ホムラノツバサ 2
ヒュポスの意識を宿したミカゲは、常に意識の奪い合いを強いられた。そして大抵はヒュポスに肉体の支配権を奪われてしまうのであった。
しかしヒュポスは完全にミカゲの肉体を乗っとることができない。長くて三日ほど活動したあとは必ず力尽きてしまう。
そうやってミカゲの意識は戻るのだが、それは彼を苦しめ続けるということでもある。あまりの苦しみに自ら命を絶とうとしたことなど数えきれないが、必ずヒュポスに邪魔をされて死ねないのだ。
一思いに喉を突こうと握った刃物は溶けて黒い鉄の水溜になり。全身を包む炎を消し、剰えそのまま溺れ死んでしまおうと飛び込んだ池は蒸発し。三日三晩飲まず食わずで意識を失うと、獣たちの焼死体に囲まれていて。
「ぼっ、ごぇぇえ!」
口回りにべっとりとこびりついた生臭いものの正体に気づいたのは、抗えない吐き気に襲われて胃の中身をぶちまけたときだった。奥歯に挟まった細いゴムのような繊維がしつこく口に張り付いた。
◇◇◇
死ぬことにすら絶望して疲れ果てた彼はある日、奇妙な一行に出会う。
「おい、小僧。なんだってこんな山道のど真ん中で寝てる」
「…………動け、ないから……」
ミカゲは久しぶりに言葉を発した。人語を覚えていたことにも驚いたが、それより自分の声に驚いた。人は案外自分の声を覚えていないものらしい。
「じゃあなんだって裸なんだ」
「…………」
「寒かねーのか?」
「熱い……」
「ほえー。酔狂だな」
先頭の男は面白そうにミカゲを見下ろしている。ミカゲは曇り空を感情の浮かんでいない瞳で見つめながらぼそぼそと応えた。大声を出す理由もないし、水の涸れた喉では掠れ声しか出ない。
「よし、決めた。お前は今から俺のものだ」
「……」
唐突な男の言葉に驚くには、ミカゲは疲れすぎていた。
「ははは、出たぜ! お頭の欲しがり癖!」
「こんなガキのどこに魅力なんかあんだぁ?」
「かーーっ、わっかんねーかなぁ! このただもんじゃない感じ!」
「ギャハ! 確かに素っ裸で死にかけの、絞ったボロ雑巾みてーな子供がまともなわけがねー!」
「違いねーーっ!」
盛り上がる一行。
しかしその時ミカゲは全く別のことを考えていた。幾度となく経験した、体の奥から湧き出すドロドロの熱の感覚。
(あ……来た)
ミカゲは癖で少しだけそれを押し込めようとする。そしてその熱に簡単に突き破られて諦める。
終わりだ。もう少しくらい声を聞きたかった気もするが、惜しくはない。
もう、何だっていい。どうでもいい。
「グ……ガァァ!」
「なっ!?」
「アアアアアアア!」
ミカゲの全身を炎が包んだ瞬間彼の意識は途切れる。炎の鳥が一行に襲いかかった。
「はははっ、ほらな! ただもんじゃねぇだろ?」
「本当だ、さすがお頭!」
だが、彼らはそれを目の当たりにしても特に臆すことはなかった。お頭と呼ばれた先頭の男はヒュポスの一撃をひょいと躱すと、魔力でガードした腕で肘鉄を繰り出した。
「ガアッ!?」
「熱っ! ひぇ~、凄まじいな」
肘鉄は核たるミカゲの肉体を撃ち抜いた。しかしヒュポスはあくまで思念体。肉体へのダメージの影響は極めて小さい。
まるで何事もなかったかのようにヒュポスが哭いた。
「へぇ、なるほどな……」
ヒュポスに睨まれた男が目を細めて、何かに納得したように呟いた。
「お前、憑かれてるな?」
「!」
男の拳がヒュポスを捉えた。ヒュポスの炎の体は魔力でできた実態であるため触れることはできる。
……できるのだが。
「ッ!?」
「ふんぬぅぅっ!」
「ギャァ!」
男はそのままヒュポスを掴んで地面に叩きつけた。火を掴むなど、できてもやらないのが普通である。
「うわ、手のひらやけどした!」
「当たり前ッスよ~」
「バカだーー!」
「やかましい!!」
男が一つ気合いを入れると、ミカゲを覆う炎の体が弾け飛んだ。そしてそこにはまた死にそうな子供だけが残った。
男はそれを肩に担ぐと、大股で歩き始めた。
「ふぅ。さ、行くぜ」
「おはっ、やるねぇ!」
「ま、さすが!」
「いいから行くぜ、日が暮れる前にこの山は越えねぇとな」
「…………」
この日を境にミカゲの人生は再び大きく動き出す。
◇◇◇
目が覚めると、ゴツゴツとした岩肌の天井が目に飛び込んできた。
いつもは記憶に残らないのに、なぜだか鮮明に覚えていることがある。
「う……」
「おっ、目ェ覚ましたか」
この男がヒュポスを叩きのめしたのだ。己の内に居座っているはずの火の鳥があまりに静かである。
「どし、て……」
「ん?」
「僕、を……」
一度はどうでもいいと聞かなかったことが今になって無償に気になった。男は答える。
「そりゃあ、欲しいと思ったからよ」
男が包帯の巻かれた手で指し示した洞窟の奥には、金銀財宝が山を作っていた。
「俺は盗賊をやってる。欲しいものがあるからだ。貴重なもの、美しいもの、不思議なもの、欲しいと思ったものは全部手に入れたい。たとえ盗もうと、な」
このときのミカゲには、彼の言い分を正しく理解することはできなかった。しかし、全く何も感じなかったわけではなく、むしろ初めて出会う盗賊の姿に興味が尽きなかった。
久々の感情だった。何かに興味を持つなど。
しかし彼は今、あの金貨を手に取って見たい衝動すら感じている。何かが変わっていた。
「お前には欲しいものがあるか?」
「え……」
「宝である必要はないぜ。どうだ?」
「……」
欲しいもの。今の自分にないもの。足りないもの。
「……食べ物」
「他には?」
「水、喉が渇いて」
「そんだけか?」
「……一人はいやだ。いやだ、いやだっ! 友達が……居場所が欲しい!」
怒鳴るように言い切ってから、ミカゲは力尽きて全身で荒い呼吸を繰り返した。涙がぼろぼろの皮膚にひどく滲みた。
「あんじゃねーか。はっはっ」
「はぁはぁ……」
「そんじゃま、ほれ」
「え」
「お前はもう俺のものだ。逃げられると思うなよ」
ミカゲは最後の力を振り絞ると、差し出された手のひらに右手を重ねた。
「……ありがとう」
少年は心地よい眠りについた。
その後ミカゲは再び封印術を施され、今度こそヒュポスを抑え込むことに成功した。
ヒュポスが出てこなくなると、髪が生え始めた。元の黒髪ではなく、光の角度で微妙に色の変わる黄髪。目と目を繋ぐ模様も残り、ミカゲの外見は大きく変わっていた。
変わったのは姿だけではない。
「む……っ!」
「おお、ご苦労さんご苦労さん」
男の手で上品な模様が彫られた煙管が小さく煙を吐いている。
「ふぅ……。便利な呪術だよなぁ。その、煙草に火を着けるやつ」
「違うわ!」
ヒュポスを宿した影響だろうが、ミカゲは炎の魔導を使えるようになった。
「んんんっ……! っ、ぶはー!」
「はっはっは! 今度は見世物か?」
「はぁ、はぁ、くそーーっ!」
と言っても元々魔力すら保たない身であり、使いこなすどころの話ではない。今はまだ指先から小さく火が灯るだけの、手品に近い魔導。
ただ、その炎は半魔力で触れることができるという特殊なものであり、多くの炎系魔導士が本物の火をイメージして発現させる中で、現実離れしたミカゲの炎は一際異彩を放つものであった。
「すぐに使えるようになってやるからなっ! くそー、練習だ!」
「はは、すっかりガキっぽくなりやがって……」
そして何よりも大きな変化は精神に現れていた。意思を感じさせない瞳は今やキラキラと輝き、年相応の無邪気さを取り戻しつつある。
「ぼろ雑巾も拾ってみるもんだなぁ、お頭よぉ」
「別に助けた訳じゃねぇけどな。見ろよ、あの輝く髪。不思議な呪術。しかも腹に怪物飼ってるんだぜ? あんな珍しい人間はそうそういねぇ」
「確かになー。いや、お頭の目にゃ敵わねぇよ」
普通は関わりを避けようとするか、下手をすれば死人と間違って手を合わせて通り過ぎてしまうであろう状況で、その少年に何かを感じた彼の目は確かなものである。
そしてその目利きの鋭さがミカゲを人間の少年に戻した。
そこに善意があったのか、本当に欲だけだったのか。それは誰にも分からないことなのであった。




