられたけれど。


「前みたいに、何かが失われなくて良かった――もう怖い思いはさせない。私がずっと傍にいるから」


 と、母は言う。


 母がそれを口にする度、私は彼の名前を出す。

 彼が護ってくれたから、私は何も失わなくて済んだんだよ、と。

 すると、今までは自然”他人”に対する接し方をしていた母だったけれど、それを境に、泣きながら「そうね」と呟くようになった。

 目が見える母なら、彼の状態を知っているのだろうから。


「彼のお見舞いに行きたい。お願い、お母さん…!」


 我儘はあまり言わない、といつだったか誓った私だったけれど、その時ばかりは声を荒げて頼んだ。

 何を置いても、やっぱり私は彼のことを知っておかなければならないのだ。

 私の、失われていたであろう諸機能――言ってみれば命そのものを救ってくれた彼を放って、また母に護られながら生きるのなんて、私でも母でもなく、彼に悪い。


「――これから、行きましょうか」


 母は私の意を汲んでくれた。

 言った通りにすぐ支度をして、車に乗り込んで、目指すのは私が入院していた――彼がまだ入院している病院だ。






「面会を……えっと、山本拓也さん」


「はい、山本拓也さんですね。三〇五号室になります。左手に進んでいただきまして――」


 初めて会う知らない受付の案内を聞き流し、私はそのまま病室へと向かった。

 左手奥の一つ手前。既に歩きなれた場所だ。


 一歩。二歩。三歩。

 母の支えを頼りにしながら歩く。


 彼にはやく会いたい。反応してくれなくとも、その手を握って、そこにまだ居るんだとしって安心したい。 

 そうはやる気持ちとは裏腹に、私の歩みは遅い。

 母の支えがないと、立っても居られない弱虫なのだ。


 思えば、それに付き合ってくれる母も母だった。

 改めて、お礼を言わないといけない――けれど。


 今は、今だけは、彼のことだけ考えていたい。

 でないと、すぐに足がもつれて倒れてしまいそうだから。

 せめて、病室に辿り着くまでは。


「はぁ…はぁ…」


 息も切れ切れ。

 病室扉の手すりに触れた瞬間、私は言いようのない感覚を覚えた。

 そのすぐ右側――壁につけられたベッドの上に、彼は寝ている。


 ピ。ピ。ピ。

 規則正しい音は、彼がまだ十分に息をしている証拠。

 起きているのか、まだ寝ているのか。彼は声を持たないから分からない。

 

 母に誘導してもらって、私はベッドの傍らにある丸椅子へと腰かけた。

 手を伸ばし、柵に触れながら、ゆっくりと布団の中へ。


「拓也さん…」


 触れた手には、何本もの管が絡みついている。

 機械に点滴といったところだろうか。

 

 冷たい。

 どんな状態なのだろう。

 彼は、目を開けているのだろうか。ちゃんと、私の顔を見てくれているのだろうか。


「…………」


 私はそっと、彼の手の平を天へと向けた。

 目覚めたばかりなら、声は響いて仕方がないかもしれないから。


『おはようございます。調子はどうですか?』


 ゆっくりと、彼の手の平に指で文字を書いた。

 慣れないそれはたどたどしく、ちゃんと伝わっているのかは怪しいところだけれど。

 彼の手を元に戻して少し持ち上げて、その下に私の手の平を広げて置いた。反応、してくれると良いのだけれど。


 ピ。ピ。ピ。

 

 無機質に響く機械の音が、耳に届く。

 彼はぴくりとも動かない。


「…………うぅ…」


 堪えきれなくなった嗚咽が零れた。

 せめて文字が返って来るまでは、と決めていたのに。


 美緒、と呟きながら肩に手をやる母には、彼の姿が見えている筈。

 しかし、それを尋ねてしまったら、何か嫌なものを想像してしまいそうで、私は母に頑として言葉を返さなかった。

 

 彼が指を動かしてくれるまでは――


『お』


 項垂れていた私の手の平に、確かな感触があった。

 ゆっくり、重々しく、同時にこそばゆい感覚。


 はっとして顔を上げて、私は布団を捲った。

 見える筈はないその手が、私の目には映らない筈のその手が、僅かに持ち上がっているのを感じる。


『おはよう。調子は――良いよ』


 少し遅れて、良いよ、なんて返って来たものだから。

 どうしようもなく涙が出てしまった。


 私がいたから、私のせいで、私を庇ったからこうなっているのに。

 調子は、最悪、くらいには思っていたのに。

 どこまでも、彼は優しい。あっけなく先に目覚めた私を気遣って――いや、きっとそれも本心で、彼はそんな風に書いたのだ。


 良かった。

 ただ、生きてくれていて良かった。


 どれくらいで退院出来るかは分からないけれど、きっと、いい方に向かってくれる筈だ。


 ごめんなさい。

 ありがとう。

 

 その二つを思い浮かべながら、


『また、お散歩にでも』


 震える手つきでそれだけ書いて、私はそっとナースコールに手をかけた。


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