クロノスvsNAMELESS 前哨戦
底冷えするような冷たい晩だった。深夜のギルド、起きていたのは徹夜が常のクロードたちだけである。
「ん? これは……早かったな、カラクリは何かな?」
「マスター」
「ああ。地下を頼む、気をつけろよ」
ウェンリルに地下室のカルキたちの様子を見に行くよう命じてから、クロードはロールマリンの部屋を蹴破った。扉の残骸と共に書類が舞い上がる。
「無事か!」
「乙女の私室が無事じゃないですよぉ!」
「敵襲! 避難しろ!」
「っ、来ましたか!」
ロールマリンは書類の束の入ったカバンを引っ摑むと部屋を飛び出した。想定よりもかなり早くヘイグにいるという情報を掴まれたようだが、可能性は想定していたので緊急時の動きは確認してある。
現時点での襲撃者の目的がなんであろうと、クロノスが優先的に守りたいものはカルキたちとロールマリン。まずはロールマリンの安全の確保、次いでカルキたちの監視という手筈になっている。
「さーて、命知らずは誰かな?」
隠し部屋へと向かうロールマリンを見送る時間も惜しみ、クロードは廊下の窓を開け放って空中に身を投げた。
「いい挑発だな。いきなりNAMELESS引いたかな!」
クロードとウェンリルが敵に気付いたわけではない。敵が魔力を解放して自分の存在を知らせたのだ。それも巧妙に、クロードほどのレベルの者にだけ気付くよう調整して。
「さて、動きを見せた人数で戦力を計ろうってことかな」
着地と同時に魔術を切り、魔力を感知しやすくする。
「上!」
瞬間、再度魔術を発動し全身を強化しつつ魔力の主を見上げる。
「エルフ……ディクシーかっ!」
ディクシーと呼ばれた男は三日月を背にギルドの屋根の上に立っていた。窪んだ眼とこけた頬が骸骨を思わせる、血色の悪い面長のエルフである。
(ディクシー=ロウか。禁術に手を染め追放されたエルフの大罪人……NAMELESS確定、どうやって知った?)
(一番に来たか、クロード=クロス。万物を朽ちさせる黒の瘴気、居るとは分かっていたが……奴の魔力が見えん夜襲とは相性が悪いな)
クロードはNAMELESSの構成員を一部把握している。目の前の男、ディクシー=ロウこそまさにその一人だった。
「ウチのモンが世話になったな。引き取りに来た」
「どうやってこの場所を知ったか教えてよ! そしたら考えてやるぜ!」
「組織の正体を知りながら大人しく返す気はないと? 死人が出るのも厭わないとは、大した将の器だ」
「そっちこそ単身乗り込みとはな! さぞいい上司に恵まれたんだろうな!」
見上げる化け物と、見下ろす化け物。逆光で闇に溶けた化け物と、その影に紛れる化け物。大陸上位の実力者同士が睨み合う。
「上司といえばキルは元気か?」
「っ……! ハァ、ボスをそう気安く呼ぶのはアンタくらいのもんだな。気に食わない……」
「まぁ生きてんならいいや、伝言頼むよ。“貸してた『冒険王の手記・下巻』そろそろ返せ”って」
ディクシーの発する魔力がざらついた棘のある気色に変化したのを、クロードは敏感に察知した。それだけ苛立ちを煽れたということだ。
クロードは愉快な気分でニヒルに笑う。ロールマリン曰く「三回死んでも治せない腐った性格の滲み出た笑顔」であり、この昂ぶった状態こそクロードの戦闘態勢だった。
「君が生きて帰れたらの話だけどねぇ」
「なるほど。ボスが苦手なわけだ」
一触即発。
そこにギルドからウェンリルが飛び出してきた。リラとベル、オーガの戦士たちが後に続いている。
「逃げられた! 破壊の痕跡もなし!」
ウェンリルがカルキたちの失踪を伝えても、クロードは動じなかった。ディクシーはただの陽動で、NAMELESSの作戦は既に水面下で遂行されていたのだ。
「想定の範疇だな。“一人は”上だ」
「う……!?」
リラたちの足が縫い止められたように動かなくなる。これ以上一歩踏み出すことができないのだ。すでに戦闘態勢の二人への恐怖で押しつぶされそうになっている。
「君たちは戻って自分の仲間の近くにいてやるといい」
「どうせいても無駄だしね。せっかく勝ち取った命、大切にしなよ」
「そんな言い方はないよ。彼らの戦場はここじゃない、それだけのことだ」
ウェンリルの言葉に、リラたちは戻っていく。
一人残ったベルは冷や汗をかきながらもウェンリルとクロードの隣に立った。
「ベル……! だっタら巫女様は私が……!」
「いいね。度胸は評価する」
「今となっテは……ガウスと戦って生き残ったのはモうオレしかいないンだ」
かつてベルはガウスに殺されかけた。同じく殺されかけたウルーガはもう死んでしまった。一番の戦士だった父親はもういないのだ。
託されたベルはどんな経験をも喰らって一刻も早く力を付けなければならない。
「足を引っ張るかもしれないが、いさせてクれ」
「いずれ君が巫女たちを守る柱にならなきゃならないんだろう? その使命感に免じてこの場はおれが君の命を保証しよう」
ウェンリルは鎖を召喚して、自分とベルを囲むように垂らした。
鎖から伝わる微細な振動。ウェンリルの結界はすぐに敵を感知した。
「君がバディ、なのかな!」
「アハッ! 反応すごいねー!?」
凄まじい音で空を切る強靭な脚に、しなる鎖が衝突の瞬間、衝突点に最大の力が乗るように放たれた。
「キャハッ! いいねぇいいねぇ!」
「重い……っ!」
ウェンリルと敵が衝撃で弾かれるように距離をとる。
「ウェン!」
「強い。簡単には撃退できそうにないな」
「獣のマスクと足技、極めつけのウサギ耳。“肉食兎”ペニーだ」
ウェンリルは油断なくペニーを観察する。
「強い衝動が年に四回。それを鎮めるために殺人を繰り返す悪魔だってね」
「発散も兼ねてか。はた迷惑な兎だね」
「害獣駆除は任せるよ」
ペニーは小さく丸まっているように見えて、その実跳躍のためのパワーを足に溜めている。脚部に装着されているのはうさ耳の生えた骸骨の膝当て、ゴツゴツとした黒のレッグアーマーと分厚い鋼鉄の本底のサンダル。膝を曲げたことでパンパンに張った大腿筋から放たれる蹴り技は鉄板すらぶち抜く必殺の凶鎚となるだろう。
大きな牙の生えた肉食獣を思わせるデザインのマスクの上の、瞳孔の開き切った目がキラリと月光を反射した瞬間、ペニーが消えた。
「ベルっ! ぐうっ……ッ!」
「アハ! 反応超速!」
突き飛ばされたベルが尻もちをつくまでの間に見えたのは、速過ぎてぼけたペニーの蹴り姿と、体の前でピンと張った鎖で受け止め直撃から身を守るウェンリルの姿だった。そして尻もちと同時に、力負けして吹っ飛ばされたウェンリルが木にぶつかる音が聞こえた。
「アンタはダメそうだねぇ。蹴るまでもない」
ペニーの剥き出しの腕は十分に鍛えられており、ベルの首をへし折ろうと思えば簡単に為せるだろうことは十分に伝わった。
彼女はすぐ横で立ち上がろうとしているベルにまったく関心を示さず、その瞳孔の開き切った目はウェンリルの方を凝視している。
「さすが獣人……肉弾戦最強は伊達じゃない……!」
ウェンリルが背を打ち付けた樹木は、衝突の影響で揺れて木の葉を降らせている。
「彼には手を出すなよ。ようやくこれからなのさ」
ウェンリルの左頬の、爪痕のような痣が全身に広がっていく。それに伴い魔力が増大し、白髪が逆立つ。
「おれは獣人じゃないから、調子を上げるのに時間がかかるんだ」
「言い訳? ダッサい真似で失望させないでよ~」
「どうかな?」
木の葉が弾けた。次はウェンリルが消える番だった。
「おかげで調子が出てきた」
「ぐ、くあっ!」
意趣返しとばかりに放たれた蹴りがペニーを吹っ飛ばした。
片足を上げて受け止めたペニーは器用にもう片方でバランスを取り、着地する。
「……ふふふ、超いいね! もっとヤろう!」
「へ、平気なのカ!?」
「問題ない。君は見ていると良い、それはきっと無駄にはならないよ」
ベルと話している間もウェンリルはペニーから目を離さない。切れ長の細い目はまるで猛禽のように、射殺さんとばかりに敵を睨みつけていた。
肉食獣が二頭そこにいた。
「オレのバディは血の気が多くて困るな」
「違うだろう? 『パンジュナス事件』で目撃された兎のバディは女だ。死んでなければそうそう交代しないだろう」
「……本当にやりにくいな。会ってすぐの人間をここまで嫌悪するのは初めてだ」
NAMELESSはカルキとハルのようにバディでの行動を基本としている。その組み合わせでいえば、何かと目立つ事件を起こして目撃情報を残したペニーのバディはディクシーではなかったはずだ。
「アンタの相方と、兎の相方。二組、いやカルキたちを合わせて三組か」
「仮に推理が合っているとして、もっといるかもしれないとは考えないのか?」
「いやー万全を期した結果が陽動作戦なら可能性は低いでしょ。そもそも二組も割いてることに驚くよ、カルキたちの人望はすごいね」
「あんな青いガキ共に人望などあるものか。奴らはボスの器に感謝することだな」
ディクシーは口には出さないが、ボスからの至上命令である人的被害ゼロで完遂するためにこのような密やかな作戦にしたという事情がある。
「キルも相変わらずだな」
「そういうお前は身内をただの数とでも思っているのか? 少なくとも四人がどこかにいると本気で考えているならあまりに悠長だ」
「まさか! こんなに仲間想いの紳士他にないぜ!」
しかしディクシーの言う通り、クロードは何か手を打った様子もなければ打とうという雰囲気すらない。
そして事実、まだ姿の見えないNAMELESSがカルキとハルを伴って今も行動を継続していた。
動けなかったはずのカルキとハルが暗闇に紛れて歩く。
「それにしても驚いた。よく見つけたね」
「ボスがここにいるって」
そのすぐ後ろを歩く、仮面をつけた女は端的に言葉を返す。
フード付きのノースリーブコートを着用し、ハイヒールの編み上げブーツを履いている。夜風に晒される肩には鎌の刺青が彫られていた。
「あなたたちがしくじった。“目”が見たのはそこまで」
「それで君が代わりに依頼を?」
「そう。近くにいるというなら、それも仕事」
彼女の名前はルナ、ペニーのバディである。
「レンたち殺すのは無理だと思うけどなぁ~」
「理由は」
「説明しても伝わらないよ。あいつら殺すのは今じゃないし、君でもないのさ」
「分からない」
「そういうわけで探す手伝いはするが戦わないよ。刀は取り上げられたし病み上がりで調子も悪い」
「誰も死なせないのも任務のうち、あなたたちは私が守る」
三人は病棟とギルドのちょうど間で足を止めた。
「ここから先は」
「行かせないわ!」
「ハルさん……」
病棟の前にソリューニャとリリカ、少し後方にマオとミュウが立ち塞がっていた。
「動くな。私の弟子には指一本触れさせんぞ」
ギルド側からはヴェルヴェットが出てきて、ルナたちを挟む形になった。
「……ほらね、殺せない」
「こうなると分かっていたの」
「まさか。どうする?」
「任務は放棄。彼女は引き受ける」
「了解。頑張ってね~」
ヴェルヴェットが剣を抜く。病棟ではまだミツキが動けない状態で眠っている。病棟を巻き込むことなく撃退したい。
マオは全快ではなくとも防御は任せられるだろう。リリカたちがどれだけやれるかは分からないが、あの戦いを生き残った者たちだ。
ヴェルヴェットとルナの思惑は噛み合った。
「「守る」」
まずは武器を持たないカルキとハルから。そう思って突っ込んだヴェルヴェットの前にルナが立ち塞がった。
「“真っ二つ鎌”」
彼女が召喚したのは、三日月のような巨大な刃と背丈ほどもある長い柄の大鎌だった。
魔物の顎という禍々しい意匠が凝らされたそれを、重量など無いかのように振り回しヴェルヴェットを遠ざける。
「ふむ。軽々」
「重さ半分、だから」
ルナとヴェルヴェットとの間を高速で刃が行き交い、まるで無数のカミソリが吹き荒れているかのように切痕を地に刻み付けていく。
「切れ味も一級」
「刃も厚みが半分、だから」
真っ二つ鎌は特殊な術式の組み込まれた魔導具で、見た目以上の軽さと切れ味に特化しそれでいて欠けない薄刃が特徴である。
「そしてあなたもすぐに真っ二つ。だから“真っ二つ鎌”っていうの」
高速で振り回せることにより発生する遠心力は凄まじいパワーとなり、唸り声のような独特の風切り音を発する。この刃で斬られたものは何であろうと食い削られたように断面を晒すことから、それはしばし悪魔の晩餐と表現された。
「洒落ててかわいいでしょう?」
鎌を振り回しながら突進し、それを凌ぐヴェルヴェットと共にその場を離れる。
「ヴェルさん! こっちは何とかするわ!」
「やむを得ん。すぐに応援を寄越す!」
そうして残されたカルキとハルだが、彼らに戦う意思はなかった。
「できればあいつら見つけて直接話したかったけど、仕方ないから伝言を頼むよ。“次会うときは本気の殺し合い”ってね」
「え、帰るの」
「君たちが勝手に勘違いしてただけさ。彼女も諦めたみたいだし、任務は取り下げ。よかったね」
そうして本当に帰ろうとして、カルキが足を止めた。
「そうそう。竜人の、キミに耳よりの話があったんだった」
「アタシに……?」
「ソリューニャ! ダメだよ行っちゃ!」
「……大丈夫、リリカ」
ソリューニャはしばしの逡巡の末、止めるリリカをなだめてカルキへと近づいた。
「ハルから聞いてね。ピンと来たのさ」
「何のことだ」
カルキは彼女に耳打ちした。
「君の故郷をやった男の名前」
「イヴァルギィ。NAMELESSの一員だ」
直後、それを聞いたソリューニャの貌を隠すように雲が月光を遮った。
(いい……! この女もまた同じ眼をしてる……!)
隠れるまでの一瞬、カルキはソリューニャに素質を見た。
(もしも僕が滅ぼしていればこの眼は僕に向いていたのか。惜しい、惜しいなァ)
憎しみに昏く燃える赤い双眸が闇の中に溶けていくのを見て、カルキは歪んだ笑みを浮かべたのだった。
「強くなることさ。僕を殺せるくらいまで」
やがて月が出る。闇に攫われたように二人は消えていて、背を向け立ち尽くすソリューニャだけが残されていた。
「ソリューニャさんっ!」
「どうしたの? 大丈夫……?」
振り返ったソリューニャはいつも通りの顔で笑いかける。
「ありがとう。何でもないよ」
彼女の笑顔は月光に照らされ、その半分は影に隠れていた。
クロードが指示するまでもなく三人のNMELESSから病棟は守られた。
「マスター!」
「お手柄だぜヴェルヴェット!」
「逃げた二人をマオたちが止めている! 応援を!」
鎌の女と激しい斬り合いをしながら、ヴェルヴェットがクロードたちの睨み合うギルド前に飛び出してきた。
クロードはすぐに状況を理解した。
「どうやらその必要はないみたいだぜ」
「ひーっ。体が重くて登るのキツかったー」
ディクシーの隣にカルキとハルが立つ。彼らには初めから戦闘する気がなかったのだと、ヴェルヴェットも気付いた。
「貴様囮か。妙だと思った」
「そう」
ひときわ激しい火花を散らし、役目は終えたとばかりに二人が離れた。
「優秀だろう? 僕の仲間は」
「例の女剣士までいたか。手こずるわけだ」
「キルもいい人材を揃えてるな」
カルキとハルは拘束など無くともまだ動けなかったはずだ。恐らくはまだ姿を見せないもう一人が、傷を一瞬で癒せる超強力な能力者なのだろう。
「ルナっちおかえりー!」
「ただいま」
「たはー濡れたぁー! バイバイまたね!」
ウェンリルと戦っていたペニーも隙を見て離れる。
「こ、こんなにも……! 地上でハいつもこんな戦いが!?」
「こんな光景はなかなかないよ。大陸で今最も危険な場所がここさ」
クロノス上位の魔導士たちと、NAMELESSの魔導士たちが一堂に会すこの緊張感に揉まれ、ベルはただ戦慄するしかできなかった。
「遅くなってすまない! アイアンマスク参上!」
「ひぃぃ~……た、助けてマスターぁ……」
「さて、やるかい? 十中八九僕らが勝つぜ」
ジハイドとルーカスも合流し、戦力が出揃った。これでクロードたちは目の前の敵を追い詰めることができるだろう。たとえいくらかの犠牲が出たとしても。
「……まだ俺の力を見せていなかったな。どうせ知っているんだろうが」
「あ、あいつはまさか……そんな、禁呪の咎人……! マスター、ヤバいってぇ……」
「ルーが教えてくれたんだったな。エルフ族のヤバい大罪人だろう」
「ひぇぇ、聞く耳ぃ……」
ディクシーが前面に掲げた腕に糸切り鋏を突き立てた。すると彼らの上空に奇妙な裂け目が発生した。彼が鋏をゆっくりと引くのに合わせ、腕に伸びていく歪な傷。上空でもビシビシと横にヒビが広がっていく。そしてドロリとした血が腕から流れるのと同じように、空の裂け目からもドロリとした黒い液体が溢れ出てきていた。
腕の傷と空の裂け目は明らかにリンクしていた。
やがて完成した空の裂け目から、三つの目がギョロリと覗いた。
「わひぃぃっ!」
「な、あ、なんだあれは!?」
裂け目の淵に巨大な爪がかかり、裂け目をこじ開けてそれは這い出てきた。
「見下ろせ。ガブリエル」
「キアアアアッ!!」
それの姿は首に鎖が捲かれたカラスに似ていた。だが左右に三つずつある目玉や歯の生えた嘴などが、それがただの大カラスとは到底呼べない怪物であることを象徴していた。
怪物はギルドの屋根に着地すると、翼を広げ砂塵を吹き払いつんざくような咆哮を上げた。
「これが禁じられた召喚術か! すごい!」
「屋根崩れたね。あのままじゃ中の人たちが危険だ」
知的好奇心を刺激されたクロードは興奮を抑えられない。
異界の生命を呼び出す召喚魔導の中には、災厄を呼び込むとして封印された禁術が存在する。ディクシーが使う召喚魔導はまさにそれだった。
「けほっ。煙い」
「足場崩れた! 呼び出す場所考えなよ貧弱男!」
「知るかバカうさぎ」
ディクシーは傷を縫い終わると血濡れの糸切り鋏で糸を断つ。強力な魔獣を呼び出す代償があの自傷行為なのだ。
そんな彼の横にルナと、女性を抱えたペニーが並んだ。
(あれが最後の一人か。明らかに非戦闘員、治療担当か? だから今まで隠れてた。陽動は彼女から目を逸らさせるためでもあったか)
事態は逼迫しているが、非戦闘員が前に出てきたことでディクシーの意図が伝わってきた。禁断の召喚術を使ったのも戦力を釣り合わせて交渉を迫るためだろう。
「このままやり合えば互いに死者が出る。それでもやるというならば……」
「あーいい、いい。そっちが引くってんなら追わない」
「賢明だ。撤退する」
文句を垂れるペニー。無言で従うルナとハル。
それぞれが踵を返し退いていく中で、カルキがクロードにあのときの返事を返した。
「そうそう。お誘いは断らせてもらうよ」
「あ、そ。残念」
「だって仲間になったらジンたちと本気で殺し合えなくなっちゃうからね。こっち側にいた方が楽しそうだ」
カルキはフレンドリーに手を振った。
「治療ありがとうね。いつか君ともやり合いたいね」
「恩知らずの相手なんかするかよ。さっさと帰れ、シッシッ」
「カルキ、行くぞ」
「じゃね~」
そうして怪物が翼を広げて飛び立ち、損壊したギルドだけが残された。
NAMELESSが撤退し、緊張が徐々にほぐれていく。しかしその日ベルたちは夜明けまでただの一睡もできなかった。
クロノスとNAMELESSの前哨戦的邂逅。三日月浮かぶ真夜中のヘイグでの事件であった。
キルとか冒険王の手記とか禁術とかはいずれちゃんと出てきます。ペニーの虐殺は適当に作った架空の事件なのでどうでもいいです。




