いつかの何処かの話
あえて違いをつけるのなら人間とその他の生物との違いとは何だろうか。
ー言葉を話すことか。
否。
ー それとも道具を用いることか。
否。
ー ならば大脳が発達していることか。
それも否だ。
となると何が違いなのか。何が人間性なのか。何が人間とその他を区別しているのか。
それはもしかしたらとても身近で脆いものなのかもしれない。
そして身近過ぎたり脆いことによって壊れやすいから気付かないのかもしれない。
その身近で脆くも我々が人間であるためには不可欠なものを我々は知っている。
それはー
一つの悪夢を見た。
とてつもなく悪い夢だ。
だが、ただの夢だ。
走る。走る。走りまくる。
叢雲一馬はただ単に走り続けることしか考えていなかった。いや、それよりも走るという行為をするのが精一杯で思考能力は少したりとも働いていないというのが適切だろうか。
登る。登る。登り続ける。
さっきから何階まで登ってきただろうか。自分の目に映るのは汚い灰色の階段のみだ。ヤバい。視界が黒ずんできた。多分ずっと人生を共にしてきた貧血の効果だろう。くっそ、こんなことならちゃんとレバー食っときゃよかった。
下の階からは今ではもう聞き飽きるほど聞いた呻き声が響き渡ってくる。
だが、振り向いてその姿を確認する余裕なんてない。それは俺が奴らに恐怖していたり、疲労困憊の極みに達しているからだけではなく、今俺の腕が一人の少女を抱えているからだ。
その少女は着用している黒い戦闘服のあらゆる部位を切り裂かれており、微動だにしない。傷口は素人目からしても決して軽いものとは言えず、下手に触ろうなどという考えは足元にすら浮かばなかった。
もう手遅れではないかと思ってしまうが、皮肉なことに少女の身体からどくどくと音が聞こえてきそうな程溢れ出てくる血の温かさがまだ辛うじて彼女が命を繋いでいるということを俺に伝えている。
彼女を助けるためにも俺は走り続けなければならない。
ー頼む。助かってくれ。
心の中で何度もそう呟く。生まれてこのかた神様に強く祈ったことなどなかったがこの時だけは神様の力に縋ろうとする身勝手な思いが湧いてきた。
光が見える。幻想ではなく屋上へと繋がるドアから漏れている一筋の光。
もう半ば自動的に動いていた足に力を込め、唇をちぎりとるかというくらいに噛み締めた。
最後の段を登り、ドアノブに自らと彼女の血で真っ赤に濡れた手をかける。
その時少女の身体を片手だけで支えていたはずなのだが、重さは感じなかった。
血で滑らないようにドアノブを握りしめ、一気に時計回りの方向へと回す。
ドアに全体重を預けて倒れるように開くとそこには待ち望んでいた平静はなく、変わりにこの世の痛み全てを凝縮したのかと思える惨状が淡々と眼前に広がっているだけだった。
土煙や硝煙、それに生物の焼けた悪臭が途切れることなく俺の鼻の奥までを断続的に襲っている。風も吹いている。しかし、自然のものではなく爆風という名の突風だ。聴覚が捉えたのは轟音。爆風と共に伝わってくる巨大な爆発音に、次々と断末魔の叫びと共に途切れていく発砲音。加えて信じられないかもしれないがいまだにパトカーや救急車のサイレンも鳴り続けていた。無論、鳴り続けているだけかもしれないが。
そして、視覚はそれらの情景を包み隠さず俺に見せつけていた。無事な建物は一つも見当たらず、地上は爆発と炎上、倒壊が全てだ。人は確認できないが、抵抗を続ける戦車や装甲車はところどころに点在している。
だが、その後すぐにそれらは怪異達の群れの中に埋もれ、姿を消していったが……
目を覆いたいが覆えない惨状。ある意味ではその一言で言い表せる苦しみだった。
だが、どんな地獄であっても希望はあるわけで、俺の視界のど真ん中にもそれは現れた。濃緑色と黄土色に黒色が規則性を感じさせないよう塗装されていて、その中にも同じような色の服を着ている人間が数人乗っている。それは空の彼方からビルの端へと急接近し、見事なホバリングを見せつけながら俺たちを待機していた。出し巻き卵のような寸胴な機体に一対の車輪と絶え間ない音や風圧を発生させるローターを取り付けた陸上自衛隊のヘリ、UH-60JAブラックホーク。俺と少女を迎えに来た最初で最後、唯一の脱出手段だ。
疲れや痛みはもう感じない、ただただ前へ前へと走り続けた。
ヘリのローターから吹きつける風が強くなっていくのを全身で感じるごとに身が軽くなっていく。
そして、50m程度の距離を一心に走るとものの数十秒でヘリのキャビンドアは視界のほぼ全てを占めた。
ついにこの地獄から脱する時が来たのだ。
今まで強く抱きかかえていた少女の身体を自衛官に預け、自身も乗り込もうとする。が、こういう時に敵が出現することこそお約束というものだ。ついさっき俺が出てきたドアから招かざる客が続々と登場した。
カカカカッ コココッ コココッ
カカッ カカカカッ
人間には決して出せない音域を発しながら現れた怪異の体色は、本来真っ黒なはずだが身体の表面から大量に垂れ流している脂のせいか所々光を反射して気持ち悪く黒光りしていた。四足歩行で体長は2mといったところだろうが手足が異常に長い。しかもそれらには人間の肉など紙どころか豆腐のように切断できる鋭利な爪が生えている。目は無い。それでもこちらの位置を正確に見つめていた。しかもそれが10体、少なくとも10体が人間という食物を喰いたそうに並んでいる。
右手を腰にあててベルトに括り付けられた黒い骨のような棒を取り出す。左手で安全ピンを引き離すとともに右手を肩の真上へと運んだ。
「クソ野郎共が!いい加減しつこいのを理解しやがれ‼︎」
肘を曲げないという野球とは違ったフォームで投げ出す。投手の怒りと怨嗟の念を込めた棒は綺麗な放物線を描きながら奴らの足元へと着弾し、途端に甲高い音とまばゆい光を辺り一面にぶちまけた。
灼熱の爆風で相手を浄化する手榴弾ではない。相手を一時的な麻痺、行動不能にさせる投擲兵器、スタングレネードだ。明るさにして100万カンデラ、音の大きさは1800デジベル以上。簡単に言えば刺すような明るさを持つロウソク100万本の光とジェットエンジンの1.5倍もの爆音が同時に襲いかかってきたのだ。
もちろん、投げた側への反動も半端じゃない。強烈な目眩と耳鳴り、さらにはそれらに伴って吐き気さえする。視界がふらつき、目の焦点が合わない。
「うっ」
テレビならばキラキラの編集が付きそうなものが口に殺到するが気合いと根性で消化管へ押し戻した。
ーこれでしばらくは安全なはずだ。
俺は再びヘリに足をかけた。身体中を切り裂くような痛みが発生し、中々力が入らない。だが、奴らの動きを封じ込められた喜びからか急ごうという気にはならなかった。きっと、その時はまだ理解しきっていなかったのだろう。スタングレネードに対しての過信と奴らの異常なまでの「生命力」を。
俺がヘリに乗り込む作業を再開したのと時を同じくして奴らは這うようにして一斉に突っ込んできた。まるで先程のことなどなかったかのように。
ー馬鹿な!早過ぎるぞ!
人間なら最低でも十数秒は足止めできたはずだ。だが、奴らが炸裂から動き出した時間はものの五秒程度。人間どころか通常の生物をも超越した圧倒的な力。
立っている気力さえ失いかけたが、ここでどうこうしていても何かが変わる訳ではない。筋繊維が千切れるのもお構いなしの力で搭乗を急いだ。
奴らは粘っこい唾液込みの口をいっぱいに開きながら四本の手足をこれでもかというほど早く動かし、瞬く間に間合いを詰めてくる。
ガガガガガガガガガガガガガガッ!
いきなり、ヘリのキャビンドアに取り付けられたM2重機関銃が掘削機のような音を立てて、成人男性の手のひらサイズはあろうかという巨大な12.7mm×99弾を立て続けに発射した。怪異を迎撃するのは理解できても耳元で重機関銃などぶっ放されてはたまったもんではないのだが、今はそんな贅沢を言うこと自体がNGだ。
屋上のコンクリートが深く抉れ、コンクリートや銃本体から次々に排出される薬莢が宙を舞う。3D映画なんてめではない本物の喰うか喰われるかの攻防戦が繰り広げられていた。
しかし、その攻防戦は誰から見ても圧倒的にこちらが不利だった。いかんせん相手の動きが早過ぎるし、怯みが一切見受けられない。
恐怖がないとしか思えないその挙動のおかげであと距離が10mもないところで弾丸がやっと1体の腕に命中した程度だった。しかも、腕を吹き飛ばされた奴でさえ、態勢を立て直して何事もなかったかのように突き進んでくる。
俺はというと視線を奴らから放すとふんっという気合いを入れ、残っていた腕力を振り絞ってヘリ内へと転がりこんだ。それを確認するとすぐにヘリは性能限界の勢いでローターの回転速度を上げて急上昇、その場から離脱した。
俺らのいたビルはぐんぐん小さくなっていく。だが俺はまだ安心出来ない。最後の懸案事項が残っているからだ。
「大丈夫か?」
「……ええ、……何とか…」
少女は苦しい中でも答えてくれた。
少女の顔は光が当たっているのかよく見えないため顔色が確認出来ないが、喋れるようになっただけでも良いと言えるだろう。
「ここからは予定通り集結ポイントの護衛艦隊に向かう。あそこなら医療設備も整っているからきっと助かるはずだ」
安心させようと笑顔で話すが、少女は弱々しく頷くだけで今度はこちらに問いかけてきた。
「私達は…負けたの?」
「それは…」
「教えて」
少女の口調は厳しかった。きっと嘘をつくなよというメッセージが込められているだろう。だからこそ俺は重い唇を開いて事実と私情を吐き出した。
「…ああ、最終防衛線は壊滅、HQ(司令部)とも連絡が通じない……だがやれることは全てやった。それに、生きていればまた戦える。だからまずは………休め。な?そんな状態じゃ戦えないし、第一、……俺はお前のそんな姿をいつまでも見ていたくはない」
俺は少女の手を握った。その手は酷い失血のせいか、雪のように白く細く、そしてか弱い。
考えてみれば至極単純なことだった。何で俺は彼女をこんな目に遭わせたんだ?どこにでもいるはずのごく普通の女の子。俺が護らなくてはいけないじゃないか。
そう思うと俺の頬を二つの筋が流れる。
「一馬?」
「ごめんなほん…っとうに…これから…は、俺がっ…まもっるから…だからっ…だからっ…」
嗚咽が混じり、上手く言葉を発せなかった。そんな俺の頭に手が乗る。
とても小さくて、冷たい手だった。
「分かった…分かったから。あたしも一馬のそんな顔見たくないよ。だから笑って。いつもみたいにさ」
鼻水を啜り上げ、目元をパーカーの裾で拭いた。そして、ああと、震える声で答える。
「えっ?」
生物の本能とでもいうものであろうか。涙を拭い切った瞬間、嫌な光を感じた。すぐさまキャビンドアから身を乗り出して後方を視認すると、天から光玉が顕現しているのが確認できる。
まるで神様がこの地に舞い降りたかのような神々しさだ。
だが、それを見た感動とは別に俺はそれの正体を一瞬の内に冷え切った頭で考察していた。あんな怪異は見たことがない。では人類側の兵器か?もしそうならば怪異を一掃するための対地ミサイルということになる。
いや、それにしてはおかしい。あまり知られていないが通常の弾道ミサイルや巡航ミサイルの類いは榴弾砲程度の威力しかないのだ。だから、効果をあげるためには一度に大量のそれを発射する必要がある。よって、一発だけというのはそれだけで事足りる威力を持たなければならない。
つまり、一発だけでとんでもない威力を持つ兵器。
次の瞬間、俺の頭には二つの単語が浮かび上がった。
ヒロシマ、ナガサキ
背筋が凍りついた。血の気が引くどころか血が消えた気がした。顔をキャビンドアからすっ込め、大声で警告する。
「機長!ヤバい!急いで逃げろ!あれはただのミサイルじゃない!あれは!」
俺の警告は遅かった。
次の瞬間、この世の闇全てを消し去るかのような強烈で青白い閃光と共に訪れた一瞬の静寂。ひどい耳鳴りがする。それは時が止まったかのように感じられた。
けれども、いつまでも止まり続ける時はない。世界は再び動き出した。
ドンッ
ドオオオオオオオオオオオオオオオッ!!!!
キャビンドアから再び顔を出す。案の定爆心地では巨大なキノコ雲が形成されていた。心臓は動きが分かる程激しく揺れている。全身に嫌な汗がびっしりと浮かび、落ち着いてはいられない。だが俺がどうであろうと状況は変わるはずがなかった。
完成間近のキノコ雲からは全てをなぎ倒し、燃やし尽くす圧倒的な熱風と爆風、衝撃波が瞬く間に襲いかかってくる。
当然ヘリごときが逃げ切れるスピードではない。その先端がヘリに到達した瞬間、身体は燃えているんじゃないかという錯覚を覚える程の熱に覆われ、ヘリは上下左右あらゆる方向へ不規則に揺れ、回転し始めた。コントロールなんかはとっくに失っているだろう。もうなにがなんなのかは全く理解出来ない。世界が信じられない勢いで回転している。
機長がメーデー!メーデー!と叫ぶ声、爆風の音、ヘリ中に響き渡るけたたましいアラート音が入れ替わりながら聞こえてくる。
ーあっ。
浮遊感を感じ、視界にヘリが写った。きっとヘリの外へと放り出されたのだ。
手足を無茶苦茶に動かして戻ろうとするも、竜巻のような勢いの爆風には焼け石に水どころか超新星爆発に水滴、つまりは全くの無駄だ。
ーくっ…そ…
だんだんと小さくなっていくヘリの中に少女が見えた気がした。俺は少女に手を伸ばす。せめてもの抵抗だった。せめてもの希望だった。
世の中には不可思議なことが必ずある。これもそのうちの一つに含まれるのだろうか?俺が少女に手を伸ばした時、少女も俺に向かって手を伸ばしていた。そして、俺は手の中にあるはずのない感触を感じている。
それはとても小さく、冷たかった。
ー俺が…
ー俺が必ず…
ー俺が必ず護る!
依然として猛威をふるい続ける爆風に呑み込まれ、叢雲一馬の意識と物語はそこで一旦終わりを迎えた。
一つの悪夢を見た。
とてつもなく悪い夢だ。
だが、ただの夢だ。
本当に?
本当にただの夢だったのだろうか?
その問いは俺の頭に浮かんでから居座り続け、消え去ることはなかった。
読んで頂き感謝の念でいっぱいです
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