全然痛くねぇ
レンは座り込み刺された腹を押さえている。
「ぐ……!」
「よくやりましたねぇ、ミィカちゃん」
そしてその女は部下を引き連れて森から現れた。頭が追い付かないエリーンが思わず尋ねた。
「ミィカに、何をしたのです……!」
「うーん? 聞けば人間に手こずったみたいじゃない?」
「ぐ……」
女に見られ、居心地悪そうに目を背けたその男は追手の司令塔をしていた魔族だった。
またエリーンはこの女のことも知っていた。自身が逃げ出す直前まで拘留されていた、第四小隊。副隊長のネルヴァである。先ほどもちらりとだが、援軍の中にその姿があったことは確認できていた。
「副隊長……しかし、恐ろしく強く……」
「言い訳は結構。ガウス様に言いつけるわよ。“人間に負けた”って」
「そ、それは!」
ネルヴァは意地の悪そうな表情を見せる印象が強い。実際エリーンとミィカのところにもたびたび現れては彼女らを馬鹿にして暇を潰すという悪癖もあった。
今も男をいやらしく追い詰めてニヤニヤしている。
「ま、とにかくこの男がね? 人間のボウヤが手強いってうるさいものだから。ちょうど捕まえたミィカちゃんに手伝ってもらったの。人間を刺せば巫女様と一緒に見逃してあげる、って」
「み、ミィカにそんなことをさせルなんて……!」
「あらら、褒めてあげないの? 誰かさんを助けるため可哀想にミィカちゃんは手を汚したのにね。あははは!」
「そ、そんな……私が……」
エリーンの自虐的な部分を知っているネルヴァは的確にそこをつついて悦に浸っている。そして満足すると部下に命令をした。
「さ、捕まえなさい」
「嘘……! なんで!」
ミィカが愕然とする。
彼女の言いたいことは、しかしレンの口から発せられた。
「待て……!」
「あら? まだ話す元気があるの?」
「オレ……は刺、されたぞ……!」
「ええ、ミィカちゃんに裏切られてね」
「約束を! 破るのか……!!」
ネルヴァはミィカに「これで人間を刺したらあなたたちは見逃す」と言ってナイフを持たせ、ミィカはレンを刺した。
ミィカはエリーンが見逃してもらえることを信じて、ただそのために、手を汚した。
ネルヴァは「はぁ?」と馬鹿にしたようにとぼけると、クスクスと笑いをこらえながら言い放った。
「あんなの嘘に決まってるじゃない! まさか本当に刺すなんて、大馬鹿ね!」
「あ……あぁぁ……」
「ミィカ……!」
「あなたは守ってくれる人を刺したの! だから巫女様もあなたが差し出してくれたようなものね! アハハ!」
「そんなこトない! ミィカ、ミィカ!」
「最高ね、アハハハハ!」
伝播していく嘲笑が二人の心を蝕んでいく。
「黙れええええええっ!!」
レンの怒号が嘲笑を切り裂いた。
レンは出血が激しくなることも意に介さず、腹から声を絞り出す。荒い呼吸を繰り返しながら、立ち上がろうと膝を立てる。
「ミィカぁ!!」
「ひっ!」
レンに名前を呼ばれ、ミィカが震え上がる。
「やっぱスゲェなァ!」
「え……?」
「エリーンの、ためだろ?」
ふらついたレンが倒れる。
しかし右手は腹部にあてたまま、再び左腕だけで身を起こそうとする。
「他人のために……ガフッ! 刺せるんだ!」
「…………」
「震えたろ……? 辛かったろ……!?」
脂汗は滝のように流れ、足は今にも崩れ落ちそうなほどガクガクと震え。それでもレンは立ち上がった。
「大丈夫、だ……! 全然痛くねぇ……!!」
「…………!」
「オレは死なねぇから! ミィカは人殺しにはならねぇ!!」
振り返ったレンの形相はまるで笑う修羅のそれだったが、ミィカはその眼に引き込まれた。
「だから……エリーンを頼むぞ」
「……レン、さん……」
「なぁにぃ~それ」
再び敵を睨むレン。ぽろぽろと涙を流すミィカ。
ネルヴァは心底不愉快そうに吐き捨てた。
「格好つけちゃって。もう体も動かないでしょう」
「う……ぐ……!」
「ほら、立ってるだけでやっと。気づいてるかしら? ナイフの毒が回ってるのよ」
「はぁ……はぁ……!」
「ふふ、解毒剤はないわよ。最近見つけた毒なの。あなたはどうしても助からないわ! 何もかもが無駄になるの」
レンの心を折りに来ているのだろう。ネルヴァは底意地の悪い顔でレンに話し続ける。
しかし、そんな言葉の一つもレンの心に届くことはなかった。
「死な……ねぇ。関係ねぇ……!」
「ちっ。あーあホントうざったいわね、くだらない茶番よ」
「人を……ぐっ!」
「は?」
レンは一歩踏み出しながら、言う。
「人を殺すのは、怖い……! 痛ぇし、苦しいんだ!」
「はぁ?」
「一番辛ぇのはミィカだ! テメェはそんなことも分からねぇんだ!」
「はっ、それがどうしたって……」
「絶対許さねぇ!!」
「……!」
彼は一体何を経験してきたのか。それは誰にも知る由はなかったが、その迫真の言葉には一切の嘘がなかった。その言葉には確かな重みがあった。有無を言わせぬ迫力があった。
だから気圧された。全員。この場の誰より弱っているのに。放っておいても死ぬような体なのに。
「……はっ!? 何やってるの、お前たち! 行け!」
いち早く我に返ったネルヴァが命令する。
同時にレンの体が前のめりに倒れていく。
「う……」
「ふ、何よ……! やっぱりやせ我慢、無茶……」
ネルヴァが笑う。
そして彼女が最後に聞いたのは、ごしゃっと砕ける音。
「ぉおおお!」
「ぐぇ……!!」
レンの頭突きがネルヴァの顎を撃ち抜き、彼女の意識もろとも粉々に吹き飛ばした。
瞬身の応用と言うにはあまりにも乱暴だった。着地も何も考えない捨て身の体当たり。
ネルヴァを吹っ飛ばしたレンはそのまま倒れこんだ。
「え?」
「は?」
誰もがレンを見失っていた。倒れたかと思った次の瞬間にはネルヴァが吹っ飛ばされ、レンは地に這いつくばっていた。
何が起きたのかすぐに理解できた者はおらず、またすぐに動き出せる者もいなかった。全員もれなく呆気にとられていた。
「うご……けぇぇ、ええええ!」
エリーンをかばった腕は真っ赤に腫れ、腹部からの出血は止まらず、おまけに毒が全身を巡っている。
彼の関節は錆付いたように動かない。体の内側は燃えるように熱い。そのくせ頭は鎖で締め上げられているように冷たい激痛に襲われている。
それでも戦う意志には微塵の衰えもなく、額を地面に擦り付けて必死に立ち上がろうとする。
「はっ!」
「い、今だっ! 早く殺せ!」
「ううううううううう!」
ようやく我に返った敵がレンに殺到する。ネルヴァが瞬殺され、次は自分の番だという考えてそれが恐ろしくて仕方がなかったのである。
この場を支配しているのは間違いなくこの瀕死の少年だった。限りなく死の淵に立っているこの少年だった。誰もが彼に呑まれていた。
「が、あ、あ、あぁっ!!」
「!?」
あわやレンの体に剣が突き立てられるという寸前で、レンが弾かれたように身を起こし、その敵を殴り飛ばした。
「は?」
「嘘だろお!? なんで……!」
「ありえない……化け物め……!」
ぐるん、とレンの体が回り、遠心力の乗った拳が敵を打ち倒す。回転は止まらず、今度は弾かれたように足が伸びて敵を倒した。
「っ、ごはぁ!」
レンが血を吐き、それでも動きは止まらない。
糸の切れた操り人形がごとく力なくよろめき手足をだらんと弛緩させているのに、不意に動いては敵の急所を的確に打ち砕いてゆく。
やがて彼らは気が付いた。
「まさか、こいつ!」
「風だ! 風で動かない体を……!」
「無茶苦茶だ!」
その推測通り、レンは風の反動を使って無理矢理体に鞭打っていた。
魔法は肉体の影響をそれほど受けない。身体が動かなくても、精神が、意志が、戦いを望むなら。その心は魔力として矛となり盾となる。
「ぐう、おお、おおおおお!」
「く、これでも食らいな!」
「かっ!?」
魔力弾がレンに直撃し、彼を吹き飛ばした。そのまま崖に身を投げ出すかと思われたが、レンが背中に集中させた空気を破裂させる。
「ぐうぅ~~っっ!!」
身体を反らせながらレンは逆方向に弾かれ転落を免れたが、負担が大きすぎたのか盛大に血を吐き出した。
「ゲホッ……!! ぐぞ、負げ、るがああああああ!」
「ぐあああ!」
全力の竜巻を放ち、敵を薙ぎ払う。
視界が真っ赤に染まっても、喉が裂けても、レンは叫び続けた。
そして戦場に立つ者は一人もいなくなった。
その中心に血まみれで横たわるレンが、もはや絶体絶命かと思われた状況をたった一人で覆してしまったのだ。
「ハッ……ハッ……」
「レンさん!」
ミィカとともに戦いを見守るしかできなかったエリーンが駆け寄った。
「…………!」
「ハァ……ッ、ハッ……」
エリーンはここまで酷い状態の人を見たことがなかった。浅く不規則な呼吸は今にも消えてしまいそうで、こんな体で最後まで戦ったということが、その戦いぶりを間近で見ていたはずなのに、とても信じられなかった。
「ニエ・バ・シェロよ……! 有限の呪いを退け、無限の恵みをどうかこの人に……!」
エリーンが治癒魔導を発動した。聖域、ニエ・バ・シェロの魔力を借りて、結界を構築する。
「う……」
「レンさん……」
エリーンは瀕死のレンを見つめていたが、やがて堪えきれなくなって涙を流し始めた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
ミィカがレンを刺したこと。レンが自分たちを守るためにこんな姿になったこと。
後悔はとめどなく胸の内から溢れてくる。
「全部私が悪いんです、全部、全部!」
「……エ……リーン」
「レンさん……ごめンなさい。やっぱり私はダメなんです」
エリーンは結界から離れ、ふらふらと後ずさっていく。
「……お、い……」
「私が生きているから、みんなが傷ついてしまうんです」
「馬鹿、やめろ……!」
「来ないで!!」
崖際で足を止めたエリーンが声を張り上げた。
「結界から出タら駄目ですよ……?」
「やめろって……!」
「お姉ちゃん!」
「ミィカ、ごめんね? もう私のために苦しまなくていいの……」
「やだ、お姉ちゃん!」
「ごめんナさい……」
エリーンはすっと目を閉じると、崖へと身を投じた。
「バ……カ野郎ォ!」
「!!」
レンがためらいなく結界を飛び出し、エリーンを追って崖から飛び降りた。
空中で目が合ったエリーンが驚きに目を見張る。
レンがエリーンの手を掴み引き寄せる。
二人は轟々と流れる川に落ちた。
「お姉ちゃーーん!! レンさーーん!!」
ミィカが崖の上から覗いた時すでに二人の姿は波に呑まれ、打ちあがった水柱が水面を泡で白く濁すばかりであった。
先代巫女エイラのぬくもりを忘れたことはない。
もう二度と帰らぬという現実に圧し潰されてしまう夜も、懐かしい面影の儚さに胸締め付けられる冷たい朝もあった。
エリーンは母のぬくもりを忘れたことはない。
手を繋いでいた二つの赤い影をふと偲ぶ斜陽も、いつか共に見上げた時と変わらぬ美しさの月明かりもあった。
エリーンは母の死以来まったく変わることのないある気持ちを抱えて生きていた。
“私も連れて行って欲しかった”
その仄かな自殺願望が彼女の胸にいつもあったことを、いったい誰が知っていたのか。
その想いもようやく現実に変わる時が来たと思った。もう生きていてはいけないと思った。自分が生きている所為で、自分以外の誰かが傷つき死んでいく。それはおかしなことだと思った。耐えられないと思った。
だから死にたかった。今なら決心も揺らがないと思ったから。
それなのに。
「……げほっ、げほっ!」
「…………」
「う……ん?」
激しく咳きこんだエリーンはうっすらと目を開けた。
身を起こすと、隣にレンが倒れていた。お互い水浸しで、ここは崖の底。すぐ傍には流れの速い川がある。
「どうして……」
「…………」
レンは死んだように動かない。ほとんど治癒もできていないまま結界から出てしまった彼が、いったいどうやってエリーンを助けたというのか。
「どうして、助けたノですか……」
ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。
先ほどの結界で魔力と精神を使いすぎた。もうあの規模の結界は張れない。だから結界から出ては欲しくなかったのに、エリーンが死んでも残るようほとんど全てを注ぎ込んでいたのに、この少年はためらいなくエリーンの命を選んだのだ。
エリーンは祈った。せめてこの少年が今すぐ死ぬことがありませんようにと、無限の神へ。
しばらく祈っていると、レンの頬に少しずつ色が戻り始めた。助かるかもしれない、と思った時だった。遠くで話し声が聞こえてエリーンははっと顔を上げた。レンを包んでいた魔力が霧散する。
「レンさん……隠さないと!」
エリーンはレンを肩に担いで近くの茂みへ隠れた。意識して探さない限り見つかりはしないだろう場所である。
息を潜めて耳を澄ませると、しかし声は数人で自分を捜しているようだった。ここにいてもやがて見つかってしまうだろう。そして自分はともかくレンは確実に酷い目に遭うだろう。
「……レンさんのせいですよ。レンさんが私を助けてしまうから……」
今魔力を使うのは魔法が使える敵に自分の存在を主張するようなものである。レンをこれ以上回復させることはできない。
「だけど、死なないで……。私なんかのために、死なナいで……」
声は近づいてくる。
エリーンはどうにかレンが助かる方法を思案した。そして意を決して立ち上がった。
「もし無事に生きられたら……あなたはあなたの友達を助けルことだけ考えて、もう私に関わらナいで。それが一番いいの」
エリーンは最後にまたごめんなさいと呟くと、茂みから出て声の方に向かっていった。レンを捜させないためにはこれしかないと思った。
やがて声は茂みから遠ざかっていき、聞こえなくなった。レンを匿ったまま、草木は風に揺れる。
レンサイド二日目ラスト。




