願いを現実に変える方法
「――夢を見たの。天守さんが私を外に連れ出してくれる夢」
窓のない病院の一室。菫はそう告げて自嘲気味に微笑み、絶句する菖蒲に続けた。
「可笑しいわよね。そんなことあり得ないってわかっているのにさ」
そんなことないよ――そう告げて励ましたい気持ちを菖蒲はぐっと堪える。何の根拠もない励ましほど、相手を傷つけるものはない。
(諦めていない……そう思っているなら、励ますことはできるはずなのに……)
同じ顔をした妹のささやかな夢を聞いて、菖蒲はどうしてそこにいるのが自分ではないのだろうと思った。菫だって自分と同じようにいろいろなものを見て、様々なことをたくさん経験して、笑ったり泣いたり、怒ったり楽しんだりしたいはずなのだ。それなのにこんな形で部屋に縛られているのを見ていると、いたたまれない気持ちになった。
(あたしにもっと力があれば……あたしはこんなことのために菫を引きとめたわけじゃないのに……くやしい)
返す言葉が浮かばずに黙っていると、ベッドに横になったままの菫は明るい笑顔を作り直した。
「ねぇ、アヤメお姉ちゃん? 高校ってどんなところ? 入学式、今日だったんだよね? それ、制服でしょ? 良いなぁ。ねぇ、格好良い人、いた? 部活はどうするの? あ、でもバイトもするんだっけ? いろいろ大変そうだけど、充実するってそういうことなのかな?」
きらきらとした眼差しが自分に向けられていることに気付いて、菖蒲は我に返った。たくさんの機器に繋がっている妹の姿を見て、菖蒲は申し訳ない気持ちになる。それでも、暗い顔をずっと続けているわけにはいかない。
(せめて、一日だけでも菫に自由を与えることはできないのかな……)
菖蒲はささやかな希望を込めて精一杯の笑顔を作った。
* * * * *
真っ白な四角い建物は、病院と言うよりも研究所と説明する方が似つかわしく思えた。周囲も木々に囲まれていて、まるで隔離されているかのような場所だ。そんな丘の頂上に建つ病院へと延びる坂道を登り、菖蒲はたった一人の妹に会いに毎日足を運んだ。
この生活が始まってからもう一年以上になる。
(――あ)
病院の出入口を出たところで、真っ白な髪の青年がいるのに気付いた。
天守聖人だ。
昼休み中なのだろうか。淡い青色の清潔な衣裳を身につけ、眼鏡を掛けて腰を下ろしている様子は、看護師が休憩を取っているように映る。日中の陽射しが届くベンチで、文庫本に視線を落としたままだ。どうも菖蒲がいることに気付いていないらしかった。
「聖人」
彼の正面に立ち、菖蒲はいつもするように声を掛ける。聖人はゆっくりと顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「おや、今日は帰りが早いんですね」
「えぇ、このあとバイトの面接があるんで」
菖蒲が真新しい高校の制服に身を包んでいるのに気付いたらしい。視線を彼女の爪先から頭のてっぺんまで動かすと、さらに嬉しそうに笑顔を作った。
「その制服、なかなか似合っていますよ」
「どうも」
社交辞令で言っているのがわかっているので、菖蒲はさらりと返す。
(あたし自身には興味のないくせに、よくそう言うことをしれっと言えるよな……)
天守聖人の今の立場は菫を担当している看護師だ。しかしそれは仮の姿。菫のそばにいるためにそういう設定にしているのだと菖蒲は知っていた。
聖人が口の端を、不気味にそっと上げた。
「僕に何か頼みごとですか?」
彼の黒かったはずの瞳が血の色に染まる。それを見て、春先だと言うのに背筋が寒くなった。菖蒲は何度もそれを見ているはずだが、決して慣れるものではない。しかし怖気ずに口を開いた。
「菫が、さ。あんたを夢で見たんだって。外に連れ出してくれる夢。とっても嬉しそうに話し始めたのに、どうせ無理でしょって、寂しげに笑うのよ」
「それは僕に対する嫉妬の宣言と取るべきでしょうかね? どうして外に連れ出した人物があたしじゃないんだろうって、そう言いたいのですか?」
くすっと嫌な感じに聖人は笑う。
(わかっていて言ってるな、こいつ……)
菖蒲はそんな聖人の態度を無視して、話を続ける。
「あんたなら連れ出せるんじゃないの? お医者様に外出許可を得られるように、あたし、何度も交渉したんだけど駄目だった。聖人、あんたならもっと手っ取り早く菫を外に出してあげられるんじゃない?」
期待の眼差しを向ける。
だが彼は肩を小さく竦めて、首を横に振った。
「どうかな。菫ちゃんが簡単に外に出られないのはどうしようもない事実ですからね。現代の医療技術では、そううまくいかないでしょうよ」
指摘されて、菖蒲は菫のいる部屋のことを思い出す。
窓のない狭い部屋。たくさんの機器が並ぶ無機質な室内。その中心で横たわったまま生きる同じ顔の少女――。
ここは引いてはいけない、菖蒲は強く思い、交渉の続行を選択した。
「ね、そこをなんとかできない? 一日だけでいいのよ。菫のささやかな願いを叶えたいの。――ほら、あたしたち、もうすぐ誕生日でね。何かプレゼントをしてあげたいのよ」
「――へぇ」
菖蒲の訴えに、聖人は自分の唇を舐めた。紅い瞳は興味深そうに菖蒲の顔を捉えたまま離さない。
(喰いつけ、喰い付いて来い。あんたにとってあたしは餌でしかないのだろう? だったら、さぁ、美味しい餌をくれてやる)
この場から逃げ出してしまいたくなるような嫌な気配が聖人から放たれている。それでも、菖蒲は負けじと立っていた。大切な菫の願いを叶えるためなら、目の前にいる悪魔の端くれにやれるものはすべてくれてやろうと心の底から念じた。
そんな菖蒲を見て聖人はくすっと小さく笑う。気配が急に柔らかくなった。
「うん。悪くないね、その感情。強い精気を伴っていてとても僕好み」
立ち上がり、読んでいた本をポケットにねじ込む。そして空いた手で聖人は菖蒲の頭を撫でた。
「まぁ、元より僕は君には従うつもりでいましたが」
「まったく……毎度だけど、そういうのやめてくれない?」
菖蒲は動かない。努めて出した落ち着いた声で返し、ただじっと聖人の次の行動を待つ。聖人が再びくすっと笑う小さな声が耳に入った。
「こうしたほうがより美味しくなるのを知っちゃっているもんでね。ちょっとした味付けですよ」
「ふざけるな。くだらない」
冷たく言い捨てる。苛立ちを内に封じ込めて。
そんな菖蒲に聖人は、すれ違いざまに彼女の耳に顔を寄せて告げた。
「――その気持ちに迷いがないなら、僕はその願いを叶えましょう。菫ちゃんをあの部屋から出す、それが僕と君とで交わす仕事の内容です。代償の準備、ちゃんとしておいてくださいよ?」
「わかっているわよ。好きなだけ、あたしから持って行けばいいわ」
「じゃあ、交渉成立ということで。詳細は次回に」
その台詞が終わると同時に影が消えた。菖蒲は聖人の姿を探すが、もう彼は見える場所にはいなかった。その代わりに周囲に人々の声が戻ってくる。
(あまり彼には頼りたくないけど、こればかりは仕方がないものね……)
ぐっと強く拳を作ると、菖蒲は町に続く下り坂へと歩いていった。
* * * * *
「――連れ出すとして、どこに行けばいいのですかね?」
高校の入学式の翌日。見舞いのために早足で坂を上って息が弾む中、病院の玄関で出会った聖人は顔を合わせるなり単刀直入に訊ねてきた。
「さぁ。菫が望む好きなところに連れて行ってあげたら良いんじゃない?」
足止めされたくない気持ちが台詞に出てしまう。早いこと菫に会って、すぐにバイトに向かわねばならない。時間が惜しいが、聖人との計画の詰めもないがしろにはできない。
(あぁ、面倒くさい……)
菖蒲はしぶしぶ足を止めて聖人と向き合った。
「それがどこかわからないから、聞いているんですが?」
彼は入り口の壁に寄り掛かり、腕を組んだままにこやかな顔で訊ねてきた。菖蒲は苛立った気持ちを乗せて返す。
「担当している看護師なら、それとなく聞けるんじゃないの? 身体が良くなったら、どこに行きたいかって。それにあんたならしれっと言えるでしょ? いつもあたしに聞いてくるみたいにすれば良いじゃない」
聖人は菖蒲の早口な台詞に、眼鏡の奥の目をきゅっと細めた。
「――君は残酷なことを言ってくれますね」
「残酷、だって?」
「希望を持たない者にそんな気休めにもならない問いを掛けるだなんて僕にはできませんよ。それでもやれとおっしゃるなら、別料金をいただきますよ?」
「くっ……」
ぎりっと奥歯に力をこめる。菖蒲はただ聖人をにらんだ。
(あたしが菫に質問できないとわかっていてそんなことを言ってくるんだな……)
細められたまま見つめてくる瞳に赤い光が滲んでいるのに気付いた。何かを企んでいるのだろうとわかる。そして、見透かされていると言うことも。
「……わかったわ」
「別料金を支払う、と?」
「いいえ」
きっぱり答えてやると、聖人は怪訝な顔をした。端正な顔の眉間にしわが寄る。
「じゃあ、どうするおつもりで?」
「今、自由にならないとわかっているから菫は失望している。だったら、動けるようになってからその質問をすれば良いでしょ? 本人の意思に委ねればそれで良いじゃない。行きたいところがないって言うなら、やりたいことをやらせてあげてよ」
両手を腰に当て、菖蒲は胸をそらして堂々と言ってやった。彼の理屈に合わせるなら、これで問題がないはずだ。
「へぇ……」
聖人は舌で自身の唇をそっと湿らせた。そしてふっと笑む。
「本当にその注文でよろしいですか?」
冷たい微笑み。
菖蒲はびくっと身体を震わせ、しかししっかりと足を踏ん張り直して対峙した。
「良いわよ。菫が喜んでくれるなら、その代償は払うわ。そう契約すればいいんでしょ?」
要求はしっかりと伝えてくるのが聖人だ。何度かこのやり取りをしている菖蒲には、彼にこう宣言すればすんなりと応じることを知っている。
わかった、そう答えて今日は引いていくと思っていたのに、聖人は菖蒲の予想とは違う態度をした。
冷酷さで溢れていた表情が、悲しげな色を滲ませ始めたのだ。
「菫ちゃんが喜ぶなら、ですか……」
言って彼は壁から離れ、菖蒲のあごに触れるとくいっと強引に持ち上げた。
「んっ……」
「君は、本当にそれで良いのですか?」
赤い瞳がかすかに揺れる。
「良いかって……どう言う意味よ?」
「菫ちゃんが喜ぶことは、君にとっても喜びになるのか――その確認ですよ」
じっと向けられる視線。それをそのまま菖蒲は見つめ返す。真っ直ぐで揺るがないその瞳で。
「そんなの決まっているじゃない。菫の笑顔を見るためにあたしはあんたにお願いをしているのよ? 菫の笑顔を守れればそれでいいの。菫の笑顔が見られればあたしは頑張れる。失われた菫の笑顔を取り戻すためなのよ、これは。だから充分にあたしのわがまま。あたしが勝手に思っていること。菫が喜んでくれれたのが見られたら、あたしは喜ぶわよ。そんなこともわからないの?」
理解できない。感情を食い物にしている聖人がどうしてそんなことを言うのか、菖蒲には想像できなかった。
「そう。それならいいんです。君がそう望んでいるのなら、その思いを力に奇跡を起こして差し上げましょう」
そう告げると聖人はあごに触れていた手をどかし、その手を菖蒲の腰に回して引き寄せた。
「ちょっ……」
契約の度にキスをした。愛情のない口付け。菖蒲はそれを儀式として受けいれていたが、こうして触れ合うことは一度もなかった。聖人の硬い身体の感触に、女の子のそれとは違うものを感じて菖蒲は焦る。異性の他人に抱き締められたのは初めての経験だった。
「しかし、もう少し先のことも、君自身のことだけじゃない回りのことも意識を向けたほうが良いこともありますよ?」
「そ、その話とこの状況は何の因果があるってわけっ?!」
菖蒲は抵抗した。だが、思うように動けない。体格差が、菖蒲の自由を奪う。
(放せ、放せ放せ……)
どうしてこんなに恐慌状態に陥ってしまっているのかわからない。菖蒲はばたばたともがく。
そんな様子が面白かったのか、くすっと笑う聖人の声が耳に届いた。
「――君がこんなに動揺するだなんて珍しい」
菖蒲の長い黒髪を指で梳きながら、顔を寄せる。
「あたしをからかうなっ! 契約だけのビジネスの付き合いでしかないのに、馴れ馴れしくするなよっ! そんな気もないくせにっ!」
叫び喚く菖蒲に、落ち着いた声で諭すように聖人は続ける。
「ビジネス以外の付き合い方だってできますよ? 君が望むなら」
「はぁっ? 何? 口説いてるわけ? あんたにとってただの食料にすぎないあたしが、なんでそんなことを望むのよ?」
混乱する。どうして今、彼がこんなことを言い出したのか理解できない。
「君の中にある感情は恨みや怒り、妬みや悲しみだけではないはずですよ? どうです。年相応の少女らしく、恋や愛から感情を生み出しては?」
甘く囁かれる言葉は、しかし菖蒲の心には届かない。傾きもせず、なびくこともせず、ただ拒み続けるのみ。
「ふざけんなっ! あたしは菫さえいてくれれば充分なのよ! あたしにそんな冗談を言ってて楽しい?」
「動揺している君を見ているのは、普段の攻撃的な君を見ているのと同等、いやそれ以上に楽しいですよ。それに――」
髪を梳いていた指先がいつの間にか菖蒲のあごを捉えていた。そのまま強引に持ち上げて強制的に顔を上げさせ、口を塞ぐようにキスをする。いつもの触れるだけの軽いものではなく、その舌先が菖蒲の唇を優しくなぞる。
「んぁっ……」
仰け反るように身体を捻った菖蒲を、聖人はすぐに解放した。菖蒲は唇を手の甲でごしごしと拭う。にらんでいる菖蒲の瞳には苛立ちと戸惑いが半々ずつ滲む。
そんな様子を見ながら、聖人はくすくすと笑った。
「君が抱く負の感情も美味しいですが、今のもなかなかのものでしたよ」
「く、喰ったからには、あたしの願いを叶えなさいよねっ!」
ぺろりと唇を舐めて笑顔を作る聖人に菖蒲は吠える。
(な、なんなのよ、今日は……)
心臓がばくばくと力強く、そして早く脈を打っているのがわかる。聖人が指摘してきたように動揺しているのは明白だ。
「これは菫ちゃんの願いを叶えるための分ですよ。これだけの感情を伴った精気があれば、それなりのことは叶えてあげられるでしょう」
「そ、それなら了解よ。――ってか、変な食べ方しないでちょうだい。いつものじゃ駄目なわけ?」
「たまには違う刺激も良いかな、と。僕も飽きてきちゃったんですよ」
「飽きるなっ! あんたは食事の方法に文句をつけるのかっ!?」
文句を並べる菖蒲に聖人はその細くて長い指先を向ける。
「ふふっ……顔、赤いですよ? どうしてですかね? そんな顔で菫ちゃんに会ったら、何を聞かれることやら」
「くっ……からかいやがって……」
視線を外したら負けのような気がして、菖蒲はずっと聖人をにらみ続けた。悔しいが、それしかできなかった。
「では、僕はそろそろ行きますね。仕事がありますから」
「さっさと行きやがれっ! 油売るなっ!」
「はいはい、ではまたのちほど」
音が戻ってくる。そこに広がっていたのは日常――そのはずなのに、菖蒲にはいつもとはどこか違って見えた。




