第三話
どん、と大きくしりもちをついた。あまりの痛さに背中を丸めて尻をさする。おや、と言う声が聞こえたのは直後だった。
「転移か」
え、と思わずこぼれて、声のした方を見る。振り向くと、白……というより銀色の髪に、袴をはいている青年がいた。彼は目を細めると、僕の目の高さまで腰を下ろした。僕も彼の方を見る。彼は左手を僕の頬に添えると、静かに目を閉じた。そして、数秒して目を開ける。
「……ああ、なるほど」
何がなるほどなのか、理解できない。彼は僕の方を見て静かに笑い、立ち上がって僕に手を伸ばす。
「おいで、君を元の世界に返してあげよう」
僕は差し出された手に、迷いながら自分の手をゆっくり伸ばした。その手が彼の手を掴む前に、彼は僕の手を取って僕を立たせた。
「怪我は?」
首を横に振る。少し前、抱えられていた腕から落ちた気がするが、さほど大したものではないだろう。
「そう。じゃあついておいで」
彼は僕に背を向けて歩き出す。僕は彼の跡をついて行った。そこで初めて周りを見る余裕が生まれたのだが、周りは夜の森だった。木々は彩を失い、ただ闇の色を反映していた。きっと今湖を見ても、そこには誰も映らないのだろう。自分自身の手でさえも見えづらい。だが不思議なことに、目の前の彼だけははっきりと視界にとらえることが出来た。発光している訳ではないが、夜の闇の中でも彼の存在は浮き立っているようだ。
「あの、あなたは誰ですか?」
思い切ってそう聞くと、彼は少しだけ振り返って、
「名乗るほどの者ではない」
と答えた。僕はそれ以上、名前に関して聞いてはいけない気がした。
「ねえ、ここはどこなんだ?」
そう尋ねると、彼は前を向いたまま答えてくれた。
「ここはね、入っちゃいけない森なんだよ。特に君みたいに、異世界から来た人はね」
「異世界?」
「ここではないどこかのことだよ」
彼はそう言うと黙り込んでしまった。こちらが何を質問しても、彼は一切答えなくなった。不安や焦燥が心の中をめぐる。そうして歩いていると、ひゅう、と冷たい風が前から僕の体をかすめた。何だと思いながら進むと、彼は歩みを止めた。合わせて僕も止まる。彼が僕の方を見て、前へ進むよう促した。僕は彼を見て、その後改めて前を見る。
そこには、闇があった。底の見えない闇。森が森だと分かる闇を定位だとすると、きっと谷底。入ってしまえば手どころか自分の存在すらも見失いそうな、そんな闇があった。
「さあ、ここに入ってごらん。運が良ければ片腕がつぶれる。運が悪ければ四肢が腐る」
二つの言葉が、ぞっと背筋を走った。腐る? つぶれる?
「あの、それってどういう……」
「文字通りさ。まさか、転移先に戻ることに何の代償も必要ないとは思ってないだろうね。代償があるから転移は成功するし、代償があるから元に戻れる。まあ何の代償もいらない場合もあるが……運が悪かったね。ここから帰るにはこの方法が一番時間がかからない」
「そんな……あの、時間がかかってもいいので、ここから無傷で還る方法はないんですか?」
「あるよ。だが長い距離足を運ばねばならん。君みたいに見えるだけの子は狙われやすい。こちらが見えるという事は、向こうも見えるという事だ。別の転移場所にたどり着くころには、『あの時四肢を犠牲にしてでも帰ればよかった』と後悔することになるだろう。いや、そもそもたどり着けるかどうかを心配した方が良いか……」
「……? あの、今」
見える、って。見えるという事は、って。それって。
「ん? 何」
「あの、僕のこと、知ってるんですか?」
「ああ、よく知ってるよ。西崎君。君は、見えないはずの世界で、見えてしまうみたいだね」
彼は僕の瞳の中を覗いている。彼の瞳はミルクのような淡い白。
「あの、あなたは誰ですか?」
「名乗るほどの者ではない。さっきも言ったよ」
彼はくすくすと笑っている。
「ま、ひとつ言うなら、君が今俺を見ているから、俺は君が見えるんだ」
その言葉を聞いてはっとした。先ほど、彼が言っていたこと。それは、確かこちらが見えるからそちらも見える、だったか。ということは。
「あなたは、魔物ですか?」
そうでないことを願いながら、震える声で尋ねた。彼は首を横に振る。
「ちょっと違うけど、まあ似てるね」
その言葉に心底不安が隠せないまま、続けた。
「あの、この目について知ってるんですか?」
「ああ、よく知っているよ。君が知りたいというなら教えてもいいけど」
「じゃあ、教えてください」
「いいよ。でもその前に、君について教えてね」
彼は僕の不安を撫でるように、穏やかな顔つきでそういった。
***
「割と小さいころから奇妙なものが見えました。それはこの世界にごく当たり前に存在していて、それは時に人の姿をして公園のベンチに座っていたり、犬の姿をして道を堂々と歩いていたり。だけど、分かるんです。何かが違う、って。そして、決まってそれは僕以外の人間には見えませんでした。とてつもない違和感を感じたうえで見つめていると、ふとそれがこっちを見返してくる。そして犬であっても猫であっても、虫であっても、うれしそうに笑うのだ。笑っているのがわかる。それがおぞましくて、急いでその場を立ち去っていた。家族がいようが、友達がいようが、お構いなく。そのせいで幻覚が見えるのではないか、と両親に言われ、多くの病院に送られていた。時には寺にも送られた。だが結局解決はしなかった。そうして十三歳になるころに決めた。もう、見て見ぬふりをしようって。見ないようしようって。そうして無視をし続けた。両親も、僕の幻覚が治ったんだろうって思って何も言わなくなった。見えないようにしていた。見えないようにしていた。だけどそれは僕の視界のなかにいつだってあらわれて、僕を見ると笑っていた。たまについてくる連中もいた。僕は苦しくて、つらくて、どうしようかって思ったまま受験期を迎えた。その中で、ある高校の体験入学に行ったとき、校内にまったく魔物がいなかった。どこを見てもいない。僕はここだと思って、その高校を受験した。全寮制の学校だったけど、どうしてかつらくなかった。辛くなかったんだけど……突然頭の中で声がして……先輩の散歩に付き合ったら、それで……」
そうして言葉を詰まらせると、彼は僕の背中に手をあてて、どこかに誘導してくれた。腰を下ろすよう言われて下ろすと、そこには倒木か何かあるのだろうか、座れるようになっていた。視界が暗くてよく分からないが。彼は今までの話をかみ砕くようにうなずくと、口を開いた。
「……君の目はね、この世ならざるもの、つまり、君の世界にいちゃいけないものを見てしまうんだ。君が魔物と呼ぶものがそうだね。彼らは『君の世界の目』を欺くために、君の世界の住人に成りすまして存在する。君は、そんな不法侵入者共を見てしまうんだ。たったそれだけ。ただ、先ほども言った通り、君が見えるってことは連中も君のことが見えている」
それを聞いて思ったのは、その連中は僕を殺しに来るのではないか、ということだ。僕はこの世ならざる彼らが見えて、彼らは秘密裏にこの世に滞在するために姿をこの世界のものにしている。それを看破されては、この世に滞在する意味がない。滞在してはいけない。
「あと、訂正。今の話聞いて分かったけど、君が見ているものは厳密には魔物ではない。まあ、『外れもの』とでも認識しておきなさい」
僕は頷いた。
「よろしい。で、どうして君がそんな不安そうな顔をしているのか当てようか? 外れもの達に殺されるから、だろ? 連中に口封じのために。
まあ、その可能性はあるよ。君が十八を超えてもその能力を有していたらね。
っていうのも、君以外にも君と同じような能力を持った人々はたくさんいる。その多くは、十八くらいになったら自然と能力が消えるんだよ。能力と同時に、見えていた、という記憶もね。だからもし、君が大人になって『昔は幻覚が見えていたんだよ』と家族に話されても、それは他人事のようにしか思えなくなる。そんなレベルで、君の中からその記憶は消滅するんだ。だけど、万が一消えなかった場合、それはつまり、君に『見る』以外にも『追い払う』能力があるということだ。
連中はさっきも言った通り、この世にいてはいけない存在だ。だから、連中をこの世界から追い払う人々もいる。彼らは一般人のふりをして社会に溶け込んでいるが、連中を見つけたら即座に世界の力を借りて連中を世界の外に追い出す。彼らはもちろん外れものを幼いころから見ることもできるし、追い払うこともできるっちゃあできる。そしてそれは大人になるまで変わらない。『見る』と『追い払う』、この二つの能力を持っていれば、十八になって『見えなくなる』ということはあり得ない。だけど、『見る』能力しか持ってない子は、十八になるとこれが記憶ごと消滅する。
ここからが本題なんだけど、『追い払う』の能力を持っていれば自然と連中に狙われる。見えるだけなら自分たちに危害はないが、追い払われちゃうといけないからね。で、さっき君が話してくれた、『目が合うと微笑まれる』って話だけど……。
それね、マーキングなんだ。君と目を合わせて微笑んだやつらは、常に君がどこにいるのか、分かる」
彼は少し深刻な面持ちでそういった。僕は一瞬相手が何を言っているのかわからなかった。
「ただまあ、十八になって消えたらいい話なんだけどね」
「消えなかったら、僕は殺されるんですか?」
「そうだね」
くらりと視界がゆがんで、後ろに倒れそうになった。彼がすぐに背中に手をまわして、僕を支えてくれなかったら、今頃僕は倒れていただろう。
「……あの、どうすれば」
どうすればいいんでしょうか。
「方法としては三つかな。一つ目、自分に『追い払う』能力がないことを祈りながら十八まで待つ。二つ目、『追い払う』能力を持っている人たちを探してかくまってもらう。三つ目は……ここに留まる」
三つ目の提案をしたとき、彼が少しだけ笑っているような気がした。
「ちなみに言っておくけど、このままずっとその高校に滞在するってのはすすめられない。君は脳に変な声が入ってきたって言ってるけど、それたぶん妖精だね。しかも妖精は君の中に長らくしみついていた幻術を解きに来たらしい。妖精がいなきゃ解けない幻術を生徒にかけるなんて、明らかに怪しい。もし君の中に『追い払う』能力があれば、間違いなく連中は目をつけると思うよ。『見る』能力は持っていても、『追い払う』能力を持っている人は少ないからね」
それは頭の片隅で考えた。だがダメだというのなら、先ほどの三つから……でも一つ目は避けたい……二つ目は、当てがない。だが三つめも、どうだろうか。
「君の考えてること当てようか。一つ目は避けたい、二つ目は当てがない、三つめはできるなら避けたい」
「どうしてわかるんですか?」
「君の顔にそう書いてある。それに、まっとうな人間ならそう思うはずだ」
「じゃあ、どうすればいいですか」
「それは君が選ぶことだ。実質二択なんだけど」
「……ここに滞在すると、どうなるんですか?」
「まず、ここじゃ『見える』のが当たり前だ。ここは外れものを受け入れる世界だからね。だから、君だけが狙われるってことはない。むしろ、狙われないかな? 外れものはこの世界だと、追い払われる必要もないから、仮に君は『追い払う』能力を持っていたとしてもこの世界じゃほとんど役に立たない。ま、普通に暮らせるってこと。ただし、あの洞窟」
と言って、彼は深い闇を指さした。あれは洞窟だったのか。そう思ってみても、はっきりは分からないのだが。
「あれは基本一か月に一度開くか開かないか、なんだよね。開いたときは低確率で外から誰かが来たといわれている。そして一度閉じてから次開くまでは、君がいた世界では多分五十年くらいかかってる。今は開いているからこの世界の時計は異世界と同じリズムを刻んでいるけど、閉じてしまえばもう次開くまでは異世界と違うリズムを刻む。だから、まあわかりやすくいうと、一度こちらに滞在すると決めるなら、もう二度とあっちに戻れないということ」
さあ、どうする?
と、彼が怪しく笑っている気がした。僕は……
一、洞窟を通って元いた世界に帰る
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二、ここに留まる
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