プロローグ
猫が死んだ。
物心ついた頃から愛嬌ひとつ振りまかないくせに、ご飯の要求するときにだけ猫特有の愛らしい鳴き声で家族を和ませてくれた猫が死んだ。
近づいて手を差し伸べただけで引っ掻いたり噛みついたりするくせに、猫特有の気まぐれで自分のほうから近づいてきたときには勝手に膝の上に乗っかって、身動きひとつ取れなくした猫が死んだ。
猫特有のわがままで家出を繰り返し、その度に連れ戻されては泥まみれの体をお湯で洗われて金切り声をあげていたくせに、死期が近づくに連れて外はおろか内でも歩くことも鳴き声をあげる気力さえもなくなり、暖かい場所でただじっとしていた猫が死んだ。
猫が死んだ。
父は気丈に振る舞い、涙をこぼさなかった。
ペット専用の葬儀の手配、埋葬、その他諸々の手続きを済ませて、悲嘆に暮れる家族に精一杯の慰めの言葉をかけると、出社した。役員という責任ある地位にあった父は猫が死んだという私的な理由では欠勤できなかったのだろう。しかし、役員専用フロアの化粧室で人目を憚るように涙を拭っていたと思う。
母は人目も憚らずに泣いた。
猫の骸を我が子のように愛しげに抱いて撫でるとまた泣いて、自室に籠りさらに泣いた。専業主婦だった彼女は猫と接する時間が家族で一番長く、愛情も家族で一番注いでいた。実の子供がある程度自分の元から巣立ちしてしまってからはなおのこと、文字通り猫かわいがりと呼ぶに相応しい溺愛っぷりだったから、喪失感は尋常でなかったと思う。
姉は気丈に振る舞おうとしたが、堪え切れずに泣いた。
幼い頃から美人で頭が良くて社交的で誰からも愛された自慢の姉だが、まだ中学生になったばかりの彼女に愛するものの喪失は耐え難いものだったのだろう。母が自室に籠り私と二人きりになった途端、愛する家族を失った悲しみを同じ家族である妹の私に切々と訴えた。弱々しい迷子のような幼子のような彼女を私はただ黙って抱きしめていた。
私は泣かなかった。
家族が涙の海で溺死してしまいそうな最中、小学生だった私はただ一人孤独の孤島でその様を呆然と見守るほかなかった。数日経ってようやく元通りの――と呼ぶにはいささか以上の語弊があるが――平穏な日常が戻ってきても、彼女たちのあの狂態は一向に理解できなかった。
なぜ泣くのか。
なぜ泣けるのか。
生者必滅。
万物流転。
ただ一切は過ぎていきます。
書物を繙けば愛するものとの別れが必然であることくらい、いくらでも理解できる概念であるはずなのに。
しかし、理屈としては正しくても、私のほうが人として異常であることは明らかだった。幼い頃から一緒だった飼い犬が死んで目を真っ赤に泣き腫らした小学校のクラスメイト、もらったばかりの子猫が逃げ出して懸賞金付ポスターをあちこちに貼って半狂乱で捜索していた近所のおばさん、ペットロス症候群に苦しむ老夫婦という新聞雑誌での特集記事、等々。
私のような人間は誰一人としていない。
いままでも、そしてこれからも。
遠い将来、父や母、そして姉が死んだときでさえも、私は眉ひとつ動かすことなく葬儀その他の事務手続を淡々と行い、周囲の参列者の流す涙に機械的に感謝の意を示しつつ、「そういうものだ」と本音を胸中で嘯くだけなのだろう。
なぜ私は涙を流せないのか。
なぜ私は悲しめないのか。
なぜ私は皆と違うのか。
私は数日間自室に籠り、この難題を解くべく自問自答を繰り返し、ようやくひとつの結論を導き出した。
私には心がない。
その結論に達した夜、私は心を掌る魔女の誘惑を受けた。