崩落
思いがけない言葉に呆気に取られてしまった。とんだ渡に船だ。
いや、鵜呑みにしてはいけない。物は言いようだ。もしかしたら私の受け取った解釈とは別の意味なのかも知れない。
しかし彼女の手が私の左手に触れた。
これはそういうことでいいのか。少なくとも悩みの根源である彼女の気持ちがわかった。
正直喜ばずにはいられなかった。だがぬか喜びに終わる可能性だってある。
「う、嬉しいです。私も前から言おうと迷っていました」
思わず敬語が出てしまった。
今の自分の顔を相手に見せるのが忍びなくて思わず俯いてしまった。
「じゃ、じゃあ…」
「で、でも。あなたと付き合うことはできません」
彼女の勇気ある告白を棒に振るには私自身多大な勇気がいる。
「な、なんで。わたしじゃダメなの?」
今度は結衣の方が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「いや、結衣の気持ちを知れて嬉しかったのは事実だし、結衣のことが好きなのも本当だ。でも…付き合うことはできない」
「り、理由を教えてくれる?」
明らかに落胆している。本当に申し訳ない。あなたの覚悟を無下にしてしまって。
「…」
白の切り方がわからない。創意工夫を凝らしてそれっぽいことを言っても全てを見透かされているような威圧感がある。
「借金まみれとか?」
私は無言で首を横に振った。それだったら男として情けないの一言に尽きる。だからあなたのために借金返済に身を投じ、あなたがする前に私が告白していただろう。
「実は警察官じゃないとか?」
核心に近いところをついてきた。警察官を隠れ蓑にしているのは確かだが、職業上警察官であることに偽りはない。
「いや、警察署に勤めているのも本当だ」
「もしかして実は妻子持ちとか?」
結婚という言葉を使わなかったのは、私が独身なのを承知の上でどこかの人妻と不倫をしていると勘繰ったからだろうか。
「それも違う」
「じゃあ何? それぐらいじゃないの、私に言えない事情って」
私に差し迫った彼女の顔からは諦めきれないという表情が読み取れた。心が警鐘を鳴らしている。
「…」
彼女の食い気味に理由を尋ねてくる姿勢に私は耐えるので精一杯だった。
「私は直之に助けられた。つまらなかった人生があなたのおかげで楽しくなった。もっと、ずっと直之と一緒にいたいと思った。これじゃあダメなの?」
「結衣の気持ちは痛いほど伝わってる。でも…」
結衣のためでもあるが、世の中のためでもある。法律に縛られた世界で生きることがこんなにも不自由に感じたことはない。
「何がそんなにあなたを悩ませてるの?」
「言えない…」
ごめんなさい。あなたをコケにすることしかできない。
「それを聞いたら私が離れていくと思ってるから?」
それだけじゃない。
「…」
これまでは守秘義務というのに従っていたが、ここまで沈黙を貫いていると意地でも話したくなくなる。
「これでももう直之と一年ぐらい一緒にいる。私の想いも伝えた。今更何言われたってあなたのこと嫌いになんかならないよ」
結衣は私を真剣に問い詰めた。刑事ならよく取り調べで似たような言動を取っているはずだが、生憎警察もどきの自分にそんな経験はない。
どれだけ苦楽を共にしていようと絶望はどこからともなくやってくる。
「…」
私は俯いたまま、顔を上げることができなかった。
彼女のその声を聞くたびに彼女の必死の表情が脳裏に浮かぶ。彼女は今私を説得している。しかし愛に落ちるよう促しているのではない。私を苦しみから解放してくれようとしている。
「もしかして何か、罪を犯したの? それで逃げ回ってるとか?」
「…」
口を破るわけにはいかない。彼女の光が失われるのは火を見るよりも明らかだ。
「警察官ていう立場を利用して武器とかドラッグとかの横流し?」
仮説が一人歩きしてしまっている。
「そんなことはしていない。警察官として立派に働いていると自分では思ってる」
「他の犯罪って言えば、空き巣? 詐欺師? 放火魔? 泥棒?」
「な、なんの犯罪も犯してない!」
声を荒げた途端私は思った。そんなことを言えた義理は私にはない。「犯罪」という名前が付いてないだけなのかも知れない。
「じゃあなに? 教えて、お願い!」
私は恐る恐る顔を上げた。これ以上聞きたくない。これ以上彼女の口からそんな言葉を言わせたくない。
「これを聞いたら間違いなく君は私の前からいなくなる」
胸騒ぎが止まらない。苦しい。ここまで自分の過去を呪ったことはない。
「そんなこと勝手に決めつけないで。私は直之のことが好きだし、手放したくない」
そんな言葉を言われたのは初めてだ。ここまで自分のことを思ってくれる人がいるなんて。心が揺さぶられ続けて、今にも崩れ落ちそうだった。
「お願い、話して」
彼女の目はいつになく真剣だった。
彼女なら信じられるかもしれない。いや軽率だ。
彼女になら全てを話しても受け取ってくれるかも知れない。いや浮き足立っているにすぎない。
もっと彼女を教えたい。もっと彼女を笑わせたい。もっと彼女と一緒にいたい。
そしてついに自分の真の感情を心の奥深くで抑制していた硬い硬い理性が砕けた。
「私は…人間じゃない…」




