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ピースメイカー  作者: 蒼蕣
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死に顔

「ここが、そうなの?」

鼻の曲がりそうなほど鉄の匂いが充満しているこの建物に、流石の彼女も不信感を抱いている。

死刑が執行されるのは部屋の中だというのに、この長い廊下にその匂いが漏れ出ている。

「はい。綺麗なところじゃなくてごめん」

これから死んでいくものに配慮など必要ない。

「ううん。話してくれた通りじゃん」

私は誘われるかのようにまたあの場所に戻って来た。この処刑場に。

「じゃあ、この部屋に」

「はい」

彼女は素直に従った。

今回の部屋番号は四十二番だ。

私は彼女を最初の扉に通すと、続けて、二つ目の鉄の扉も開いた。

「部屋の中央に立ってて」

私は彼女の顔を拝むことはしなかった。

「はい」

彼女は言われるがまま、部屋の中央で立ち止まった。

私はタッチパネルを操作した。その間、私はずっとマイクをオンにしていた。

「ごめん、結局君を助けられそうにないや」

自分でも信じられないくらい脱力した声だった。

「ううん。いいよ。この三ヶ月間ずっと一緒にいてくれてありがとう。私幸せだった。私は…」

自分の無力さを身に染みて感じている時に聞く感謝の言葉ほど虚しいものはない。

自分で巻いた種のはずだ。こうなることを予期した上で彼女の告白の答えを渋ったのではないのか。最初から覚悟がないなら迷わず断れたはずなのに。

思わず涙が流れそうだった。死んでからこのかた涙など流したことなどなかった。

これまで数多の数ほどの人をあの世を送って来た。遺族とこれから死ぬものたちの別れ際の光景を幾度となく目の当たりにしてきた。それでも涙は決して流れなかった。

彼女は喋り続けていたが、私はもうそれ以上聞こえなかった。

レーザーが彼女を赤く照らした。純白のドレスを着ているせいか、いつもより光線が真っ赤に見えた。

「ねえ、直之はどう? 私と居て幸せだった?」

認証完了の文字が画面に表示された。違う。

「準備ができました。では、これより夏岡結衣さんの処刑を執行します」

私は腹を括った。

「…はい。よろしくお願いします」

違う。

私はタッチパネルを操作した。

彼女が四角い箱で固定される。

私が聞きたかったのはそんなことではない。

彼女には「生きたい」と一言言ってほしかった。そうすれば私は全力で彼女の死を食い止めただろう。たとえ世界が再び戦乱の世に成り代わろうとも。

しかし自分がそんな願いを抱いているとはつゆ知らず、彼女はなんの躊躇いもなく自分の運命を受け入れた。

いや、言い訳だ。私は一個人よりも社会を取った。死神としての本分を最後まで全うすることを選んだ。蔑ろにして、平和を乱すことに恐れ慄いたのだ。

自分一人では運命に立ち向かおうともしない負け犬の遠吠えにすぎない。結局自分もこの世のルールに束縛されている、いや陶酔している弱者だったのだ。

運命という言葉は力が強すぎる。誰しも逆らえないと思い込む。彼女もまた運命という言葉を真に受けてしまった。聞き分けが良すぎるのは彼女の数少ない汚点かもしれない。

彼女がそう望むなら私はそれを素直に聞き入れる他ない。私の一縷の望みはあっけなく断たれてしまった。

否、彼女は私の深層心理を見透かしていたのかもしれない。それでも私の今後を考慮し、わざと私の願いを聞き入れなかったのかもしれない。なら私が言うべきことは全身全霊の感謝の気持ちである。

でも慈愛に満ちた彼女の本心は違ったのかもしれない。毅然に振る舞っていただけなのかもしれない。本当の本当は生きたかったのかもしれない。断腸の思いで発し続けた目には見えない救難信号を鈍感で悪徳な私は探知できなかっただけなのかもしれない。そう思ってならない。

もしそうなら私は大馬鹿者だ。

もしそうなら今度ばかりは私が彼女を殺したことになる。今からでも私の命と等価交換できないだろうか。否、これまでたくさんの無実な人間をあの世送りにしてきたんだ。自分の命ひとつじゃ足りない。彼女の足元にも及ばない。

「私も結衣と一緒にいれて幸せだった」

私は弱々しくつぶやいた。疑心暗鬼が投影されていたかもしれない。

その言葉が聞こえたのか、彼女は私の方を振り向いて、笑った。

久しく見ていなかった、彼女渾身の笑顔だろう。

処刑場で笑顔を見せるものなんかこれまで居なかった。

きっとこの場所の雰囲気のせいだろう。しかしそんな絶望感に満ち溢れた空間を瞬く間に太陽が明るく照らし、微かな風が靡く風光明媚な花畑へと変化させるほどの笑顔だった。

幻であっても少し気持ちを楽にさせる彼女らしい粋な計らいだ。

私は彼女と目を合わせた。彼女の最後をしっかりと見届ける義務が自分にはある。合わす顔がないなど無神経なことは言ってられない。一蓮托生できないのは残念極まりない。

彼女の死こそが自分の戒めであると認識させる。自分の誤った取捨選択の落とし前だ。にも関わらず彼女の顔がぼやけて見えずらい。これだから涙は嫌なんだ。

でも涙を拭うことはしなかった。目を背けるわけにはいかない。これが私が犯した罪、その代償なのだから。

醜態を晒した自分を彼女はどう思うだろうか。拍子抜けだと愛想を尽かすだろうか。見てくれだけの偽善者だと罵るだろうか。愚の骨頂だと一刀両断してくれるだろうか。

涙が溢れ出てくる。自分ではもう制御できない。さまざまな感情が込み上げてくる。

恩を仇で返してしまったことへの不甲斐なさ。人一人の命も救えないこと自分の無力さへの憤慨。一矢報いることも叶わなかったことへの後悔。彼女との思い出が走馬灯のように巡る哀愁。その過去が泡沫の夢のように記憶から消えていく儚さ。できることならあの頃に戻りたいと懇願する気持ち。涙と笑顔をこれでもかと見せつけてくる彼女の顔。そして最後まで彼女に好きという言葉を伝えなかったことへの罪悪感。

畳み掛けてくる多種多様な思いが涙となって持ち前の冷静さに襲いかかる。

痛い、苦しい、辛い。でも終わってほしくない。

雫が自分の右手の甲に落ちた。その人差し指の先にはタッチパネルがある。

腹を決めたはずなのに一思いに押してしまおうとはどうしてもなれなかった。

震えている。まるで雫の重みに必死に耐えているかのように。

ごめん…

しかしついにその重みに耐えきれず私はタッチパネル上のボタンを押した。

断末魔も聞こえてこない。それなのに今回ほど人を殺したという自覚があるのも珍しい。

きっと金輪際こんな虚無感に浸ることはないのだろう。

ああ、神が許すのならやり直したい。彼女と出会ったあの日からではない。それよりもずっと前、自分を殺した時から。

そしてもう一度、今度は真っ当な人間として彼女に出会いたい。胸を張って彼女の隣にいてあげたい。堂々と彼女に愛を伝えたい。

脱力し、崩れ落ちる寸前、宙を舞った彼女と目が合った気がした。

自分とは違って恐怖や悲哀を一切感じさせない満面の笑みだった。

来週でいよいよ完結です。長らくお付き合いくださり、誠にありがとうございました。

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