運命改変の代償
目の前に広がるは暗黒世界。
混沌埋めく現代ではありえないほど静寂に満ちた空間。
私はその場に立ち尽くす。
黒い影がまるで虫の蠢きのように私の行く手も退き側も塞ぐ。
濃霧に包まれたようなここは一体どこであろうか。
しかし自分で答えを見つけ出すこともできなければ、聞く人もいない。
前ヘ進もうとすると、進んだ分だけ前方の闇が晴れるが、その代わりに背後の霧が私を進んだ分だけ追いかける。
進むたびに黒い影が口もないのに奇声を発す。まるで私にこれ以上先へ行かせまいと忠告しているかのようだった。
クライ、サビシイ、クルシイ。こんなところには居たくない。
ふと、耳を澄ますとかすかに声がした。
「…うけ…ものよ…」
もう一度耳を澄ましてみる。
「死を受け入れんとする者よ…貴様は一体何処へ行く?」
意味がわからない。
「この世には生と死がある。この世に誕生した時点でお前は生を受け入れたことになる。当然それと同時に死も受け入れなければならない。死ぬことは生の理に同じ。それなのにお前は死を受け入れようとはしない。死から逃れようと模索する毎日。無駄な足掻きだというのに」
何者かがそう口走る。
「運命に逆らえばどうなるか。その身を以て知ったはずだ」
また違う声がどこからともなく聞こえてきた。
「死を受け入れない者には、他人を自らの手で葬らなければならない。情と倫理を重んじる人間という生物にはさぞ苦しかろう。しかし他人を犠牲にしてまで自らは生きながらえる。それを望んだのは他でもないお前たち自身であろう。お前らは情に身を任せて、他人を蔑む。他人が自分より良いものを持っていると知れば嫉妬し、どんな手を使ってでも他人を蹴落とす。自らの存在価値を世間に見せびらかすためだ」
どこにいるかもわからない相手に私は答えた。
「確かにそうだ。でも人間はそれだけじゃない。他の人に情を注げる。相手の気持ちを理解できる。それはつまり私たち人間は人を愛することができる。愛するものを救いたい、守りたいと戦うんだ。愛する人、本当に大切な人のためなら自分の身がどうなってもいいと思うのが、人間の真髄だ」
「世迷言を。そんな綺麗事を抜かしながらもいざ自分の身に危険が迫るとあっさりと他人を見捨てる臆病者を我は幾度となく見てきた」
「私は違う!」
私は暗闇に反論した。
「くどいぞ! ならば聞こう、お前はその愛する者とやらが救えれば自分は死んでもいいのか。違うだろう! 相手が救えるのなら自分も生きなければ意味がない。なぜならお前はその愛する人と一緒にこれからを生きることを望んでいるのだから」
闇が声を荒げた。すると、何もないはずなのに壁に当たったように反響した。
「…」
私はぐうの音も出なかった。
「往生際が悪いな。お前の心を読んでやろうか。お前自身は死んでもいい。愛する人が救えるのならな。しかしそれでは生き残ってしまった愛する人がかわいそうだ。愛する人は自分のせいでお前が死んだと自分を追い詰めるだろう。罪悪感に苛まれながらこれから一人でつまらない世の中を生きて行かなければならない。愛する人には生を全うするために支え他人が必要だ。そしてそれは自分だ。だから自分は生きなければいけない。そう思っているのだろう」
深層心理を見抜かれている。
「その通りだ」
「虫が良すぎやしないか。この世は持ちつ持たれつの世界。何かしてほしければ自分も何かを差し出さなければいけない。愛する人を運命という絶対的な未来から救う。ならばそれに見合う代償をお前はどう払う。お前の命はやれない。その代わり他の奴らの命を捧げると申すか」
「そんなこと、するもんか。これは私の問題だ。他の人たちには何の責任もない」
これは自分で蒔いた種、なんとしても自分で解決したい。
「ならばどうする。お前の命だけは生かすが、植物状態しても良いか」
「それもできない。彼女の迷惑になる。私はちゃんと生きて、彼女と生きて行かなければいけない」
自分がとんでもないわがままを言っているのは分かりきっている。
「身勝手が過ぎるぞ。これもやだ、あれもやだと駄々を捏ねて赦免されるのは無知で純粋な餓鬼だけであると習わなかったのか。とだが、それが人間の本質であることを我は承知している。ならばお前の提案を聞こう」
「…」
私は黙った。相手が言っていることが理不尽だとは思わない。ただ単純に気に食わない。
すると闇が一層濃くなり私に迫ってきた。
「とんだ拍子抜けだな。反論もできないか。理解したか。だから人間は自分の運命を受け入れるのだ。自分の命を救う代わりになるものがないから。命を救う代わりに自分の臓器と四肢を捧げる。それで生きている意味になるのか。命を救う代わりに自分のこれまでの知識と経験を捧げる。それでは他人に迷惑がかかることこの上ないだろう。そうまでしてこの世に未練があるのかと遺族でさえ愛想を尽かすだろうな。お前のようなやつを傲慢と言うんだ。生に縋り付くやつの末路はいつも惨めなものだ」
「違う! 私はもう決めてある。彼女を運命から救う方法を」
「ほう、それで」
闇は吐き捨てた。
「それで…」
「それで、お前はどうするんだ! そのあと我がお前をどうしようと構わないと言うのか」
「ああ、構わない! 私が死んだとしても彼女が生きてさえいればそれでいい。彼女は一人で生きていくだけの力がある。悲しんでもそこから立ち直れる力がある。私が居なくても彼女はきっと生きられる」
さっき言っていることと食い違っているのは百も承知だ。だがここまで追い詰められても自分が望む答えが出ないのだから、潔く命の等価交換を行うほかない。もうなりふり構ってもいられない。やけくそである。
「軽口を叩くな。釜茹でや火刑では済まさんぞ。最上級の苦しみをお前は未来永劫味合うのだぞ。いや、その程度でお前を死なせない。もう二度と生きる希望など湧かせない地獄の深淵、大虚地獄へ我が誘ってやろう。輪廻転生もできぬと思え」
「いいだろう」
私は強く胸を張り、啖呵を切った。
「こけおどしで言っているのではないぞ」
私は深く頷いた。
「…その言葉忘れるでないぞ」
徐々に濃霧が薄くなっていった。そして完全に晴れる直前に薄ら笑いが聞こえた。
「嗚呼、それと言い忘れていたが、お前がどんなに喚こうが運命は変えることはできないぞ。それでもお前はその運命を変えようとした罪で大虚地獄へ落とすでな。それぐらいの覚悟はあるんだろうな…」
突如、走っても居ないのに目の前の光景が早送りのように高速に動き出し、闇をかき分け、そして…
目が覚めた。
いつになく太陽が光り輝く朝だった。
ご無沙汰しております。六月に入りましたね。私の方も無事卒業式を終え、親も帰国しました。引きこもりの私が、カナダに来て三、四年目にして初めていくつか観光地に赴きました。具体的な内容は私の所在地がバレてしまうので控えますが、怒涛の一週間でした。
ところで今回の話、『鍵穴の人間』でも似たようなことをしましたね。なんかこういうの好きなんです。夢の中で誰とも分からない者が迷っている主人公を叱責して、信念をより強固なものにすると言いますか。今回の闇は宮崎駿氏の『千と千尋の神隠し』に登場する湯婆婆をモデルにしました。ハクが千を元いた世界に戻すと湯婆婆に直談判する場面です。




