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契約は優しい口付けで

 白く吐き出されていた息が見えなくなっていく。腕の中で瞳を閉じているすみれの顔には自身が流した真っ赤な血。肌はどんどん白く抜けてゆく。

 菖蒲あやめは彼女に死が近付いているのをはっきり理解した。

(やだ……嫌だよ……菫がいなくなっちゃうだなんて……)

 身体の半分を持っていかれるような、そんな感覚だった。

(菫……スミレっ……スミレを連れて行くなっ! スミレだけを連れて行くなよっ!)

 大切で愛おしい妹。

 双子なのだからどちらが上だなんて区別はいらないよねと何度も話したのに、菫は菖蒲のことをお姉ちゃんと呼んで慕っていた。少々引っ込み思案なところがあって、何事にも積極的に振る舞う菖蒲の後ろをいつもついて回るような少女だ。好奇心旺盛であるのにいつも行動が伴わなくて、それで菖蒲が先に動いているようなところもあった。

 でも菖蒲はそんなことをわずらわしく思うことはなく、むしろ喜ぶ菫の顔を見ていられればいいと気にすることはなかった。

(なんでなんだよ……)

 これからもずっとそんな菫の顔を見ていられると、何の疑いも持たずにいたのに。

 こんな形で、急に奪われてしまうだなんて。

「菫を生かしてくれるなら、どんな方法だって構わないっ! だから、だから菫を連れて行かないでくれよぉっ!」

 神様に届け、この願いよ届け。

 菖蒲は必死に叫んだ。奇跡を起こせるなら、この今、この瞬間に起きてくれと。

(菫だけを連れて行くなっ! だったらあたしも連れて行けよっ! あたしたちは一緒なんだっ! 一緒じゃなきゃ駄目なんだよっ! ずっとずっと一緒にいられるんじゃなかたのかっ!?)

 精気がどんどん失われていく幼い身体を強く抱き締めて、菖蒲は泣きじゃくりながら叫んだ。

「あたしから……あたしから菫を持っていかないでよぉっ!」

 泣き叫ぶ声は人気のない通りに響いていく。真っ白な雪の中に沈んでゆく。

「あたしの願いを聞き入れてくれないなら、神様をずっと呪ってやるっ! 恨んでやるっ……祟ってやるっ……絶対に、絶対に許さない……あたしだけを残したことを後悔させてやる……必ず後悔させてやるんだからっ……!」

「――なるほど、それは面白そうですね」

 声がした。

 最初は気がおかしくなったんじゃないかと菖蒲は思った。ここに人間は来ない、どんなに叫んだところで助けは来ない、どこかでそう諦めていたからだ。

 だが、声は続く。

「――しかし、ちっぽけな子どもが呪ったり恨んだりしたところで、君の言う神様ってやつはびくともしないことでしょうね。きっと気にも留めないと思いますよ」

 少々高めな男の声。この目の前で起きている事故には興味がないらしく、どこかこの場に相応しくない口調で告げられた台詞が耳に入った。

(誰かいるっ!)

 菖蒲は声の主を探すためにがばっと顔を上げ――そしてすぐにその人物の姿を捉えた。

 血の海に立つ真っ白な髪の男。冬の山岳部には合わない軽装だ。一瞬天使のように映ったが、その瞳が紅く光ったのに気付いて天国よりも地獄に近い存在であることを菖蒲は察した。

「死神……?」

 彼はそばにしゃがみこむと、その細くて長い指先で菖蒲のあごをなぞり、口の端をそっと上げた。ひんやりとした感触は彼の指先が外気で冷えているからか、それとも元からのものなのか。

「違いますよ。……どちらかと言えば悪魔の類いでしょう」

 菖蒲の問いにゆっくりとした優しげな口調で答え、彼は赤い唇をさらに真っ赤な舌で舐めて続ける。

「よろしければ、その強い思いを僕に喰わせてくれませんでしょうか?」

 柘榴石の瞳が菖蒲を値踏みするかのように視線でなぞり、誘惑するかのような顔を作ると優しく囁く。

「神様なんかにぶつけるには勿体無い極上の感情だ。僕が喰って処分して差し上げましょう」

「ふ……ふざけるなっ!」

 菖蒲は白髪の男の手を払いのけ、菫を引き寄せた。そしてにらみつけて怒鳴る。

「あたしは菫を助けたいだけなんだ。菫を助けてくれないヤツには興味はないっ! 助ける気がないならどっかよそにいけよっ!」

「……面白いお嬢さんですね」

 弾かれた手を撫でながら、白髪の男は笑う。

「心配はいりませんよ。タダで飯を喰うほどずうずうしくないつもりです。その感情を糧に、僕は君の願いを叶えてあげると言っているのですよ。君が心の底から強く強く願っていることを実現させてやると、ね。悪くない話だと思うのですが?」

「信じられるかっ!」

 懐かない犬のように吠えて警戒する菖蒲。白髪の男は小さく肩を竦めた。

「わかりました。ならば今回は後払いにしましょうか。僕にそういう態度をした相手は君が初めてでしたもので、実に興味深い」

 じっと探るように瞳を覗き込む。男の真っ赤な瞳に苛立ちを隠さない菖蒲の顔が映っていた。

「――強情なお嬢さんには、論より証拠。百聞は一見に如かず。まずは何ができるのか、特別に見せて差し上げましょう」

 言って、男は菖蒲が抱える菫に手を伸ばす。ずるっと後退りして間合いを取り直そうとしたとき、男の手のひらから淡い光が漏れ出した。

(なんだ……?)

 それがなんなのかわからず、菖蒲は呆然とその作業を見つめた。やがて光が止むと、菫の口から白い呼気が出ているのがわかった。

「呼吸が……戻ってる……?」

 菫から流れ出ていた血も止まっているように思えた。顔色も戻りつつあるようで、冷たくなり始めていた身体も温もりを失わないで留まったように感じる。

 菖蒲は改めて男の顔を見た。白い髪、赤い瞳――それらは印象的だが、なによりもとても容貌が整っている。まるで作られた人形のようだ。

「あんた、何をした……?」

「礼の前に、そういうことを言いますかね?」

 呆れたと言わんばかりの口調による指摘に、菖蒲ははっとした。まったくそのとおりだ。

「あ、ありがとう……なんとか助かりそうだ」

「いえいえ。この程度のことなら、容易いですよ。しかし、今のままでは眠り続けたままでしょうね」

「え? ……どうして? 助けてくれたんじゃないのか?」

 すやすやと眠っている菫に目を向け、改めて男の顔を見る。

「命をここに繋ぎとめただけですから。健康な身体を取り戻せたわけじゃないということです」

「ちょっと待てよ。なんでそんな中途半端な――」

 取り乱して身体を乗り出した菖蒲の口元に、男の細く長い指先が触れて制止させられる。菖蒲は恨めしそうに男へと視線を送った。

「君の願いを正確に叶えるには僕にその感情を喰わせる必要があるのですよ。今はまだその少女は生きているだけの人形です。――さぁ、どうします?」

 指先が離れる。男は楽しそうに口元を歪めた。

(どうしますって……)

 腕の中の白い顔を見る。穏やかな寝顔だ。だがこのまま目覚めないと聞かされてしまえば、それだけでは満足できない。

(決まっているじゃないか)

 もう、迷わなかった。例えそれが引き返すことのできない過ちであったとしても。

「菫を救えるなら、こんなもの、持って行けよ」

 男の赤い瞳を真っ直ぐに見つめ返す。揺らがない、芯のしっかりした決意の目で。

「よし。交渉成立です。初めての契約は刺激がちょいと強いかもしれませんが、君ならきっと耐えられますよ」

 不敵に笑んで菖蒲のあごに手を添えると男はそっと触れるように口付けをした。

 それが天守聖人あまもりまさととの出会いだった。


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