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ブレーネ王国のエストレーム侯爵家に一人の女の子が生まれた。
名前をエリィ・クリスティナ・エストレーム。
まん丸でへちゃむくれた、どこにでもいるような赤ん坊だ。
けれどエリィは、一年一年と成長していくたびに美しくなっていった。
くすんだ金色の髪は、だんだんと艶が出て黄金のような煌めき放つようになっていったし、子ども特有の赤みを帯びた頬は、徐々に真っ白くなり、雪の思わせる綺麗さを持つようになっていった。
くりくりと可愛らしいだけであった瞳は、まるでルビーをはめ込んだかのように煌めき始め、なんの変哲もなかった鼻や口も、一つの芸術品を見るかのようであった。
やがて彼女が十七歳になった頃、そこにはこの世のものとは思えないほどの美しい娘がいた。
黄金ですらくすんでいるように見える、太陽よりも眩しい髪。
肌は雪の結晶を思わせるようなきめ細やかさで、両の目はどんな宝石よりも輝かしい。
鼻や口もこれ以上ない最高の美術品である。
そんなエリィに人々は目を奪われた。
いや、人間だけではない。
犬や猫、鳥やネズミなどの動物も、蜂やバッタや蟻などの虫も、果ては百合やチューリップやタンポポなどの植物に至るまで、皆がエリィに夢中になった。
この世界のどこに、これほどの美しいものがあろうかというほどの、言語に尽くせぬ美しさを纏った女性――それが十七歳のエリィ・クリスティナ・エストレームだったのだ。
さて、こんな絶世の美女となったエリィであるが、彼女には一つの秘密が存在する。
それは親にさえ明かしていない内緒ごと。
なんと彼女には前世の記憶があり、かつての名前を一之瀬小夜子といったのである。
――前世ではあんまりかわいくなかったせいか、結局結婚できないまま29歳の若さで死んでしまった私。
――最後の記憶が信号無視の車にはねられたとこれだから、死因は交通事故だと思う。
――そして、転生しました!
――それも、ものすごい美人さんになって!
なんていうモノローグから新しい物語は始まる。
エリィは元日本人である。
しかし、気がついてみればそこは日本ではない。
それどころか、地球ですらなかった。
最後の記憶は信号無視の車にはねられたところ。
だから、死因は交通事故だろう。
そしてエリィとして産まれてきたわけであるが、彼女には一つの未練があった。
それは結婚。
前世ではあんまりかわいくなかったせいか、結局結婚できないまま二十九歳の若さで死んでしまった。
けれど、この新たな人生では是非とも結婚をしてみたい。
素敵な旦那さんに、子どもは三人ほど。仲睦まじく愛のある家庭を。
そんな夢にまで見た願い――夢から覚めたときには、ベッドの上で血涙を流しそうになったほどの憧れ――を、今世でこそ叶えてみたい。
幸いなことに、超絶美人に生まれ変わった。
自分で自分に見惚れるほどの文句なしの美人だ。
前世の記憶があるおかげで結婚に至るまでの経験値は最高なのだから、あとはきっかけだけだろうというのが、エリィの考えである。
おまけにそのきっかけは、既に手元に存在していた。
そこはエストレーム侯爵家の屋敷。
自室にて、とある手紙を読み終えたエリィは、ほぅとため息をつく。
昨日から、もう何百回読んだかわからない。
エリィはその手紙を、優しく胸に抱いた。
じんわりと、温かい何かが胸に広がっていく。
「ああ……」
エリィの可憐すぎる唇から漏れ出る感嘆とした声。
手紙には婚約者から、大事な話があるから会いたいという旨が記されていたのだ。
――大事な話。
言わずともわかる。
互いは婚約者であり、もう年ごろだ。
とうとうこの時が来たと、エリィはまさに万感の思いであったといえよう。
翌日のこと。
エリィは直ちに馬車に乗って、隣の領地――婚約者のもとへと向かった。
この際、自領の城下町を通るのであるが、いつものことながら領民たちがエリィの顔を一目見ようとやって来るのでとても大変だ。
「エリィ様だ。エリィ様がいらっしゃったぞ!」
「あの神々しい御姿が見られる……ああ、なんて幸せなんだ!」
「太陽なんかよりも、おらたちにはエリィ様の方がよっぽど恵みだべ。ほら、手に持ったまだ丈の短い稲が、ぐんぐん伸びていくだ」
道の両端に並ぶ領民たちは、馬車が通ると口々にエリィの美しさを褒め称えた。
だが今日のエリィは一味違う。
招待の目的を考えたとき、エリィは天にも上る心地であった。
(遂に、遂に念願の結婚ができるんだわ……! ああ……嬉し涙を流しても、メイクの必要がないこの顔……なんて素晴らしいのかしら……!)
顔は心を映す鏡とはよく言ったもの。
領民たちに手を振りながらも、エリィの顔面はいつもの二割り増しぐらいに輝き、人々の目はくらんだ。
城下町を抜けてしばらく行くと、隣の領地へと到着した。
なお、ここに来るまでの間のエリィは「あなた……。お前……」と将来の幸せな家庭を想像し、一人芝居に興じていたのであるが、それはどうでもいいことなので割愛する。
隣の領の城下町もエリィの領の城下町と変わらない。
エリィの家の紋章が刻まれた馬車を見つけると、人々が続々と集まって来た。
ここでもエリィは、微笑みながら皆に向かってに手を振った。
この地に嫁ぐんだから、町の人の心を今の内にガッチリ掴んでおこうっていう作戦である。
すると、町の人達は子供から大人まで男女問わず顔を真っ赤にして顔を俯かせた。
自領の者たちと違い、この領の人々はまだまだエリィの美しさに慣れていないのだ。
(いつも思うことだけど、前世の私なら別の意味で顔をそむけられそうよね)
そんなことを考えながら、城下町を通り抜けると、馬車はとうとう目的地である屋敷へとたどり着く。
相手の家の階級は子爵。
ゆえに侯爵家であるエリィの屋敷よりははるかに小さいが、それでも立派なものだ。
門の前には、男の人が立っている。
エリィが馬車の窓から顔を覗かせてよく見てみると……なんと男はエリィの婚約者であった。
「停めてください!」
御者の人に言って馬車を停めてもらうと、すぐさま外へ飛び出すエリィ。
そして、己が婚約者に向かって駆け寄った。
「ジャック!」
エリィの婚約者――ジャックは、エリィを見ると顔を真っ赤にした。
しかし、町の人たちのように顔を背けようとはしない。
エリィは、心の中で『さすが私のジャック、えへへ』とのろけた。
ジャックはエリィの幼馴染み。
別に特別かっこいいというわけじゃないけれど、とても優しくて、そんなところがエリィは大好きだった。
「ジャック、今日は招待してくれてありがとう」
「あ、ああ」
あれ? とエリィは思った。
ジャックの様子がなんだかおかしいように見えたのだ。
なにか隠し事をしているような、そんな顔。
「ジャック、なにかあった?」
「いや、なんでもないよ。そんなことより、今日はとっておきのハーブティーを用意したんだ。ご馳走するよ」
「わぁ、嬉しい!」
エリィはキラキラとした笑み――比喩ではなく本当に輝く笑みを浮かべて、ジャックに寄り添い屋敷の中へ向かう。
庭の片隅で小さな丸テーブルを囲んで、二人だけのお茶会だ。
気持ちのいい陽光と心地よい虫の声を聞きながら、ジャックとたわいもない世間話を交わした。
好きな男性との会話がこんなに素敵だったのか、といつもエリィは思う。
小さな頃からどれだけ繰り返しても、決して色褪せない。
ジャックの優しい声が、己の心を温かく包み込んでくれる。
お茶会のあとは二人で庭園を散歩。
馴れ初めの話から始まり、雰囲気をつくっていく。
この辺りは前世からシミュレーションを何万回と繰り返してきたエリィならではだ。
やがて二人はジャックの部屋に行き、向かい合う。
不意に、大きなベッドがエリィの視界に入った。
自然と高鳴る鼓動。
ドクンドクンと、胸の下から心臓が飛び出していきそうだ。
エリィは期待するようにごくりと喉を鳴らして、ジャックの言葉を待った。
「―――――棄したい――」
ややあって紡がれたジャックの言葉。
あれなんだろう、とエリィは小首を傾けた。
耳が突然遠くなってしまったように、ジャックの声が聞こえなかった。
「ごめんなさいジャック、もう一度言って」
「君――の婚――棄したい――」
ノイズ。
またしても、エリィの耳にジャックの言葉は届かない。
「突然、鴉の鳴き声がして何も聞こえなくなってしまったの。でもいいわよね。どうせ大したことない話だもの」
「エリィ。鴉なんてどこにもいないよ。君は聞こえているはずだ」
「そんなわけないわ。だってジャックが“そんなこと”を言うはずないもの」
「それなら、もう一度言う。何度でも言うよ。いいかいエリィ――」
ジャックは言う。
珍しくその瞳を真っすぐにエリィに向けて。
「僕は、君との婚約を破棄したいんだ」
婚約の破棄。
エリィが長年待ち望み、恋い焦がれていたものが、今失われようとしていたのである。
すると何を思ったか。
エリィは、懐からこんにゃくを取り出して床に捨てた。
「こんにゃくを破棄じゃないよ。婚約を破棄するんだ」
ジャックが無情に告げる。
対するエリィ、今度は手を腰だめに構えて息を大きく吸い込んだ。
「婚約ッッッッ!!!!」
「その覇気じゃない、破って捨てる方の破棄だよ」
エリィの瞳にじわりと涙が滲んだ。
本当は最初から聞こえていた。
でもまさか。そんな、なんで。
答えの出ない思考が、エリィの頭の中でグルグルと巡っていく。
好きだった。ずっとお互いが好き合ってると思っていた。
親に決められた婚約者だからというわけではない。
エリィは確かにジャックを愛していたのだ。
「なんで……? なんでなの……ジャック……私」
「……これは君のためなんだ」
「私の、ため……?」
「僕ごときが君と一緒になるなんておこがましい話だったんだ。君には、もっとふさわしい人がいるよ」
「そんな! ジャック以上の人なんて――」
「迷惑なんだッッ!!」
「え……」
「いつもいつも君と比較され、笑われ、嫌がらせを受けて!
分不相応なのは僕が一番よく知ってるのに、誰も彼もが僕を悪く言うッ!」
「そんなっ! ジャックはいつも私に優しくしてくれた! 他の誰が何を言おうと、ジャックは私にとって世界で一番かっこいい男の人だよ!」
「だが、僕はもう耐えられないんだッ! 毎日毎日笑い者にされる僕の身にもなってくれッ!!」
「そんな……」
エリィはもう何が何だか分からなくなっていた。
頭が真っ白になり、今にも倒れそうだった。
「エリィ。君はどうしようもないほどに美しい。あの輝く太陽ですら君の前では空に浮かぶダンゴムシでしかないだろう。
僕ごときミジンコが触れていいものではなかったんだ」
「私の、私の気持ちはっ!」
「エリィ……もう決めたことなんだ……、すまない……。
誰か! お客様のお帰りだ!」
ジャックが家人を呼びつける。
しかし、むなしくもジャックの声が響いただけで、誰も現れない。
「おい誰か!」
やはり、誰も現れない。
あまりの美しさに女神とまで称されるエリィ。そんな彼女を追い出すような真似など、とても畏れ多くて誰もやりたがらないのだ。
「くそっ、家人まで僕を馬鹿にして! とにかく出ていってくれ!」
「ジャック……」
「いいから出ていってくれよ!」
ポタポタと水滴が落ちて、床にシミができていく。
エリィの涙ではない。
それはジャックの涙だ。