3
エリィの乗った馬車が、エストレーム家の屋敷へと帰っていく。
行く先々には多くの人々が集まっていたが、エリィがその面を見せることはない。
これを、ジャックの領地の者もエリィの領地の者も不審に思った。
いつもいつも太陽が地上に降臨するがごとき笑顔を振りまいていたエリィ。
今日まで彼女が顔を見せなかったことは一度もなかったからである。
「どうしたんだエリィ様は」
「体調でも悪くされたのか」
「いや、朝見た時はいつもと変わらず眩いばかりの美しさでいらっしゃったぞ」
すわ何事かと騒ぎ立てる人々。
彼らは、やがてその矛先をジャックに向けた。
ジャックの屋敷を訪れる際はいつもと変わらぬ姿だった。ならば原因はジャックの屋敷を訪ねてからのことに相違ない。
こうして人々は名探偵となり、口々に犯人ジャックを罵る声をあげたのである。
すると数日ののちにある噂がたった。
――婚約破棄。
エリィとジャックの間に交わされていた婚約が破棄されたというのだ。
これを聞いたジャックの領地の人々は口々に言った。
「やっぱりな。うちの若様には悪いが、エリィ様とは不釣り合いすぎるもんなあ。あれじゃあエリィ様がかわいそうだ」
「だよなあ。月とすっぽんなんて言葉があるけども、ありゃ月とボウフラ、月とゾウリ虫だろ。身の程知らず過ぎるべ」
またエリィの領地でも、皆は口をそろえて言う。
「私達の女神様が、あんなでき損ないのゴブリンみたいなのと結婚しなくてよかったわ!」
「そうよねぇ、エリィ様ほどの美貌なら国の王子さま……いや、王子さまでももったいないわ。神様くらい連れてきてもらわないと」
仮にも貴族である者に対して、あまりにも酷い言いよう。
このことを耳にしたジャックが三日三晩寝込んでしまったというのは、本編には全く関係のない話である。
とはいえ、婚約破棄が領民に好意的に受け取られてはいたのは、ジャックにとって不幸中の幸いといったところであろう。
さて、そんなこと知ってか知らずか、屋敷の戻ったエリィはずっと自分の部屋に引きこもっていた。
屋敷に戻ってから、もう三日。
その日もエリィはベッドに潜り込み、シクシクと失意に暮れていたところであった。
「うう……」
止まらぬ嗚咽。
エリィはとても悲しかった。
胸が張り裂けそうに心が痛み、食事だって喉に通らない。
涙が一つこぼれる度に、エリィは自分がどれだけジャックのことを好きだったのかがわかった。
でも段々とジャックの気持ちを考えるようになる。
彼がエリィに対し持っていたうしろめたさ。
それは――顔。
エリィ自身、己の顔の異常には気づいていた。
鏡で見ると一見整っているだけ。されど、他の人には違って見えているようなのだ。
人々は、神々しい光を放っているだとか、美の極致、全ての生物の頂点だとか、蒙昧にしか思えないことを口走る。
最初はなにかの冗談かとエリィは思った。
しかし違う。
外を歩けば、太陽は恥じ入るように雲に隠れ、地に咲く花は顔を隠すように蕾に戻る。
どう考えても、異常であった。
(結婚したいって思って死んだから……だから神様がお願いを聞いてくれて、こんな綺麗な顔になったんだって思ってたのに……。こんなのってあんまりよ……)
心中で、神様に向かって恨み言を呟くエリィ。
不意にエリィの脳裏にいけない考えが思い浮かんだ。
エリィはベッドを抜け出すと、ふらふらとした足取りで化粧台の前まで行き、引き出しに手をかける。
寸秒後、エリィの手には、引き出しから取り出された一本の果物ナイフが握られていた。
(これで顔を傷つければ……)
エリィが、ゆっくりと己の顔にナイフの刃先を近づける。
手は汗ばみ、動悸も激しくなっていく。
やがてナイフが顔に触れるか触れないかのところまで近づいた。
だがそこまで。
なんと、ナイフはひとりでにフニャリと曲がったのだ。
生物だとか物質だとか、そんなレベルじゃない現象。
もうわけがわからない。
ナイフは、カランと音を立てて床に落ちる。
そして、ううう……とエリィはまた泣き始めた。
そもそもエリィに自分の顔を傷つけるつもりはない。
前の世界であろうと、今の世界であろうと、親から貰った大切な顔なのだ。
この顔こそが自分。
意図して顔を変えるような真似、できるわけもなかった。
それから、エリィはまたひたすら泣き続けた。
泣いて泣いて泣いて。
涙が枯れ、自分の心に整理がついたころ、エリィはようやく部屋の外に出た。
ジャックが言っていたこと――彼が自分のせいでひどい目に遭っていたという話は、おそらく本当なのだろう。
エリィも前世はそんなに顔はよくなかった。
だからわかる。
どんなことを言われていたかが。
人は美醜に敏感だ。
もしかすれば、ジャックは想像にも及ばない耐え難い仕打ちを受けていたかもしれない。
婚約の破棄。
ジャックのためを思うなら、仕方がないことなのだ。
「さよなら……ジャック……」
小さく呟いた別れの言葉は、閉まる扉の音と共にどこかへ消えていった。