第一章 落日の翼、黎明の虎
潮の匂いがした。
それは、菅野直が最期に嗅いだ匂いだった。
燃える機体の中、操縦桿を握ったまま見た沖縄の海。
一九四五年八月一日。
弾丸が翼を裂き、紫電改は炎に包まれた。
高度は落ち、海面が迫る。
「……まだだ」
歯を食いしばった。
だが機体は応えない。
視界の端で計器が壊れ、炎が広がる。
青い海が、すぐそこにあった。
最後に見たのは――空だった。
それから、何も覚えていない。
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目を開けた。
眩しい。
だがそれは炎ではなく、柔らかな朝日だった。
菅野はゆっくりと瞬きをする。
空は澄み切っていた。
雲が高く流れている。
「……?」
違和感があった。
体が重い。
いや、違う。
何かに跨っている。
視線を落とす。
そこにあったのは――馬だった。
「……馬?」
黒鹿毛の馬が鼻息を鳴らしている。
手を見る。
飛行手袋ではない。
代わりに握っているのは、革の手綱。
そして腕には鉄の籠手。
胸には重い鎧。
菅野はしばらく黙っていた。
「……夢か?」
その時だった。
「孫策様!」
後ろから声がした。
振り返る。
そこには鎧を着た兵士たちが並んでいる。
旗が風に揺れていた。
布に書かれている文字。
――孫。
菅野の頭に、突然、洪水のような記憶が流れ込んできた。
江東。
父、孫堅。
若き武将。
小覇王。
**孫策。**
「……は?」
菅野は思わず空を見上げた。
そこに紫電改はいない。
ただ青い空だけが広がっている。
遠くで太鼓が鳴った。
兵士が叫ぶ。
「敵軍です!」
地平線の向こうから土煙が上がっていた。
槍を持った歩兵。
騎兵。
数千はいる。
菅野はそれを見て、思わず呟いた。
「……密集しすぎだろ」
空戦の感覚だった。
あれでは爆撃機編隊みたいなものだ。
まとまって飛んでいる的。
菅野は小さく笑った。
「なら、やることは一つだな」
馬の首を叩く。
「全騎、続け!」
兵たちがざわめく。
「突撃ですか!?」
菅野は首を振った。
「正面からじゃない」
敵軍の隊形を見つめる。
密集した中央。
だが側面は薄い。
「側面を突く」
兵たちが顔を見合わせた。
そんな戦い方は聞いたことがない。
菅野は槍を掲げる。
「突っ込んで、抜ける」
兵たちは戸惑う。
菅野は笑った。
「**一撃離脱だ**」
馬の腹を蹴った。
黒鹿毛が弾丸のように飛び出す。
敵軍が槍を構える。
だが菅野は真正面から行かない。
直前で進路を切り替える。
斜めに突っ込んだ。
槍兵の列が崩れる。
菅野の槍が振るわれた。
一人。
二人。
騎馬隊が楔のように敵陣へ突き刺さる。
そのまま突き抜ける。
敵兵が振り向く。
だがもう遅い。
「離脱!」
菅野は叫んだ。
騎馬隊が敵陣を抜けていく。
そして旋回。
「もう一回だ!」
兵たちが叫ぶ。
再突撃。
今度は反対側。
敵軍は混乱していた。
「なんだあの動きは!」
「突っ込んで逃げたぞ!」
三度目の突撃で、陣形は完全に崩れた。
菅野は息を吐いた。
「空でも地上でも同じだな」
その時だった。
チリン。
小さな鈴の音。
戦場に似合わない音だった。
菅野が振り向く。
そこに一人の男が立っていた。
軽装。
巨大な双戟。
そして腰に、いくつもの鈴。
男は笑っている。
「へぇ」
獣のような目。
「面白い戦い方するじゃねぇか」
次の瞬間。
男が突っ込んできた。
速い。
双戟が閃く。
ガン!
菅野は槍で受けた。
腕が痺れる。
「……強いな」
男は笑う。
鈴が鳴る。
「俺ァこういう戦いが好きなんだ」
再び突っ込んでくる。
近い。
あまりにも近い。
菅野は思わず言った。
「……ドッグファイトかよ」
その瞬間だった。
男の動きが止まった。
目を見開く。
そして次の瞬間。
大笑いした。
「ちょっと待ってくださいよ!」
双戟を肩に担ぐ。
「**菅野さん!?**」
菅野も目を見開いた。
「……杉田?」
男は親指を立てた。
「そうっす!」
「**杉田庄一です!**」
菅野は吹き出した。
「お前……甘寧かよ!」
「らしいっすね!」
二人は戦場の真ん中で笑った。
敵も味方も呆然としている。
その時。
背後から静かな声がした。
「楽しそうだな」
振り向く。
そこに立っていたのは重装の武将。
巨大な剣を背負っている。
その顔を見て、菅野は目を細めた。
「……武藤?」
男は小さく頷く。
「武藤金義だ」
そして言った。
「どうやら俺は、周泰らしい」
菅野は空を見上げた。
戦闘機乗りが三人。
孫策、甘寧、周泰。
思わず笑う。
「なんだこれ」
杉田が肩をすくめる。
「さあ?」
武藤は静かに剣を抜いた。
「だが――」
戦場を見る。
「面白い戦になりそうだ」
菅野は槍を掲げた。
直掩が二人。
空戦なら、最強の護衛だ。
「よし」
馬の腹を蹴る。
「江東、取りに行くぞ」
三頭の馬が駆け出した。
落日の翼は海に沈んだ。
だがその魂は今――
江東の空に、新しい翼を広げていた。




