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八月の路地裏と青空のレクイエム

作者: 瀬嵐しるん


「ただいま帰りました。先生、手紙が来ていましたよ」


時代に取り残されたような、閑静な住宅街。

この街が気に入り、結婚を機会に古い家を買ってリノベーションした。


玄関から声をかけてきたのは、僕の押しかけ弟子。

八月の暑い午後、窓を開け放したリビングにいた僕は封書を受け取った。


「おかえり、ありがとう」


裏を見れば、知らぬ名前だ。


「それから、今日は贅沢して桜桃堂のフルーツゼリーを買ってきました」


「久しぶりだな」


駅前の商店街の老舗洋菓子屋。

どこか懐かしいフルーツゼリーは僕の好物だ。

彼女も好きだった。


「お仏壇用には日持ちのする贈答用のを買ってきました」


気が利くな、と言えば弟子はえへへと笑う。

数日後には、それも僕と弟子の腹に収まるのだろう。


冷たいお茶と冷たいゼリーで一服した後、手紙を開けた。



『初めまして。

突然のお便り、失礼いたします。


先生のピアノ曲を、先日ラジオで耳にいたしました。

その時に沸き上がった気持ちをお伝えしたく、筆を執った次第です。


私事ですが、三年前に次男を交通事故で亡くしました。

運が悪い、としか言いようのない多重事故で、直接、息子にぶつかった車の運転者の方もまた、被害者と言えました。


ひき逃げでもなく、事故の説明は十分に受け、賠償もきちんとされました。

でも、ぽっかりと心に穴が空いて、それは埋まることがありません。


気晴らしに家族にドライブに誘われ、弁当を作ろうとすれば、あの子の好きな物が浮かんできます。

そしてすぐに、ああ、食べてくれるあの子はいないんだった、と手が止まってしまいました。



先生の作曲された『青空のレクイエム』拝聴いたしました。


目を閉じれば、心の中に曲が流れ込み、青空と海と白い雲が浮かんできます。

小さなあの子が、夏の水際で笑っていました。

おかあさん、と手を振っていました。


涙が溢れて止まりませんでした。


あの子はいなくなったんじゃない。

私の人生の中に、私の心の中に、確かにいるのだとわかりました。


それまでの私は、どこかに恨みや後悔を探していた気がします。

そこに答えが、あるいは救いがあると思い込んでいたかもしれません。


あの曲に身を任せた時、わかりました。

私はこれからも、ただ、あの子を愛していていいんだと……』




読み終わった後、俯いて黙ったままの僕に弟子が話しかけて来る。


「先生? なんの手紙だったんです?」


読んでみろ、と差し出す。

途中からボロボロ涙を流し始めた弟子に、ティッシュの箱を押し付けた。



僕は作曲家だ。

作るのは主にピアノ曲。


『青空のレクイエム』は音大時代に夏の課題として作曲した。

教授がランダムに割り振って行き、僕に当たったテーマが偶然、レクイエムだったのだ。


正直、二十歳そこそこの、のほほんとした僕には荷が重かった。

名曲を手あたりしだい聴いてはみたものの、ピンと来ない。


そうして、期限まで残りわずかとなった頃。

僕は彼女に出会った。



駅と音大の間にある、ちょっとした裏道。

八月の路地裏は茹だるような暑さで、聞こえるのは蝉の声だけだった。


足音に振り返った彼女は酷く驚いていた。


彼女は同じ音大のマドンナ。

ピアノが超上手くて、前年はミス音大に選ばれている。

面識はなくとも、顔は知っていた。


「音大の学生?」


訊かれて頷いた。

同じ穴の狢というか、同時代に同じ場所に所属していると、それなりに見ただけで通じ合う時もある。


「わたしも」


彼女はにっこりと笑った。

瞬間、蝉の声が止んだ。


「あの、何か驚かせたのかな?」


僕は思い切って尋ねてみた。

彼女はキョトンとしたが、やがて笑い出す。


「ごめんなさい。驚き過ぎたわね。

人が来るとは思わなかったのよ」


続く彼女の言葉は、まるで……


「こんな、八月の路地裏はね、たいてい誰もいないの。

晴天が続いて暑い午後は、ここを通る時、誰とも会わない。

いつもならうろつく野良猫すら、日陰に隠れて出て来ない。

世界に独りぼっちみたいで、とても寂しい場所よ。

なんだか、世界の裏側に迷い込んだような気持ちになるわ。

……死後の世界って、こんな景色かしら?」


まるで、僕を導くかのような言葉に絶句した。


「え? 変なこと言った?」


雰囲気を察した彼女が、訝しむ。

僕は慌てて言い訳した。


「……実は、夏の課題でレクイエムの作曲をしなくちゃいけなくて。

すごいヒントをもらった気がする」


「それは、よかったわね。書けそう?」


「ああ、ありがとう」


「学園祭で披露する?」


「うーん、合格点がもらえれば?」


「もしも、ピアノ曲にするなら声をかけて。わたしが弾きたい」


「君に演奏してもらえるような曲に出来るかな……」


「是非、わたしに相応しい曲にしてちょうだい!

……冗談よ。でも、楽しみにしてる」



悩んでいたのが嘘のように、一週間ほどで曲は仕上がった。

提出用の楽譜と一緒に、彼女に見せる分もコピーした。


放課後のピアノ練習室。

初見で見事に弾きこなした彼女は、終わった後しばらくしてから口を開いた。


「素敵ね。八月の空みたい。

青いの。だけど少し寂しい」


彼女は本当に寂し気で、思わず抱き寄せていた。



十月の初頭。

学園祭では、彼女が弾いてくれた僕のレクイエムが話題になった。


その後、音大のOBであるレコード会社のプロデューサーから声がかかりCDにしてもらった。

タイミングが良かったのだろう。

ミニシアター向けの映画のテーマ曲にまで選ばれたのだ。

流行歌のようにはいかないが、クラシックとしてはそこそこのヒットになった。


売り上げには、演奏を担当してくれた我が愛しの美人妻によるジャケット写真も大いに貢献していたはずだ。

そう、卒業後すぐ、僕たちは結婚した。


音大を卒業したら、てっきり売れっ子ピアニストの道を驀進するのだろうと思っていた彼女は、ピアノの個人教室を開くと言い出した。


例のプロデューサーが話を聞きつけて、教室用の物件を紹介してくれた。

丁度その頃、レコード会社がピアノメーカーと共に、廃業した工場跡にピアノの貸し練習場を作ったのだ。

その一室を優先的に使わせてもらえることになり、彼女は初期投資ゼロでピアノ教師になった。


『青空のレクイエム』が売れた僕は、金持ちになったわけでも売れっ子になったわけでもない。

しかし、その後もOBプロデューサーが声をかけてくれ、四年に一度のペースで出す新譜アルバムがそこそこ売れた。

クラシックは当たれば、じわじわと長く売れる。

忘れた頃にテレビ番組のBGMに使われると、また少し稼げる。

作曲家一本で食えているというのは、本当に幸運なことだ。



そんなこんなで、彼女との共働きの結婚生活はまあまあ穏やかに過ぎて行った。

子供は、いてもいなくても、と二人で話していたが、結局は二人家族のまま。


四十路に入って、しばらくした頃だった。


彼女が病気になった。

少しずつ体力が落ちていくもので、もって二年と言われた。


「大往生には若いわね。

あなたを残して逝くのは心残りだけど、お別れの時間があるのはよかったわ」


自宅のベッドで、彼女は穏やかに笑った。

家仕事なのをいいことに、僕は仕事そっちのけで彼女をかまった。


目を離せば、僕が泣くとでも思ったのか。

煩わしいだろうに、彼女は僕を側に置いてくれた。


ベッドの傍らに小さなキーボードを持ち込んで、時々リクエストに応えた。

即興で作曲もした。


優しい曲がいい、と彼女が言った。

いくつも作った、初心者にも演奏しやすいピアノ曲は、後に楽譜として出版した。


彼女のアドバイスは、いつも僕に未来をくれる。



最期の日は、唐突に来た。

度忘れした曲の譜面を探しに行ってる間に、彼女は旅立ってしまったのだ。

それから、その曲をずいぶん練習した。もう忘れないように。


『あの路地裏で待ってる。

あなたが、天寿を全うして会いに来てくれるのを』


闘病生活のさなか、彼女はぽつりと言った。



八月の路地裏に神様は二台のピアノを置いてくれるだろうか?

また彼女と、連弾がしたかった。



「連弾用のピアノ曲を作ろうかな……」


「……いいでずねぇ」


チーンと鼻をかみながら、弟子が同意をしてくれた。






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― 新着の感想 ―
[良い点] 何度読み返しても優しくて切なくて、うるっと来ます。
[良い点] 淡々とした主人公の語り口の中から、言葉に出来ない切なさが滲み出ていました。あまり多くを語らず、無駄な脚色もなく、そんなふうに厳選され研ぎ澄まされた文章だからこそ、輝きを放っているような気が…
[一言] すっごく切ない!
2023/05/05 13:14 退会済み
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