陽炎のローザ 2
ローザが掲げた手に黒い炎が灯る。炎は丸まると、羽を生やしてハルへと襲い掛かった。
「“黒蝙蝠”」
「っ!!」
黒炎でできたコウモリが数匹、ハルへと襲い掛かる。
正体不明の炎だ。ハルは触れないようにと逃げるが、コウモリたちはまるで本物のようにハルを追ってきた。
「く……!」
剣でコウモリを斬り払う。あるいは物理的に対処はできない可能性も考えたが、コウモリはあっさりと両断され霧散した。
「“黒鷹”」
「!?」
三匹目を斬り払ったところで、真上から黒炎が急降下して地面に衝突した。
落下点で爆発が発生し、ハルを吹き飛ばす。
ローザは次々に新しい生物を炎で象り、間断なくハルへと放っていく。
「行って、“黒蛇”“黒鼬”“黒蝙蝠”」
ハルは地を這う炎の蛇に剣を突き立て、それを足場に跳び上がる。そして棒手裏剣を投げ鼬を貫くと、空中で新たな細剣を創造し、着地と同時にコウモリを切り裂く。
「“黒揚羽”」
「なっ!」
たった今仕留めたばかりの蛇たちは霧散せず、無数の蝶となってハルを取り囲んだ。
「舞って……」
ひらひらと舞う蝶が一匹、鱗粉を撒き散らすように爆ぜる。他の蝶たちも爆ぜて火の粉になり、ハルの周りを覆ったかと思う瞬間。
「……っ!」
火の粉が一斉に爆発した。
爆炎が晴れたとき、そこにハルはいなかった。
「……ッ!」
「んー?」
躱したわけではない。傷を負いながらも無理矢理抜け出したのだ。
ハルは黒炎を切り裂きながらローザへと決死の接近を試みる。このまま離れた状態で敵の攻撃をただ受け続けることはできない。背を向ければその瞬間に炎に纏わりつかれ死につながる。
ローザ自身をどうにか弱らせ、隙を作ることに賭けてハルは駆ける。
「っ……おおっ!」
「無駄……」
ローザの体が黒炎に包まれ見えなくなる。黒炎は左右に燃え広がってゆく。
一瞬遅れてハルの一振りがローザを切り裂く。が、手ごたえはない。
黒炎に紛れて避けたのだろう。すぐに全神経を集中してすぐ近くにいるだろうローザを探すが、見つけるよりも先に彼女の声が聞こえてくる。
「“黒蛇”」
炎が寄り集まって火柱を形成する。すぐにそれは大蛇の形になり、ハル目掛けて大口をあけながら突っ込んできた。
横に跳んでそれを回避。しかしその正面にローザが立っている。
「近づけばどうかできると思った? ニンゲンて馬鹿ね」
「づ……っ!?」
パァン、と乾いた音が鳴る。
ローザのしなやかな脚で繰り出されたハイキックをハルが片腕で防いだのだ。ほっそりとした肉体からは想像もできない威力、ハルの顔が歪む。
「っ……!」
息をつく間も与えず、ローザは炎を纏ったブーツでハルを蹴り上げる。
見た目からは分からない、凄まじい魔力が込められている。すれすれで回避したハルを掠めて、ブーツの炎がつま先から天へと昇っていった。
脚を上げているローザに反撃すべく、ハルは軸足を狙って蹴りを放とうとする。しかしいつの間にか足元に小さな蛇たちがいることに気付き、急遽狙いを下げた。
地面に突き刺さる蹴り。その脚を支えとして固定し、もう片方の足で地面を蹴ってその場から離れる。
「“黒鼬”」
着地したハルの背後から鼬たちが強襲する。
ハルは剣を創造し、振り向き様に鼬を斬り払った。しかし討ち漏らした一匹がハルの腕に食らいつく。
「ぅぐぁ……!」
腕に魔力を纏わせる。この炎が魔力に近いものならば、魔力の抵抗力で何とかなるだろう。
幸いにも狙いは当たり、どうやら魔力の性質を多分に残しているらしい黒炎は軽い火傷を残して消えていく。
「くっ」
ハルは剣を取り落とし腕を押さえた。
先ほどのハイキックの衝撃が骨まで響いている上に、鼬に噛みつかれたダメージもある。
(折れたか?)
天を見上げる。
蹴りで打ち上げられた黒炎が三羽の鷹となり、急降下してくるのが見えた。
辺りを見回す。
蝙蝠も蝶も鼬もいる。逃げ場はない。
「……カルキ」
ハルは呟いた。無二の仲間の名を。
直後、鷲が着弾し、ハルの周りを三つの爆発で囲った。
「か……っは!」
「あーあ、つまんないの。“黒龍”」
ローザはそう呟くと、すっと腕を掲げた。するとローザの足元が黒く揺らめき、蛇のような、蛇とは明らかに異なる伝説の魔物が次々に昇ってゆく。
それを見た観客たちは震えあがり、我先にと逃げ出した。
「逃げろ――!」
「ろ、ローザ様ぁ!」
「うあああ!」
上の喧騒にも、這いつくばるハルにも興味の無いような目で、顔色一つ変えず、ローザは腕を振り下ろした。
「黒炎の雷」
無差別の破壊がコロッセオに降り注いだ。
◇◇◇
焼死体のようなハルが部屋に投げ込まれたのは、不気味な魔力の余波が広がり謎の地揺れが発生してから大分経ったあとだった。
「……ッ!」
ミュウたちは一斉にハルの元へ集まった。
「マオさん!」
「……脈はあるわ! でも……!」
酷い有様だった。あと少し、何かが違えばとっくに死んでしまっていてもおかしくないような、ギリギリのところで細い糸が命を繋いでいるような状態だった。
その糸もいつ切れてもおかしくない。
「このままじゃ……いえ、もう駄目ね……」
「…………!」
いつもセレナーゼに言われていたことがある。治癒の力は強大だが、故にその力に苦しめられることもある、と。
母の言葉を思い出して今、ミュウはようやくその意味を理解した。
「決断……ですか……」
「え?」
「これは、確かに辛いのです……」
それでもミュウの意志は決まっていた。
「私、かばってもらったです。本当なら私がこうなっていたかもしれないのです」
「……そうね。でもそれはソリューニャも私も同じよ」
「そう、そうなのです。だから……」
「いいよ」
奇しくも昨日と同じような状況だ。
ミュウが何を言いたいか、マオは分かっていた。そして昨日とは違う答えを言った。
「いいよ、ミュウちゃん。助けてあげて」
「…………!」
ミュウがソリューニャを見る。ずっと元気がなかったソリューニャも、薄く微笑んで頷いた。
「うん……アタシからも頼むよ」
「ありがとうなのです……。使います、ヒールボール」
ハルを黄緑色の魔力が包み込む。
「……これでも助かるかどうかは分からないのです。一気に回復するには体力をすごく使うから……もしかしたらそのまま……」
あとは運と、本人の体力次第。怪我の深さに対して体力が少ないと、高速で治癒が進む肉体の負荷に耐えられず逆に死んでしまうことも珍しくはないという。
「万能じゃ、ないのです……。失敗だって、あるのです……。でも何もしないで見捨てるなんて、できなかったから……」
ミュウは泣いていた。
これが“責任”の重さだった。救える力を持ったが故に降りかかる、“選択”の重みであった。たった14の少女にとって救う命を選ぶという行為はあまりに苦痛だった。
「ごめんな、さい……です……」
「泣かないで」
「…………ああ」
マオがそっとミュウを抱きしめた。反対側からソリューニャもミュウを抱きしめる。
ミュウの苦しみは本当の意味ではミュウにしか分からない。それでも彼女が苦しみ泣いている。それだけがはっきりしているのならば、彼女らにはそれで十分だった。
「大丈夫。ミュウは敵を助けたんじゃない。恩人に手を差し伸べたんだ」
「それに、これから誰も怪我なんてしない。させないわ。私守るのだけは得意なんだから」
「ああ。彼を助けたから他の仲間を助けられなかったなんて、そんなことにはさせないよ。絶対」
「絶対……」
◇◇◇
その晩。
ソリューニャは今日も夢を見た。
人の悲鳴が聞こえる。
見上げた父の最後の顔と静かな母の表情。
血濡れの手のひらが生温い。じっとりと土の壁が冷たい。
(また)
竜と契約を交わしたあの日から、この夢を見ることが増えた。連日見ることも珍しくなくなった。それこそ今のように。
最初に記憶が流れる。断片的に、忘れられない瞬間が次々と。いつも通りだ。
ソリューニャは耐えがたい胸の痛みに膝をつき、血濡れの銀のナイフを呪う。
しかし心の深いところでは安堵している自分がいる。怒り、恨み、憎む。この感情があの日から消えずにに生きていることを確認できたから、彼女は自分の生きる意味を見失わずに済む気がしている。
ソリューニャは荒廃したパルマニオに立っている。ボロボロに擦り切れてはいるが一切の汚れはない、眩しいほどの純白のドレスを身にまとい、裸足で立ち尽くしている。これもいつも通り。
黒煙昇る廃家。見知った広場。その中心にソリューニャは立って、いつもそこで目が覚めるはずだった。
夢は今日も続きがあった。
何を求めるでもなくソリューニャは森の中へ入った。
見覚えのある木々と土の色。幼いころにかくれんぼをした森。初めて狩りをした森。
記憶の木々の間を歩き抜ける。昨日と同じ。
(今日もか)
歩いても歩いても代わり映えない景色。そしてソリューニャのあらゆる感覚が歪みだした頃、ソリューニャは森を抜けた。
(不思議な湖……。やっぱりアタシはここを知らない)
どこまでも続く平面。
まるで波のない湖のような、空を映す鏡のような、動きのない平面だった。
すぐそこに、しかし遥か彼方に水平線。
振り返ると森は消えていた。
ソリューニャはいつの間にか湖の上に立っている。
赤い湖と赤い空の間に取り残されているようだった。
水面はまるで一切の歪もないガラスだった。
ソリューニャは一歩進んでみた。水面に波紋が広がった。
「…………」
確かに呼ばれた気がして、ソリューニャは振り返った。
赤い髪の幼い少女が立っていた。少女の綺麗な瞳には縦長の瞳孔が浮かび、尖った耳が髪から伸びている。ソリューニャのそれとは対照的に綺麗で赤いドレスを着ていた。
(……思い出した、肩)
「……」
無意識に肩に触れていた。
傷はない。痛みもない。ただ純白のドレスに少し赤く染みが残っていた。
(同じじゃ……ない?)
いつの間にできたのか。それだけが昨日と違っていた。
よく似た少女はただ黙ってソリューニャを見上げていた。
しかしそれでいて饒舌に少女は語り掛けていた。
小さく結ばれた唇、宝石のような曇りなき無垢な瞳。それらすべてが何かを訴えかけるように真っすぐにソリューニャに向けられていた。
少女はソリューニャの目の前まで歩み寄った。
そして剥き出しのソリューニャの肩に手を伸ばす。
(嫌だ……!)
「……?」
今日は自然と体が動いた。一歩進み、手を伸ばす少女から逃げるように身を引く。
少女は心底不思議だという表情でソリューニャを見上げ、小首を傾げた。
そして少女は手を引くと、代わりに口を開いた。
「どうして……?」
(喋った……!)
はじめソリューニャは少女の言葉の意味を、なぜ逃げるのかという問いだと思った。しかし少女が続けた言葉は逆だった。そしてソリューニャにとってまったく驚くべき問いかけだった。
「どうしてアタシは逃げないの?」
(は?)
「どうしてまだ部屋に閉じこもっているの?」
ソリューニャの頭が真っ白になる。口はパクパクと、己が夢だというのにずいぶんと間抜けに動いていた。
竜の少女は止まらない。
「死ぬかもって分かっているのに」
「アタシならできるのに」
少女は自分だった。少女の言うことは自分の気持ちだった。
(竜は……まだ呼べな)
「呼べるよ?」
少女は透き通った目でソリューニャの嘘を射抜いた。
「本当に少しだけ。分かってるよね?」
(う…………)
「どうしてすぐにでも呼んで逃げないの?」
ソリューニャは分かっていた。
どんな嘘も言い訳も少女には通じないこと。
なぜなら少女は自分で、自分は少女だからだ。
(み、みんなを助けなきゃ。でも全員助けていたら時間が足りない、から……)
「……」
(それに双尾も、いま竜を呼んだら止められなく)
「アタシはそのためなら死んでもいいの?」
それでも言い訳を重ねてしまうのはなぜだろうか。どこまで行っても自問自答にしかならないはずなのに。
赤いドレスの少女は容赦なく核心を突いた。
「復讐は諦めたの?」
(――――ッ!?)
ソリューニャは激しく動揺した。
(そんなことはないッ!!)
「ふーん? でも」
「復讐するなら、すぐにでも逃げるのが一番だよね? 分かってるよね?」
「ねぇ。どうして?」
「忘れちゃったわけじゃないよね?」
「復讐が一番大事なら、なんでみんなのために死のうとしてるの?」
(っ、やめてよ!)
「やめないよ」
「だってアタシが考えたことだもん」
「考えてたでしょ?」
「みんなを見捨ててアタシだけなら、きっと生き残れるって」
(嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!)
「変なの」
「アタシが考えたことなのに」
「なんで嘘つくの?」
(嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!)
ソリューニャは耳を塞いで、目を閉じて、“それ”を直視してしまわぬよう、認めてしまわぬように抵抗した。
ドレスの赤い染みは少しずつ広がっていった。




