憎しみを抱いて
雷鳴と閃光はソリューニャの目にも届いていた。
大地から感じる魔力の質が明らかに変わり、かすかな揺れがやがて大きくなり、ソリューニャはガウスが島の魔力を掌握してしまったのだということを悟った。
「そんな……!?」
黒竜双尾の力をその身に降ろしたコルディエラは、直線的な動きでソリューニャを追ってきた。
いつか息切れの瞬間は来る。そう信じてソリューニャはずっと逃げている。木々の合間を縫い隠れながらなんとか捕まらないように。
まともに殴り合っては敗北は必至だ。攻撃を受け止めた左腕が一撃でへし折られたことは、ソリューニャの心にトラウマにも近い恐怖を植え付けていた。
しかし、限界は近かった。
「止められなかったのか……!?」
ガウスのもとにはレンとジンが向かったはずだった。うまくいけばカルキとハルも合流しただろう。
何者かに阻まれてしまい間に合わなかったのだろうか。それとも。
「な……なに、を……やってんだ……」
ソリューニャは最悪の想像を振り払うことができなかった。
仲間たちが全員敗北し、ガウスが悠々と計画を進行させているのだという想像を。
「何を、やってるんだよ! アタシは……!」
なぜ逃げる。
ソリューニャは自問する。
「みんな戦ってるんだぞ……!」
なぜ逃げない。
夢の中の少女の幻影がそう訴えてくる。
(どうして……?)
「あ」
少女を見た瞬間、不意に理解した。
逃げることに精一杯だった頭の霧が晴れて、コルディエラに対する恐れが薄れていくのを実感する。
(ねぇ、なんで)
「……友達なんだ。好きなんだよ、みんなが」
(やっぱり、復讐なんてどうでもよくなったんだ……!)
少女は悔しそうに顔を歪めて、大きな目から涙を流していた。
「違うよ。復讐だって大切だ」
(嘘だ! だったらなんで……なんで、逃げないの……!)
竜と契約をしてから、ソリューニャがたまに見るあの日の夢はより明瞭に、脈絡を持ったものに変わった。契約という行為が精神に如何ような影響を与えるのかは明らかではないが、まるでソリューニャの中に何かが生まれ住み着いたかのような、そういった不思議な感覚を味わっていたのである。
みんな死んだあの夜。腐臭漂い荒廃した故郷。懐かしくも恐ろしい森。
やがて現れた赤髪の少女。
ソリューニャを責めるその少女は以前も夢の中で問うた。
死ぬかもと知っていながら、なぜ逃げずにまだここにいるのか。死んだら復讐は果たせないのに。
なぜ少女は現れたのだろう。なぜ少女は爪を立てるのだろう。なぜ少女はそんなことを問うたのだろう。
今ならわかる。
「ごめん。寂しい思いをさせて」
(うああ……うう……!)
ソリューニャは今度は自ら少女を抱きしめた。
「復讐心が薄れたわけじゃないんだ。仲間といる時間の方が大事になったわけじゃないんだ」
空の上の孤島。逃げ場がなく、強大な敵に囲まれ命が明日ある保証はない。そんな極限の環境の中で、ソリューニャは自分ひとりだけ逃げて生きのびられるという選択肢を与えられたがゆえに心が迷子になってしまったのだ。
復讐が大切ならすべてを切り捨て逃げるべきだが、それをしなかった。逃げなかった理由を考えて、復讐心が自分の中から消えかけているのではないかと恐れた。
誘惑に心を侵されまいと意固地になりすぎて、ソリューニャは正常ではなかった。冷静にもなれなかった。
だからこの少女を生み出してしまった。
「仲間も大事だ。復讐も大事だ」
(…………)
「簡単なことだったんだ。選ぶ必要なんてなかった。でもそれに気付けなかったんだ。今まで」
ソリューニャは少女を抱く腕に力を込める。
少女も恐る恐る腕を回すと、ソリューニャの肩に触れた。
もう少女は爪を立てない。ソリューニャはちゃんと気付いてくれたから、必要ない。
「もう見失わないよ。だから、安心して」
ソリューニャの復讐心は仲間ができてからも微塵も衰えてはいなかった。
今すぐにでも仇を討ちたい。耳と鼻を削いで、生皮を剥いで、目をくり抜きたい。呪詛の言葉ともにナイフを突き立てたい。何度も、何度も、何度も、ぐちゃぐちゃになっても、何度も何度も何度も何度でも。何度でも殺したい。殺して殺したらまた殺しながら殺したい。殺したくてたまらないが、殺さずに永遠の生き地獄を味わわせたい。
「これが終わったら、次は復讐のために全部捧げるから」
少女はそれを聞くとぎゅうと強く抱き着いた。
その姿が透けはじめ、やがて徐々に消えていく。それに伴い少女の赤がソリューニャに滲み広がっていった。
「憎しみも大事なアタシの一部だから」
ソリューニャは優しく笑って、最後にいっそう力強く抱きしめる。
この感情との付き合いも長い。少女が自分の中に還って行って、ソリューニャの心を満たすのは愛おしさだ。
(ありがとう……)
よく似た顔の少女は笑って、見えなくなった。消えたわけではない。目に映り存在を主張する必要がなくなっただけだ。
真っ赤に染まったソリューニャは静かに微笑んで立ち上がった。
「……今は仲間のために命をかけて戦うときだ」
復讐も大切で、仲間も大切で。どちらも命をかけるに値するかけがえのないソリューニャの宝物で。
それを自覚した今、ソリューニャはもう仲間のために命をかけることを迷わない。
今は仲間のために命をかけてもいいのだ。死んで復讐ができなくなることと同じくらい、ここで仲間が死ぬのが怖いのだから。
「モう、ニ、ガ、さなイ……!」
「逃げない。さっきまでのアタシは覚悟が中途半端だった」
「ゼェ……アア、ヤろうよォ……!」
「今は仲間を詰り同胞を蔑んだアンタが憎い。アタシはこの憎しみを力にアンタをぶちのめすことだけを考えている」
追い付いたコルディエラは、ソリューニャに逃げる気がないのを悟ったか自身も足を止めた。肩で息をしながらも、余裕の笑みを浮かべている。
疲弊はしているのだろうが、それでも黒い瘴気のような毒々しい魔力は健在だ。
逃げているだけでは結局この力の弱点は見えてこなかった。
(とは言ったものの。さて、どうすれば戦える?)
腹を括ったといっても、ソリューニャに逆転の秘策があるわけではなかった。
魔力量やその質はソリューニャのそれを凌駕しており、加えてソリューニャの左腕は折れている。圧倒的に劣勢だという事実は動くはずもない。
『主よ!』
(あ、炎赫!?)
『異変はないか!』
異変。ある。
コルディエラが双尾の力を無理矢理己の身に降ろし、急激なパワーアップを遂げた。
『双尾が妙だ! 力が弱まっている!』
炎赫の方の戦況は、やや炎赫にとって優位に進んでいるようだった。
(……それだ!!)
『どういうことだ、主!』
この土壇場で、ソリューニャは一瞬で答えに辿り着いた。
(コルディエラが双尾の力を使ってる! あの現象を力づくで再現したんだ!)
『双尾がそれに応じるとは思えぬが……』
(千年前はなかった秘術を使って一方的に奪ってる!)
『そうか……』
双尾や炎赫がこの世界に顕現するためには、契約者の“竜の祝福”を利用して本来の世界から魔力や存在を維持するための情報を常に供給してこなければならない。“竜の祝福”とは概念的には道や窓のようなものなのだ。
コルディエラの使った秘術はその道を分岐させ、その終点を自身の肉体に設定するといったものである。人の身でその無茶なパワーアップをする以上、コルディエラの背負うリスクは相当なものだ。
しかし今この戦いに限れば、最大のデメリットとは双尾の弱体化に他ならなかった。分岐すればそのぶん道は細くなる。コルディエラが力の供給を受けていることで、双尾は力を制限されてしまっていた。
『我は主が主であることに感謝する。否応なく力を吸われるというのはさぞ苦痛だろう。同情するぞ、双尾』
(アタシはそんなことしない。それで炎赫が負けたら意味ないじゃないか)
『……我はただその心に報いよう』
コルディエラの秘術の仕組みを暴いたソリューニャだが、だからといってそれが逆転の秘策に直接つながるわけではなかった。
「ゼェ……ハァ……!」
まだコルディエラの秘術の効果は切れていない。逃げ続けたことでコルディエラが限界を迎えるまでの時間を稼ぐことはできているかもしれないが、ソリューニャを殺せる程度の余力は十分に残っているだろう。
(炎赫が双尾を倒せばこの状況も一変するはずだ……!)
今はただ炎赫に頼るしかない。それまではやはり耐え続けて勝機を待つだけ。
そう思われた矢先だった。
「うル、サイ……!」
「なんだ?」
コルディエラが頭を押さえて苦しそうに呻いている。
「ナンど、も、イわせるな! ワタシガある、ジだ!」
「……そうか! 双尾か!」
今ソリューニャと炎赫が脳内で会話していたように、コルディエラと双尾も会話ができる。
そして双尾はコルディエラに激怒しているのだろう。
当然だ。人払いをしてまで炎赫との決闘に執着した双尾が、コルディエラに力を吸われるなどということを良しとするはずもない。
「グゥ……!? ヤメロ、やめ、この……!」
「なっ、切れた!?」
コルディエラの体から黒い靄が消えて、邪悪なプレッシャーがなくなる。
「ちぃ、返せ!」
「また黒く!? 双尾と取り合っているのか!」
「オアア……! ハハ、私ノ、力ダ……!」
一方的にコルディエラ側から魔力を奪うばかりではない。双尾はそれに抗えるのだろう。
思い返せば、完全にコントロールはできていないことを推測できる材料は随所にあった。理性が弱まり凶暴になり、攻撃も直線的で単調になった。コルディエラの意識が薄れ、双尾の意識が介入する余地があるのだ。
逆に言えばそれはコントロールできないほどのレベルの魔力であり、そこから生み出される破壊力は相応に凄まじい。受ければひとたまりもないような威力だ。
「魔力が不安定になってる……! これは……うまく利用すればアタシにもできる事があるかもしれない!」
「ガアアア!」
コルディエラが突っ込んでくる。
明滅する漆黒がコルディエラと双尾の力の取り合いを物語っており、ソリューニャが本来なら当たっていた可能性が高いその攻撃を避けられたこと、それでいてありえない破壊力で地面が殴られ抉られたこともコルディエラの戦闘能力にムラがあることを証明していた。
「運がよかった、が! やっぱキツい!」
ムラがあることで運よく避けられたが、それが次もあるという保証はない。
「ダメだ、アタシにできることがわからない……!」
やはりまだ何かが足りないのだ。
コルディエラにはいずれ限界がくること。コルディエラの強化と引き換えに双尾が弱体化すること。双尾側も魔力の横取りに抵抗できること。
それらはすべてソリューニャにとって受動的な要素だ。
戦いの終点を勝利に結びつけるには、ソリューニャ自身が何か能動的に働きかけて戦局をコントロールしなければならない。
(……アレ?)
ソリューニャはあることを試してみて、気付いた。
『主、今のは……!?』
(炎赫……)
と、ここで大地が大きく揺れる。
ガウスが地上にニエ・バ・シェロの最大火力を放ったのだ。
その衝撃で大地が割れ、ソリューニャとコルディエラの間に大きな亀裂が入った。
(アタシを信じてくれるか?)
『…………』
グラグラと立っていることすら難しいほどの揺れの中で、ソリューニャの鼓動は激しく脈打つ。
『信じる』
(炎赫)
『信じるとも。我が主よ』
ソリューニャは左目を手で覆い、瞼を閉じた。
『勝とう』
(ありがとう)
ニエ・バ・シェロが地上に向かって降下を始めた。まだ浮力を残す大地の破片がゆっくりと浮き上がっていく。
その大きな破片の上に、ソリューニャとコルディエラはいた。
「ソリュウニャア……!」
閉じた瞼の裏には、コルディエラへの敵意を映して。
「アンタに格の違いを見せてやるよ」
ソリューニャが左目に翳していた手を下げる。彼女の瞳は深紅の魔力に燃え上がっていた。
「な!? テメぇも秘術ヲ!?」
「そんなもの使えても使わない。アタシはアンタとは違う」
ソリューニャも竜の力をその身に宿した。しかしコルディエラとは全く真逆の方法でそこに至っている。
「アタシは炎赫を道具として見ちゃいない!」
「何、だト!?」
ソリューニャはコルディエラと違い、一度身をもってその力を体験している。その力を引き出すあの感覚を。
しかし、簡単にそれができるような話ではない。ソリューニャは初めてその力を行使したとき、この力は遥か先にある力だと感じた。
「アタシも驚いてるよ」
あの日から十日程しか経過していない。あの時感じたこともはっきりと思い出せるくらいだ。
まさか自分にこんな才能があったのかと、あまりに都合がよすぎて自分でも疑ってしまうほどに。
「ググゥ……ガアア!」
コルディエラが背中から羽のように漆黒の魔力を噴き出しながら飛び出す。
「終わらせる! この戦いだけじゃない!」
ソリューニャも左半身を中心に深紅の魔力を纏い、それを迎え撃つ。
「アタシの戦友……炎赫の因縁も!!」
「アアアアアアーーーー!!」
「今日、ここで!!」
深紅の炎と漆黒の靄が。二頭の“竜”が。
決着をつけるため、最後の戦いに臨む。




