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水素のあつめかた

作者: ぱせり


 魔が差した、という言葉が今ならわかるかもしれない。言い訳ならいくらでも並べられる。と言うよりも、言い訳しか、並べられない。僕がしたことは、どう解釈したって悪いおこないであって、絶対に、してはいけないことだった。


  生まれてこの方、真っ当な人生であるとは思ったことがない。運動ができるわけでもなく、頭も悪いほうだった。かと言って、なにか努力をしたわけでもない。 まわりに必死ですがり付くように、いつも愛想笑いを浮かべて過ごしていた。気づけば、いつも、僕は一人になっていた。

 せめてもの救いか、底辺よりの大学であるが、一応進学を選択することができた。

 大学では、もっとしっかりと青春を謳歌しようと意気込んだはいいものの、元々人間とのコミュニケーションが苦手だった僕に、そんなに簡単に友達ができるほど世間は甘くなかった。

 唯一の趣味である映画鑑賞を全面的に出そうと、映画部に入ってみた。しかし、ここは僕のいるべき場所ではないと、新歓の時点で悟ってしまい、それからこっそり誰もいないときに部室で一人で映画をみる日々であった。

 そうしてだらだらと四年間を過ごし、特に夢を持たなかった僕は、就活もろくにせず、適当な会社に就いた。

  お前を拾ってくれる会社があるだけ、ありがたいと思いなさい。僕が家を出ていくときに父親が僕に吐き捨てた言葉である。会社側が僕を拾ったことを感謝するくらいの人間になったら、家に帰ってやるよ。僕も吐き捨てた。聞いてあきれるほどの大言壮語である。今となっては、そんなことを言った当時の自分を、ぶん殴ってやりたいほどだ。

 社会人になったからには、今までの分も青春を謳歌しよう。つい数十行前のデジャヴである。あとのことは、たいして説明しなくたって、誰もが想像できてしまうだろう。

 僕が窓際社員になったのは、入社してほんの数年のことだった。女性社員のごとく、雑用に回されるまではよかったが、今となっては女性社員ですらも雑用に使う始末である。

 誤解しないでほしいのは、僕がなにか大きなミスをしたとか、仕事に差し支えの出るほど、能率が悪いからこうなったわけではないということである。

  もちろん、今までの僕の経歴を知っているのなら、僕がすぐれた人間でないということは知っているだろうから、僕の仕事の成績がまずまずであったことには、触れないでほしい。真ん中より、少し、下。

 たとえば、リストラ会議があるとしたら、名前が一瞬挙がったとしても、決して候補にはなることのないような立ち位置ではあった。もちろん、新入社員で、僕よりできないやつもいた。僕より先に入社したにも関わらず、僕に成績を抜かれていたやつもいた。

 それなのに、僕が窓際社員になってしまったのは。僕のコミュニケーション能力が欠落しているのは、ちょっと前に話しただろう。コミュニケーションというのは、実は社会人にとって最大事な能力の一つなんだ。数学や英語ができても、これができなければ、意味がない。

 つまり僕は、この汚らしい、上っ面だけの会社の“はつけ”になるには、ちょうどいい人間だったのだ。みんな僕を見て、僕の立ち位置になりたくはないと、仕事を頑張れる。いい見世物だ。

  課長は他の社員の書類に目を通すと、必ずちょっとしたミスの指摘や、アドバイスをする。僕にはそれがない。僕の作った書類がいいわけでは、決してない。たとえばその書類が、他の社のお偉いさんも拝見する資料である時、僕のミスの指摘をされるのは、部長である。それが部長の逆鱗に触れ、部長がいつも僕を目のかたきにし、すこしのミスでもしようというのならば、叱りつける、というサイクルがここ数年間、続いている。部長の堪忍袋も、僕の精神面も、そろそろ限界であった。

「お前、もう会社やめちまえよ」

 そんな言葉に耐えられるほどの気丈さは、とうにすり切れてしまっていた。

「……いいよ、やめてやるよ、こんな会社」

 ポツリと言ったその言葉は、運も悪く上司に聞こえてしまったらしい。

「お前今なんつった?」

 僕は走り出した。


 会社をサボったのは、初めてだった。まぁ、まじめに働いている人からすると、それがなんだって感じだろうけど、僕がされた仕打ちを考えてみると、よく耐えてきたものだと思う。

 別に、怒ってくるような誰かが家にいるわけではないのだが、なんとなく帰る気にはなれず、あてもなく、ぶらぶらしていた。

 上司にたてついたのは、今日が初めてのことだった。どんなに暴言を吐かれても、笑って受け止めてきたはずなのに。さすがにも限界がきているのかもしれない。見ろ、これがゆとり教育で育ったダメ人間だ。誰も見ていないのをいいことに、そうつぶやいて、自嘲的に笑ってみた。

 今、会社をやめたところで、このご時世、簡単に次の仕事が見つかるほどの能力が僕にはない。ましてや、ここ数年、窓際社員だったのでやめました。なんて言ってしまえば、どこの会社だって苦い顔をするだろう。

 もう少し我慢をして、金がたまって、次の仕事の目途がたったら。そうかんがえると、僕が今すべきことは上司に謝ることのほかはなく、それが僕の肩を重くさせた。

 コンビニに立ち寄って、大量の安酒を買った。僕には愚痴を聞いてくれる彼女もいなければ、急に呼び出して、お酒に付き合ってくれるような友人もいない。一人寂しく、大量のアルコールで楽しいふりをするよりほかに、逃げ道がないのだ。

 ふらふらと歩いて、家に帰ることにした。今日はなんとなく、電車に揺られたくない気分だったのだ。一駅分は長かった。おまけにこの寒さだ。運動と寒いのが苦手な僕は、もう歩いて帰るのは、絶対にやめようと思った。


次の日、僕の机はすごくきれいに片付いていた。あるのは段ボールひとつだけ。

「なんだ、お前、会社やめるんだろ? ああ、辞表出しに来たのか」

 課長の汚らしい笑いにつられて、他の社員もクスクスと笑った。耳が赤くなるのを感じた。

 何も言わず、部長のところに向かう。

「昨日は、ご迷惑をかけてしまい、途中で、会社を、早退してしまって、本当に、申し訳、ございませんでした」

 深々と頭を下げる僕に飛んできたのは、明らかにバカにしたように鼻で笑う声だった。

「君の荷物整理したの、佐藤さんだから。辞める前にお礼くらい言っておけよ。あと、退職手続きは俺がすましといてやるからな」

 感謝しろよ、と僕の肩をたたく。

「いやっ、こんなこと言うのも、生意気だってわかってます! もう一度、自分に、チャンスをっ……」

 先ほどまでいやな笑みをしていた部長が、眉間にしわをよせた。

「チャンス? お前にどれだけのチャンスを与えてきたと思ってるんだ? どこまでも落ちぶれているお前の面倒を見てやる時間はないんだよ」

 舌打ち交じりに、もう来るなよと、言った部長は、どこかへ行ってしまった。僕と話しているだけ時間の無駄とかんがえたのだろう。

 段ボールをもって、社員の笑いの中を無言で通った。見えていないけれど、僕の顔は羞恥で真っ赤だった。

「あらぁ、もうご帰宅なの?」

  いやに甲高い声でわざわざ話しかけてきたのは、社内で男性人気を誇る佐藤さんだった。上司や、デキる社員の前では、持ち前の色気を発散させて女を全面的に 見せていたので、かなりの人気があるらしい。僕の荷物を整理したのだって、上司にこびを売るためだろう。僕には女を見せる必要はないのか、いつだって小馬 鹿にしたような態度で接してきて、ストレスを発散させているようであった。

「しつれいします」

 柑橘系の甘い香水の匂いに眉を寄せながら、佐藤さんをよけたつもりだった。よけた先にも、佐藤さんがいた。道をふさがれたのだ。

「これからもう、あんたの顔見なくて済むかと思うとまったくせいせいするわ」

 佐藤さんは僕にだけ聞こえるように呟いた。こんな低い声が出るのかと僕はおどろいた。

「しつれいします」

 僕はもう一度、甘い香りと佐藤さんを振り切った。

「あら、ごめんなさい」

 佐藤さんがわざとらしく、僕へぶつかってきた。段ボールが落ち中のものが散らばった。

 クスクスと、みんなが声を殺して笑っていた。

 床に散らばったものを段ボールに詰め込みながら、この荷物、いらねえなと思った。日常生活において、使えるものもあるのだが、そのときの僕にはどうしようもないほどのガラクタにしか見えなかった。

 やっとオフィスを出て、正面の出入り口には行かずに、ごみ置き場へ向かった。

 段ボールごと投げ出した。中のものが散らばる。段ボールを2、3回蹴った。中でなにかが壊れる音がした。ごみの管理をしているおじさん、ごめんなさい。僕には分別するほどの余裕がすでになかった。ここでの思い出も、一緒に捨ててしまいたかった。


 意味もなく、ふらふらと町の中を歩いた。人気のない喫茶店でコーヒーひとつで何時間も居座った。立地場所と個店ということもあってか、お客さんはあまり来なかった。そのおかげもあってか、店員さんも、コーヒーひとつしか頼まない、ひもじいこの男にさえやさしくしてくれた。

 さすがに4杯目のおかわりを聞いてきたときには、断って、店からでることにした。ありがとうごさいました、またお越しください。

 テンプレの言葉と、営業スマイルでさえも心に染みるほど、僕の心は弱くなってしまっていた。

 喫茶店で過ごした数時間で、今後の生活の仕方を考えていたが、結局いい案が浮かぶはずもなく、明日からハローワークに通うしかないのは、逃げられない道だった。

 また、当てもなく歩いていると、昨日のコンビニについた。例によって安酒を買おうとしたのだが、やめた。実は昨日飲み切ろうとした酒がまだ残っているのだ。ここ数年、会社の飲み会はもちろん、数少ない友人からの誘いも断っており、めっきり酒が弱くなってしまっていた。

 そしてこれからは当分、もっと節約に励まなければいけない毎日だった。

 会社を辞めさせられた人間としては冷静に行動できていると、我ながら感心した。

 昨日の学習を踏まえ、今日はちゃんと電車を待っているし、その待っている間に線路の中に飛び込んでしまおうという考えよりも明日のことを考える割合のほうが多かった。

 すでに、夕方になっており、会社帰りのサラリーマンや学校帰りの高校生で混んでいた。僕はいかにも、会社帰りです、という顔で並んで電車を待っていた。僕が会社帰りだろうが、失業帰りだろうが、気にしている人はいないと思うけれど。

 電車はあっという間に満員となる。元々人ごみは嫌いだが、今日はもっと嫌だった。人のぬくもりをいやでも感じてしまうからだ。あの会社の人間が、この人たちと同じぬくもりを持っているかと考えるとへどが出そうだった。

 鞄を持ち直すと、手が前の人の服をかすめた。女子高生だった。たぶん、制服のスカートだろう。


 僕のした行為は、当然罪に問われても文句は言えない行為であって。どんな状況にいたとしても、人間としてすべき行為ではなくて。あれだけ自分が冷静だと感心していたのに、普段の自分ではあり得ない行為をするなんて、僕はやっぱりどうかしているんだと思う。


 刑法第176条

 一三歳以上の男女に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、六か月以上十年以下の懲役に処する。


  手の甲でもう一度スカートに触れた。肌には当たらないほど、ほんの少し。もう一度、今度は少し強く。肌に当たる。ビクンと少女が肩を揺らした。ごめん、ご めん。もうなにもしないから。その言葉とは裏腹に、僕の手は百八十度向きを変え、いよいよてのひらで触るぞという体制になってしまった。何をやっているん だ俺は。自分で自分を止めることができなかった。

 あと数センチ、というところで僕の手を包んだのは、さきほどのスカートとはくらべものにならない程のぬくもりだった。見てみると、僕の手に絡みついていたのは白くて小さな手で、それは少女のブレザーから伸びていた。

 ああ、僕はつかまるんだな。明日からハローワークに行く予定が丸つぶれじゃないか。親父はきっとかんかんに怒ってもう縁を切られるだろうな。なんて、どうしようもなく、くだらないことばかり考えて、電車に揺られていた。

 しかし、少女はいつまでも手を放そうとしなければ、その手を挙げて「痴漢です!」なんて叫ぼうともしなかった。

 僕の降りるはずの駅がすぎてしまった。Suicaにお金入れていたかな、なんて、くだらない心配がまた頭をよぎった。

 結局僕は、降りるはずだった駅からふたつあとのところで、少女に手を引かれ、降りて行った。まわりの人からはどのように見えたのだろう。少しヘンなカップルに見られてしまったのではないだろうか。だとしたら、彼女に申し訳ない。

「あ、待って」

 最初に声をかけたのは僕だった。

「Suicaの残高確認してもいいかな」

 痴漢の上に残高確認なんて、まったくどこまでも情けない男だった。

 彼女はいとも簡単に僕の手を離した。こんな簡単に離して、逃げ出すことを考えていないのか?あまりの無防備さに、逆に僕が物足りなくなってしまうほどだった。

  無事、改札を抜けると、彼女はまた、手をつなぎだした。やっぱり、暖かい。いわゆる恋人つなぎという手のつなぎ方だった。いよいよ、警察に突き出されるん だな、なんて、案外冷静だった。捕まってしまえば、生活の心配をすることは、数年先になるはずだ。今は、なんでもいいから休みたかった。なんていうのは、 僕の単なる合理化だろうか。

「さぁ、どこに行きたいですか?」

 少女は、小さな声で話した。僕の目を見る彼女は、あまりにあどけない顔をしていた。

「え?」

「だから、どこに行きたいですか?お腹すいてません?私、晩ごはんまだなんですけど」

 オムライスが食べたいかなーなんて、平然としている彼女に、僕は何も言えずに驚くばかりだった。

「えっと、あの、え?」

「ん?何か不満ですか?もしかしておなかいっぱい?コーヒー飲むだけでもいいんで付き合ってくださいよー」

 彼女は痴漢されたことに気づいていないのか?それともこれは何かの作戦のうちなのだろうか?

 いくら考えても、この状況を飲み込むことができず、ただ手をひかれるばかりで、その手の体温を感じるだけで精いっぱいだった。


「痴漢さん、なににします?」

 メニューを広げた彼女が言った言葉に、思わず飲みかけの水でむせた。幸い、ここのファーストフード店は若い利用者も多いせいか、店内がにぎやかで、彼女の声は周りに聞こえていないようだった。

「水上だ」

 これ以上、痴漢さん、なんて言われたら、この店にいられない。いや、そもそも、彼女と向かい合ってこうしている資格なんて僕にはない。

 彼女はきょとんとした顔をして、やがて笑った。

「じゃあ水上置換ですねー」

 ケタケタと笑う彼女を見て、やるせない気持ちになった。うまいこと言いますね、なんて、言わない。

 彼女はオムライスを頼み、僕はスパゲッティを頼んだ。店員さんの対応からして、絶対恋人同士だと思われてる、といたたまれなくなった。

「ところで痴漢さん」

「水上だ」

「じゃあ水上さん」

 じゃあって何だ、という疑問は押し殺すことにする。

「これから、どうします?」

 彼女が僕に何を望んでいるのかまったく理解できなかった。

「ちょっと、ごめん、いろいろ確認したいんだけど」

「なんですか?」

「僕が、その、君にしたことは、わかってるよね?」

 彼女はきょとんとしながらうなずいた。

「警察に行こうとか、そういうのはないの?」

 やっと納得できたのか、少し笑った。

「警察行きたいんですか?」

「別にそういうわけじゃないけど……」

 口ごもったと同時に料理が運ばれてきた。そっちもおいしそうですね、なんて明らかに僕のスパゲッティを狙っている。

「痴漢されて」

 彼女が口いっぱいにオムライスを詰め込んで話し出す。

「とっ捕まえてやろうと手をのばしたんですけど、ガラス越しに痴漢さん……あ、えっとすいじょうさんの顔が見えたんですよ」

「みずうえな」

 僕の間髪入れない突っ込みにもなお彼女は動じない。

「この世の終わりとでもいうような悲しそうな顔していました」

 予想外の言葉が出てきたので、思わず息が詰まる。そんなにも、僕は悲惨な顔をしていたのか。

「仮にも、いいですか、仮にもですよ。女子高生のおしりを触るのにそんな顔する人いると思いますか?だから、よくわからないけど、気づいた手を握っちゃってたんです」

 彼女はふふふ、と笑った。痴漢された女子高生がつくる表情ではなかった。

「また、悲しい顔してますよ。ほら、手出してください」

 彼女のいうことがよく理解できず、言われるがままに使っていない左手を差し出す。彼女は、その手を両手でそっと握った。右手から、スパゲッティを巻きかけていたフォークが、落ちた。

「すいじょうさんって、単純ですね。手を握っただけで、すごく安心した顔になりますよ。ってことで、スパゲッティいただきます」

 僕の右手から落ちたフォークを彼女はするりととって、笑いながら口に入れた。実に鮮やかだった。

「いや、別に、手を握ってもらったから、安心したわけじゃなくて」

 言い訳のようにごもごもする僕の皿に、彼女はフォークを戻した。うまく言えなかった言い訳を濁すように、スパゲッティを口に運ぶ。

「あ、間接キス」

 言わずもがなむせ返った僕を、彼女はまたふふふ、と笑った。


「ごちそうさまでした」

 店を出ると、彼女さんは不服そうに言った。レジの前で、自分の分は自分で払うと、五分ほど粘られた。年上だから、という理由でかたくなにそれを断ったが、痴漢した女性におごらないほど、常識知らずではない。

 痴漢すること自体が常識知らずということには、触れないでいただきたい。

「これは、その、君を、その、触った分の、お返しとして……いや、これで罪がなくなるとは、思わないけど……」

 歯切れ悪くもごもごとする僕を、彼女はまた笑った。

「そっか。私のおしり、650円の価値もするんですね!やったー」

 いや、それ以上だろう、なんて言葉は言えなかった。

 これからどうしたらいいのだろう。まさか、警察に突き出されずに、ファーストフード店で一緒にご飯を食べるなんて予想のはるか外で、まさかこのままさよなら、なんて言えるわけがない。

「痴漢さん、明日お仕事早いですか?」

 痴漢さんと呼ぶことに、もう突っ込みを入れる気もなくした。どうせ、誰も聞いてないだろうし、仕方ない。それよりも問題なのが彼女の表情が少し曇っていることだった。

「休みだよ。どうせ、仕事でも、警察に突き出されてたら、明日もなんてないんだから。どこでも付き合うよ」

 ずうずうしかったかもしれないと、僕でよかったらだけど、なんて言い逃れを慌てて付け足す。

「すごく、ずうずうしいお願いだとは、思うんですが。今晩、私のこと、泊めてくれませんか?」

 彼女が言った言葉を理解するのに、時間がかかった。何も言わない僕を見て、焦ったのか、彼女が慌てたように言う。

「あ、別に、彼女さんとかいるなら、無理に、なんて言いませんよ!それに、私、襲ったりなんかしませんから!」

 彼女がいる人間なら、わざわざ痴漢したりなんかしないだろとか、襲ったりする危険があるのは、痴漢した僕のほうだろう、なんていう突っ込みは頭の中で出てくるのに、言葉が口から出てこない。

「忘れているかもしれないけれど」

 コホンと、咳をして改める。痴漢をした人間がこうしたところで恰好つかないのはわかっているけど。

「僕は君に、痴漢したんだけど、覚えてるよね?痴漢した人間のところに、泊まりに来ていいの?」

 予想外の彼女の言動に、僕は少し、きびしい口調になった。彼女はすこし、悲しそうな顔をした。

「やっぱり、迷惑ですよね。いきなり会って泊めてください、なんて非常識ですよね」

 いやいや、それ以前に僕は君に非常識極まりない行動をした

んだけど。

「迷惑とか、そういうわけじゃなくて。迷惑なわけではないんだ

決してね。でも、ほら、僕、痴漢さんだよ?君のこと、襲う可能性だって、あるんだよ?」

 しどろもどろになった僕を見て、彼女が笑う。

「伊織です」

「え?」

「君じゃなくて、伊織。私のなまえです。さぁ、急いで駅、戻っちゃいましょう?終電、なくなっちゃう」

 ご飯を食べている時に僕の家がふたつ前の駅の近くであることと、僕が一人暮らししていることは話していた。まさか、こんな裏があるとは思わず、素直に答えてしまった。

 彼女は鼻歌交じりに笑いながら、僕の手を取って歩き出した。僕はそんな彼女についていくことしかできなかった。

「痴漢さん、彼女さんとかいないんですか?」

 いたら痴漢なんかしないよ、なんて溜息交じりに言うと、彼女は笑った。

「そういうのが目的で痴漢したって思わなかったから聞いたんですよー。それとも本当に触りたかったんですか?」

 ふざけておしりを向ける彼女に、返ってこっちの頬が赤くなるのがわかる。

「そんなわけじゃ、ないけど」

 ああ、僕はいつだって歯切れが悪い返事しかできないんだ。

「自分でも、よくわからないんだ。どうして痴漢をしたのか、いま冷静に考えてみてもえわからない」

 自分から見ても、格好悪い僕は、彼女からするとどう見えているんだろう。

「あくまで私の推測なんですけど」

 終電間近の電車がやっと来た。それに乗り込むが、一向に彼女が僕の手を放す気配がないことにひっそりと喜びを感じてる。

「痴漢さん、誰かと触れ合いたかっただけだと思うんですよ。単純に。誰かのぬくもりをただ求めてただけで、それがあんな結果になってしまった、と思うんです」

 そういって、僕を見て笑う彼女に、僕の頬が赤くなるのがわかった。

「……水上だ」

 幸い、車両には人が少なく、痴漢、なんて単語に反応する人はいなっかったが、照れ隠しのために、僕は彼女の言葉を訂正し、窓の外へと視線をずらした。

「家に人に、泊まること、伝えなくていいのか?」

 沈黙に押しつぶされそうになり、質問を投げかける。ファーストフード店では、彼女が一方的に質問側で、僕は質問する権利なんてないと、ただ答えるばかりだった。

 彼女の顔が、質問したとたんに、曇る。やっぱり聞いてはいけなかったかと、焦る。いまだにつながれた手を離されていまわないか、不安になった。

「いいんです。心配する人とか、いないから」

 無理に作った笑顔を見て、それ以上聞く気にはなれず、そっか、という空返事をして終わった。


  駅から数分歩いたところが僕の家だった。お互い気まずくなり、話していない。なのに手は繋いだままだから不思議なものだ。右手は凍死しそうなほど冷たいの に、左手は驚くほど暖かい。そんなささやかな幸せにひっそりと噛みしめているときに重大なことに気づく。部屋が汚い。忙しさに追われてまともな片付けをし なかった上に、昨日の酒の空き缶や脱ぎ捨てた衣類が散乱していた。彼女がそのようなことを気にしないような人間だとしても、あまりにも恥ずかしい。

 ドアの前について、暖かい左手を離した。

「ごめん、寒いかもしれないけれど、ちょっとだけここで待っててくれる?すぐ済むから」

 返事を待つ前にドアを閉める。とりあえず脱ぎ捨てた服を片付けて、あとは空き缶を……持った瞬間にドアが開いた。

「さむーい」

 もはや彼女にいうことを聞かせるのは、僕にはできないようだ。

「ひゃー、きたなーい」

 あきらめて、おとなしく片付けの続きをする。一人分のふとんが敷けるスペースができれば十分だろう

 私の部屋とどっこいどっこいですね、なんて呟ぎは、聞かなかったことにしておく。

 彼女は、僕の片付けを手伝い始めた。

「大丈夫だから、そこらへんで、くつろいでくれて……」

「くつろぐスペースもないですよ」

 ぐうの音もでない。二人で片付けを再開した。

「ごめん、こんなこと手伝わせてしまって」

「いえ、泊めていただけるだけで私はなにも言えない立場であるので。それに、痴漢さんと一緒に片付けるの、なんか楽しいですよ」

 そう言って、彼女はまた、ふふふと笑った。

 結局、一人分のふとんのスペースで終わることはできず、部屋の大体を片付けていた。

 ちょうどいい頃合いで、お風呂が沸く。先に彼女を入らせると、一つ、大きく息を吐き出した。

 考えてみれば、今日はたくさんの出来事がありすぎた。今、彼女がここにいることで、仕事がクビになったことが遠い昔のように感じた。

 今日の出来事が、全部消えてしまえばいいのに。シャワーの流れる音を聞きながら、思った。

 もしかしたら、彼女は神様の手違いでここにいるのかもしれない。天使かなんかで、いつのまにか、消えてしまうかもしれない。

 それでもいいと、僕は思った。こんな幸せ、思い出にしたくないんだ。思い出にしてしまえば、あとから思い出して悲しくなるじゃないか。

 そんな気持ちとは裏腹に、彼女はお風呂からあがってきた。シャンプーの、いい匂いが立ち込める。同じシャンプーを使っているにも関わらず、こんなにも違うのだろうか。変態みたいで、そんなこと言えないのだが。(すでに変態行為に及んだことは触れないでおきたい。)

「お風呂ありがとうございます。痴漢さんも、入ってくださいね。私、勝手にくつろいでますからー」

 もう、彼女のペースに完全に飲まれているのは言うまでもなく、さっきの天使かなんかというたとえは撤回することにしておこう。

まだ、ほんのり暖かいゆげが立ち込めていた。人と生活すると、こんな暖かさもあるんだな、と変なところに関心を持つ。

 さっとシャワーと浴びて、部屋に戻ると、彼女はすでにベッドの中にいた。

「ごめん、今、ふとん敷くから」

「私、ベッドで寝ちゃだめですか?」

 彼女が、鼻先までかけていた毛布を、頭の上までかぶった。

「痴漢さんの、匂いがするから」

 僕の顔が、赤くなるのがわかる。

「臭くないなら、構わないけど。ふとん、干してなかったから、ちょうどよかったし」

 平静に話そうとしているのに、動揺が隠せない。

 早くふとんに入りたかった。寒いからではなく、恥ずかしさを紛らわすため、だ。

 雑に、ふとんを敷き終わると、その中に入ってしまった。電気はつけたままだ。まだ、寝るのには早い時間である。

「痴漢さん、寝たんですか?」

 少し上から、彼女の声が降ってきた。

「起きてるよ」

「電気、消さないんですか?」

「消したほうがいい?」

 彼女は少し考えるように、んーとうなった。

「どっちでもいいですけど、暗くなったほうが間違えたふりして痴漢さんのふとんに落ちれますよね」

 そんなことを言われて、電気を消すこともできず、かといって、気の利いたことを言うこともできず、消したいときに消して、なんて、当たり障りのないことしか言えなかった。

 しばらくすると、彼女がもそもそと起きだして、電気を消した。間違ったふりをして、落ちてこられるのかといろんな意味で心臓がばくばくしたが、一向に落ちてくることはなかった。

「痴漢さん?」

「ん?」

 彼女の声が思ったよりも近くに聞こえた。きっとベッドのギリギリに寝ているのだろう。

「寝ててもいいんです、ていうか、寝ててください。いまから言うのは、私の独り言なんですから」

 その言葉になにも返さなかった。僕は寝ている設定なのだから。

「中学一年のとき、両親が離婚したんです。元々仲が悪くて、毎日喧嘩もしてて、当然っちゃ当然だったんですけどね。私はお母さんのほうに引き取られたんですけど、お父さんのこと嫌いになれなくて、お母さんには内緒でたまに会ってたんですよね」

 彼女は一息置くと、ぐすっと鼻をすすった。泣いているようだ。声も湿っている。そういえば、と思い、テーブルの上に置いてあったティッシュを彼女のそばに置いた。

 置いてから、寝ている設定だったことを思い出す。思わず、

「僕は寝ている」

 なんて口走ってしまったが、なおさらダメだろうと、自分で自分に突っ込んだ。

 彼女はくすりと笑うと、ちいさく鼻をかんで、また話し出した。

「最近でも、月に一回くらいでお父さんに会ってたんですけどね、一回お母さんにばれたんです。それからずっと、お母さんとは毎日喧嘩ばっかで。喧嘩なら、まだいいんですけど、最近は、ほとんど暴言ばっか、言われてて」

 彼女の声が震えていて、思わず抱きしめたくなった。でも、僕は寝ているはずなので、動くことさえできない。彼女は一息つくと、また話し始めた。

「それから、一か月くらいして、男の人が家に来たんです。まったく知らない、男の人。お母さんの高校の時の同級生と紹介されました。直感的に、お母さんの恋人だって、わかりました」

 後ろで、トスンと、落ちる音がした。もそもそとふとんがあがって、背中にかすかなぬくもりを感じた。

「お 父さんのこと忘れさせようとするお母さんも、自分のことをおとうさんって呼ばせようとしてくるあの人も、みんな大っ嫌い。邪魔で仕方ないように扱うくせ に、お互いの前では私のこと、大事そうに扱うのよ。心の黒いところ、見え見えなのに。私にはやく消えてほしいんだよ、二人とも」

「お父さんには、相談した?」

 声がかすれた。上手な言葉が出てこない。どうしたら彼女を安心させられるのかわからない。

「心配、かけたくなくて。お父さんは、多分まだお母さんのこと、好きだから。お母さんが新しい人、連れてきたなんて、言えなくて」

 背中で、彼女のてのひらがギュッとなるのがわかった。今すぐ、後ろを向いて、抱きしめたかった。痴漢の僕にそんな行為が許されるのだろうか。

「あの人がいるときに、はやく家に帰ると、お母さんは私にだけ聞こえるように、舌打ちするんです。今日は、あの人となにかお祝いするみたいだから……」

 もうこの話はおしまい。彼女は水を含んだかすれ声でそう呟くと、僕の背中に手を合わせた。背中越しに、心臓の音が届いてしまわないか不安だった。

 しばらくして、寝息を立て始めた彼女のほうをそっと見てみると、まだ乾ききっていない涙の跡が、ふとんに染みわたっていた。


 ジリリリリリリリリ……

けたたましい目覚まし時計の音が鳴り響く。いつものように腕を伸ばして止めようとするが、そこに目覚まし時計はない。そうか昨日はふとんを敷いて寝たんだった。慌てて起き上がり、ベッドの上のうるざい音を消す。見ればいつも起きる時間よりも三十分も経っていた。

「遅刻!」

 短く叫んで慌てて部屋着を脱ぎ捨てる。

「きゃっ」

 足元の小さな悲鳴で思考が停止する。見ればそこには鼻までふとんをかぶって申し訳なさそうにこちらを見ている彼女がいる。そうだ、彼女だ。とたんに昨日の記憶がよみがえり、僕には今、仕事がないことを思い出した。

「ごめん」

 すこし冷静になり、再び部屋着を着なおす。

「今日、学校は?」

 彼女は少し、視線を泳がせて、「今日休日ですよ」なんて嘘をついた。黙って視線を送る。

「学校の、創立記念日……」

 嘘が苦しくなってくる。そのまま黙って見続けていると、ふとんをすっぽりとかぶってしまった。

「支度したら、近くまで送って行ってあげるから。家に寄るんなら付き合うし。多少遅れたって腹痛とかで、ごまかせるだろ?」

 ふとんの中でもごもごと、行きたくないという声が聞こえた。

「学生は勉強が仕事だ」

 会社をクビになった人間がいう言葉じゃない。彼女は一向に動こうとしない。

「友達、心配するだろう?」

 彼女の頭あたりをぽんと軽く叩いてみた。

「友達がいたら、こんな卑屈な人間になんてなってなかったし、痴漢さんの家にお邪魔しようとも思いませんよ」

 言われてみれば、そうだ。友達がいるのなら、見ず知らずの男の家に泊るより、友達の家にお邪魔したほうがよっぽど安全だ。

「人と一緒にいて、こんなに楽しかったの、久しぶりなんです」

 彼女のかすれた声が、静かに響いた。僕が思っている以上に、彼女は深いところで迷子になっているのかもしれない。

「今日、腹が痛いんだろう?」

 彼女は僕の言うことがわからないというように、ふとんからそっと顔をあげた。

「おなかも痛いし、心なしか熱もあるんだろう?」

 携帯を取り出して、状況のわからない彼女から聞き出した学校の名前を調べる。電話番号はすぐに出てきた。

「学年、学級、苗字」

「三年、二組。深澤……」

それだけ聞くと、先ほど調べた番号にかける。数コールで事務らしき女性が出た。

「いつもお世話になっております。三年二組の深澤伊織の兄です。すいません、今日妹がおなか痛いみたいで。ちょっと微熱もるみたいなんで学校休ませて病院に連れていきますね。はい、よろしくお伝えください」

 事務の女性は、お大事になんて言葉を添えて、なんの疑いもなく電話を切った。

「私に兄っていう存在がいたんですね」

 彼女はそういって笑った。

「ほら、病院に行く支度をしなきゃな」

 そういうと、なんだかおかしくなって二人で笑った。


「痴漢さんって思ったよりも背が高くないんですね」

「うるさいな」

 さすがに制服であちこちに連れていくわけにも行かないので、女性が着ても変にならない服を貸したのだが、ズボンの丈がそうあまらないのを見て彼女はケタケタと笑っていた。

「さて、行きたいところは?」

「痴漢さん、病院ですってば」

「そしたら『お兄さん』だろう?」

 どうやら特に行きたい場所はないらしい。まさか本当に病院に行くわけでもないだろう。

「どこに行ったって、文句は言わせないからな」

 歩き出す僕の手を彼女がつかんだ。デートみたい。嬉しそうに呟いでいるその言葉は、聞こえないことにしておこう。

 電車でたった一駅乗るだけで最近できたばかりの大型ショッピングセンターに着くというのに、僕はまだ行ったことがなかった。一緒に行く人がいないからだ。まさかこの中を一人で歩くような勇気は持ち合わせていない。

「私、ここくるの、初めてなんですけど」

 自分のことで精いっぱいでわからなかったが、どうやら彼女も相当そわそわしていた。

「大丈夫、僕も初めてだから」

 全然大丈夫ではない。

  一人で歩くことに慣れているせいか、うまく歩調を合わせられなかった。彼女が早歩きするくらいのペースになってしまい、意識を彼女に向けるのだが、しばら くするとまた、元のペースに戻ってしまう。お互い、言葉にしないでうまく歩調を合わせようとしていたのだが、あまりの合わなさに、二人で笑ってしまった。

「痴漢さん、歩調合せる、簡単な方法があると思うんですよ」

 彼女のいう方法がぱっと思いつかない。彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「いやって言わないで下さいよ」

 僕の左手をとって、自分の右手に重ねた。なるほど、こうすれば意識しなくたって歩調が合うじゃないか。僕の顔が熱くなるのは触れないでおこう。

「好きなところ、適当に入って、いいから」

 左手を意識しないように会話しているはずなのに、どうしても気恥ずかしさが抜けない。

「痴漢さ……えっと、すいじょうさん」

 どうしても「水上」とは素直に呼んでくれないらしい。

「私たち、恋人同士に見えると思います?」

 彼女を見れば、少し照れているのに、まっすぐにこちらを見る目。

「……見えるんじゃない」

 やったあと小さくつぶやく彼女の手に思わず力を込めた。

「水上くん?」

 彼女の声より、オクターブ高い声が僕を呼んだ。僕にとって、この声は苦手な部類に入っているのだ。振り向けば、そこにいたのはひらひらのスカートに身を包んだ、背の高い、女性。

「やっぱり水上くんじゃない」

 いやな笑顔してるな、と思った。嫌味を言う気満々の顔だ。

「佐藤さん」

 露骨に嫌な顔を出したはずなのに彼女には気づいてないようだ。こちらに近づくと、伊織をじろじろと眺めだした。

「彼女さん?」

「そうですけど」

 僕が答える前に伊織が答える。

「仕事くびになって、よく呑気にデートできるわねー」

 ま、私は有給だけど。勝ち誇ったようににやにやしている佐藤さんを相手にするのも、面倒くさい。どうせもう、会うことはないのだし。

「お言葉ですけど」

 伊織が前に出た。

「昨日、あなたみたいな香水くっさいおばさんとやっと離れられて清々したって、彼言ってましたよ?彼のこと、好きだったみたいですけど、あんなおばさん、まっぴらごめんだって言ってたから、これ以上付きまとわないでくれます?」

 そういって伊織は僕の手を引いて、さっさと歩き出した。後ろで佐藤さんがなにか叫んでいたのだが、幸い、追ってこられて殴られるようなことはなかった。

「すいません。勝手なことしちゃって」

「いや、もう会うことはないし」

「仕事、やめたばっかだったんですね」

 彼女に言わなかったことが思わぬところで明るみになってしまった。

「みっともないとこばれちゃったな」

 そういって笑ってみた。みっともない自分をごまかしたかった。

「全然みっともなくないです。全然」

 彼女は笑っていなかった。ちゃんとした僕を見ていてくれていた。

「すいじょうさん、彼女いたことあります?」

 すでにショッピングセンターを二周していた。お互い、どこにも入る気になれず、ただ店を見て歩くだけ。入ったところと言えば、フードコートにあるマクドナルドだけだった。ここでもやはり、頑なに彼女がおごらせようとしないので、別会計ですませた。

「泊めてもらったのにご飯もごちそうになるなんてずうずうしさ極まりない」

「それでも罪はぬぐえないと思うんだけど」

「あ、すいじょうさんのおいしそう。新しいやつですよね、それ。一口ください」

 彼女が僕の話聞いてくれないことなんてもう承知の事実だ。でも、今のは僕の今後の財布事情を気にされたようで、なんだか居心地が悪かった。確かに、ゆとりがあるわけでもないのだけれど。

 会話が弾んでいるわけでもない。しかし、なんだかわからない心地の良さがあって、彼女も感じていてほしいと思っていたところだ。

「高校の時に一回。でも、すぐ別れたよ」

 彼女はつまらなそうな顔をした。

「なんだ。すいじょうさんにまで負けちゃった」 

 ポテトの、油のついた手でそっと手を握られ、苦笑いする。

「私、彼氏いたことないんです。こういうのも、全部初めて」

 僕が初めての相手であることがあまりにも申し訳なくなって、慌てて手を放そうとするが、彼女はそれを止めた。

「いいんです。初めて手をつないでデートするのが、すいじょうさんで、嬉しい」

 なんて返したらいいのかわからなくて、ポテトの塩の付いた手を絡めた。彼女が笑う。意味のない、どうしようもないことなのに、たまらなく、幸せだった。


 伊織が外の空気を吸いに行きたいといったので、外に出てそのまま歩いた。このまま誰も知らないところまで歩きたいななんて呟いたら、伊織は笑った。そうですね、なんて、本気にしたくなるじゃないか。

 しばらく歩いた。右手はポケットの中で暖かいのに、左手はとても冷たくて、手を握ったまま固まってしまうんじゃないかと思うほどだった。ぎこちなく、伊織の手ごと、ポケットに入れた。

「恋人みたいじゃないですか」

 言葉とは反面に嬉しそうな顔をしている。

「こんなやつでごめんな」

 まったくです、といって、また笑った。

 どんどん人の住んでいる場所から遠ざかっている気がした。歩いている先は、まったく知らない場所だった。

「ここらへん、来たことある?」

 伊織は首を振った。

「迷ったらごめん」

 まっすぐ家に帰れる自信はなかった。

「迷ったら迷ったで、それでいいじゃないですか」

「今日中に帰れなくなるかもしれない」

「帰れなくなったって、いいじゃないですか」

 息が詰まった。さりげなく言った伊織の言葉が、あまりに冗談には聞こえなくて、ちょうど僕も思っていたことだったからだ。

 住宅地はどんどん下にさがっていく。そう、遠くではなく、下に。

「登ってますよね、これ」

「登ってるね」

 いつのまにか坂道に入っていたようだった。でも、二人の足は止まることなく、進む。

 たぶん、二時間くらいは歩いたんじゃないかと思う。おたがい、息が上がって、休みたかった。でも、止まりたくなかったんだ。止まってしまえば、今感じている幸せも止まってしまう気がして。少なくとも僕はそう思った。

「すいません、あの、ちょっとだけ、休憩しませんか?」

 彼女のほうが限界だったようで、どこか座れるようなところを探したけれど、ベンチなんて立派なものは当然なくて、しょうがなく、道路の小道のようなところに転がっていた太い木の上に座った。

「こんなに歩いたの、久しぶり」

 息切れしながら、伊織が笑った。

「僕も、久しぶり」

 座っても、手を離さないでいてくれるのがたまらなくうれしかった。

「こんなところあったんですね」

 車一台通れるかどうかの小道だった。普通に道路を走ってしまえば見逃してしまうほど小さな小道だ。

「なにかあるのかもしれないね」

 そういうと彼女がいたずらっぽく笑った。冒険心がうずいたらしい。

「休憩、終わり。行きましょう」

 伊織は繋いだ手をぶんぶん振って、小道を進んだ。

 十分ほど歩いたところで、冒険は終わってしまった。あまり広くない平地が広がっているだけだった。目の前に見えるのは、小さくなった住宅地で、先ほど行ったショッピングセンターも小さく見えた。

 すでに夕方で、あたりは暗く、人工的な明かりが遠くで光っていた。

「なんのための土地なんでしょう」

「なんのためでもないかもね」

「秘密基地ですかね」

「秘密基地にしてはなんもなさすぎるだろう」

 大体子供はここまでくるのも難しいだろうし、こんなところで遊ぶなんて危険すぎる。

「じゃあ私たちの秘密基地にしちゃいましょう」

 いいアイディアだった。誰にも邪魔されないようなその場所はとっても素敵な場所に思えた。

「ねぇ、一つ聞きたいんだけど」

「なんですか?すいじょうさん」

 伊織は楽しそうに笑う。

「さっき、お店で女の人に会ったじゃないか。あの時、なんで彼女が僕のこと好きだ、なんて言ったの?彼女、僕のこと相当嫌ってたのに」

 伊織がじっとこちらを眺める。僕の顔になにかついているのか不安になった。

「すいじょうさん、鈍いから教えてあげない。女の勘ですよ、勘」

 高校生が女の勘なんて言葉を使うのはまだ早いだろう。そう考える自分がなんともおじさんに思えてきて、ちょっとショックを受けた。

「すいじょうさん」

 もう一度、伊織が僕の顔をじっと見つめる。瞳に吸い込まれそうなほど、目が離せない。不意に顔の前に手をかざされ、僕の眼鏡は伊織の顔へと移された。

「ほら、いろんなものが遠くに見えますよ」

 世界から隔離されたみたい。伊織はすこし寂しそうにつぶやいた。

「あんまりギリギリまで行くと、落ちるよ」

「落ちたら死にますかね」

「死ぬよ。半端に意識が残ってても、誰も助けてくれないから、多分そのうち、死ぬ」

 伊織は黙ったままだった。なんて声をかけていいのかもわからなくて、何も言えなかった。相変わらず手は繋いだままで、そのかすかな体温が、伊織が生きていることを実感させた。

「私、ここ数年生きてきたなかで、今が一番幸せかもしれない」

「大げさだよ」

 僕はそういって笑ったけど、伊織が笑うことはなかった。まっすぐ、まっすぐ。僕らが住んでいる町を眺めでいた。

 伊織から、眼鏡を外す。伊織の顔がみたくなったからだ。鮮明に見えた伊織は、寂しそうに笑っていた。

「私、好きな作家さんがいるんですけど、その作家さんの本のなかで、主人公が、自殺のことを考えるのは、最悪の気分から、半ば回復してしまったときだって、言っていたんですよ。今なら、わからなくもないな」

 今の僕には、お金もなければ、伊織のことを救ってやれる方法を考えられる頭もない。伊織のことをどんなに幸せにしてやりたいと思ったって、僕は何一つできやしないんだ。

「このまますいじょうさんとどこか遠くに行っちゃいたいなぁ、なんて、言ったら、だめですか?」


  人から評価を受けることは、恐ろしいことだと、いつしか思うようになった。高校の時に一度だけできた彼女は、相手から告白してきた。華のように笑う人で、 決して整った顔立ちだったわけではないのだけど、自分のかわいさを見せるのが、とてもきれいな人だった。一目ぼれだったらしい。好きになって、いてもたっ てもいられなくて、すぐに告白してきてくれたらしい。いままであまり人から好意を受けたことがなかった僕は喜んでその交際を受け入れた。高校生の普通の付 き合いのように、一緒に帰ったり、休日にどこかに遊びに行ったりもした。僕はやっぱり話すのが苦手で、彼女はよく話す人だった。それで均整がとれていると 思ってた。でも、そう思ってたのは、僕だけだった。

「ごめん。別れよう。私、水上くんに、すごく期待しすぎていただけだったのかもしれない」

 ごめんね、という彼女の顔は、もう僕の知っている彼女の顔ではなかった。彼女を引き留められるうまい言葉一つさえ、僕の口からでることはなかった。

 僕と別れて間もなく、彼女は一個下の後輩と付き合ったという噂を聞いた。後で知ったことなのだが、僕と付き合っているときから、後輩の積極的なアタックを受けて彼女は困っていたようだった。


「多分、僕は、君の思ってるようないい人間じゃない。お金もなければ、何かを動かせるような能力も才能もない。平均の、いや、平均以下の人間なんだ。多分、しばらくしたらきっと、伊織にとって大切な人ができるよ」

 伊織は下を向いたままだった。涙を我慢しているのかもしれない。そんな伊織の涙さえ、僕は拭くことができない。

「ねぇ、どうして未来の、あるかないかの幸せを期待して、今目の前にある幸せを黙って逃さなきゃいけないんですか?それとも、すいじょうさんは、私のこと、嫌い?」

 暗くて伊織の顔がよく見えなかったが、多分目に涙をいっぱい貯めているのだろう。

 嫌いなわけ、ないじゃないか。その言葉さえ言えない僕は、なんて臆病なんだろう。

「伊織、ちゃんと学校に行って、お母さんともうまくやるんだよ。ちゃんと幸せになれるから。絶対。だから、今は頑張るんだ」

 少しためらって、伊織の頭をぐりぐりと撫でた。ふり払われるかと思ったが、伊織はされるがままに髪の毛がぐちゃぐちゃになっていた。

「帰ろうか」

 伊織は黙ってうなずいた。手をつなぐ。自分からつなぐのは初めてかもしれない。

 すっかりと暗くなった道をほとんど何も話さずに、降りて行った。これでよかったのだろうか。いや、今の僕にはこれしか方法がなかったんだ。

 一度僕の家に帰って伊織が制服に着替える。寒かったけど、外で星を眺めていた。送るためだけに僕が電車で往復することを伊織が躊躇していたが、危ないからといって、送らせてもらうことにした。

 ギリギリまで一緒に居たい、なんて気持ちは、言わなくていいだろう。

「ありがとうございました」

 伊織の家の近くに行く頃にはすっかり夜になっていた。

「がんばれ」

 もう一度、頭をなでる。どの面が、こんな偉そうに言ってるんだ。

「すいじょうさん、あの」

 伊織がまっすぐにこちらを見た。外灯で照らされて、はっきりと顔が見える。瞳に僕をとらえているのがわかる。

「本当に辛いときは、またうちに来てもいいから。汚くて、あんまりおもてなしはできないけど」

「もう痴漢しちゃ、だめですよ」

「もうしないよ。絶対しない」

 僕が少し大げさに肩をすくめると、伊織は寂しそうに笑った。そんな、もう一生会えないとでもいうような笑い方、しないでくれよ。

 家に入るまで見送った。伊織がドアを閉める前にこちらを見る。だから、寂しそうに笑わないでくれないか。そんな風にされたら、いますぐ抱きしめたくなってしまうじゃないか。左手で、手を振る伊織。右手で、手を振る僕。まだ伊織の体温が残っているような気がした。


 家に帰る直前に、コンビニに寄った。そんなにお金の余裕があるわけでもないのに、無性に酔いたくなったのだ。この前に大量に安酒を買い込んだときと同じ店員さんだった。どうにでもなれと、この前とほぼ同じメーカーのお酒をレジに置く。

 いやなものを見るような目で店員さんは僕を見る。そうだ、この対応のほうが世間的には一般で、優しい目を向けてくれるのは伊織くらいだったんだ。

 やっぱり伊織は天使かなんかだったのかもしれない、絶望を味わった僕のほんの一息の癒しだったのかもしれない。コンビニを出たところで重大なことに気づく。伊織の連絡先を知らない。なにもしないまま別れてしまった。

 いや、このほうがよかったのかもしれない。もし、これ以上伊織といることがあって、伊織にまで嫌われたら、僕は今度こそ生きる気力すらなくなってしまうだろう。

 伊織が僕を優しい目で見てくれた時期もあった。その事実だけあればいいんだ。それ以上は望まないから。

 冷え切った家に帰って、格段に弱くなったお酒を流し込んだ。いい気分で眠りたかったのに、すぐ近くに敷いていたふとんに潜り込んだとき、伊織のぬくもりを思い出して、すこし泣きたくなった。酔うと、涙もろくなってしまうのは、僕の悪いところだった。


 伊織が僕の部屋に泊った日から、すでに3週間は経過していた。毎日のようにハローワークに駆けつける。自分を受け入れてくれる会社ならどこでも受ける気だった。例えばもし、また、僕のところにきたら、ちゃんと受け入れられるように。

 伊織が僕を助けてくれたんだ。伊織がもし、世界に嫌になってしまったときに手を差し伸べてあげられるように。

 できれば、僕のことなんて忘れてしまって、幸せに暮らしいてほしいのだが。いや、そのほうがいい。そうであってほしい。僕は、必要のない居場所を作っていればいい。

「お探しの仕事はどのような仕事ですか?」

「なんでもいいんです。できるだけ、多くの仕事を紹介してください」

 受付の女性が珍しいものを見るようにこちらを見た。事務的な行動をしていたため、初めて人間らしい行動をしたようになった。

「水上君?」

 目が、合う。僕はこの目を知っていた。

「は、るか」

「久しぶりだね」

 忘れるわけがなかった。どうして今まで気づかなかったのだろう。はるかは僕の隣にいたころよりも格段にきれいになっていた。

 視線を泳がす。どこに目を移せばいいのかわからない。

「ここに就職したんだ」

 どこまで僕を貶めれば神様は満足するのだろう。いますぐ地面に穴でも掘って入りたかった。もう好意を持っていなくとも、こんな姿、見られたくなかった。

「うん。水上君は、あそこの会社、やめちゃったんだね」

 はるかには教えたつもりはなかったが、誰かから聞いたのだろう。あいまいな返事をしてにごした。

「これ。私なりに水上君にあいそうなところ、何件かあげたから」

 数分でまとめた何枚かの用紙を差し出される。慣れた手つきだった。

「ありがとう、じゃあ……」

 これ以上とどまる必要はない。はるかは何か言いたげだったが、僕は今すぐこの場を離れたかった。もらった用紙を鞄にしまう前に、その場を離れた。


  その日の夜、大学時代のことを思い出していた。ほとんどはるかといた時間しか思い出せない。というよりも、きっとはるかといた時間こそが僕の大学生活にお ける青春だったのだろう。楽しかった。悲観するものなんて、なんにもない。なのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるのか、わからなかった。

 部屋の伊織がいた空間はすでになくなっていた。

 しばらくして、敷布団は干して閉まってしまったし、それと同時にベッドにあったふとんも干した。伊織が着ていた服もとっくに洗濯してしまった。

 夢だったんじゃないかと思う。仕事がクビになったショックで見た、都合のいい夢だったんじゃないかと思う。夢なら夢で、もっとハッピーエンドにはならないものなのかなと自嘲気味に笑った。幸せな現実逃避なのに、どうして思い出すたびに悲しくなってしまうのだろうか。

 伊織のことがすべて僕の夢だったのなら、僕が今死にもの狂いで仕事を探している意味さえなくなってしまう。それでいい。僕が仕事を見つけることができて、また忙しくなって、理由なんて、忘れてしまえばいい。

 物思いにふけっていると、携帯の着信音が鳴る。最近、面接に関する電話はあっても、メールはメルマガくらいしか届くことはなかった。こんな時間に珍しい、と思いつつも、何気なくメール画面を開いた。

 まさか伊織が、勝手に僕のアドレスを見て、こんなに時間がたってから連絡なんかよこして、しかも会いたいだなんて。そんなこと、あるわけがない。そんな展開を望むなら、月9ドラマでも見ていてほしい。

 そこにあった名前は、伊織よりも確率が遥かに低い人間だった。はるか。その三文字に、いまだに鼓動が鳴るのは、僕が単純だからなのだろうか。

『会いたい』

 その四文字がどんな意図を表しているかなんて考えられなかった。どうして僕に会いたいのか。どういう風の吹き回しか。不満はいくらでもあるけれど、僕の親指はすでに文字を作っていた。

『いまどこ?』

 たとえば彼女がまだ、あの時の後輩と付き合っているのかなどという疑問は、今の僕にはどうでもいいことだった。

「お待たせ」

 彼女が車で通勤しているということなので、僕の家の近くのマクドナルドに待ち合わせになった。すでに時間が二二時を回っており、どこも閉まっていたためだ。

「私も、いまきたところ」

 このやりとりを大学時代に何度したことだろう。違っているのは、僕とはるかの関係と、はるかがそのときよりも格段にきれいになってることくらいだった。

「急に呼び出しちゃって、ごめん」

「びっくりしたよ」

 わざとおどけたように言ってみたけれど、緊張がほぐれることはなかった。

「アドレス、変わってなくてよかった」

 はるかが笑う。数年前と変わらない笑顔に一瞬目が奪われる。相変わらず、自分のきれいな瞬間をよくわかっているような表情の作り方だった。

「なんかあったの?」

 僕の表情が非常にぎこちないことは承知している。平常心でいられなかった。

「ううん。別に、今日会って、久しぶりだったなーって思ったから」

「そっか。仕事は?順調?」

 はるかの顔をうまく見られなかった。はるかがどんな目で僕を見ているのかを見るのが怖かった。

「順調だよ」

「そっか」

「水上君は……元気?」

 僕の仕事事情はすでに知っているからか、それについては触れないでくれた。はるかはいつだって僕の三歩ほど前に立って、僕のことをよくわかってくれていた。僕はそれに甘えすぎていたのかもしれない。

「三週間前に、すごく嫌だった会社をやめてさ、それからもうすごく元気になった」

 僕がそう言って笑うと、はるかも遠慮がちに笑った。

「水上君、変わったね。明るくなった」

「そうかな」

「そうだよ」

 僕は照れ笑いを浮かべた。つられてはるかも笑う。本当にきれいだった。そうじゃない。そうじゃないんだ。今、はるかが見ている僕は本当の僕じゃない。僕は、あの頃と、なにも変わってないんだ。

「水上君は、いまでも映画見たりするの?」

 はるかの趣味は映画鑑賞だった。デートにはよく映画を見に行ったり、時間が上映時間と合わなかったときはDVDを借りて二人で見たりすることがあった。

 はるかはハッピーエンドが大好きで、終始笑って終わるような明るい映画が好きだった。僕は、好きな本が映画化されたものを見ることが多く、そのほとんどが、悲しく、切ないものばかりだった。

 ほとんどは、はるかに合わせてみることが多かった。はるかと別れて、忙しくなったこともあってか、ほとんど映画を見ることはなかった。

 見ると思い出してしまいそうで、見なかっただけかもしれない。忙しさを理由に、わざと閉じ込めておきたかったのだ。

「あんまり、見てないかな」

「そっか」

 はるかは、悲しそうに笑った。僕と二人で映画を見ていたころを思い出したのかもしれない。いや、それは僕の都合のいい妄想だろう。

「私、いまだに水上君の映画の趣味がわかんないんだよね。悲しい映画って、ストレス発散で涙を流すために見ることはあっても、そんなしょっちゅう見るもなかなーって」

 はるかは難しそうな顔をした。僕はそれをみて笑う。

「安心するんだ。悲しい映画を見ると。こんなどうしようもない生活でも、まだ幸せなほうなんじゃないかって、錯覚させてくれるから。どうしようもないやつは僕だけじゃないんだって、思えるから」

 ひねくれた考えだというのはわかってる。きっとはるかには、一生わからない考えだ。

「どうしようもないなんて、そんなことないよ」

「どうしようもないよ」

 フォローを入れてくれたはるかの言葉に、かぶせる。現に、僕は君を、失望させてしまったんだろう?

 はるかは僕の考えていることがわかったのか、うつむいて、冷めかけたホットコーヒーに視線を落とした。

 しばらく沈黙が流れる。明らかに僕のせいだった。

「ごめん、私の、自己満足のためだけの話してもいい?」

「うん、聞くよ」

 今の僕にはるかのためにできることは、それくらいしかない。

「多分、噂で聞いたと思うけど、私、あのあと、後輩の男の子と付き合ったんだよね。ごめん、水上君に魅力がなかったわけじゃ、ないよ」

 きっとこれもまたフォローなんだな、と持ったのを読まれたらしい。

「本当だよ。本当にそう思う。でも、あの時の私、欲張りだったのかな。水上君が、私のこと、大切にしてくれてたのに、それ以上をほしがってた」

 生まれて初めてできた大切な人を、傷つけるのがこわかった。傷つけるのがこわくて、距離をあけすぎていたのかもしれない。

「後輩の男の子と付き合ってわかったの。どれだけ水上君のこと、好きだったか。気づくの遅すぎだよね」

「まったくだよ」

 僕がそういって困ったように笑うと、はるかもそれを見て、安心したのか、笑った。

「後輩君とは、すぐに別れちゃった。なにかあるたびに水上君と比べちゃって、喧嘩してばっかで、本当に悪いことしちゃったと思う」

 更に視線を落とした、はるかを見る。長いまつげが瞳を覆っている。思わず、見とれてしまうほど、きれいだと思った。

「今日、水上君と、目が合ってね、びっくりしたの。だってさ、私、初めて水上君と会った時と同じくらい、胸がどきっとしたんだもん。二回目の一目ぼれかな」

 はるかが照れたように笑う。言葉を理解するのに、時間がかかった。

「自分勝手だなんて、わかってます。前のように戻りたいっては、言わない。でも、せめて、また連絡とかとりたいなって。ごめん、だめ、かな」

 はるかは不安そうな顔でこっちを見ている。冷めきったコーヒーに両手を添えて。美人にこんなこと言われたら、一般の成人男性はどうこたえるのだろう。そんなのんきなことを一瞬考えた。

「はるかと別れてから、彼女はできなかった。忙しさを理由に、そういうの、考えないようにしてたんだ。でも」

 ふと頭に浮かぶのは伊織の顔。もう、会えるかどうかもわからないのに。

「好きな人がいるんだ。すごくすごく好きな人。叶わないかもしれない。でも、今はその子のことしか考えられない」

 僕は多分、悲しそうに笑ってると思う。そんな顔しかできなかった。

「そんな顔しないで。ねぇ、水上君って、水上君が思ってる以上に、実は素敵な人なんだから。知らなかったでしょ?ねぇ、本当に、そうなんだよ」

 はるかが嘘を言ってないことはわかった。はるかの目に、僕はどんな風にうつっているのだろう。伊織もそんな風に見えるのだろうか。

「ありがとう。はるかのそういうところ、好きだよ」

 ばかと言って笑うはるかは、目が赤くなっていた。ここで気の利いた言葉がでるほど、僕は器用じゃなくて、気づかないふりをするしかなかった。

 それからしばらく談笑して、いい時間になってしまったので、お開きになった。

 僕が就職したら、どこかご飯でも行こうという、約束をした。よき、友人として。

 はるかの車まで送る。はるからしい、淡い色の軽自動車だった。

「今日はありがと。水上君面接、がんばってね」

 屈託のない笑みを浮かべる。相変わらずの、きれいな顔で。

「こちらこそ。はるかも頑張って。また、近いうちに会おう」

 はるかが運転席のドアに手をかける。しかし、その次の動作がなかった。

「はるか?」

「水上君。水上君は、私のこと、少しでも好きでいてくれた?」

 振り向いたはるかは泣いていた。いつも僕の三歩前を歩いて、僕の考えていることなんて、すべてお見通しだったはるかが、わからなかったこと。なによりもまず、はるかに伝わってなきゃいけなかったこと。

「好きだったよ。多分、あの時のはるかの気持ちより、何倍も大きいくらい」

 ハンカチなんてしゃれたものは持っておらず、手で涙を拭う。

「うん、ありがとう。信じる」

 はるかはまた、笑った。作り笑いだってことは、僕でもわかった。

「今日、久しぶりに、悲しい映画みたくなったかも。明日、仕事休みだし、徹夜で見ようかな」

「付き合おうか?」

 僕の申し出にはるかは意地悪そうに笑って、やだと言った。悲しいときは悲しい映画を一人で見て、悲しさを飛ばすものだ。

「じゃあ、またね」

 はるかが振り向かずにそういったのは、涙がまた流れそうになったからかもしれない。僕は彼女を泣かすことしかできなかった。いるかいないかももうわからない、天使のような存在のためだけに。

 はるかの車が見えなくなってから、帰路についた。数分歩くだけで、家に着く。

 たとえば、アパートの前で、寒さに身を震わせながら僕の帰りを待っている伊織がいるとか、なんとなくそんなことを考えてしまう。そんなこと、あるわけないのに。

  あれから一人でショッピングセンターに行ってみた。伊織がどこかに隠れていそうで、どこに行っても伊織を探していた。思ってる以上に僕は伊織のことが好き で、それはどうやっても届かない思いだってことはわかっている。でも、忘れるのが嫌だった。今の僕を支えている伊織の右手のぬくもりを忘れたくなかった。

  案の定、伊織との感動の再会もなく、手短にシャワーを済ませ、ベッドに入る。伊織にもう一度会いたいわけではないと言えば嘘になる。しかし、伊織が僕のこ とを忘れるほど、楽しく過ごしてほしいというのも本音であった。伊織が幸せになってくれればいい。でも、もし、幸せになることに失敗してしまったときは、 僕のところに来ればいい。そうしたら僕は、精いっぱいの幸せを伊織にあげよう。伊織が、もっと大きな幸せを、見つけるまで。

 いつの間にか、眠りに落ちていた。


 はるかと再会した日から、わずか一週間で、新しい仕事先が決まった。はるかが選んでくれた何社かのうちの一社だった。

 なんでも、仕事の結構な重役の人が病気にかかり、しばらく休まれるそうだ。その理由で、会社の仕事があふれ、新卒社員が入ってくるまで待てなかったそうだ。

  そこで募集をかけたところ、1カ月前まで同じ系統の会社で仕事をしていて、しかもすごくやる気の伝わるような面接者が入ってきたらしい。いうこともなく、 即断で採用となった。それが僕だった。(どのようにやる気を見せたかについては僕の一生の恥に関わることなので、触れないでほしい)

 新しく覚えることも多く、残業続きの毎日だった。しかし、職場の雰囲気は大変良く、なにより僕を暖かく迎えてくれてる人たちばかりで、それだけで相当頑張ることができた。

 以前の雑用係の僕は、いかに効率よく仕事をこなすかに特化していたためか、それが今の職でも役立った。そのやり方を教えてほしいと頼まれることもあった。

  僕のためだけの歓迎会も行われて、いろんなものが楽しかった。佐藤さんのように眼鏡を外せと隣で言ってくるような怖い女性はいなかった。対策として、コン タクトレンズをつけていったからだ。怖い女性はいなかったが、何人かの女性社員にアドレスを聞かれた。コピー要員として、扱われるような態度ではなかった ので安心してもいいだろう。また、コンタクトレンズにすると、視界を妨げるものがなく、相手の顔をしっかり見て覚えることができるので、今後は積極的に活 用していこうと思う。

 飲み会こそひさしぶりであるのに、みんなに強く押され、二次会まで来てしまった。カラオケなんて、何年振りだろう。まとも に音楽を聴くことがなかったため、大した曲のレパートリーもなかった。それでも、僕が歌ってもしらけるような恐怖は怒らず、むしろ半端な音痴加減に同い年 の男性社員からいじられるようになった。そいつとは、それからやけに気が合って、酔っているせいもあってか、最後は二人で肩を組んで歌った。

 ク リスマスも大晦日も、残業ですべてつぶれた。恋人がいる社員をいじりながらも休みにして、恋人のいない社員たちが総出で働くというめちゃくちゃな会社のス タンスがなかなか好きだった。みんなで悔しがりながら、来年こそは、なんて言い合って、それを仕事の活力にしているのが、とても滑稽で、面白かった。

 年を越してから、会社を出て、明日が休みなこともあって、非リア組は朝まで飲み倒してバカ騒ぎをした。

  毎日が充実していた。この前、はるかとの二人でのささやかな就職祝いもしたし、そこで大学での話になり、今度は大学の同級生との飲み会も約束した。以前な ら、頑なに断っていたものだったが、今ならだれとでも打ち解けることができる気がした。それくらい、僕を無敵にしてくれたのは、まぎれもなく、伊織の存在 だった。

 どれだけ充実しても、たまに不安に襲われることがある。伊織は元気だろうか。寂しい思いをしていないだろうか。ちゃんと学校に行っているだろうか。

 確かめる術はいくらでもあった。学校も知っているし、家の場所も知っている。しかし、僕がそこに向かうことで、なにかが壊れてしまう気がいて、どうしても気が引けた。

 また、帰りの電車で偶然出会う、なんてことを期待したが、残業続きで帰りは相当遅く、たまにすぐに帰れても、前の会社より離れているせいか、伊織の高校の最寄りの駅を通るころにはすっかり日が暮れていた。

  一度だけ、伊織らしき後姿を見たことがある。声をかけようとした。できなかった。もし伊織がやっと小さな幸せを見つけたところだったら。もし、声をかけた ところでそれがすべて壊れてしまったら。そう考えると声をかけることができなかった。僕は、伊織を待つことしか、できない。

 伊織と会ってから、四か月経った。三月始め。もういい加減暖かくなってもらっても構わないのに、先日降り積もった雪が、まだしつこく残っていた。家の近くの雪となると、車の通りが少ないせいか、あまり黒く汚れていないのがせめてもの救いだろう。

 昨日頑張ったおかげで、今日は仕事が早く片付いた。明日は土曜で休みだから、と、歓迎会で仲良くなった同い年の社員に食事の声をかけられたが、断った。なんとなく、今日は一人で飲みたい気分だった。

  近くのコンビニに寄る。伊織と別れた日によって大量に安酒を買った時の店員さんと一緒だった。最近、残業帰りにお弁当を買いに来ることが多いので、おそら く夜勤シフトのこの店員さんとはよく会う。会ったからと言って、何かを話す仲なわけでもなかった。ただ、帰り際に、お礼を言うと、僕を見る視線は優しく なってきたような気がした。最近スーツばかりで、僕が仕事をしていることがわかって安心もしたのだろう。

 今日はお弁当は買わず、お酒を何本かと、おつまみを買った。一人で飲むのはあの日以来だ。

「珍しいですね」

 袋に詰めながら、彼女は口を開いた。いつも事務的な言葉しか発しないため、個人的な会話は初めてだった。

「お酒買っていくの、久しぶりじゃないですか?最近は外で飲んでばかりだと思ってました」

「確かに、そうかも。でも今日は一人で飲みたい気分で」

 店内にはほかの客が少ししかいなかった。レジで待っているお客さんはいない。

「最近、変わりましたよね。明るくなった」

 そんなこと気にされていたのかと、内心驚く。個人的な会話になっても、彼女は、気だるく、眠そうに話していた。

「そうかな」

「そうですよ。前まで死んだ魚のような目をしてたのに」

 彼女が真顔で言うから、思わず苦笑いをした。お客さんがレジに向かってきたので、帰ることにする。

「また来ます」

「眼鏡より、コンタクトのほうが断然かっこいいですよ」

 もう一度、彼女を見ると、彼女はいたずらっぽい顔をして笑った。初めて笑顔を見た気がする。いつも仏頂面で接客しているからだ。なんだ、笑ったほうがかわいいじゃないか。

  笑い方が、伊織にそっくりで、少し胸が締め付けられた。伊織は、今、笑っているのだろうか。もし、伊織にまた会うことができたら、伊織も、コンタクトのほ うが似合うと言うのだろうか。そんなことを想像してる自分に、思わず苦笑いをする。伊織が自分のところにこないほうが、伊織は幸せなのに。もう一度会いた いなんて、僕の自分勝手な願望にしか過ぎない。

 家の近くは、日当たりが悪く、雪が解けているところが少なかった。朝に滑って危なく転びかけたところだ。夜になって、また凍っているはずなので、気をつけて歩きたい。

 アパートが見えると、そこでうろうろしている人影が見えた。変質者だろうかと一瞬身を固くするが、どうやら女性のようだ。それが、もし伊織だったら、なんて、都合のいい妄想をしてみる。そう、妄想だ。伊織がいるなんて、僕の、妄想。

 距離が近づく。僕を見ている。僕も彼女を見ている。視線が交わる。伊織がいるわけ、ない。輪郭がはっきりと見える。スーツを着ていることを喜んでいるようだった。顔を見て、少しむっとしている。そんな、伊織がいるなんて、僕の、勝手な妄想。

 ほっぺたをつねった。純粋に痛かった。

「帰ってくるの、遅いです」

 白く息を吐いて、鼻を赤くしている。何度、この声を聞きたいと願っただろう。何度この顔を見たいと願っただろう。

「伊織?」

 会ったら、どこでも構わず抱きしめてしまおう。伊織が嫌がっても構うものかと強く抱きしめてしまおう。そんなことを、何度も考えたのに。

「そんな、不安気に確認するほど、私美人になりました?」

 僕の手は、部屋のカギを取り出して、冷静にドアをあけた。伊織の指は先が真っ赤だ。だいぶ待っていたのだろう。

「どんくらい、待ってたの?」

 僕の質問なんてお構いなしで、部屋に入ってはまた汚いーなんて騒いでいる。

「伊織」

 少しでいいんだ。僕の言葉を聞いてほしい。

 何度も繰り返し思っていた言葉があるんだ。繰り返しては打ち消して、今やっと叶ったんだ。

「会いたかった」

 やっと、会えた。伊織がここにいるということは、伊織は幸せなわけないのに、喜んではいけないことなのに、嬉しくて、涙がでそうだ。

「会いたくて、仕方なかった。どうしても、会いたかったんだ。もう一度だけでいい。何度も願った。でも、伊織には、幸せになってほしくて」

「すいじょうさん」

 伊織がしどろもどろに話す僕の言葉を止める。そっと手が触れあった。まだ冷たいままだった。

「私も、会いたくて、仕方なかった。すいじょうさんに、何度も助けてほしかった。でも、すいじょうさんのことを考えたら、きっと今の私じゃ足手まといにしかなれないなって思って」

 伊織が僕の手を放す。離さないでほしいなんて、子供みたいなことを考えた。

「卒業したんです、今日」

 伊織は真っ赤な指で卒業証書を取り出した。まだかじかんで、思うように動かないのだろう。

「すいじょうさんに真っ先に見せたくて、誰とも話さずにここに来たんですよ。話す相手もいなかったですけどね。でも、すいじょうさんいなかったから、夜まで待って、また来て」

 伊織の言葉が切れたのは、僕の胸で口が塞がったからだ。伊織の話が途切れたことで、初めて僕は伊織を抱きしめたのだと認識した。

「ばかだな、ほんとうに、最後くらい、同級生と会話くらいしてこいよ。そんなんじゃ、数年前の僕と、まったく一緒だろ」

「一緒じゃないですよ、多分」

 伊織が、僕の腕の中で答える。今更になって、抵抗されなくてよかったとほっとする。

「だって、私には、今、おめでとうって言ってくれる人がいるから。ほら、すいじょうさん、私に大事なこと言い忘れてますよ」

 伊織がいたずらっぽく笑っているのが想像できる。いろんなことでいっぱいいっぱいで、何も言えずにいた。

「卒業、おめでとう」

 伊織が、満足そうにへへへっと笑う。抱きしめている力が、思わず強くなった。

「もう一つ、報告があるんです」

 伊織が、抱きしめられながら鞄を手探りで探す。手を放そうとしたら、やだ、なんて、小さくつぶやかれてしまった。

「多分、これだ」

 伊織が手探りで見つけたそれを、僕の左手に預ける。抱きしめたまま見える所へ持っていく。

 合格通知だ。しかも、結構名の知れた大学の。

「結構頑張ったんですよー」

 えへへ、なんて笑って、僕に回してる腕の力を込める。

「すいじょうさんに会ってから、頑張って勉強して。国立だったら、一人暮らしさせてくれるから。そうしたら、お互い幸せになるんじゃないかなぁって、思って。お母さん、4月に籍入れるみたいだし」

「伊織」

 頼むから、もう悲しい顔をしないでほしいんだ。伊織がこれから通う大学は、ここからでもそう遠くないはずだ。

「僕 は、伊織に幸せになってほしいんだ。この先、どうなるかなんてわからない。伊織にとっての幸せすら、僕は知らない。でも、もし、この先どこかで、幸せにな るのに失敗したら、その時は僕がここにいることを忘れないでほしい。僕が伊織に、幸せをあげるってことを、覚えていてほしい」

 どんなに時間がたったって構わない。僕はいつまでも伊織を待つから。

「すいじょうさん」

 伊織の声は湿っぽくて、どうやら泣いてるようだった。

「ねえ、今、失敗したっていったら?卒業式なのに、誰一人ともしゃべることはなくて、家に帰ったら、卒業おめでとうなんて言葉より、いつ家をでるの?なんて言葉をかけられて、ただ一度、痴漢をされた男の人に抱き付くことが今一番の幸せだっていったら?」

 生まれてこの方、真っ当な人生だなんて思ったことがなかった。

「私、すいじょうさんに会ってから、何度も死にたくなった。あんな幸せもらったんだから、もういいやって。でも、そのたびに、すいじょうさんのそばで生きたいって、何度もそう思ったの。欲張りかな」

人との交流がうまくできず、何度神の不平等さを呪ったことだろう。もしこれが神様の気まぐれで、僕にチャンスを与えてくれるんなら、僕はそれを全力でつかむべきだと、そう思わないか?

「伊織、僕が伊織を幸せにしたい。今まで足りなかった分も、補うくらい幸せにしたいんだ。伊織がもういいよって言ったら、僕の役目は終わりにするから、だからそれまで、僕のそばにいてくれないか」

「やだ」

 伊織が即答する。まさかの答えに、あっさりそっか、なんて言葉を即座に言えなかった。

「絶対、もういいよなんて、言ってやらないんだから。一生、言ってやらないんだから」

 そういって、腕の力をこめるもんだから、たまらず僕は伊織の顔を寄せて、キスをした。驚いて、茫然としていた伊織が、やがて笑った。


「ねえ、どうして眼鏡外したんですか」

 だいぶ部屋も温まってきたころだった。僕の買ってきたお酒を勝手に開けては飲み始めている。まだ、大人じゃないのに、なんて注意をしたら、子供にちゅーしたんですか?なんて、何も言い返せない。

 すでに頬が火照っていて、酔い始めているようだ。

「コンタクトのほうが、楽な時があって」

「だめだめだめ!」

 伊織は少し不機嫌そうに僕の目をふさいだ。なんの意味があるのだろう。そんなに見られないようなものになってしまったのかと、不安になる。

「眼鏡はずしたら、かっこよくなっちゃうから、だめ」

 視界が暗く、伊織がどんな顔をしているのかわからなかった。僕の顔を覆う、伊織の手を絡めた。伊織が不安そうに僕を見つめる。

「そんなにかっこよくて、彼女できなかったんですか?」

 そんなの、決まってるじゃないか。

「僕の頭は伊織でいっぱいだからね。それに、誰もよりつかなかったけど、伊織って趣味悪いの?」

 そういって笑うと、伊織も笑った。

「確かに、痴漢する人好きになるとか、相当趣味悪いかも」

 ……伊織に口で勝てる日なんて、来るのだろうか。伊織はいたずらそうに笑った。

「すいじょうさん、会社に行くときは眼鏡かけてください。すいじょうさんは自分の顔のレベル認識しなさすぎです。こんなの、女性社員がほっときませんから」

「じゃあ伊織も大学であんまり男の子に色目使うなよ。笑うとかわいいんだから」

 伊織は酔ってるせいもあってかすぐに赤くなった。

「ねぇ、すいじょうさん?大学入ってなれてきてからでいいんです。もし、もっとお互いのこと知って、もしもっと好きになれたら、将来、私、すいじょう伊織になってもいいですか?」

 気恥ずかしくて、なんて返したらいいかわからなくて、それじゃあまるで、プロポーズみたいじゃないか。

「水上伊織だからな」

 伊織がきゃーっと叫んで、抱き付いてきた。突然のことで、後ろに倒れてしまう。覆いかぶさる伊織を抱きしめた。

「幸せキャパシティオーバーするほど、幸せにするので、僕のそばで生きてください」

 伊織はちいさく頷いた。

「私もすいじょうさんのこと、精いっぱい幸せにするので、とりあえず痴漢するのやめてください」

 無意識に伊織のおしりにおいていた手を慌てて離した。また伊織にしばらく、痴漢ネタでバカにされるのは、誰にも言わないでおこう。































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以下講評 (甘口2、辛口8)


話のテンポと表現の仕方、について特筆すると。

話のテンポは非常に読みやすかったです。後述していますが、文章が綺麗で、英語の和訳のような文章が無く、スラスラと読めました。筆力はとてもあると思われます。

表現の仕方ですが、一人称が淡々としているため、全体的に少し平らで起伏が少ない様に思われました。

ヤケクソになる、という表現がやけ酒だけ、だったり、頭の中で完結してしまったりするので、温厚な彼が思わずゴミ箱を蹴飛ばしてしまう(けど後で片付ける)等、独白でなく様々な行動で示すと表現の仕方が広がったと思います。



次に文章のついてですが。



>>会社をずる休みしたのは初めてだった。まぁ、まじめに働いている人からすると、それがなんだって感じだろうけど、僕がされた仕打ちを考えてみると、よく絶えてきたものだと思う。

>>ちょっと微熱もるみたいなんで学校休ませて病院に連れていきますね。

誤字脱字があると、冷めてしまいます。


! や ? の後には一文字空白を入れるのが決まりです。


全体的に、フワフワとした一人称の語りが読みやすかったです。やれやれ系の痛さも無く、凄く綺麗な文章でした。

僕か、俺か、といった質問がありましたが、俺になると一気に安っぽくなったと思うのでこの文体で書くならば僕で良かったと思います。


全体的に、草食系なナヨナヨ男子かな、と思うのですが、


>>この荷物、いらねえなと思った。

>>「おなかも痛いし、心なしか熱もあるんだろう?」


こういう箇所で、男前っぷりのギャップが中々ときめけますね。


>>(どのようにやる気を見せたかについては僕の一生の恥に関わることなので、触れないでほしい)

ここは笑えました。やる気とは結構かけ離れているキャラクターだったので、想像すると面白かったです。


そしてキャラクターとストーリーについてですが。


イケメンモデルが雑誌で男は顔じゃないみたいな記事を飾ってる様な印象でした。


この作品で勿体無かったのは、最初に過度なコミュ症アピールを重ねたせいで、主人公に対してのコミュ症という偏見がついてしまったことですね。


後述にイケメンだという描写もありますが、その辺りも漫画チックな印象を受けます。ハーレムキャラの主人公みたいにモテてますし。それで、コミュ症アピールされてもなんだかなあ、という思いが。

実際にとある場面でこういう無神経な言動のせいで部長の怒りを買い、など具体的なエピソードを冒頭の会社部分で入れるとまだ説得力が増したと思います。


コミュ症が痴漢した少女に惚れられ、一度自分とダメ男だからと振った後、ハロワで運命的に元カノ(美人)に再会、更によりを戻そうと持ちかけられ、断り後に仕事がぐんぐん旨く行ってイイトコの大学に合格した少女に迎えに来てもらう、という展開は、恋愛ものとして読むには、少しご都合主義が強かったかなー、と読了後に感じました。

冒頭にさんざんコミュ症っぷりをアピールした割に、そんなにコミュ症ではないという印象が強い。だから伊織のお陰で世界が変わったと言われても最初から口で言う割にはそこまで酷くなかったんじゃないの? と気もして、勿体無いなあと。


上にも少し書きましたが、これだけコミュ症をアピールするなら、理屈だけでなくもっと具体的なエピソードが欲しかったです。そうすれば、そこまでこちらが思い込んでいたコミュ症とのギャップが少なくなったように思われます。


あとヒロインの子の悲劇ネタがベタ過ぎて、作り物っぽさが増しました。今日び離婚問題云々とか見飽きたネタのように思えます。

悲しさとか苦しさは絶対的なものではなくて、相対的なものだとは思いますので、現実それに悩んでる人がいたらそんなことは言えませんけど、小説の中で見るならもっと読者を楽しませるような工夫があれば更に良かったと思います。


中1の時に離婚して、まだ好いているお父さんって、別れてから六年間も片思いしてるんだなって想像してしまって、凄いピュアなお父さんだなと思いましたw


ヒロインについてなのですが

痴漢してきた男(痴漢する男の顔じゃないという描写もありましたが)の家にホイホイ上がり込んで泊まるって、貞操観念が緩い女の子だなあ、と感じてしまいました。最近の価値観はこれが一般的かはわかりませんが、私はあまり良い印象は持てませんでした。しかし、これは私の考えが固すぎるのかラインが微妙なので、こういう人もいるんだな、ぐらいに受け取って頂けると幸いです。


こういう子が学校じゃ根暗で友だちが居ない荒んだ子だと考えると、色々思わされる部分がありますね……。ただ単に、悲劇を表すために友だちを居ない、と小道具的に使うのではなく、しっかり生きているキャラクターとして設定をしっかり練ると、リアリティのあるキャラになったと思います。


最後に、彼氏の苗字を名乗ってきゃーと言うところなんかはリアリティありました。

あの辺りのベタ甘な話は需要があると思いますので、それで一本貫くというのも面白いかもしれません。


最後にその他細かい点をいくつか並べますと。


高校の時に元カノが一人って書いてあるのに

大学生の時の元カノが出てくるのは……。同一人物ならちょっと致命的な矛盾かと。



友だちが居ないのに、敷布団持ってるのは疑問でした。泊める相手も居ないのに普通常備しないと思いましたが。彼女は同じベッドで良いとして、親が泊まりに来る用で置いているんでしょうか……? 父親と仲が悪い描写があったので、それもパッと結びつかず。


親から大学入学したら友だちが泊まりに来るでしょうから、敷布団くらい買っときなさい! と言われたものの一度も使われた試しが無い、みたいなエピソードがあると悲壮感が増すかもしれません。


出会ったのはだいたい12月か11月……センターまでおよそ一ヶ月強と言ったところでしょうか。結構名の知れた国立大学って言うと、旧帝未満だとしてもBランの横国とか千葉、広島レベルになると思いますが……うーん……。センター圧縮も旧帝以外はそんなにやってない気もしますし。元から頭良かったんでしょうか。

このへんが、少しご都合主義を感じてしまった要因のように思われます。


余談ですが、一ヶ月以上前に告知せずに解雇通知を出した場合、一ヶ月分の平均賃金を支払う義務があったりします。

職業人を書く場合、労基法等調べておくと幅が広がると思います。


タイトルの水素のあつめかた、と水上置換、と痴漢をかけていたのはなるほどね、と面白かったです。


似たような文体の作家ということですが

宮部みゆきの我らが隣人の犯罪、のような少年が主人公の作品か

少し今回の作品より硬いですが、サリンジャーのライ麦畑でつかまえて 等はどうでしょうか。

ご期待に添えれなかった場合、すみません。



文章がとても女性らしい柔らかな印象を受けましたので、設定をしっかり練った恋愛もの等を書いた場合、心情描写が強烈に伝わって相当化ける作品が出来上がるんじゃないかと思います。

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