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――二十一世紀、日本。
お金がない、めんどくさい、もっと楽しいことがある。
世の男性は、そんな理由を並べ、いつしか女性と付き合うことをやめていった。
彼らは草食系男子などと呼ばれ、結婚というものは段々と廃れていったのである。
しかし、まだまだ結婚を望む者はいる。
男性よりも愛の深い女性にこそ、その傾向は著しく強かった。
ゆえに世はまさに大独女時代。
独身女が、結婚願望を持つわずかな男を巡って争う時代である。
とあるマンションの一室。
姿見の前で、自身の格好を確認している一人の女性がいた。
「髪型よし、メイクよし、服装よし」
一ノ瀬小夜子、ただいま崖っぷちの29歳。
これより向かう戦場――お見合いパーティー――を前に、準備は万全といった様相である。
(いよっっし!!!)
気合いは心の中だけで十分。がっつきすぎの重い女は嫌われるから。
清潔感があり、上品さがあり、それでいて純朴さも兼ね備えている。
そんなことを思って整えた身なりであった。
「なんてったって私は婚活のプロフェッショナル。
戦闘準備も馴れたものよ」
自分で自分を婚活の熟練者であると誇る小夜子。
しかしそれは、真上に向かって石を投げるに等しい行為である。
「うん? 婚活のプロフェッショナル……?」
小夜子は気づいてしまった。
それが誇るべきことでもなんでもないことに。
婚活の経験を積むこと。
それすなわち、不名誉な敗北をひたすらに築いてきたということである。
「ああ、涙が……ああ、メイクが……」
むなしい。
ただむなしさだけがそこにあった。
その涙を拭いてくれる相手など、いまだかつて隣にいたことはない。
意図せぬ自虐にメイクが崩れ、再び化粧に時間をとられるはめになった小夜子であったが、今一度気を取り直してマンションを出立した。
空は青く晴れ渡っている。
まるで己の前途を祝福しているように。
小夜子がスッと左手首を返すと、腕時計の針は午前十時少し前を示していた。
パーティーは午前十一時三十分からであるから、十分に余裕がある。
(会場に早めに到着して、敵戦力の確認を済ませておかないと。
できれば、こう、私が引き立つような子の隣を陣取らなきゃいけないし)
早くも臨戦態勢の小夜子。
なにせ二十九歳というあとがない状況だ。
これが過ぎてしまえば小夜子は三十歳の大台に乗ることになる。
その前になんとしても勝負を決めたかった。
二十九歳と三十歳、同じアラウンドサーティではあるが、その一歳の差は天と地ほども隔たりがある。
言い換えてみれば、よくわかる。
二十代と三十代。この響きだ。
たとえば商品において1980円の品物がある。
そこまでするならもうキリのいい2000円でいいだろうと思うような数字。
何故そうしないのか。
1000円台と2000円台の違いだ。
年齢に関してもこれと同じことが言える。
二十代は二十歳から二十九歳。
三十代は三十歳から三十九歳。
イメージがまるで違う。
二十代を名乗ることはアドバンテージになりうる。
しかし、三十代を名乗ることは?
そう考えて、小夜子はゾッとした。
「絶対に今日こそは決めてやるんだから」
独り言は余裕のなさの表れである。
小夜子は鬼気迫る様子でギュッと拳を握り、その瞳はメラメラと炎が燃えていた。
――必ず勝ち取って見せる。
――だから神様どうかよろしくお願いします。
そんな二律相反しつつも、進むべきベクトルの方向は変わっていない決意と願い。
だが、その思いが成就することはないといっていいだろう。
何故ならば、小夜子は婚活パーティーには参加できなかったのだから。
それは小夜子がとある交差点を渡っているときに起きた。
正面の信号の表示は青。
だというのに、右手の方から車が速度を緩めることなく横断歩道に突っ込んでくる。
瞬間、小夜子はまるでコマ送りのようにゆっくりと時間が流れるのを感じた。
命の危機を察知した脳が、偶然にも誤作動を起こし、小夜子の体感時間を遅らせたのだ。
それゆえ、このとき一歩後ろに下がれば小夜子は車を避けられたかもしれない。
しかし――。
――小夜子は一歩前に踏み出した!
――何故!
――そこに小さな女の子がいたからであるッッ!!
小夜子は一歩踏み出して少女を抱き締めた。
自身の力では車線上の外に押し出すなんて真似はできない。
そう判断したからだ。
せめて、自分がクッションになろうと少女を抱き締めたのである。
(大丈夫。体は頑丈な方。今年なんてまだ風邪を一度もひいてないし)
ほんの一瞬の間に頭に浮かんだのは、精一杯の強がり。
絶望的な恐怖を前に、自身を保つためのものだ。
小夜子が少女を抱き締めたとき、もう車は目前に迫っていた。
直後、辺りに響いたのはドンッという鈍い音。
その寸秒後には、事故を目の当たりにした者達の悲鳴が空高くこだました。
道路に倒れふす小夜子。
頭からはぬるりとした赤いものが流れて、道路に血だまりをつくっている。
小夜子の意識は朦朧としていた。
目はぼやけ、轢かれたはずなのに、体からは痛みすら感じない。
まるで自分の体が自分のものでないような感覚。
手足を動かそうにも、どうやっても力は入らず、指一本動かせなかった。
でも、わかることがある。
懐からは少女の元気な泣き声が聞こえていたのだ。
(ああ、よかった……)
小夜子は小さく、そして優しく微笑んだ。
己の心配よりも、少女の無事を喜んだのである。
(でも、お見合いパーティーにはいけそうもないや……。
結婚、してみたかったな……)
やがて小夜子は静かに目を閉じた。
――その日、一人の優しい女性が亡くなった。