婚約者に『君の代わりはいくらでもいる』と言われた私、夕暮れの教会で泣いていたら、鐘を鳴らす謎の青年に拾われました〜実は彼が本物の御曹司で、元婚約者が土下座してきた件〜
「君みたいな地味な女、代わりはいくらでもいる」
——え?
頭が真っ白になった。
目の前で蓮司さんが何か言っている。唇が動いているのは分かる。でも、言葉が、意味が、頭に入ってこない。
「聞いてる? 雛子」
三年間。
三年間、この人のために尽くしてきた。
朝は誰よりも早く起きてお弁当を作った。残業で遅くなると聞けば、温かいご飯を用意して待っていた。「俺のために」と言われれば、自分の予定をすべてキャンセルした。友達との約束も、楽しみにしていた映画も、全部、全部——。
「だから、婚約は解消する。分かった?」
ようやく、言葉が脳に届いた。
婚約、解消。
つまり、婚約破棄。
「な、なんで……」
声が震えた。喉の奥が詰まって、うまく言葉が出てこない。
「なんでって、そりゃあ」
蓮司さんは——いや、もう「さん」なんてつける必要ないのかもしれない——蓮司は、面倒くさそうに髪をかき上げた。いつも「かっこいい」と思っていたその仕草が、今はただ、冷たく見える。
「お前といても、メリットがないんだよ」
メリット。
私は、メリットだったの?
「三年も付き合ってやったんだ。感謝してほしいくらいだよ。お前みたいな地味な女、俺がいなきゃ誰にも相手にされなかっただろ?」
違う、と言いたかった。
でも言えなかった。
だって、心のどこかで、ずっとそう思っていたから。
私なんかが、こんな素敵な人と付き合えるはずがない。だから頑張らなきゃ。もっと尽くさなきゃ。そうしないと、捨てられる——。
結局、捨てられたけど。
「蓮司く〜ん、まだ?」
甘ったるい声が聞こえて、顔を上げた。
カフェの入り口に、一人の女性が立っていた。艶やかな黒髪のロングヘア。切れ長の目。高そうなブランドバッグを腕にかけて、私を値踏みするような目で見ている。
誰——?
「ああ、華恋。ごめんな、もう終わるから」
蓮司が立ち上がり、その女性に歩み寄る。当たり前のように腰に手を回し、振り返って笑った。
「紹介するよ。白川華恋。俺の、新しい婚約者」
——新しい、婚約者。
世界が、ぐらりと傾いた。
「え……っ、ちょっと待っ——」
「あら、この人が例の?」
華恋と呼ばれた女性が、私を見下ろす。その唇が、三日月みたいに歪んだ。
「ふーん。確かに地味ね。蓮司くんがあなたに構ってあげてたなんて、信じられない」
「華恋、言い過ぎだろ」
蓮司がたしなめる——ように見せかけて、その顔は笑っていた。まるで「ほら見ろ」と言わんばかりに。
「俺って優しいからさ、可哀想で別れられなかったんだよ。でも、華恋に会って目が覚めた。やっぱり俺には、華恋みたいな女が似合うって」
「もう、蓮司くんったら」
二人は見せつけるようにキスをした。
私のすぐ目の前で。
白昼堂々と。周りの客がちらちらとこちらを見ている。その視線が痛い。恥ずかしい。でも、何より——。
悔しい。
悔しくて、悲しくて、情けなくて。
三年間の献身が、こんな形で終わるなんて。
「じゃあな、雛子。今までありがとう——とは言わないか。お前が勝手にやってたことだしな」
笑いながら、蓮司は華恋を連れて店を出ていった。
取り残された私は、冷めきったコーヒーの前で、ただ座っていることしかできなかった。
涙が、頬を伝う。
止められなかった。
止め方を、忘れてしまった。
* * *
気づいたら、夕暮れだった。
どこをどう歩いたのか、覚えていない。ただ、足が勝手に動いていた。人混みを避けて、細い路地を抜けて、坂を上って——。
辿り着いたのは、古い教会だった。
「……おばあちゃんの、教会」
幼い頃に何度も来た場所。祖母が大切に守っていた、小さな教会。
白い壁は少し黄ばんで、蔦が絡まっている。ステンドグラスは夕日を受けて、かろうじて輝いていた。祖母が亡くなってから何年も経つのに、不思議と荒れ果ててはいない。
誰かが、守っているのだろうか。
教会の前の古いベンチに、力が抜けたように座り込む。
もう、何も考えたくなかった。
考えたら、きっと壊れてしまう。
『君みたいな地味な女、代わりはいくらでもいる』
蓮司の言葉が、頭の中でリフレインする。
代わりは、いくらでもいる。
代わりは——。
「……私って、何だったんだろう」
誰に言うでもなく、呟いた。
三年間、必死だった。愛されたかった。必要とされたかった。だから頑張った。頑張れば、きっと——。
——きっと、何?
答えは出なかった。
夕日が沈んでいく。
茜色の空が、じわじわと藍色に染まっていく。
寒い。
でも、動けない。
動く気力が、ない。
その時だった。
——ゴォォォン……。
鐘の音が、響いた。
「……え?」
顔を上げる。
教会の鐘楼から、荘厳な音が降ってくる。夕暮れの空気を震わせ、私の胸の奥まで届くような、深い、深い音。
——ゴォォォン……。
もう一度、鳴る。
不思議だった。
その音を聞いていたら、涙が止まらなくなった。悲しいからじゃない。少し、違う。心の奥で固まっていた何かが、溶かされていくような——。
「泣いてるの?」
声がした。
慌てて顔を上げると、いつの間にか目の前に人が立っていた。
夕日を背にした、一人の青年。
銀灰色がかった黒髪が、風に揺れている。深い夜空のような紺碧の瞳が、真っ直ぐに私を見つめていた。
「あ……っ、すみません、私——」
慌てて涙を拭う。こんな姿を見られるなんて恥ずかしい。きっと変な人だと思われた。不法侵入だと怒られるかもしれない。
「ごめんなさい、すぐに出ていきます——」
「どうして謝るの?」
青年は、不思議そうに首を傾げた。
「ここは誰でも来ていい場所だよ。泣きたい時は、泣いていい場所」
穏やかな声だった。
低いのに、どこか温かい。耳に心地よく響いて、少しだけ——ほんの少しだけ、張り詰めていた心が緩んだ。
「鐘の音、聞こえた?」
青年が、鐘楼を見上げる。
「あれはね、悲しい人のために鳴らすんだ」
「悲しい……人の、ために?」
「うん。夕暮れ時って、一番寂しくなる時間だから。だから毎日、この時間に鳴らしてる。『一人じゃないよ』って、伝えるために」
——一人じゃないよ。
たったそれだけの言葉が、乾いた心に染み込んでいく。
「僕は朔夜。この教会の管理人をしてる」
青年——朔夜と名乗った彼が、微笑んだ。
その瞬間、周りの空気が、ふわりと和らいだ気がした。
「君は?」
「私は……柊、雛子です」
「雛子さん」
名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
蓮司に呼ばれるのとは、全然違う響き。
「良かったら、中に入らない? 温かいココアがあるよ」
朔夜が、教会の扉を示す。
断る理由なんて、なかった。
というより、今夜はもう、一人になりたくなかった。
「……はい」
小さく頷いた私に、朔夜がまた微笑む。
夕日が沈み、空には一番星が瞬き始めていた。
鐘の余韻が、まだ胸の奥で響いている。
——この教会で待っていてくれる人がいる。
ふと、祖母の言葉を思い出した。
幼い頃に何度も聞いた、不思議な言葉。意味なんて分からなかったし、ずっと忘れていた。
でも——。
朔夜の背中を追いながら、私は初めて思った。
もしかしたら、この出会いには、意味があるのかもしれない——と。
* * *
教会の中は、外観から想像していたよりもずっと綺麗だった。
木製の長椅子が整然と並び、正面には古びたオルガンがある。高い天井には蔦のような模様が描かれていて、ステンドグラスから差し込む最後の夕日が、床に色とりどりの光を落としている。
「わあ……」
思わず声が漏れた。
幼い頃に来た時の記憶よりも、ずっと——。
「綺麗、でしょう?」
朔夜が、静かに言った。
「前の管理人さんが、大切に守っていた教会だから。僕も、できるだけそのままにしたくて」
前の管理人——おばあちゃんのことだ。
祖母が亡くなった後、この教会がどうなったのか、私は知らなかった。葬儀やら何やらでバタバタしていて、気づいた時には蓮司との生活が始まっていて——。
(結局、私は何も見ていなかったんだ)
自分のことばかりで、祖母が大切にしていた場所のことなんて、考えもしなかった。
「こっちに来て。奥に小さなキッチンがあるんだ」
朔夜に案内されて、教会の裏手に回る。小さな扉を抜けると、こぢんまりとした居住スペースがあった。簡素だけど清潔なキッチンに、小さなテーブルと椅子が二脚。壁には古い時計が掛かっていて、カチコチと静かに時を刻んでいる。
「座って」
促されるまま、椅子に腰を下ろす。
朔夜は手慣れた様子でミルクパンを火にかけ、ココアを作り始めた。
「……あの」
「うん?」
「どうして、私なんかに優しくしてくれるんですか?」
言ってから、しまった、と思った。初対面の人にする質問じゃない。でも、聞かずにはいられなかった。
今日一日で、私の中の「普通」が壊れてしまったから。
人に優しくされる理由が、分からなくなっていた。
「……君なんか、って」
朔夜が、ミルクパンをかき混ぜながら呟いた。
「どうして自分をそんな風に言うの?」
「え?」
「『私なんか』って。さっきから何度も言ってる」
言われて、はっとした。
確かに私は、さっきから「私なんか」「すみません」「ごめんなさい」——そんな言葉ばかり口にしている。
無意識だった。
でも、それがいつからの癖なのか、思い出せない。
「……ごめんなさい」
「また謝った」
朔夜が、小さく笑う。責めているのではなく、ただ指摘しているだけの、穏やかな声。
「謝らなくていいよ。ただ——」
カップにココアを注ぎながら、朔夜が言葉を続けた。
「君が自分を大切に思えないのは、誰かにそう思わされたからじゃないかなって、思っただけ」
心臓が、ぎゅっと掴まれたみたいに痛んだ。
『お前みたいな地味な女、俺がいなきゃ誰にも相手にされなかっただろ?』
蓮司の言葉が、また蘇る。
違う。違う。彼が全部悪いわけじゃない。私が勝手に尽くして、勝手に期待して、勝手に——。
「はい、ココア」
目の前に、湯気の立つマグカップが置かれた。白いカップに、茶色い液体。マシュマロが二つ、ぷかぷかと浮いている。
「甘いもの、嫌いじゃない?」
「……好き、です」
「良かった」
朔夜が向かいの椅子に座り、自分のカップを手に取った。
「飲んで。冷めないうちに」
言われるまま、一口飲む。
——あったかい。
甘くて、温かくて、優しい味。
それだけなのに、また涙が溢れそうになった。
「あ、あの、私——」
「泣いていいよ」
朔夜が、静かに言った。
「ここは、泣いていい場所だから」
その言葉を聞いた瞬間、何かが決壊した。
「——っ」
嗚咽が漏れた。止められなかった。恥ずかしいとか、みっともないとか、そんなことを考える余裕もなく、ただ泣いた。
三年分の涙を、全部吐き出すみたいに。
朔夜は何も言わなかった。
ただ、静かにそこにいてくれた。
時折、ココアのお代わりを注いでくれながら。
* * *
どれくらい泣いただろう。
気づいたら、窓の外は完全に暗くなっていた。
「……すみ、ません」
「また謝った」
「あ、ごめ——」
「それも」
朔夜が、くすりと笑う。
つられて、私も少しだけ笑ってしまった。泣き腫らした顔で笑うなんて、きっとひどい顔だろうけど。
「少し、落ち着いた?」
「……はい。ありがとう、ございます」
「うん。『ありがとう』は、いい言葉だね」
朔夜の言葉に、どきりとした。
「聞いてもいい? 何があったの」
「……」
言うべきか、迷った。初対面の人に、こんな情けない話をしていいのか。でも——。
「今日、婚約を……破棄されました」
言葉にしたら、また涙が溢れそうになった。でも、もう泣く涙は残っていないみたいで、目頭が熱くなるだけだった。
「三年間、付き合っていた人がいて。来年には結婚する予定で——でも」
『君みたいな地味な女、代わりはいくらでもいる』
「私の……代わりはいくらでもいる、って。そう、言われて」
声が震えた。
自分で言葉にすると、改めて胸に突き刺さる。
「新しい人も、もういて。すごく綺麗な人で。私とは全然違って——」
「それで、自分を責めてるの?」
朔夜の声は、平坦だった。責めるでもなく、同情するでもなく。
「だって、私が——」
「君は何か悪いことをしたの?」
「え?」
「三年間、その人に尽くしていたんでしょう? それを当たり前に受け取って、最後は別の人を選んだのは、向こうの方なんじゃないの?」
「でも、私がもっとちゃんとしていれば——」
「ちゃんとって、何?」
朔夜が、真っ直ぐに私を見る。夜空みたいな紺碧の瞳が、揺らがない。
「もっと綺麗だったら? もっと気が利いたら? もっと面白かったら? ——君は、どこまで自分を変えれば満足だったの?」
「……」
「変わらなきゃいけなかったのは、本当に君の方だったの?」
言葉が、出なかった。
考えたこともなかった。蓮司に選ばれなかったのは自分のせいだと、ずっと思っていた。もっと頑張れば。もっと尽くせば。もっと——。
でも。
「君は、そのままでいいんだよ」
朔夜が、静かに言った。
「代わりなんて、いない。君は、君だけなんだから」
——代わりなんて、いない。
その言葉が、乾いた心に染み込んでいく。
嘘かもしれない。お世辞かもしれない。でも、今だけは——。
信じたいと、思った。
「……あの」
「うん?」
「さっき言ってた、鐘の話。もう少し、聞いてもいいですか?」
朔夜が、少し意外そうな顔をした。それから、ふわりと笑う。
「いいよ。何が聞きたい?」
「どうして、毎日鳴らしてるんですか? 悲しい人のため、って言ってましたけど……誰かに頼まれてるんですか?」
朔夜は、窓の外を見た。
暗い空に、月が昇り始めている。
「……大切な人との、約束なんだ」
「約束?」
「うん。もういない人だけど——その人が、この教会を大切にしていたから。だから僕も、守りたいと思った」
もういない人。
——おばあちゃん?
聞きたかった。でも、聞けなかった。初対面の私が踏み込んでいい領域じゃない気がして。
「ねえ、雛子さん」
「は、はい」
「今夜、帰る場所はある?」
帰る場所。
——あ。
蓮司と一緒に暮らしていたマンション。合鍵はまだ持っているけど、今さらあそこに帰る気にはなれない。実家はない。両親は幼い頃に亡くなって、祖母も——。
「……ない、かも、しれません」
言葉にして、初めて自分の状況を理解した。
住む場所がない。帰る場所がない。私は今、文字通り路頭に迷っているのだ。
「じゃあ、ここにいなよ」
「え?」
「この教会、管理人を募集してたんだ。住み込みで。——良かったら、働いてみない?」
「で、でも——」
「前の管理人さんの孫なんでしょう? 雛子さん」
心臓が、跳ねた。
「……知って、たんですか」
「名前を聞いた時に、もしかしてって思った。——柊すみれさんの、孫娘」
祖母の名前が、朔夜の口から出てくる。不思議な感覚だった。
「すみれさんに、頼まれてたんだ。『いつか孫が来たら、よろしく』って」
「おばあちゃんが……?」
「うん。だから——」
朔夜が、手を差し伸べた。
「ここにいていいよ、雛子さん。君の居場所は、ここにある」
——居場所。
ずっと、欲しかったもの。
蓮司の隣にいれば手に入ると思っていたもの。でも、どれだけ尽くしても、どれだけ頑張っても、得られなかったもの。
それが今、目の前にある。
「……いい、んですか」
「もちろん」
「私、何もできないかもしれないし——」
「大丈夫。できることをすればいい。できないことは、一緒にやればいい」
一緒に。
その言葉が、どれだけ嬉しかったか。朔夜には分からないだろう。
三年間、「俺のために」「お前のためを思って」と言われ続けてきた私にとって、「一緒に」という言葉がどれだけ——。
「……ありがとう、ございます」
涙声になった。でも、今度の涙は、さっきまでとは少し違う気がした。
「こちらこそ。——よろしくね、雛子さん」
朔夜が、微笑む。
月明かりが窓から差し込んで、彼の銀灰色の髪を淡く照らしていた。
遠くで、また鐘の音が聞こえた気がした。
もう鳴っていないはずなのに、その余韻だけが、いつまでも胸の奥で響いていた。
* * *
教会での生活は、思っていたよりずっと穏やかだった。
朝は鳥のさえずりで目が覚める。小さな部屋の窓からは、木漏れ日が差し込んでくる。祖母が使っていた部屋だと朔夜が教えてくれた時、少しだけ泣きそうになった。
「おはようございます」
「おはよう。よく眠れた?」
キッチンに行くと、朔夜がすでにコーヒーを淹れていた。
「はい、すごく。こんなにぐっすり眠れたの、久しぶりかも」
蓮司と暮らしていた頃は、いつも緊張していた。彼が帰ってくる時間に合わせて夕食を用意して、機嫌を損ねないように言葉を選んで、休日も彼の予定に合わせて——。
(あれは、暮らしていたって言えるのかな)
今思えば、私はずっと、蓮司の顔色を窺いながら生きていただけだった。
「今日は何をすればいいですか?」
「そうだね……まずは、教会の中を掃除しようか。一緒に」
一緒に。
その言葉を聞くたび、胸が温かくなる。
「はい!」
教会の掃除は、意外と楽しかった。
朔夜と並んで長椅子を拭いたり、床を掃いたり。祖母が大切にしていた場所を、自分の手で綺麗にしていく。それだけのことが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。
「雛子さん、そっちの窓お願い」
「はーい」
窓を拭きながら、ふと手が止まった。
ステンドグラスの一枚に、小さな十字架の模様がある。その下に、何か文字が——。
「S&A……?」
「ん? どうしたの?」
「あ、いえ。ここに文字が彫ってあるみたいで」
朔夜が近づいてきて、ステンドグラスを覗き込んだ。一瞬、彼の表情が揺らいだ気がした。でも、すぐにいつもの穏やかな顔に戻る。
「……昔の人が残したものだよ。きっと」
「そう、ですか」
なんとなく、それ以上聞いてはいけない気がした。
「雛子さん、料理得意?」
「え? あ、はい。一応……」
昼食の準備をしている時、朔夜に聞かれた。
「実は、僕あんまり料理できなくて。今までコンビニ弁当とかカップ麺ばっかりで」
「そうなんですか? じゃあ、私が作りましょうか?」
「いいの?」
「もちろん。それくらいしかできることないですし……」
「それくらい、なんてことない。助かるよ、本当に」
朔夜が笑う。その笑顔を見ていると、胸がじんわりと温かくなる。
蓮司にご飯を作っていた時は、こんな気持ちにならなかった。「美味い」とも「ありがとう」とも言われなかったから。当たり前みたいに食べて、時々「味が薄い」とか「もうちょっと工夫しろ」とか——。
「じゃあ、冷蔵庫にあるもので何か作りますね」
「うん。楽しみにしてる」
たったそれだけの言葉が、こんなに嬉しい。
夕方になると、朔夜は鐘楼に登っていく。
「見に来る?」
「いいんですか?」
「もちろん」
螺旋階段を上り、鐘楼の頂上に出る。夕日に染まった街が一望できた。オレンジ色の空に、遠くのビルのシルエットが浮かんでいる。
「綺麗……」
「だろう? ここからの景色、僕も好きなんだ」
朔夜が、鐘の紐を握る。そして——。
——ゴォォォン……。
音が、響いた。
空気を震わせ、胸の奥まで届く、深い音。
「……すごい」
「この音を聞いて、少しでも楽になる人がいたらいいなって思う」
朔夜が、夕日を見つめながら言った。
「僕も昔、辛い時期があったから。その時、誰かが鳴らしてくれた鐘の音に救われた。だから今は、僕が鳴らす番なんだ」
「誰かって……」
「……内緒」
朔夜が、いたずらっぽく笑う。
「いつか、話せる時が来たらね」
「……はい」
聞きたいことはたくさんあった。朔夜のこと。祖母との関係。この教会の歴史。「S&A」という文字の意味。
でも、今は聞かなくていいと思った。
朔夜が話してくれるその時まで、待てばいい。
——そうやって、人との関係を築いていくんだ。
急かしたり、先回りしたりしなくていい。ただ、一緒に時間を過ごせばいい。
蓮司といた時は、そんなこと考える余裕もなかった。常に彼の期待に応えなきゃって、必死で——。
(でも、もういいんだ)
あの人のことは、もう考えなくていい。
教会に戻ると、一通の手紙が目に入った。
祖母の部屋の机の引き出しに、大切そうにしまわれていた古い封筒。引っ越しの準備で荷物を整理していた時に見つけたものだ。
「……おばあちゃんの、手紙」
宛名は書かれていない。封は閉じられたまま。
開けていいのか、迷った。でも、祖母はもういない。誰かに届けることもできない。
(いつか、開けよう)
今はまだ、その時じゃない気がする。
もう少し、自分の心が落ち着いてから。
手紙を、そっと引き出しに戻した。
その夜、親友の芽衣からLINEが届いた。
『雛子!!! 大丈夫!? 蓮司のやつ最低最悪!!! ほんと信じらんない!!!』
スタンプが怒涛のように送られてくる。怒った猫、火を吹くドラゴン、ハンマーを振り回すクマ——。
『どこにいるの!? 今から行こうか!?』
『大丈夫、心配してくれてありがとう』
『今、祖母の教会にいるの。しばらくここで暮らすことにした』
『教会!? え、すみれおばあちゃんの?』
『うん。管理人として働くことになって』
『そっか……良かった。居場所があって。でも何かあったらすぐ連絡して!! あいつのこと忘れられないとか言ったら雛子ん家まで行ってビンタするからね!!』
思わず笑ってしまった。芽衣らしい。
『忘れられないかも、なんて思わないよ。もう、いいの』
『……え、マジ? あの雛子が?』
『うん。なんか——ここにいると、いろいろ考え方が変わってきた気がする』
『何それ気になる!! 誰かいい人でもいんの!?』
朔夜の顔が浮かんだ。慌てて打ち消す。
『いないよ。ただ、自分を大切にしてもいいんだって、思えるようになってきたの』
『……雛子』
『?』
『それ聞けて、ほんとに嬉しい。雛子はさ、ずっと自分のこと後回しにしすぎてたから。あんたはもっと幸せになっていいの。わかった?』
目頭が熱くなった。
『ありがとう、芽衣』
『泣くなよー! あ、でも泣いていいか。嬉し泣きなら許す!』
スタンプが三連続で送られてくる。泣いているクマ、ハートを飛ばすうさぎ、「大好き」と書かれた猫。
『また連絡するね』
『うん! いつでも! 教会にも遊びに行くからね!!』
スマホを閉じて、ふぅと息をついた。
芽衣がいてくれて、本当に良かった。
この教会に来られて、本当に良かった。
窓の外では、月が輝いている。
祖母が見ていたのと同じ月。朔夜が見ているのと同じ月。
「……おばあちゃん」
小さく呟く。
「私、ここで頑張ってみるね」
返事はない。でも、どこかで祖母が微笑んでいる気がした。
——この教会で待っていてくれる人がいる。
幼い頃に聞いた言葉を、また思い出す。
待っていてくれた人。それは、朔夜のことだったのだろうか。それとも——。
まだ分からない。でも、いつか分かる日が来る気がする。
焦らなくていい。
ゆっくりでいい。
私は今、ここにいていいのだから。
窓の外で、風が木々を揺らす音がした。
まるで、祖母が「おやすみ」と言ってくれているみたいに——。
「おやすみなさい」
小さく囁いて、私は目を閉じた。
明日も、鐘の音が聞こえる。
そう思うと、眠りにつくのが怖くなかった。
* * *
教会で暮らし始めて、一週間が経った。
毎朝、鳥のさえずりで目覚める。朝食を作り、教会を掃除し、昼食を食べ、夕方には朔夜と一緒に鐘を鳴らす。そんなシンプルな日々の繰り返しが、こんなにも心地いいなんて知らなかった。
「雛子さん、今日のシチュー美味しいね」
「本当ですか? 良かった」
朔夜が美味しそうに食べてくれるのを見ると、料理を作る喜びを思い出す。蓮司は「普通」としか言わなかった。いや、それすら言わない日の方が多かった。
「あの、朔夜さん」
「うん?」
「この教会のこと、もっと教えてもらえませんか? 祖母がどんな風に過ごしていたのか、知りたくて」
朔夜が、スプーンを止めた。
「……いいよ。じゃあ、食べ終わったら書庫に行こうか」
「書庫?」
「この教会の歴史をまとめた資料があるんだ。すみれさんが遺してくれたもの」
書庫は、教会の地下にあった。
石造りの階段を降りると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。薄暗い中、朔夜がランプを灯すと、壁一面の本棚が浮かび上がった。
「すごい……」
「ここに、この教会の百年分の記録がある」
朔夜が、一冊の古い帳面を取り出した。
「これは来訪者名簿。結婚式を挙げたカップルや、洗礼を受けた人の記録が残ってる」
ページをめくると、色あせた文字がびっしりと並んでいた。最初のページの日付は——。
「百二十年前……」
「この教会は、とある資産家が建てたものなんだ。自分の恋人のために」
「恋人?」
「うん。身分が違って結婚できない相手がいて——せめて二人だけの場所が欲しいって、この教会を建てた」
朔夜の声が、少し遠くなった気がした。
「でも、結局二人は結ばれなかった。資産家は家の決めた相手と結婚して、恋人は——」
「……どうなったんですか?」
「この教会を守り続けた。一生、独身のまま」
胸が、きゅっと痛んだ。
「その後、教会は色んな人の手を渡って——最後に辿り着いたのが、すみれさんだった」
「おばあちゃんが……」
「すみれさんは、この教会の歴史を全部知ってた。だから大切に守っていたんだと思う」
朔夜が、別の棚から一冊のアルバムを取り出した。
「これ、すみれさんの写真だよ。見る?」
「……はい」
手渡されたアルバムを、そっと開く。
若い頃の祖母が、そこにいた。
今の私と同じくらいの年齢だろうか。白黒の写真の中で、祖母は柔らかく微笑んでいる。教会の前で、白いワンピースを着て——。
「綺麗……」
「だろう? 雛子さん、すみれさんに似てるね」
「私が、おばあちゃんに?」
「うん。笑った時の雰囲気とか、そっくり」
朔夜が、穏やかに笑う。
ページをめくると、祖母の隣に一人の男性が写っている写真があった。背が高くて、端正な顔立ちで——どこか、朔夜に似ている気がする。
「この人は……?」
「……」
朔夜が、一瞬言葉を詰まらせた。
「昔の、知り合いだよ。多分」
はぐらかされた気がした。でも、追及するのは躊躇われた。
「ここに、面白いものがあるんだ」
朔夜が話題を変えるように、別の本を取り出す。
「すみれさんの日記。読んでいいって言われてる」
「おばあちゃんの、日記……」
手が震えた。祖母の言葉に、直接触れられる。
「持って行っていいよ。ゆっくり読んで」
「……ありがとうございます」
日記を胸に抱いて、私は書庫を後にした。
* * *
その夜、ベッドの上で日記を開いた。
最初のページには、祖母の几帳面な文字が並んでいる。
『四月十日 晴れ
今日から、この教会で暮らすことになった。
古くて、少し寂しい場所だけれど、私には丁度いい。
誰にも邪魔されずに、あの人のことを想っていられるから。』
あの人——?
ページをめくる。
『五月三日 曇り
今日は、彼の命日だった。
もう会えないと分かっていても、この教会にいると、彼がすぐそばにいるような気がする。
私たちは結ばれなかった。でも、想いは消えない。
死ぬまで、ここで待っていよう。いつか、また会える日を信じて。』
涙が、頬を伝った。
祖母には、そんな過去があったのか。私は何も知らなかった。いつも優しく笑っているおばあちゃんの裏に、こんな切ない想いが隠されていたなんて。
さらにページをめくる。日付は飛んで、数十年後——。
『九月十五日 晴れ
今日、不思議な青年が教会を訪ねてきた。
名前は月城朔夜。あの人の——いや、まだ確認が取れていない。
でも、あの人に似ている。目元とか、話し方とか。
心臓がどきどきして困った。こんな歳になっても、こんな気持ちになれるのね。』
月城朔夜——。
今、この教会にいる朔夜のこと?
慌てて次のページをめくる。
『十月二十日 晴れ
朔夜くんが、毎週教会に来てくれるようになった。
彼は、あの人の孫だった。
運命って、あるのね。こんな形で、また繋がれるなんて。
彼に全部話した。私とあの人のこと。この教会のこと。
朔夜くんは、黙って聞いてくれた。そして言った。
「おじいちゃんの代わりに、僕がこの教会を守ります」
ありがとう、と言おうとしたら、涙が止まらなくなった。』
文字が、涙で滲んで見えなくなった。
祖母と、朔夜の祖父は——恋人だったのだ。
でも、身分の違いで結ばれなかった。
祖母はずっとこの教会で待ち続けて、祖父は——。
最後のページに、祖母の字でこう書かれていた。
『私はもうすぐ、あの人のところに行ける。
でも、心残りがある。雛子のことだ。
あの子は、自分を大切にすることを知らない。誰かに尽くすことでしか、自分の価値を見出せない。
私がそうだったから、分かる。
だから、朔夜くんにお願いした。
「いつか雛子がこの教会に来たら、よろしく」と。
朔夜くんなら、きっと雛子を守ってくれる。
あの人が、私を想い続けてくれたように。
雛子へ。
もしこの日記を読んでいるなら、覚えておいて。
この教会で、待っていてくれる人がいる。
その人を、信じなさい。
そして——自分のことを、好きになりなさい。
あなたは、代わりのいない、たった一人の存在なのだから。』
日記を閉じて、私は声を上げて泣いた。
おばあちゃん。
おばあちゃん——。
「この教会で待っていてくれる人がいる」
幼い頃に聞いた言葉の意味が、やっと分かった。
朔夜は、祖母との約束を守るために、ここにいたのだ。私を——待っていてくれたのだ。
窓の外で、風が吹いている。
月明かりが、涙に濡れた頬を照らしていた。
(おばあちゃん)
心の中で、呼びかける。
(私、少しずつ変われてる気がする。自分のこと、好きになれるように、頑張ってみるね)
返事はない。でも——。
どこかで、祖母が微笑んでいる気がした。
* * *
平穏な日々は、唐突に終わりを告げた。
「雛子さん、お客さんだよ」
朔夜の声で、キッチンから顔を出す。昼食の準備をしていたところだった。
「お客さん? 私に?」
誰だろう。芽衣が来るなら連絡があるはずだし——。
玄関に向かって、足が止まった。
「よう、雛子」
——蓮司が、そこに立っていた。
スーツ姿で、相変わらず整った顔に余裕の笑みを浮かべている。その後ろには、華恋もいた。高そうなブランドバッグを腕にかけて、私を見下すような目で見ている。
「な、なんで——」
「お前の親友に聞いたんだよ。教会にいるって」
芽衣が教えるはずない。ということは、SNSか何かで——。
「何しに来たの」
声が震えた。でも、以前のように萎縮はしなかった。この一週間で、少しは強くなれた気がする。
「冷たいな。心配して来てやったのに」
「心配? あなたが?」
「当たり前だろ。三年も付き合った仲じゃないか。急にいなくなって、連絡もつかなくて——」
「婚約を破棄したのは、あなたでしょう」
「それとこれとは話が別だ。大人になれよ、雛子」
相変わらずだ。自分の都合のいいように話をすり替える。こんな人に三年も尽くしていたなんて、信じられない。
「私に用はないはずです。帰ってください」
「まあ待てよ。実はお前に聞きたいことがあって——」
蓮司の目が、私の後ろに向けられた。
「そこの男、誰だ?」
振り返ると、朔夜が静かに立っていた。
「この教会の管理人だよ。彼女を雇っている」
「管理人? ふーん……」
蓮司が、朔夜を値踏みするように見る。その目つきが気に入らなかった。
「ねえ蓮司くん、早く行こうよ。こんな地味な場所にいても——」
「黙れ、華恋」
「え……?」
華恋が、驚いたように口をつぐむ。蓮司の態度が、さっきまでと違う。
「あんた、見たことあるな」
蓮司が、朔夜に一歩近づく。
「どこかで会ったか?」
「さあ。記憶にないな」
朔夜は、平然と答えた。でも——なんとなく、緊張しているように見えた。
「そうか……まあいい。雛子、また来る」
「来ないでください」
「そう言うなよ。俺たち、まだ話し合えてないだろ。——じゃあな」
蓮司が背を向ける。華恋が慌てて追いかける。その背中を見送りながら、私は拳を握りしめていた。
「大丈夫?」
朔夜の声で、我に返った。
「……はい。大丈夫、です」
「無理しなくていいよ」
「本当に、大丈夫ですから」
震える声で、そう答えた。
「——で、あの男が蓮司ってやつか」
夜。鐘を鳴らした後、朔夜が言った。
「……はい」
「ひどい男だな」
「え?」
「目を見れば分かる。自分のことしか考えていない目だ」
朔夜の声が、いつもより硬い。
「君に、あんな扱いをしていたのか」
「……」
答えられなかった。答えたら、また泣いてしまいそうで。
「もう会わなくていいよ。何かあったら、僕が守るから」
「……え?」
「この教会にいる限り、君は僕の管理下にある。変な男が来ても、追い返せる」
朔夜が、真っ直ぐに私を見た。
「安心して。君はここにいていい」
その言葉が——どれだけ嬉しかったか。
「ありがとう、ございます」
涙声になった。朔夜は何も言わず、ただ隣にいてくれた。
数日後、芽衣から電話があった。
『雛子! 大変! 蓮司のやつ、なんかやばいことになってるらしい!』
「やばいこと?」
『会社で大きなプロジェクト任されてるらしいんだけど、それが——月城グループとの取引なんだって』
月城——。
朔夜の、名字。
『蓮司、必死でコネ作ろうとしてるみたい。華恋と婚約したのも、その一環だったんだって』
「華恋さんが、月城グループと関係あるの?」
『遠縁らしいよ。でも全然大したコネじゃないって。蓮司、華恋に騙されたって喚いてるらしい』
自業自得だ、と思った。でも、それ以上に気になることがあった。
「ねえ芽衣。月城グループって、どんな会社?」
『え? 知らないの? 超大手の財閥だよ。ホテルとか不動産とか、手広くやってる。御曹司がめちゃくちゃイケメンだって噂——』
御曹司。
「ありがとう、芽衣。また連絡するね」
『え、ちょっと——』
電話を切って、私は考え込んだ。
月城朔夜。
月城グループ。
まさか——。
「雛子さん、夕飯できたよー」
朔夜の声がする。いつもと変わらない、穏やかな声。
「はい、今行きます」
考えすぎだ、と自分に言い聞かせた。
きっと、ただの偶然。同じ名字なんて、よくあることだ。
でも——。
胸の奥に、小さな棘が刺さった気がした。
* * *
それからも、穏やかな日々は続いた。
朔夜への疑念は、胸の奥にしまったまま。聞くべきか、聞かないべきか——迷っているうちに、時間だけが過ぎていく。
「雛子さん、今日の夕日、綺麗だね」
鐘楼の上で、朔夜が言った。
「はい。本当に」
茜色の空が、世界を染めている。この時間が、私は一番好きだった。朔夜と二人で鐘を鳴らし、沈む夕日を眺める。たったそれだけのことが、こんなにも幸せだなんて。
「ねえ、雛子さん」
「はい?」
「前より、笑うようになったね」
「え……そう、ですか?」
「うん。最初に会った時は、今にも消えてしまいそうだった。でも今は——ちゃんと、ここにいるって感じがする」
朔夜が、私を見つめる。夜空みたいな紺碧の瞳が、夕日に照らされて輝いていた。
「それって——」
「褒めてるんだよ」
「あ……ありがとう、ございます」
顔が熱くなった。慌てて目を逸らす。
「雛子さん」
「はい」
「僕が毎日鐘を鳴らす理由、前に話したよね」
「……大切な人との、約束って」
「うん。でも、最近は——もう一つ、理由ができた」
「もう一つ?」
朔夜が、鐘の紐を握った。
「君のために、鳴らしたいって思うようになった」
——え。
心臓が、跳ねた。
「君が笑ってくれると、嬉しい。君が元気になっていくのを見ると、安心する。——これって、どういう気持ちなんだろうね」
朔夜が、困ったように笑う。
「ごめん、変なこと言って。忘れて」
「忘れ——ません」
思わず、言葉が出た。
「私も——私も、朔夜さんと過ごす時間が、好きです。鐘の音を聞くと、安心します。朔夜さんがいてくれるから、私は——」
言いかけて、止まった。
私は、朔夜のことを、どう思っているんだろう。
蓮司と別れてまだ一ヶ月も経っていない。新しい恋なんて、早すぎる。それに、朔夜にはきっと——何か、隠していることがある。
「雛子さん」
朔夜が、そっと手を伸ばした。私の頬に触れる。
「泣いてる」
「え……?」
頬に手をやると、確かに濡れていた。いつの間に——。
「無理しなくていいよ。答えなんて、今すぐ出さなくていい」
「朔夜、さん……」
「僕は待てる。君が、自分の気持ちを見つけるまで——何年でも、待てる」
——何年でも。
その言葉が、胸に染み込む。
蓮司は、待ってくれなかった。私が少しでも遅れると怒った。私の都合なんて、考えてくれなかった。
でも、朔夜は——。
「ありがとう、ございます」
涙声で、そう言った。
「どういたしまして」
朔夜が、優しく笑う。
「さあ、鐘を鳴らそう。——一緒に」
二人で紐を握り、鐘を鳴らす。
——ゴォォォン……。
音が、夕暮れの空に響いていく。
私の心の中に、温かいものが広がっていく。
これが恋かどうかは、まだ分からない。
でも——この人と、一緒にいたい。
そう思えることが、今の私には十分だった。
* * *
その日は、朝から嫌な予感がしていた。
「雛子さん、今日は来客があるかもしれない。僕の知り合いなんだけど——」
朔夜が、珍しく落ち着かない様子で言った。
「大丈夫ですか? 何か準備しておきましょうか」
「いや、大丈夫。ただ——もし変な人が来ても、気にしないで」
変な人?
聞き返そうとした時、教会の扉が勢いよく開いた。
「朔夜様! ここにいらっしゃったんですか!」
黒いスーツの男性が、息を切らして飛び込んできた。銀縁眼鏡にオールバックの黒髪。切れ者という言葉がぴったりの、鋭い目つき。
「透か。そんなに慌ててどうした」
「どうしたじゃありません! 社長が——お父様が、お怒りです! 次期社長ともあろうお方が、身分を隠して教会の管理人などと——」
社長?
次期社長?
頭が、真っ白になった。
「透、彼女の前だ」
「あ……」
黒崎と呼ばれた男性が、初めて私の存在に気づいたように振り返る。
「失礼しました。私は黒崎透。月城グループの秘書を務めております」
月城グループ——。
やっぱり。
やっぱり、そうだったんだ。
「雛子さん——」
朔夜が、私に手を伸ばす。でも、私は一歩後ずさった。
「月城グループの、御曹司——だったんですか」
「……説明させてほしい」
「なんで——なんで、隠してたんですか」
「隠すつもりはなかった。ただ、言い出すタイミングがなくて——」
「私のこと、騙してたんですか?」
「騙してなんか——」
「じゃあ、なんで教えてくれなかったんですか!」
声が、裏返った。自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
「私、信じてたのに。朔夜さんのこと——普通の人だと思ってた。同じ目線で話せる、優しい人だと——」
「雛子さん——」
「でも、違ったんですね。御曹司が——こんな地味な女に、何のつもりで優しくしてたんですか。暇つぶし? それとも——」
「違う!」
朔夜の声が、響いた。
初めて聞く、強い声だった。いつも穏やかな彼が、こんな風に声を荒げるなんて——。
「僕は——君を騙すつもりなんてなかった。身分を隠していたのは、本当の自分を見てほしかったから。月城の御曹司じゃなく、ただの朔夜として——」
「勝手ですね」
私は、静かに言った。
「自分の都合で隠して、自分の都合で打ち明けて——私の気持ちは、考えてくれなかったんですか」
「……」
朔夜が、言葉を失う。
「少し——一人にさせてください」
振り返らずに、教会を出た。
* * *
外は、曇り空だった。
今にも雨が降り出しそうな、重たい空。私の心を映しているみたいだ。
「——おや、奇遇だな」
聞きたくない声が、聞こえた。
「雛子、どうした? 泣いてるのか?」
振り返ると、蓮司が立っていた。その顔には、いやらしい笑みが浮かんでいる。
「……あなたには関係ない」
「冷たいな。せっかく心配して来てやったのに」
「嘘つき」
「嘘じゃないさ。——なあ、雛子。あの男のこと、知ってるか?」
「何を——」
「月城朔夜。月城グループの次期社長。総資産数千億の、超金持ちだ」
蓮司の目が、ぎらりと光る。
「あいつ、お前に近づいた理由があるんだよ。この教会——月城グループが、ずっと探してた土地なんだ」
「……何を、言って——」
「あいつは、お前を利用してるんだ。この教会を手に入れるために。お前みたいな地味な女に、御曹司が本気になるわけないだろ?」
違う、と言いたかった。
でも、言葉が出なかった。
朔夜は、なぜ私に近づいたんだろう。
祖母との約束——本当にそれだけ?
御曹司が、わざわざ身分を隠してまで、教会の管理人をしている理由は——。
「目を覚ませよ、雛子。お前は、また騙されてるんだ」
蓮司の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。
「俺のところに戻ってこい。俺なら——」
「——うるさい」
「は?」
「うるさいって言ったの」
自分でも驚くくらい、冷たい声が出た。
「あなたに言われたくない。あなたは私を——『代わりはいくらでもいる』って言って捨てたじゃない。今さら何を——」
「それは——」
「朔夜さんが嘘をついていたとしても、あなたに戻る理由にはならない。二度と、近づかないで」
言い捨てて、走り出した。
どこに行くかも分からないまま、ただ走った。
気づいたら、公園のベンチに座っていた。
雨が降り始めていた。冷たい雫が、頬を濡らす。涙なのか雨なのか、もう分からなかった。
「……どうすればいいの」
誰にも聞こえない声で、呟いた。
朔夜を信じたい。でも、騙されていたのかもしれない。蓮司の言葉は嘘かもしれないけど、朔夜が身分を隠していたのは事実で——。
「雛子ちゃん!」
聞き慣れた声がした。
「芽衣……?」
「やっと見つけた! 朔夜って人から連絡があって——ってか、びしょ濡れじゃん! 何やってんの!」
芽衣が、傘を差し出してくれる。その温かさに、また涙が溢れた。
「もう——何があったか知らないけど、とりあえず来なさい。風邪ひいちゃうでしょ」
芽衣に手を引かれて、私は歩き出した。
雨は、まだ止みそうになかった。
* * *
芽衣の部屋で、温かいシャワーを浴びて、着替えを借りた。
「で、何があったの」
温かいミルクティーを手渡されながら、芽衣が聞く。
「……朔夜さんが、月城グループの御曹司だって、分かって」
「え、マジで!? あの超大手の!?」
「うん……」
「やばっ……で、それで怒ったの?」
「怒ったというか——騙されてたみたいで、悲しくて」
「なるほどね……」
芽衣が、腕を組んで考え込む。
「でもさ、雛子。隠してた理由、聞いた?」
「聞いてない……聞く前に、飛び出しちゃった」
「じゃあ、まだ分かんないじゃん」
「でも——」
「でもじゃない。蓮司みたいなクズと一緒にしちゃダメでしょ」
芽衣が、真っ直ぐに私を見る。
「朔夜って人、雛子のこと探すために私に連絡してきたんだよ? 『彼女を傷つけてしまった。話を聞いてほしい。どこにいるか分からないから、友人に連絡した』って。めちゃくちゃ必死だったよ」
「……」
「騙すつもりの人が、そんなことする?」
「……分からない」
「分かんないなら、聞きなよ。ちゃんと向き合いなよ。逃げてちゃ、何も始まんないでしょ」
芽衣の言葉が、胸に刺さる。
「蓮司の時は、逃げて正解だった。でも、今回は違う気がする。朔夜って人、雛子のこと——本気で大切に思ってるように見えたよ」
「本気で……?」
「うん。あの必死さ、本物だと思う。——だから、もう一回話してきなよ。後悔する前に」
後悔——。
逃げたまま、このまま終わったら——私は、きっと後悔する。
「……うん。話してくる」
「よし。じゃあ、送ってく」
「え、いいよ——」
「いいからいいから。こういう時のために友達がいるんでしょ」
芽衣が、にっと笑う。
この笑顔に、何度救われただろう。
「ありがとう、芽衣」
「いいから早く行きなさい。——あと、ちゃんと話聞いてあげなよ。朔夜って人、待ってるよ」
待っている——。
朔夜の言葉を思い出す。
『僕は待てる。君が、自分の気持ちを見つけるまで——何年でも、待てる』
待ってくれる人がいる。
なら、私は——応えなきゃいけない。
教会に戻ると、雨は止んでいた。
夕暮れの空に、虹がかかっている。その下に、教会が佇んでいる。
「——来てくれたんだね」
玄関の前に、朔夜が立っていた。濡れた服のまま、ずっとそこにいたみたいだ。
「朔夜さん——」
「雛子さん、話を聞いてほしい。全部——正直に話すから」
真っ直ぐな瞳。嘘のない声。
「……はい」
二人で、教会の中に入った。
長椅子に並んで座り、朔夜が話し始める。
「僕がこの教会に来たのは、三年前だった。祖父の遺言で、『約束の教会』を探していたんだ」
「約束の、教会……」
「祖父には、若い頃に愛した人がいた。でも、身分が違って結婚できなかった。その人が守っていた教会を、祖父はずっと探していたんだ」
「その人って——」
「すみれさん。雛子さんの、おばあさんだよ」
胸が、締め付けられた。
「祖父は、最期までその人のことを想っていた。そして僕に遺言を残した。『あの教会を守れ。そして——いつか、彼女の孫娘に会ったら、よろしく頼む』って」
「私の、こと……」
「最初は、遺言を果たすためだけに来た。でも——」
朔夜が、私の手を取った。
「君に会って、変わった。祖父の約束を果たすためじゃなく、僕自身が——君を守りたいと思うようになった」
「朔夜、さん……」
「身分を隠していたのは、本当にごめん。でも、騙すつもりはなかったんだ。月城の御曹司としてじゃなく、ただの朔夜として——君と向き合いたかった」
涙が、溢れた。
「私——私も、ごめんなさい。話も聞かないで、飛び出して——」
「いいんだ。驚いたよな。当然だ」
「でも——」
「雛子さん」
朔夜が、私の涙を拭う。
「僕は、君が好きだ。御曹司としてじゃなく、一人の男として——君のことを、好きになった」
好き——。
その言葉が、胸に染み込む。
「すぐに答えなくていい。ただ——逃げないでほしい。一緒に、いてほしい」
「……はい」
声が震えた。でも、今度は悲しい涙じゃなかった。
「私も——朔夜さんと、一緒にいたいです」
朔夜が、微笑む。
夕日が、ステンドグラスを通して二人を照らしていた。
——でも、平和な時間は、長くは続かなかった。
「ふーん、やっぱりそうだったんだ」
翌日。教会に、華恋が現れた。
「あなた——」
「月城グループの御曹司が、こんな古い教会の管理人ねえ。面白い趣味してるじゃない」
華恋が、朔夜に近づく。その目が、爬虫類みたいにぎらついている。
「蓮司なんかとは格が違うわ。ねえ、朔夜様。私みたいな女じゃないと、釣り合わないと思わない?」
「……帰ってくれ」
朔夜の声が、冷たい。
「あら、つれないのね。——でも、覚えておいて」
華恋が、私を一瞥する。嘲笑うような目で。
「こんな地味な女じゃ、御曹司の隣には立てないわよ。いつか捨てられる。蓮司にされたみたいにね」
「——出て行け」
朔夜の声が、教会に響いた。
華恋は、ふん、と鼻を鳴らして去っていった。
でも、彼女の言葉は——棘みたいに、胸に刺さったままだった。
御曹司の隣には、立てない——。
本当に、私なんかでいいのだろうか。
身分も違う。育ちも違う。私は、ただの——。
「雛子さん」
朔夜が、私の肩を抱く。
「あんな言葉、気にしないで」
「……でも」
「君は君だ。代わりなんていない。——それを、僕が証明するから」
強い瞳。真っ直ぐな言葉。
でも——まだ、完全には、信じきれなかった。
* * *
答えは、祖母が遺してくれていた。
あの夜、私は祖母の部屋で、封印したままだった手紙を開けた。
『雛子へ
この手紙を読んでいるということは、おばあちゃんはもうそちらにはいないのでしょうね。
伝えたいことが、たくさんあります。
でも、一番大切なことだけ、書きますね。
おばあちゃんには、若い頃、愛した人がいました。
名前は、月城暁臣。大きな財閥の御曹司でした。
私たちは、この教会で出会いました。
彼は、私に「君と結婚したい」と言ってくれました。
でも——身分が違いすぎました。彼の家が許さなかったのです。
私たちは引き裂かれました。
彼は、家が決めた相手と結婚しました。
私は、この教会を守り続けました。
二人の思い出の場所だったから。
でもね、雛子。
私たちの物語は、ここで終わりではないのです。
暁臣は、亡くなる前に、孫の朔夜くんにこう伝えたそうです。
「すみれの孫娘を、頼む。俺たちが果たせなかった幸せを、あの子たちに——」と。
朔夜くんは、その約束を果たすために、この教会に来てくれました。
彼は、とても誠実な青年です。あなたのことを、きっと大切にしてくれる。
雛子。
私と暁臣は、結ばれませんでした。
でも、想いは消えなかった。何十年経っても、私は彼を想い続けました。
あなたたちは、違う。
時代も、環境も、私たちの頃とは変わりました。
身分なんて、関係ない。大切なのは、想いの強さです。
朔夜くんを、信じなさい。
そして——自分を、信じなさい。
あなたは、「私なんか」なんて言う必要はないのです。
あなたは、代わりのいない、たった一人の存在。
私の、大切な孫娘。
幸せになりなさい。
私たちの分まで、幸せになりなさい。
ずっと、見守っているからね。
愛を込めて
おばあちゃんより
追伸:ステンドグラスに彫られた「S&A」は、私とあの人のイニシャルです。すみれ(Sumire)と、暁臣(Akiomi)。いつか、あなたと朔夜くんのイニシャルも、隣に刻んでね。』
手紙を読み終えた時、私は泣いていた。
止めどなく涙が溢れて、止まらなかった。
おばあちゃん。
おばあちゃん——。
全部、分かっていたんだ。私のことも、朔夜のことも。
そして——私たちを、結びつけようとしてくれていた。
「S&A」——すみれと、暁臣。
祖母と、朔夜の祖父。
二人は、結ばれなかった。身分の違いで、引き裂かれた。
でも——孫の代で、その想いを繋ごうとしてくれた。
「雛子さん?」
ノックの音がして、朔夜の声がした。
「……入って」
ドアが開いて、朔夜が入ってくる。私の涙を見て、駆け寄ってきた。
「どうしたの——」
「読んで。おばあちゃんの、手紙」
震える手で、手紙を差し出す。
朔夜が、静かに読み始める。その目が、少しずつ潤んでいくのが分かった。
読み終えて、朔夜が顔を上げた。
「……知ってたんだね。すみれさんも、祖父も。俺たちが——こうなることを」
「うん……」
「運命、って——信じる?」
「今までは、信じなかった。でも——」
私は、朔夜の手を取った。
「今は、信じたい。おばあちゃんと暁臣さんの想いを——私たちで、繋ぎたい」
「雛子さん……」
「私——朔夜さんのこと、好き。御曹司だとか、身分がどうとか、関係ない。朔夜さんが好き」
言えた。
やっと、言えた。
「俺も——君が好きだ。雛子さんが、好きだ」
朔夜が、私を抱きしめた。
温かい腕。早い鼓動。同じくらい早く打つ、私の心臓。
「ありがとう——俺を、信じてくれて」
「ありがとう——私を、待っていてくれて」
窓の外で、夕日が沈んでいく。
祖母と暁臣が見た、同じ夕日。
この教会で、新しい物語が——始まろうとしていた。
* * *
平和な時間は、束の間だった。
「朔夜様、大変です」
黒崎が、血相を変えて教会に飛び込んできた。
「氷室蓮司という男が、この教会の土地を狙って動いています」
「何だと?」
「彼は、この土地が月城グループの再開発計画の対象エリアにあることを嗅ぎつけたようです。教会を買い取って、グループに売り込もうとしている」
朔夜の表情が、一瞬で変わった。今まで見たことのない、鋭い目つき。
「詳しく報告しろ」
「はい。氷室は、雛子さんの連絡先を調べ上げ、『教会の権利を譲渡する書類にサインしろ』と迫っているようです。『断れば、お前の過去をSNSでばらまく』と——」
「何……?」
私の声が震えた。
蓮司が——そこまでするなんて。
「雛子さん、何か連絡来てた?」
「昨日、知らない番号から着信があって——出なかったけど」
「見せて」
朔夜に促されて、スマホを確認する。留守電が入っていた。
『——雛子、俺だ。お前の教会、買い取ってやる。金なら用意する。さっさと連絡しろ。じゃないと——お前が俺様のために泣いて尽くしてた頃の恥ずかしい写真、バラまくからな』
下卑た笑い声。
吐き気がした。
「ひどい……」
「大丈夫、雛子さん。絶対に、させない」
朔夜の声が、氷のように冷たかった。
「透、法務部に連絡。氷室蓮司の脅迫行為について、刑事告訴の準備を進めろ」
「承知しました」
「それと——彼の会社への調査も進めてくれ。何か不正があるはずだ」
「すでに調べております。彼は取引先への水増し請求で横領を行っている疑いがあります」
「証拠は?」
「揃っています」
朔夜が、私に振り返った。
「雛子さん。もう、心配しなくていい。——俺が、全部片付ける」
* * *
三日後。
蓮司が、教会に現れた。
「雛子! 話があるんだ! 出てこい!」
叫びながら、扉を叩く。以前の余裕のある態度は消え、髪は乱れ、目は血走っていた。
「——待っていたよ、氷室蓮司」
扉を開けたのは、朔夜だった。
「お、お前——」
「月城朔夜だ。月城グループの、次期社長」
蓮司の顔が、青ざめた。
「な——お前が、月城の——」
「雛子さんを脅迫したこと、知っているよ。——それと、会社での横領も」
「は? 何の話——」
「とぼけても無駄だ。証拠は全て揃っている。君の会社には、すでに連絡済みだ」
「嘘、だろ……」
蓮司が、よろめいた。
「取引先にも話は行っている。月城グループは、不正に関わる企業とは一切取引しない。——君の会社は、うちとの契約を失う。それだけじゃない、他の大手との契約も全て見直しが入るだろう」
「待ってくれ——待ってくれよ!」
蓮司が、地面に崩れ落ちた。
「俺が悪かった! 雛子を脅したのは——魔が差しただけなんだ! 許してくれ!」
土下座していた。
あの蓮司が——私を見下していた、あの男が。
「……雛子さん」
朔夜が、私を見る。
「君が決めて。許すか、許さないか」
私は、蓮司を見下ろした。
情けない姿だった。かつて「代わりはいくらでもいる」と言い放った男が、地に這いつくばっている。
「蓮司さん」
名前を呼ぶと、蓮司が顔を上げた。一瞬、希望のような光がその目に宿る。
「許す、とは言わない」
「——っ」
「でも、もう関わらないで。私の人生に、二度と」
静かに、はっきりと言った。
「あなたは、私の三年間を奪った。私の自信を、私の笑顔を、私の幸せを——全部。でも、私はもう、あなたに囚われない」
「雛子——」
「さようなら、蓮司さん」
振り返って、教会の中に入った。
背後で、蓮司の叫び声が聞こえた。でも、もう振り返らなかった。
後日、芽衣からLINEが来た。
『雛子!! 蓮司のやつ、会社クビになったって!! しかも華恋にも捨てられたらしい!! 自業自得!! ざまあ!!』
スタンプが、怒涛のように送られてくる。ガッツポーズするクマ、祝う犬、花火が上がるウサギ——。
『本当に……終わったんだね』
『終わった終わった!! 雛子はもう自由!! 幸せになりなさい!!』
スマホを閉じて、窓の外を見た。
夕日が、教会を照らしている。
「終わった——」
声に出して、やっと実感が湧いた。
三年間の呪縛が、解けた。
私は、自由になったのだ。
* * *
全てが片付いて、一週間が経った。
教会には、いつもの平和な時間が戻っていた。朝は鳥のさえずりで目覚め、昼は教会を掃除し、夕方には——。
「雛子さん、鐘を鳴らしに行こう」
朔夜が、手を差し伸べる。
「はい」
その手を取って、鐘楼への階段を上る。
夕日が、世界を茜色に染めていた。遠くの街並みが、金色に輝いている。
「綺麗……」
「ああ。でも——君の方が、綺麗だ」
「え……」
振り返ると、朔夜が真っ直ぐに私を見ていた。
「雛子さん」
「は、はい」
「改めて、伝えたいことがある」
朔夜が、鐘の紐を握る。そして——。
——ゴォォォン……。
鐘の音が、響いた。
夕暮れの空に、荘厳な音が広がっていく。胸の奥まで届く、深い、深い音。
「俺がこの鐘を鳴らし始めたのは、祖父との約束だった」
朔夜が、静かに語り始める。
「『あの教会の鐘を、毎日鳴らせ。いつか、すみれの孫娘が来たら——俺の代わりに、愛してやってくれ』と」
「暁臣さんが……」
「最初は、義務だと思っていた。でも——君に会って、変わった」
朔夜が、私に向き直る。
「今は、祖父の約束のためじゃない。俺自身の想いで、君を好きになった」
「朔夜さん……」
「雛子さん。——俺と、一緒にいてくれないか」
心臓が、早鐘を打つ。
「御曹司の俺じゃなく、ただの朔夜として。君を、幸せにしたい。君の笑顔を、ずっと見ていたい」
涙が、溢れた。
嬉しくて、幸せで、信じられなくて——。
「私——私なんかで、いいんですか」
言ってから、はっとした。
また、「私なんか」と言ってしまった。
でも——。
「『私なんか』じゃない」
朔夜が、私の頬に触れる。
「君は、代わりのいない、たった一人の存在だ。——俺の、たった一人」
代わりなんて、いない。
朔夜が、何度も言ってくれた言葉。
祖母も、手紙で伝えてくれた言葉。
「私も——朔夜さんが好きです」
声が震えた。でも、はっきりと言えた。
「御曹司だとか、身分がどうとか、関係ない。朔夜さんが——朔夜さんが、好き」
「雛子さん——」
朔夜が、私を抱きしめた。
強くて、優しい腕。温かい体温。早い鼓動が、私の鼓動と重なる。
「ありがとう。——愛してる」
「私も——愛してます」
夕日が、二人を照らしていた。
鐘の余韻が、まだ空に響いている。
祖母と暁臣が、果たせなかった恋。
その想いが——今、ここで繋がった。
「——そういえば、雛子さん」
「はい?」
「すみれさんの手紙に、こう書いてあっただろう。『ステンドグラスに、あなたたちのイニシャルも刻んでね』って」
「あ……」
「今度、一緒に刻みに行こうか。——S&Aの隣に、H&Sを」
雛子(Hinako)と、朔夜(Sakuya)。
「……はい!」
笑顔で頷いた。
今までで一番、自然な笑顔だったと思う。
「おばあちゃん——」
心の中で、呼びかける。
「私、幸せになるね。あなたと暁臣さんの分まで——幸せになる」
風が吹いて、髪が揺れた。
まるで、祖母が「よくやったね」と言ってくれているみたいに。
「鐘——もう一回、鳴らしてもいいですか?」
「もちろん。——一緒に」
二人で紐を握り、鐘を鳴らす。
——ゴォォォン……。
夕暮れの空に、新たな鐘の音が響いていく。
悲しい人のための鐘じゃない。
幸せな二人のための——約束の鐘。
「愛してる、雛子」
「愛してます、朔夜さん」
夕日の中、二人は微笑み合った。
——鐘が鳴る時、恋が始まる。
そして、私たちの物語は——ここから、始まるのだ。
【完】




