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外伝その3 ああ無常

 アトレビドは歩いていた。時刻はすでに夜で家の灯り以外見えない。街の中は街灯でぽつぽつと蛍のように光っている。ソーラー電池を利用した街灯で青白い弱弱しい光であった。

 気温は低くなっている。肌寒いが彼の場合豚のように毛が覆われており、そのおかげで寒さには縁がない。

 アトレビドは背筋をピンと伸ばして歩いていた。まるで軍人のように規律正しい歩みである。ひたひたとサンダルと石畳の音しか聴こえない。

 周囲には仕事帰りに人間が帰路についていた。ほとんどは他者に無関心で、すたすたと通り過ぎていく。

 その内アトレビドは人気のいない路地へ入っていった。50年前は教団学校と学校に通う子供が住む寮しかなかった。男女5人に分かれており、それと世話役の若い夫婦が一組。

 毎年教団の6歳ほどの子供が入学し、亜人の子供が引き取られている。人間と亜人を子供の頃から一緒に暮らして抵抗感をなくすためだ。

 毎年10人ほど連れてこられる。もちろん二十年も経てばその子たちが親になり子供を作るのだ。

 18歳で卒業し、教団に当てがられた職に就く。大工見習に一戸建てを作らせ、そこに住むのだ。親子二世代で暮らせるほどの大きさで、台所に風呂やトイレも完備されていた。

 これは親切心ではない。若い司祭たちが練習するためである。

 それが50年。最低でも500戸以上の家があるが、それ以上に店や工場の数も多い。

 アトレビドは10歳の時にここに来たが、空き地などが目立っていた。それが建設ラッシュでごちゃごちゃした街に成長したのである。

 教団が管理しているとはいえ、闇の部分はある。さすがに浮浪者や孤児はいない。全員施設に収容しているからだ。

 だからといって健全というわけではない。花街では様々な亜人が春を売っている。それに賭博も取り仕切っており、夜で歩くのは危険だ。

 もちろんアトレビドは人気のない所へ向かっている。無人の住宅街に向かい、建設中の現場にやってきた。

 昼間は大工や左官が忙しなく働いているが、夜になると猫の子一匹見えなかった。

 そこでアトレビドは声をかける。


「ここならふたりっきりになれるぜ」


 恋人に睦言をささやくような声で言った。

 それに応じて闇からひとりのロバが現れる。ロバの女だ。胸は皮の胸当てをつけていた。女性ならではのふくらみと、柔らかさを感じる。これは毛深い亜人でも関係ない。


「こんな色気のない場所へ誘うなんて、女心をわかっていないわね」

「あんたが女とわかっていたらもっといいところへ行っていたさ。相当場数を踏んだと見たね」

「確かにその通りだけど、女に対して言う台詞ではないわ」

「こんなところまで誘われたんだ。普通の女じゃないだろう?」

「それは否定しないわ」

「じゃあ何をしたい?」

「やらないかしら」


 ロバはアトレビドを見る。ロバの目だがうっとりとした目付きだ。まるで恋人を見るようである。


「さっきあんたはなんて言ったんだい?」

「なんの事かしら?」

「こんな色気のない所と言ったんだ。俺といいことをしたいのかい?」


 するとロバはけらけらと笑った。相手を小ばかにした笑いだ。


「あはは。あなたはわたしといいことすると思っているのかしら。だとしたらとんだうぬぼれ屋さんね」


 アトレビドは笑っていない。先ほどのは冗談だ。あの女が現れた時点で私闘が始まることを予測していた。なぜなら彼女は足音を立てていないし、殺気もない。

 アトレビドだからこそ気づけたのだ。そのままのこのことグラモロソのいる家に向かうほど愚かではない。


「あんた、俺が誰だか知っているのかい?」

「知っているわ。司祭の杖のアトレビドさん。司祭見習いのグラモロソと同棲しているのでしょう」

「同棲じゃないな。居候だよ。俺の事を知っているということは、エビルヘッド教団の人間か?」

「コゼット」


 ロバは質問に答えず、固有名詞を出した。


「私の名前はコゼット。でもそれで終わり。あとは教えない」

「それじゃあ、身体で教えてもらうかな」


 アトレビドが言い終わる前に、彼は右手から一本の糸を出した。それは矢のように鋭く、コゼットに向かっていく。

 脂肪で作られた糸だ。その威力は鉄板さえ貫く。

 コゼットは紙一重でかわした。勢いのついた糸はそのまま向こうに飛んでいった。


 コゼットはそれを見て前屈みに突進する。まるで獲物を捕食する肉食獣のような跳躍だ。

 しかしアトレビドは右腕を上げる。先ほどの糸は向こう側にあるスコップに絡みついていた。

 それを引っ張り上げ、コゼットに当てようとする。

 だが彼女は躱さない。むしろアトレビドの方に飛びかかった。そして頭突きを食らわせる。

 がつんと当てられると、頭がくらくらしてきた。視界が歪む、思考が止まる。

 コゼットはすぐに離れたようだ。しかしアトレビドの考えはまとまらない。まるで蜂蜜のようにどろどろとしており、かき回してもかき回せない状態であった。


 その時背中に衝撃が走った。コゼットが背後に回り、平手を当ててきたのだ。

 凶器で刺されたわけではないが、冷や汗が出る。そして何か危険なものを感じた。


 コゼットはすぐにその場を離れる。彼女はスコップやつるはしが置かれた作業場まで走ってきた。

 一体何をしたいのかと思ったら、身体が宙に浮いた。コゼットは右手を突き出している。

 何も見えない。そう見えた。しかしアトレビの身体は飛んでいく。魚釣りで魚が吊り上げられたらこのような感じだろうか。

 彼の身体は月を背景に飛んでいった。そして作業道具の真上に落ちる。

 スコップやつるはしで傷ついたが、彼の身体は脂肪の塊だ。少しくらいの傷は平気である。

 しかしあの女は何をしたのだろうか。さっぱりわからない。

 どことなく自分と同じような技だと思えた。


 それは正解だった。コゼットの力はスウェット奇術師スキルといい、手の平ににじみ出る汗が武器なのだ。

 この汗は通常の汗より粘着力が高い。さらにアトレビドほどの巨体でも引っ張り上げるほどの威力だ。

 アトレビドが知れば自分の力と似ていると感じたろうが、今の彼にそんな余裕はなかった。


「あはは。言いざまですね。あなたの無様な姿を見たかったのですよ」


 コゼットがあざ笑う。地べたに這いつくばるアトレビドを見て笑いをこらえていた。


「あんた、俺に恨みがあるのか」

「あるわよ。だってあなたは親の仇だもの」

「仇だって?」

「ええ、あなたが先月殺した豚の亜人ベルゼブブは私の父親よ」


 アトレビドは合点が言った。異なる亜人が結婚して子供を作っても、ハーフは生まれない。なぜか犬と猫の亜人が子供を作っても、どちらかしか生まれないのだ。

 ハーフの見分けは親の自己申告しかない。普通ならどちらかの身体的特徴が受け継がれるものだが、亜人はそうではない。


「あはは。お父様をその脂肪の糸で真っ二つにしたのよね。どうゆう気分かしら。人を真っ二つにして殺すのは」


 コゼットはアトレビドの頭を踏んだ。憎しみを込めてぐりぐりとサンダルを動かす。

 アトレビドは身体が動かない。受け身を取れたがコゼットの言葉に動揺しているのだ。

 エビルヘッド教団でも親子の情はある。当たり前のことだが、それを目の前に見ると身体が動かなくなってしまったのだ。


 このまま、彼女になぶり殺しにされるのだろうか。アトレビドは必死に頭を回転させて考える。


「そこまでだ」


 闇の中に渋い男の声がした。それはハゲ頭の人間だ。三十代後半で、黒い背広を着ていた。さらにサングラスもかけている。しかし同じような人間が複数いるのだ。


「あなたは誰ですか?」

「お前に教える名前はない。さっさと消えろ」


 男は煙草を取り出して火をつけた。何を考えているかわからない。同じ顔の人間が横一列に並ぶ。全部で10人。さすがのコゼットもこれだけの人数は相手にできない。


「命拾いしたわね。でも人殺しのあなたを許すつもりはないわ。いつか復讐してやる」


 コゼットは捨て台詞を残して、闇の中へ消えていった。後に残るのは倒れたアトレビドと男だけ。


「……ハンゾウさん。なぜあなたがここに?」

「偶然通りかかった。といったら信用してくれるか」


 アトレビドは答えない。それはありえないからだ。

 ハンゾウはグラモロソの叔父だ。人間の父親と蛇の亜人の母親の間で生まれた。

 姉はロサ司祭の元に嫁いだ。ハンゾウは司祭の杖として活躍している。幼少時は人と蛇の間に生まれた蛇人間とよその地区からいじめられていた。

 

「グラモロソと離れて息抜きか。いい気なものだ」


 ハンゾウは皮肉った。彼は姪とアトレビドの関係を知っている。今回はアトレビドが狙われたが、逆に司祭であるグラモロソが狙われてもおかしくなかったのだ。

 司祭の杖は文字通り杖だ。戦うだけではなく生活を支えるのが杖の役目である。

 ぐだぐだと言葉を並べない。それがハンゾウである。アトレビドも彼の言外の含みを理解した。


「はい。これからも俺はグラモロソを支える杖となります」

「うむ。ほら、立てるか」


 そういってハンゾウは手を差し出した。よろよろと起き上がる。


「ところであの女は何者でしょうか」

「よくはわからん。ただ数日前に宿をとっているのはわかっている。しかも固いパンと虫の佃煮を好んでいた。だから協会は目をかけていたのだ」


 固いパンと虫の佃煮。それはエビルヘッド教団の本拠地である蟲人王国インセクターキングダムの特徴だ。蟲人王国に来る人間は多いが、すべてエビルヘッド教団とは限らない。

 それでも調査はする。ハンゾウは彼女を尾行し、見事に辺りを引き当てたのである。


「さて帰ろうか。グラモロソが待っているぞ」

「……はい」


 アトレビドはそう言って帰路についた。

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