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事務員のありがちな日常

作者: 桂まゆ

 くうぅ。ドアの取っ手を回した瞬間に走った左手首の痛みに、私は思わず唸ってしまった。

「なんだ、この……まるで、一日中商品を包装した翌日のような左手の筋肉痛は」

「昨日、一日中包装していたからでしょ? お疲れ」

 私の説明的な台詞にぶっきらぼうに、それでも律儀に応えてくれるのは私と同じく事務員の中原さん。

 私たちは、小さな建設会社の事務員だった。事務所に事務員は三人だけ。中原さんは、主に見積を担当している。

 様々な部品の小さな数字を拾い出すことから始まるが、その小さな積み重ねがひとつの現場を完成させるのだから、すごいといえばすごい仕事だと思う。

 新人の私の仕事なんか、ほとんど雑用。主に電話番とコピーとちょっとしたパソコンでの入力作業ぐらい。なんだけど……小さい会社だからこそ、何でもしなければならないのが、うちの会社の事務員なのだ。

 昨日は、社長の命令で別会社に出向(実は、社長の奥様が経営される会社だった)。そこはギフト商品を扱う会社で、一日中商品の包装をさせられていた。

 こういう事、あって良いの?

 初めてそれをさせられた時、中原さんに聞いてみた。

 社内ならいざしらず、別会社で本来の仕事でない仕事をするのが、許されるのかと。

 それを知りたければ、勉強したらと中原さんは言った。

 「ま、それを労基に訴えたツワモノ事務員はうちではまだいないけどね」とも。参考になる意見をありがとう、中原さん。

 余所の会社で手を痛めて、それが労災になるのかどうかと検討中だったのですが、自分でちゃんと調べてみますね。

「それより、村岡。ちゃんと湿布しておきなよ。それから午後、ちょっと時間あるかな?」

 はいはい。どうせ私は雑用係。なんでもやらせていただきますよ。

「じゃあ、悪いけど●●工業まで連れて行って。事務所、三井さんだけで大丈夫ですよね?」

 「早く返してよ」と答えたのは、総務の三井主任。

 三井主任は私よりも一回りは上。中原さんだって五歳も上なんだけど。

 どっちかと言えば歳が近い中原さんの方に、私はなついていた。

 中原さんのあだ名は、「姉御」。入社したての頃はその意味がよく解らなかったのだけど。

 毎日顔を合わせる間に、現場に向かう社員達への毎日の労い、そして彼らを決して甘やかさない。そんなどこか男っぽい中原さんに、若い工事社員が「姉御」と慕う気持ちが何となく解ってきた。

 中原さんは、同じ事務所でも私や三井主任とはやや離れた場所に机がある。仕事だって私は主に主任の補佐で、中原さんとはあまり馴染みがなかったのだけど。

 たまに、中原さんは「買い物」に連れて行ってと言い出す。

 勿論、仕事に使う部材の――明日使用分だから、注文しても間に合わない時に限られるのだけど。それは私の小さな息抜きにもなっていた。

「本当は、ホームセンターで買った方が早いんだけどね」

 と、中原さんは車の中で言う。ホームセンターなら、自転車ですぐの所にあるのだ。

「やっぱり、同じ業者で買った方がその……価格とか?」

 私が解らないなりにそう尋ねる。

「ま、それはやりとり」

 中原さんは小さく笑った。

 でも、事務員二人が車に乗って買いに行くわけで。

 燃料費、人件費を考えるとどうなのかと私は思う。

 そう口にすると中原さんはちょっと笑った。

「グロスで考えたら解るから。来月の●●工業の請求書、ちゃんと見て計算してみたら? 見積の仕事は、そこからだから」

 いえ、別に見積とか査定とかはお任せしますから。

 私の仕事は、雑用ですから。

 そう言うと、中原さんは少し不思議そうな顔をした。

「それじゃ、面白くないでしょ?」

「でも、仕事ですから」

 そう、私にとって仕事はお金を稼ぐ事。面白くなくても、毎日会社に行っていたら、月に一度お給料が入る。その日の為に仕事をしているのだ。

「村岡は割り切ってるかも知れないけど。もう一歩踏み込んでみても良いかもしれないね」

 私が黙ったので、中原さんもそれ以上は言わなかった。

 プライベートな事には、自分からは口を挟まない。それが中原さんの中原さんらしさなのだろうなと思った。

 商談を終え(というか、それは事前の電話で決まっているのだけど)商品を受け取って私たちは会社に戻った。


 左手の痛みがおさまったかと思えば、またしても出向に駆り出され、今度は右手が痛くなった日。

 楽しみにしていた(?)請求書が届いた。

 ●●工業の請求書の内容をじっくりと確認して、驚いた。

 あの時に買いに行った部品は、ステンレス製のちょっと特殊な形のナット。その単価が、私がホームセンターでチェックしてみたものと全然違っていたから。

 中原さんは「グロス」って単位を使ったけど。だって、買いに行ったのは30個かそこらだよ。こんなに安くしてもらえるものなんだ。それでも人件費とかガソリン代には満たないと思いはしたけど。

 昼休みに、わくわくしながら聞いてみる。

 中原さんは最初、きょとんとしていたけど、あの時の社内での会話をもういちど言うと、ああ、と笑った。

「だから、グロスで考えろって。解る? 仕入れ全体のこと。うちは、これだけのものをあなたの会社で仕入れているのですからって、そういうやりとりをするの。すごく細かいことだし、こんなことしても、ちょっと何かあったらすぐに飛んじゃうような事だけどね」

 そう言えば、中原さんの電話を聞いていると、「もうちょっと、何とかなりませんか」などという言葉をよく使っている。ああ、値切ってるんだな、よく出来るなと感心していたんだけど。

 細かく、こつこつ。

 それが中原さんの仕事なんだ。

 やっと、解った。

「素敵な仕事ですね」

 憧れの目で中原さんを見る。

「でもないよ」

 中原さんは苦笑した。

「この間、業者の人に『中原さんってコンビニでも値切ってそうな印象がありますね』って言われて、電話ごしに殴ってやろうかと思ったから」


実話ではありませんが、モデルはおります。(笑)

見つかったら怒られるので、そっとしておいて下さい……

って、何のことやら。


本当にありがちな話になってしまいました。

でも、それがある意味「職業小説」かなって。

ちょっと違う? 失礼しましたー。


ちなみに、作品中の登場人物である中原の仕事は、ひとつの工事を施工するにあたり、総工費のうちの「部材」の金額を割り出す仕事です。B材と呼ばれるボルトやナットから、設備費まで多岐に渡ってコツコツと拾い上げなければなりません。


「グロス」でという言葉を使いましたが、これは数量の単位で1グロスが12ダースなのですが、「全体」という意味で使っています。

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― 新着の感想 ―
[一言] 事務員さんの仕事って、本当に多岐にわたっていて、何処までが仕事で、何処からボランティア?っていうことありますね。 このように書いていただいて初めて理解できるところと、やっぱりわからないところ…
2010/03/13 18:50 退会済み
管理
[一言] ご無沙汰してます。藤咲一です。 職業企画作品拝読させていただきましたので、簡単な感想を…… 取引ってそういったものですよね。信頼関係の積み重ねというか……。そこらあたりを考えると将来的にガ…
[一言] 拝読させていただきました。 さすがは一人称マスター、桂まゆ先生ですね。 職場の何気ない風景を描いているだけなのに、飽きることなく最後まで楽しく読めましたよ。その筆力は羨ましい限りです。 今…
2010/03/07 23:52 退会済み
管理
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