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Episode1-1-2

プロローグ


 終わらない戦争。

 それは内界の全ての国を巻き込んで、千年間も続いた戦乱期の総称である。

 戦いの始まりは、千年前に一人の冒険者が『外界』という新大陸を発見したことが起因とされている。未知なる世界にある未知なる資源に、内界の国々は競うようにして調査団を外界に派遣した。新世界の利権争いは激化し、やがて国同士が新大陸の領地を巡って戦い始める。

 千年間も続く戦いの中で、多くの国々が戦火の中で燃え尽きた。巨大な戦禍に住む場所を失った多くの難民が、安寧の地を求めて内界のあちこちを彷徨い続けている。

 終わりの見えない戦争に、内界の人々は絶望に打ちひしがれていた。それなのに誰一人争いを止めることはできなかった。反戦を訴えかけても、それに反抗する勢力が現れて互いに争い始める。何をしても火に油を注ぐ結果しか生まない。

 いつしか人々は、世界が滅びるまでこの戦争が続くと信じ込んでいた。

 ゆえの終わらない戦争。内界の全ての国が滅び、内界に住まう人々が死に絶えるまで続く争い。世界の終末を予言する黙示録のように、内界の人々は世界の終りが来るまでに自分がいつ死ぬのを、死に希望を抱く諦観した気持ちでその日を待ち続けていた。

 そして終わらない戦争は、内界三大帝国の一つであるガストラ帝国が、永世中立を宣言する宗教国家ニサンに攻め込んだことで最終局面を迎える。宗教国家ニサンは、長く続く戦乱の世界を嘆き、平和を願う一人のシスターによって樹立された国である。彼女の慈愛を教義とし、内界で唯一平和を訴え続け戦禍に見舞われた人々に救いの手を差し伸べるニサンは、内界の人々にとっての平和のシンボルであり戦争終結への希望であった。内界の全ての国々の指導者達も国民と同じ思いを抱き、暗黙のルールとしてニサンへの不可侵を誓っていた。

 しかし、その禁忌が破られたのだ。それも、考えられるかぎり最悪で残酷な形として、である。

 西暦一九一四年、ガストラ帝国は宣戦布告も無く、宗教国家ニサンへの侵略を開始した。

 長く続く戦乱の世の中で、宗教国家ニサンは平穏な世界を望む内界の人々にとっての平和の象徴であった。しかし、その国はガストラ帝国の圧倒的軍事力によって蹂躪されたのだ。家々は焼かれ、ニサンに逃延びていた難民の多くが虐殺された。内界の平和の象徴とされている大聖堂と聖母像も破壊された。それだけでなくガストラ帝国皇帝は、ニサンを統治運営する法王府の大教母を、戦火に逃げ惑う人々の目の前で銃殺した。

ガストラ帝国の非道な行いに、内界に住む全ての人々が怒り狂った。宗教国家ニサンを支援する多くの国々が、内界征服を狙うガストラ帝国の横暴に立ち上がった。ガストラ帝国と内界の覇権を争う神聖ソラリス帝国、ロザリア帝国の二帝国もこれを機に内界征服に動き出す。それだけでなく他の大国もこの事態に静観しているわけがなかった。

内界に存続する全ての国々で戦争の準備が始まった。

世界の終末を予言する黙示録通りに、世界の終わりを告げる世界終末の戦争が始まろうとしている。

誰もが自分達の愚かさに嘆き悲しんだ。

誰もが争いを止めることができないことに怒り叫んだ。

誰もが希望を捨て、未来を諦めた。

世界は終わったと、誰もが思っていた。だが、何故か世界は終わらなかった。

何故なら、人々が気が付いた時には、戦争が終わっていたのだからだ。

誰も知らない内に、終わらないと思っていた終わらない戦争が、何故か終わっていた。

冗談のように聞こえるかも知れないが、それが事実であるから今があるのだ。戦争の準備をしていた全ての国々が、唐突に開かれた世界会議に集結して戦争の終結を宣言する講和条約に調印したのだ。

まるで戸棚の奥に隠されていた砂糖菓子でも見つけたかのように、内界に住む誰もが願い求めた平和が突然訪れたのだ。当惑としながらも、人々はようやく訪れた平穏な日々を安心して過ごしていたのかといったら、当時は決してそんなことはなかった。

千年間も続いた争いが、一枚の紙切れですぐに消えるはずも無く、各国の国境線では非公式での小規模な争いが続いていた。戦火は内界の至る所で燻り続け、住処を失っていた多くの難民が安住の地を求めて彷徨っている。

 何よりも戦争が終わったことを、当時の人々は信じることができなかった。誰もが再び始まるであろう終わらない戦争に、一部の者は刃を研いで戦争の開始を待ち、一部の者は怯えて暮らしていた。

 だが、未来を生きる我々だからこそ知り得ることがある。

 結局の所、現在に至るまで終わらない戦争と同規模の戦争は起きなかった。地域を限定とした小規模な争いはあったが、世界は危うい均衡の上に今日まで平和を何とか保っている。それが今後長く継続させるのが、目下現在を生きる我々の義務であろう。

 その為にも我々歴史人類学者が解明すべき謎は、現在一つに集約されている。それは何故終わらないとされていた戦争が、どのようにして、しかも唐突に終わったのかだ。

世界会議が開かれ、講和条約に全て国が調印したのが西暦一九四五年のことである。

 だが、そもそも何故世界会議が開かれたのだ。なぜ講和条約がなされたのか。

当時の内界の全ての国が戦争の準備をしていた時に、だ。

誰もが平和ではなく戦うことを選択していた時に、だ。

歴史をどれだけ調べても、その疑問を晴らす歴史的証拠は残されていない。だが、その辺りの歴史を調べると必ず一つの逸話が否応も無く眼につくようになる。どれも聞くだけで、当時の人々の正気を疑いたくなるような馬鹿げた話ばかりである。

いわく、一人の少女が三大帝国を武力でもって屈服させた。

いわく、一人の少女が世界の終末を齎す強大なドラゴンを倒した。

いわく、一人の少女に内界の全ての国は逆らうことができなかった。

いわく、その少女が終らない戦争を終わらせた。

そんな子供が喜びそうな英雄のお伽噺が内界の各地に残されている。

それが、今に各国に残る紅の戦乙女の勳しだ。この逸話がいつ生まれたのか調べてみると、国ごとで異なる勲しの共通点が見つける。五十年前のガストラ進攻後、ニサンの周辺の国々が始まりであるのが解かった。だが彼女が本当に実在したのかは解からない。だが、その逸話を証明する歴史的事件は数多く残されている。

歴史家の多くが、紅の戦乙女は実在すると認識している。それは確かなことだからだ。彼女の存在を証明する歴史的事実は、目下世界中の歴史家があらゆる資料を血眼になって探している所である。

だが、彼女が何者なのかはいまだに謎のままである。

 


第二章『出会い』



 宗教国家『ニサン』、ガストラ帝国に攻め込まれてから半世紀近くもの長い年月が経とうとしている。内界の様々な国々の支援もあってか、宗教国家ニサンはようやくかつての姿を取り戻しつつあるが、国内の至る所にはいまだに戦火の傷跡が色濃く残っている。

戦禍に住む家を無くした難民が、毎日絶え間なく救いを求めてやってくる。国境周辺には難民達によるキャンプが無数に点在し、入国できる日を待ちわびている。内界で千年間も続けられた終わらない戦いの爪痕は濃くて深い。終わったというが、本当に終わったのか疑わしい。絶える様子の無い難民の数から見ても、内界では悲惨な状況がいまなお続いている。

ニサンの復興への道のりは遠い。だが、少なくともニサンではかつての平穏な日常が戻りつつある。

大聖堂の前の広場は今日も騒々しいくらいの活気に満ちていた。

修復作業中の大聖堂前の広場は、内界各国から派遣された支援団体の様々なテントが立ち並び、広場は多くの人々がひしめき合っている。各国から復興支援の為に聖堂や教会といった建物の修復する作業員達が、がなりながら建材を担いで広場を突っ切って行く。野戦病院では各国からボランティアで訪れた医師と看護師達が、怒鳴りながら無数の傷病人を治療している。炊き出しの暖かな白煙があちこちで立ち上り、多くの難民達が我先にと食料を求めて立ち並ぶ。

嘆きや苦しみ、痛みや怒り、広場は耳を聾するほどの声で埋め尽くされている。そんな騒然とした中、ニサンのシスター達も声を張り上げて懸命に働いていた。炊き出しを配る時、怪我人や病人の介護をする時、難民に声をかける彼女達の声には慈愛が満ちている。そんなシスター達の声が、陰鬱とした空気が立ち込める広場の刺々しい雰囲気を和らげていく。

終らない戦争が終わった内界で、唯一この地だけが平和の訪れを感じさせてくれる。子供達はいつ降り注ぐか解からない戦火に怯えなくて済む。大人達はいつ始まる戦いに備えずに済む。誰かが笑えば、誰かが笑う。誰かが喜べば、その喜びを分かち合える。

いつしか広場は陽気な活気さで満たされていた。そんな彼らをニサンの復興のシンボルであり、平和を願って建造されたシスターの像が優しい微笑みを湛えて見下ろしていた。ガストラ帝国に攻められた際に、当時ニサンに集まっていた難民の為にその身を犠牲にして守った聖女の像である。

その活気あふれる賑やかさは、修復中の大聖堂三階にある一室は大教母の執務室にまで伝わっていた。

大教母とは、ニサンの政治と統治を司る法王庁の最高権力者であり、実質ニサンの統治者である。現大教母アグネス・デートメルス、荒廃したニサンの復興に尽力したシスターである。高い政治力と外交力を持ち、彼女がいなければニサンという国は消え失せていただろう。五十年前のガストラ進攻の際に殺害された大教母の後を継いだ彼女は、内界の終わらない戦争を終わらせる為の要因となる政策を次々と打ち出した。互いに牽制し合う内界の国々との仲介をし、それらの国を束ね内界三大帝国に対抗する為の連合協定の設立は、終わらない戦争を終わらせた大きな要因の一つといえよう。戦後、ガストラ帝国からの多額の慰謝料を文字通りふんだくった。その慰謝料の金額は、当時の軍事力で最大の力を持つガストラ帝国を疲弊させるほどの大金である。彼女はその金額のほとんどをニサンの復興ではなく、戦いによって住処を失った難民達を救済措置の為に使用した。

これらの功績から、彼女は鉄の聖女の異名を持つ異色のシスターとなる。ちなみに、ニサンの復興資金は内界各国からの多額の支援金から成り立っている。支援金を出す国の全てが、アグネスの政策のおかげで国家滅亡を防ぐことができた国々だ。

大教母の執務室は清貧さに満ちていた。執務をする上で必要最低限の調度品しか置かれていない。ニサンにあった歴史的に価値のあった多くの物が失われていた。大きな執務机の周辺の乱雑さから、現大教母の激務が窺える。塵も埃もないほどに清潔さが保たれているが、これは主にアグネスの性格もあるだろう。

執務机の前には、来客用のテーブルとソファが置かれている。仕様も大きさも大教母の執務室には似つかわしくない。それぞれがニサンに訪れた難民や周辺国から贈られた物である。

そのソファに一人の少女が座っていた。まるで燃え盛る太陽を思わせる少女である。赤い髪に炎のような輝きを持つ赤い瞳だ。幼い見た目だが顔立ちは美しく整っており、大人になったならば間違いなく絶世の美女となるだろう。その姿から古代文明の神話に出てくる太陽神を思わせる神秘さを感じさせる。

しかし、少女からは見るのも触れるのも危険な雰囲気が漂っている。少女の真っ赤な瞳は太陽そのものを宿しているかのようだ。

太陽は二つの面を持つ。ある神話物語に、太陽の光に導かれて空を飛んだ少年の話がある。彼は太陽へ近づこうとするが、近づきすぎた彼はその炎で燃え尽きたという内容だ。

彼女の瞳はまさしくそれだ。全てを照らす太陽の光では無くて、すべてを飲み込み燃やし尽くす太陽の火だ。

少女の背後には、二人の絶世の美女が無言と佇んでいる。その風貌から両者共エルフであるのが一目で解かる。亜人種族の中でも最も長命で、最も美しい様子を持つ、数ある亜人種族の中でも最も知名度があり人気がある種族だ。だが両者とも、ファンタジー小説で語られるエルフ像とは少し異なっている。

一人は夜を落し込んだような紫の髪と瞳に白い肌。後の一人は奔放さと妖艶さを感じさせる褐色の肌色に金色に輝く髪と瞳。前者をナイトエルフ、後者をダークエルフ、エルフの亜種である。

三人は座れる大きなソファに一人に少女は傲岸不遜と座っている。周辺のとある国王は、ニサンの大教母に逆らうことはできない。現在に至っては畏怖の対象であろう。それだけではない。内界にある全ての国がその規模の大小に関係無く、ニサンの大教母を蔑ろに扱われることはない。特に現大教母に至っては、内界三大帝国の皇帝達が彼女の顔色を窺っているくらいだ。

それだけの強大な権力を持つ大教母の執務室で、少女は退屈そうに欠伸をかいた。大きく手を広げてソファの背もたれに体を預けている姿は、まるでこの部屋の主のような態度だ。客人のもてなしを仰せつかっている侍女のシスターは、少女の尊大な態度に困惑とした様子だ。少女は苛立ちを抑えも隠そうともせずにいて、その様子を見ていたシスターは部屋の隅でビクビクと肩を震わせて怯えている。

「大体、人を呼びつけておいて待たせるってのはどういった心境なの? アタシにだって予定ってのがあるのに、古くからの友誼だからってそれに甘えられても困るのよね」

 少女は口汚い文句を漏らしながら、紅茶の注がれたカップを汚らしい音を立てながら飲み干した。部屋で唯一の安全地帯であるかのように、部屋の隅で縮こまっていたシスターが慌ただしく進み出た。侍女のシスターは、恐る恐るといった手つきで空のカップに紅茶を注いでいく。シスターは初めて見た時から、十代前半にしか見えない少女に恐れを抱いていた。彼女の強く燃え盛る炎のような瞳に畏怖していた。それは未開拓地の原始人が火を見た時と同じ反応である。

「大体、送られた手紙の内容もムカつくのよね。向こうから助けを求めてきておいて、どこか上から目線で、しかも昔のことで恩着せがましく頼って来るって、ぶっちゃけどう思う?」

 少女は仰け反って、背後のエルフ達に言う。エルフは何も答えず、黙然と立ち尽くしていた。少女の声が聞えないわけでもなければ、少女の問い掛けを無視しているわけでもない。

「アナタはどう思う?」

 少女は紅茶を注ぎ終わってばかりのシスターに声を掛ける。突然のことに驚いたシスターは危うく手にしたポットを落すところだった。

「あ、アグネス様はとてもお忙しい御方ですので」

 シスターは少女と視線を合わせないようにした。シスターには少女の赤い瞳が燃え盛る炎のように見えた。見られているだけでも、身を焼かれているような錯覚を覚えた。

「だからって、呼び付けた人を一何時間待たせて良い理由にはならないでしょ?」

「い、今、今はとても大変で……と、とてもお忙しい時ですので」

弱弱しく、たどたどしく、シスターは答えるとその場から逃げるように少女から離れた。そんなシスターの態度に少女は気にした様子もなく、紅茶が注がれたカップを飲みながら文句を漏らし続ける。

「この世界で唯一忙しいのはアイツなわけじゃない。あと、この世界で一番忙しいのもアイツでもない。問題なのは、この私を待たせているという事実だけなのよ!」

 大きな声で文句を言う少女に、シスターは目の前で雷が落ちたかのように恐れ慄いて小さく悲鳴を上げた。後ろに控える二人のエルフは動じた様子を微塵も見せず、ただ静寂で身を固めているかのようにその場で立っていた。まるで少女を守る影のように。

 少女は紅茶を一息で飲み干すと、荒々しく音を立ててカップ皿に置いた。

「ファリエス! もう何時間経った?」

「そうですね。この部屋に来て十分程でしょうか」

 ここでエルフのうちの片方が口を開いた。ナイトエルフの方である。朝露で濡れた葉から零れ落ちた滴が湖面を叩くような、静かさの中に深々と響く美しい声音だ。だが、どこか氷のような固さと冷たさを感じさせる。

「もう待ってられない。二人とも帰るわよ!」

「ちなみに今日を含めると一か月前から暇を持て余している状況が続いているかと思うのですが」

 立ち上がろうとする少女の頭を抑えつけたのは、ナイトエルフの氷を叩いたような冷たい声だった。

「……ファリエス、それは一体何が言いたいの?」

「いえ、私としてはここらあたりで『久々に』一仕事受けておきたいというのがあります。ただでさえ我がギルドのギルドマスターが、クエストの受注を自分の好みと気分でなさるので、ここ一か月以上も内界で余暇を楽しめましたし。何よりもニサンからのクエストを受けておけば今後何かと我がギルドに『メリット』がある、そう言いたいのですが。仰ってもよろしいでしょうか?」

 ダークエルフの声には、露骨な棘が込められている。だが、そんなものにこの少女が怯むはずもない。

 少女は不敵な笑みを浮かべて、挑戦的な口調で答えた。真っ赤な瞳が炎のように揺らめいている。

「あら、それならいくらでもクエストを受注してあげるけど?」

 これにはナイトエルフはこめかみを押さえて疲労困憊とした溜息を漏らした。

「やめてください。そんなことを許可したら、貴方はギルドメンバーの構成を無視して高難度のクエストばかり受けるはずです。そんなことされたら、クエストクリアの為の調整で私が過労死します。ただでさえ我がギルドはメンバーの数が少ないうえに、所在不明者ばかりだというのに」

「それが貴方の仕事じゃないの?」

「私の主な役目はギルド運営の資金の管轄だったはずですが。業界での私の異名をお忘れですか?」

「あら、貴方は私の優秀な片腕でしょ? ならば、何でもできるはずよ。無理なことはないし、無理だと拒むことを私は許さない」

 否定も拒絶も許さない力強い言葉で言い放つ少女からは、見た目から感じさせる幼さが消え失せていた。見据える紅蓮の瞳からは、強烈なまでの攻撃的な意思で燃えている。まさに太陽だ。その瞳には手を伸ばしたくなる魅力があるが、触れればその身を焼かれるだけ。遠目で少女の瞳を見ていたシスターは、その瞳を心の底から恐れながらも視線を動かすことができなかった。

 ナイトエルフは無表情で息を静かに飲み込んだ。ジリジリと焼けつくような少女から受けるプレッシャーに負けることなく、ナイトエルフは氷のように冷たい瞳で少女と視線を合わせ続けた。

「少しは私の労苦を減らして貰いたいですがね」

「アタシはね、出来ない奴には仕事をさせないし、期待もしない。貴方は出来るし、私の期待を絶対に裏切らない」

 見た目が幼いの少女とは思えない言い様だ。他者を屈服させるような重圧を帯びた超然とした雰囲気を纏う少女の台詞に、ナイトエルフは言い返す言葉が一語も出てこなかった。人間の何倍もの寿命を持つエルフから見れば、目の前の十数年しか生きていないであろう少女の存在など取るに足らないはずだ。だが、ナイトエルフは少女の赤々と燃え上がる瞳に圧倒されている。

 少女はそんなエルフの心情を弄ぶように、婉然と微笑むと挑発するように言う。

「違う?」

ナイトエルフに言い返す気力は失せている。ただ無言と、一瞬だけ目を伏せて頷くと、口を氷で閉ざしたかのように押し黙って少女の赤い双眸を見つめた。

 少女が前へ向き直ると、終始黙って二人の成り行きを見ていたダークエルフが、ナイトエルフに向かって勝ち誇るような笑みを浮かべる。ナイトエルフはそれを横目で見るが、冷え切った視線でその侮辱的な笑みを一蹴した。

「それじゃ、二人とも行くよ」

 少女がそう言って立ち上がろうとすると、これまでどうにかして持て成していたシスターが慌てて進路上に立ち塞がった。

「ちょっと、何よ」

「あ、ああ、あと少し、あと少しだけ、お、お待ちください!」

 少女に睨まれた為に、シスターは恐怖のあまりに顔を引きつらせていた。両目に涙を溜めて、畏怖に屈従しそうになる気持ちを奮い立たせて、少女に向かってこの場に少女を留まらせよう必死に哀願する。

 小柄な少女よりも頭を低くして頼み込むシスターを前に、これまで他者を屈服させる超然とした雰囲気を纏っていた少女が困惑した表情を浮かべた。

「まったくアナタもアイツに負けず劣らずの頑固者ね」

 頭を下げて必死に懇願するシスターの耳には少女の声は聞こえていないし、少女の表情も見ていない。シスターの涙混じりの懇願は部屋の外の廊下にまで響き渡っていた。

「まったく何事なの? 廊下にまで聞こえる様な大声を上げて」

 気が付くと部屋の扉は開かれていた。そこには、一人の年老いたシスターが呆れた様子で立っていた。この老女が、内界の平和の象徴として多くの人々から敬われ、周辺の国々の指導者から鉄の聖女として恐れられる宗教国家ニサンの大教母アグネス・デートメルスである。厳しくも威厳と慈愛に満ちた眼差しをした大教母は、隠しようもない色濃い疲弊を纏っているように見えた。

「ア、アグネス様!」

 現れた大教母アグネスの姿を見た時、シスターは天界から救世主が使わされたかのように喜んだ。涙ぐむシスターの様子に、アグネスはまるで一部始終を見ていたかのようにシスターの心情を理解した。

 シスターはアグネスに一礼をした後に、先程から彼女の定位置となっている安全地帯へと一目散に逃げて行く。部屋の隅でインテリアの一部となろうとするシスターを、アグネスは呆れながら見送る。

 そして、少女へと視線を移す。その瞬間、アグネスは息が止まるほどの思いに時間が急速に戻ったかのような錯覚に陥った。目眩がするほどの現在と過去が激しく入り乱れる心境に、アグネスは感情を抑えることが出来なかった。

「あ、あぁ! ……な、なんてことなの」

 ノスタルジックに惑わされたアグネスの声は震えていた。少女を見つめる瞳から、彼女がこれまで心の奥底で封じ込めていた思いが溢れて流れ出す。頬を涙がいくつも連なって伝って落ちる。その様子に部屋の隅で置物に鳴ろうとしていたシスターは、何事かと驚き慌てふためく。鉄の聖女と呼ばれる大教母が初めて見せた弱さに、彼女を抑え込んでいた恐怖は吹きとばされていた。

「アグネス様!」

 シスターは急いで大教母へと近寄ろうとするが、寸前で感情を抑え込んだアグネスの理性がそれを許さなかった。

「だ、大丈夫……大丈夫だから」

「で、ですが……」

 シスターが大教母へ向ける親愛と尊敬の念の強さが窺える。シスターは大教母が伸ばす手によってそれ以上近寄ることができない。だが、それでも彼女は心配そうな表情でアグネスの顔を見つめていた。

「ありがとう。でも……大丈夫、お願いだから」

 アグネスは顔を上に向けて、必死に自分の胸に渦巻く感情を抑え込もうとしていた。彼女の自制心の強さと気高さが窺える。荒廃したニサンの復興に尽力し、気丈に振る舞い続けたシスターは必死に自分を奮い立たせて、目の前で超然と彼女を見つめる少女を見据えた。

 大教母を捉えて動かない真っ赤な瞳の中に、アグネスは遠くへ置いて来た過去を見つめていた。

 アグネスは隙あらば傍に寄ってこようとするシスターを視線で牽制して、気丈に振る舞って彼女に命令する。

「シスターヘレナ。申し訳ないのだけれど、貴方は退室していてください。彼女と二人きりで話したいことがあるのです」

「……そんなわけにはまいりません」

 大教母の身を心配するシスターは、臆することなくソファに座り続ける少女を睨む。その敵意を少女は不敵な笑みで受け止めた。その姿にシスターは目の前の少女を少女として見ることをやめた。

「貴方が心配するようなことは何もありません。彼女は古い……そう、とても古い友人なの」

 アグネスの最後の言葉は、ノスタルジックに激しく揺らいでいた。シスターは大教母の言葉に首を傾げながらも、彼女の身を案じてその場を動くことはできなかった。そのシスターの思いを嬉しく思いながらも、アグネスはそれを拒むような厳しい表情で彼女に冷たく命じた。

「下がりなさい。私はもう大丈夫です。これから彼女と話すことは、貴方が聞いて良い内容では無いのです」

 鉄の聖女であるアグネスを取り巻く環境は、齢七十を迎えようとしている彼女にはあまりにも辛く厳しい。三大帝国は常に彼女の弱みを探し続け、周辺国の内部には彼女に決して良い感情を抱いていない者達が多くいる。

 五十年間、彼女は決して誰にも弱さを見せることは無かった。このたった一瞬だけである。今後、決して彼女は心を他人に見せることは無いだろう。彼女の顔には、鋼鉄の聖女の異名通りの厳格な鉄面皮が覆っていた。

 シスターは親愛を寄せる大教母のその姿勢に寂しさを抱きながらも、彼女の深くに隠した思いを理解して静かに一礼して部屋を出ようとする。

その背中を少女の一声が捕まえて引き戻らせた。

「ねぇ、部屋を出て行く前にお茶をもう一杯貰えないかしら?」

 シスターは信じられないような心情を露骨に出して振り返った。シスターに少女を客人として持て成す気持ちは無い。乱雑な所作で、少女の前に置かれたカップに紅茶を注ごうとした所で、隣から声を掛けられた。

「私にも一杯頂けるかしら」

 大教母の願いに、シスターは親しみを込めて応る。シスターが優先するのは慕う大教母願いだった。

「アタシとは随分対応が違いすぎるんじゃない? アタシはお客様なんだけど」

「アグネス様、それでは私は失礼させて頂きます。何か御用がありましたらお呼びください」

 シスターは少女の文句が聞えていないかのように、大教母にだけ体を向けて静かに一礼すると流麗な動きで退室する。

 そんなシスターに向かって、少女は立ちあがって更に声を上げた。

「ちょっと、待ちなさい。お茶、私のお茶は!」

 扉が静かに、だがシスターが少女に抱く強固とした拒絶の意思を感じさせるかのように閉められた。

「何なの? あの態度は。アグネス、一体どういう教育をしているの? アタシが同じようなことをしたら、必ず口煩く説教をアナタにされた覚えがあるんだけど」

「それはあの子以上に貴方が酷かったからです。お忘れかしら、隣国の王がご訪問された時に、アツアツのお茶をわざと王の頭に注いだのは誰だったかしら」

「それはアイツがシスターを歓楽街の娼婦と勘違いしているセクハラ親父だったからよ」

「そうね。貴方以外のシスターならば手当たり次第に、あの男はシスターに対してセクハラ行為を働いていたわね。だけど、貴方はあの方の趣味の範疇には入っていなかったはずだけど」

「それが最大の一因ね。殴らなかったんだから、むしろ感謝して欲しかったくらいよ。なんせその後、アタシのやった事は全シスターから称賛されたんだし。そういえば、あの王様を王位から退かせて監獄にぶち込んだのって、貴方じゃなかったかしら」

「ええ、あの方は男性で唯一私のお尻を遠慮なく撫でまわした殿方でしたので」

「だから永遠に他の女の尻を触れない所に閉じ込めておいた、ということかしら?」

「ええ、貴方は知らないでしょうけど、私はとっても嫉妬深い女なの」

 しばらく二人は無言と互いに挑発し合うように見つめ合った後、クスクスと笑い合い出した。

 そして、笑いが止むと薄いヴェールのような静寂が室内に垂れ込める。アグネスは静かに少女の姿を眺めていた。少女は老女の視線を薄笑みを浮かべて受け止めている。そんな少女の傲岸さが、アグネスの胸中に抑え込んだはずの弱さを呼び起こし始めた。室内には少女とアグネスの二人きりというわけではない。少女の背後には二人のエルフが付き従っているが、彼女達は少女の影に徹しているかのように存在感が気薄で、アグネスはエルフの存在に気を留めなかった。

 アグネスの瞳は再び遠い過去を見つめ始めた。アグネスの瞳は澄んで綺麗だが、疲れ切っているように見える。それは燃え尽きようとしている蝋燭の灯火に似ていた。

「貴方は、本当に変わらない」

 アグネスには隠す気がないのか、その声には溶けることのない悲しみで固まっていた。

「本当に変わらない。貴方はあの頃のまま私の前に現れた。本当に貴方は酷い人」

「若さの秘訣を教えて上げましょうか?」

 少女は不敵な笑みを浮かべて話を続ける。少女がよく見せる無邪気な可愛らしい笑顔とは異なる。背筋が怖気るようなゾッとする笑みだ。

「それはね、老いを感じない事よ。過去を、今を、考えない事よ。ただ遠くを見据えて、何も考えずに前を向いて進むだけ。脇見も、立ち止まって振り返ってはダメ。ただ前だけを見据えて進むだけ。それが若さを保つ秘訣よ」

 妖艶な色気を漂わせて言う少女からは、完全に幼さが消え失せている。見た目は十代前半にしか見えないが、艶然と笑みを浮かべる彼女の赤い瞳からは危険な雰囲気げ発せられていた。その赤い瞳に映り込むアグネスの姿は、まさしく神話で語られる太陽に魅せられた少年の如く太陽の炎に焼かれているかのようだ。

「アグネス、貴方と最後に会ったのはいつだったかしら。最後に貴方を見た時は、今みたいな老け方をしていなかったわ」

 アグネスは少女の瞳から逃げることなく、まっすくに見つめ返して平静とした様子で答える。

「今の私を、一体いつの頃の私と比べて見ているのですか。貴方と最後に会ったのは三十年近くも前ですよ。その時の私は、まだ四十になったばかり、今よりもまだまだ若かった頃」

「それでも、周囲からは二十代前半と変わらないくらい若く見えていたはずよ。実際、私が最後に会った時は、不覚にも驚かされたんだから。ここで過ごしていた時と何一つ変わらずそこにいた貴方の姿にね」

「その言葉を、私は何倍にもして貴方に返したいですけどね」

 少女の軽口に冷然と返すアグネスの返しに、少女は胸を反らして噴き返すように鼻で小さく笑った。そんな偉そうな態度の少女を、アグネスは過去を懐かしんでいるかのように柔らかな表情で見つめた。

「それにしても、ここも随分復興が進んだわね。最後に訪れた時は、思い出を探すこともできないくらいに荒れ果てていたのに」

「えぇ、それも多くの人々の助けがあったからです。今、広場で復興作業に携わる者も、難民の看護をしている者達も、全員が周辺国から無償で集まってくれた人々なのです」

「これも全ては鋼鉄の聖女のおかげかしら、アナタが世界会議で、三帝国から多額の支援金と大量の支援物資をあの手この手でふんだくったのは、今思い出しても痛快だったわね。平和条約の調印式だというのに、軍事力をちらつかせてすこしでも利権を得ようとしていた糞爺共の悔しそうな顔は、できることなら絵画にして後世に残し続けたいくらい」

 アグネスはそれらの支援金と支援物資のほとんどを、戦争によって傷ついた周辺国の復興と難民救済の為に使用している。ちなみに三帝国の内、賠償金も求められていたガストラ帝国はこれによって経済が大きく傾くことになったという。

「あれは私個人というよりも、私の背後に貴方という存在があったからでしょう。貴方の助力が無ければ、内界でも大規模の軍事力を有する大国の力を削ぐことは不可能だったでしょう」

「はて、なんのことを言っているのかは解からないけど、少なくとも私はこの国の復興に関しては何一つ関与していないのだけれども」

「それなら尚更、私だって何かをしたわけではありません。もし、これだけ早く復興できたのは、ひとえに積み重ねでしょう」

「積み重ね?」

 少女は空のカップの取っ手に指を突き入れて、クルクルを回している。ちなみにそのカップは、ある王国から贈与された高級食器である。

「この国は長い間、戦争を憂い戦禍に見舞われた国と人々の為に尽力してきました。先代の大教母、それよりもずっと前の、建国の母であり大聖母のソフィア様、そしてシスター達。そういった国が積み重ねてきた歴史のおかげがあって今があるのでしょう」

 アグネスは深い感謝の念から、自然と頭を下げて胸の前で手を組んだ。彼女の祈りは、今もなお外の広場で復興作業に順じているボランティアの人々に向けられている。

 そんなアグネスの様子を、少女の赤い瞳が無言と見つめている。その赤い瞳には怒りが込められているのを、瞼を閉じて祈りをささげているアグネスには知ることができなかった。

「ちなみに広場のあれはなんなの?」

 少女の問い掛けに、アグネスは閉じていた瞼を開ける。少女の声には、剣呑に研ぎ澄まされた鋭さがあった。実際にアグネスを見つめる不機嫌な様子の少女の瞳には、露骨な蔑みが浮かんでいる。

「満足した?」

 少女の言葉に、アグネスは拳を握りしめた。

「今、何と仰ったの?」

「あら、図星だった? 満足したのか、って聞いたのよ。老いすぎて耳まで遠くなった?」

 少女は嗜虐的な笑みを浮かべて、アグネスの心を掴んで引き離さない。

「あんな物まで作って、一体何なの? 彼女に対する当てつけかしら?」

 少女は窓を視線で示して言う。アグネスはそれだけで、少女が何を言いたいのか理解できた。大教母の執務室の窓を開ければ、大聖堂前の広場の中央にあるシスターの像を見下ろすことができる。この平和の象徴として建造されたシスター像は、アグネスの発案で建てられたものだ。宗教国ニサンの建国の母である聖母の像ではなく、アグネスがこのシスター像を建てたのは彼女なりの思いがあった。

少女の鋭い眼光は、そんなアグネスの薄暗い思いを見破っているかのようだ。少女の視線からは、友人が侮辱された時に抱いている怒りの感情が込められているかに見える。

「あの子だけじゃない。貴方にもよ」

 鉄の聖女とは思えない、感情を剥き出しにした声音でアグネスは少女を睨む。恨みがましく少女を見据えるアグネスの瞳は、戦後の復興のシンボルと人々から敬われる聖女の姿とは真逆の姿だ。

「私を置いて逝ってしまったあの子にも、私をこんな場所に置き去りにして遠くへ行く貴方にも。私を残して離れて行った二人を、私は……私は!」

 鉄の聖女の異名を持つ老女の鉄面皮を、涙が伝って流れ落ちる。少女を暗い感情の孕んだ瞳で睨むアグネスの姿は、慈愛の象徴とされる大教母にはあってはならない類のものだ。

「あっ、……あの子は、あの子は私を置いて……手の届かない遠くへ行ってしまった。もう二度とあの子の笑顔を見ることはできない。もう二度と。あ、あなたは、あなたは、あなたで!」

 激しく憤り体を震わせるアグネスは、腹の底から込み上げて来る激情を抑えることができなかった。毒を吐きだしているかのように苦しんだ様子だ。これまで押し殺していた感情に復讐されてもがき苦しんでいる。

 そんなアグネスの姿を、少女は静かに見つめていた。赤い瞳に映り込むアグネスの苦しむ姿は、地獄の業火に焼かれる亡者のように見える。

「私を、皆を、全部を置き去りにして、遠くへ行こうとしている! 私が追い掛けたくても、必死に呼び止めても、振り向きもしないで、足を止めようともしないで、あなたは遠くへ行ってしまう。私は、私は!」

 溜め込み続けた悲しみが溢れ出すのを、アグネスは止めることができなかった。顔を両手で覆って隠すが、それでも溢れ出る涙を押し留めることはできない。滂沱の涙は滴となって、指の隙間から零れ落ちていく。顔を伏せて嘆くアグネスからは、人々の希望の象徴とされる大教母の威厳が流れ落ちていた。

 いま、ここで悲しんでいるのは、まだ十代の見習いシスターだった頃のアグネスの姿そのものだった。

「なんで行っちゃうの? お願いだから、お願いだから、私を置いていかないで」

 嗚咽混じりで絞り出されたのは、アグネスの悲痛な叫びだった。彼女が今見ているのは、過去だ。彼女が捉えられているのは、ノスタルジックな希望だ。

 アグネスは恨みで歪んだ瞳で、少女の赤い瞳を睨んだ。彼女が見つめているのは、現在では無い。少女の赤い瞳を通して、かつての自分が置き去りにした過去を見ていた。

 怒りや不満、悲しみと嫉妬、そんな思いがまぜこぜとなった感情の矛先になりながらも、少女は決してアグネスの視線から逃げようとはしなかった。少女の目の前にいるのは、宗教国家ニサンの大教母ではない。少女の赤い瞳に映る今のアグネスは、かつて大教母に憧れていた一介の見習いシスターだった頃の彼女に戻っていた。かつての彼女に戻って、目の前の少女に昔のように感情をぶつけていた。

「……本当に、本当にあなたは酷い人」

 顔を覆い隠していた手を外して、顔を上げたアグネスの顔は嵐が過ぎ去った後のようだった。鉄の聖女の鉄面皮はズタボロに剥がれ落ちている。涙でずぶ濡れで、激しく感情が吹き乱れた為にしわくちゃになっていた。

 だが、彼女の全体から漂っていた暗澹とした固く押し固まった疲弊が吹き飛んでいた。嵐が過ぎ去った後の空のように、晴れ晴れとした爽快な笑みを浮かべている。

 少女はそんなアグネスの様子に、満足そうに踏ん反り返って勝ち誇ったような笑みを浮かべる。その様子は見た目通りの無邪気な少女に見えた。

「そう、私は酷い女なの。忘れたの?」

「そうでしたね。何度、あなたの尻拭いをさせられたことがあったことか。あなたは全てにおいて規格外のシスターでしたからね。掃除を頼めば、必ず何かしら壊す。怪我人の治療を任せれば、何故か怪我人の怪我は増えるし。病人の介護を任せれば、何故か疲労で倒れる人が増えるだけ。あの時は今以上に人の手はあったけど、それ以上に救いを求める人が多かった。なのに、貴方ときたら余計な厄介事ばかり増やすんだから」

「それは、アタシにそんなことを頼む人の責任よ。適材適所って言葉を知らないから、そんな事態に陥るのよ」

 少女は悪びれる様子もなく言う。アグネスは呆れたように嘆息一つ漏らして話を続ける。

「私も考えを改めて、力仕事なら大丈夫だろうと支給物資の運搬を任せて見ると、いつも輸送トラックの荷台にはたくさんの怪我人が詰め込まれて運ばれてくる。貴方に聞いてみれば」

「あれは、それを奪いに来た野盗共から物資を守る為に致しなく武力を行使した為よ」

「聖母に付き従う慈愛と慈悲の象徴たるシスターが、よもや過度の暴力行為をするなんて世も末だったわ」

「悪漢どもに聖母の慈悲は必要なし」

 悪びれもせずにいう少女の姿に、過去を見たアグネスはかつての感情が蘇って来たかのように憤った。

「貴方のそういう傲慢な所が大っ嫌い!」

「アタシはアナタのそういう真面目で口煩くて頑固な所が好きよ」

 アグネスとは対照的に、少女は笑みを浮かべながら言う。まるで気心の知れた友人と口喧嘩しているかのようだ。アグネス自身も、宗教国家ニサンの指導者である大教母という衣を脱ぎ捨てて、感情のままに少女にくどくどと文句を言い続ける。

「何度、大聖堂の壁を壊した事か。何度、聖母像を壊した事か。だけど、貴方は決して謝らないし、反省だってしない。貴方は普段から問題行動ばかりで、古参のシスター達から目の敵にされている貴方の為に、私がどれだけ奔走させられたか。貴方に私の気苦労が解かりませんか?」

「ちょっと待ってよ。言っておくけどね、それに関しては咎められるような事は何一つしていないわよ。あの頃は、難民の集団がやってくる度に、その中に混じって入ってくる馬鹿共が、介護しているシスターを商売女かなんかと勘違いして、毎回無理やり手籠めにしようとするから、その度に私は彼女達を守るために武力を行使しただけなのよ。大体、壁も像も直せばいいだけなんだから、あんなに口喧しく言わなくてもいいじゃない」

 反省の色一つ浮かべずに、アグネスの小言に口答えしてくる少女に対して、アグネスは目をつり上げる。

「貴方はいつもそうやって周囲の人達と軋轢ばかり作る! それを解消させられる私の身にもなってよ!」

「何よ、大体エルヴィラはその事で私を責めた事は一度も無かったわよ」

「エルヴィラ様!」

 エルヴィラはアグネスの先代の大教母である。五十年前のガストラ進攻の際に、難民やシスター達の前で銃殺された女性だ。アグネスは先代の大教母を心から慕い尊敬している。そんな人物を平然と呼び捨てにした少女を、アグネスは許すことができなかった。他の誰かなら、アグネスは冷静に聞き流すことができただろう。

 拳を固く握りしめて、立ち上がったアグネスは怒りのままに少女を責めたてた。

「どうして貴方は昔からそうなの! 大聖堂の壁はまだしも、聖母像は宗教国家ニサンの建国の象徴というわけじゃないのよ。聖母像は救いを求める人々の光なの。平和を願う人々の希望なの。それが壊されるということが、どういうことなのか。どうして、貴方にはそれが解からない」

 敵意を漲らせて、アグネスは見下ろす少女を睨んだ。抑えきれない怒りで、彼女の身体は震えている。

 アグネスの強烈な怒気に、これまで背後で少女の影のように無言と佇んでいた二人のエルフの表情が変わった。剥き出しの敵意を少女に向けるアグネスに対して、エルフ達は無表情で気配を断ったまま臨戦態勢を取る。

 室内の空気が張り詰めて行く。息が詰まるような緊張が漲る中、少女だけが冷静だった。

アグネスから激しい怒りをぶつけられながらも、少女常に平然とした様子で彼女から目を逸らさない。アグネスと話し始めてから、少女は何度老女が溜め込み続けて来た感情をぶつけられただろう。少女はこれまで一度だって、少女自身の感情が動揺した様子を見せない。

 少女は超然とした様子で、赤い瞳でアグネスを真っ直ぐに見つめ続けている。

「貴方は一体、何を考えているの? この国を愛していないの? エルヴィラ様に関してだってそうよ。あれだけよくして貰っていたのに、どうしてそうやって平然とあの方を呼び捨てにできたの? 貴方にとって、この国もエルヴィラ様も、この私だってそう!」

 そこでアグネスは少しだけ口を閉ざした。ほんの少しの沈黙の間、彼女が何を考えたのか解からない。だけど、次に言葉を吐きだした時には、彼女の胸で渦巻く怒りは消え失せていた。

「あの子の事も、貴方にとってはすでに過去にすぎないの?」

 少女に訴えるアグネスの姿は、まるで両親の愛を疑う思春期の少女のように見えた。体面に座る少女とはまるで真逆だ。激しく揺れ動く感情を制御できなくなっている今のアグネスは子供のように見える。それに対して少女は常に動じることなく、アグネスの言葉を受け止め続けている。

アグネスの縋るような眼で見つめられた少女は、ここで初めて視線を動かした。赤い瞳は下へ動き、ティーカップを見つめる。カップの中は先程からずっと空のままだ。赤い瞳は、次に左へ動き窓の外を眺めた。その視線の動きは、何かを探すというよりは何かを確認しているかのようにも見える。それはきっと少女自身にあることに違いない。

 少女が再び視線をアグネスに戻した時、彼女はすでに座っていた。平静さを取り戻したのか、これまで感情の吐露で乾いた口をお茶で潤している。そんなアグネスの様子を眺めて、少女は笑みを浮かべながら困った様に言う。

「信仰心の差、かしらね」

 肩をすくめる少女は、少女自身どうしようもないことをアグネスに示すように見える。アグネスはそんな少女の赤い瞳を見据えながら、静かにカップを置く。アグネスの瞳は、再び過去を眺めていた。

「アグネス、確かにここもアナタも、アタシにとっては過去よ。だけどね、過去の繋がりの先に今があるのよ。アタシは別にこの国に何も思っていないわけじゃない。ここのシスター達にも、アナタのことも、あの子のことも、アタシにとっても、それは同じよ。もし何もなければ、私がここにいるわけがないでしょ。アナタなら私のことが解かるはずよ」

「信仰心の差……そうね……そうだったわ。昔から私達と貴方との間には溝があった。あの頃はそれに気付いていたけど、大して気にしていなかった」

 アグネスは過去を求めて、視線を窓の外へと向けた。

「私はあの子が羨ましかった。あの子はその溝を飛び越えて、いつも貴方の傍らにいた。正直、私はそんなあの子に嫉妬していたわ。私とは違う形で、貴方に、深く、関われるあの子にね」

「あら、まるで私に恋をしている乙女のような言い振りね」

 少女はからかうように言う。だが、老女はその軽口を真面目に受け止めて、真剣な表情をして考え込む。

 そして、答えた。

「そうかもしれないわね。……いいえ、きっとそう、そうに違いないわ。私、貴方のことが大好きだった。心から慕っていた。愛していた」

「気持ちが悪いくらい素直な反応ね。大体アナタ、さっきは私のこと傲慢で嫌いって言ったじゃない」

 少女の指摘に、アグネスは懐かしむかのように少女の赤い瞳の先にいる過去の自分を見つめた。

 アグネスは立ち上がって窓辺に近づく。窓から下を覗けば、広場の中央に鎮座するシスターの像がアグネスを見上げていた。

「ええ、私は大嫌いだったし、貴方のことを心の底から恐れていた。貴方は我儘で奔放で、私が何を言っても聞いてくれたことなんて一度もなかった。貴方は何があっても頭は下げない。目上の者を敬わない。古参のシスター達だけでなく、エルヴィラ様にさえも、貴方は平然と意見を言うし刃向う。その傲慢さが怖かった。粗暴で野蛮、口は悪いし態度は誰よりも大きい、はっきり言って関わり合いになんてなりたくなかった」

「だけど、あの子以外では、アナタだけよ。直接私に口煩く文句を言ってきたのは」

「私には立場がありましたからね。誰かが貴方を諌めなければならなかった。当時は嫌な役割だとつくづく思いましたよ。そうでもなければ、きっと私は貴方には絶対に近寄らなかった」

 言葉を一つ、一つ、漏らす度にアグネスの胸が一つの感情で満たされていく。

「だけど、貴方と関わることで、何で誰もが貴方を無視だけないのか理解できた。皆、貴方を嫌って恐れていたけど、何故か無視することができなかった。憧れ、だったのかもしれないわね。何者にも何事にも捕らわれることのない自由な貴方を」

 置き去りにした過去を、アグネスは取り戻そうとするかのように過去を思い返し続ける。必死に追えば、過去を取り戻せると信じて、彼女は過去の自分を探しながら思いを綴る。

「貴方は誰との間にも、線を引いていなかった。誰との間にも溝なんて作っていなかった。それらを引いていたのも、作っていたのも私達だった。難民と関わる貴方を見て、私はそのことに気が付くことができた」

 振り返りながら、アグネスは自嘲気味に笑う。

「救いを求めて来る難民達、だけど彼等が本当に求めていたのは救いなんかじゃない。彼らが求めていたのは、一人の人間として平等に扱われること。貴方以外のシスターは、難民を難民として接していた。可哀想な人々として、憐れな人々として」

 そこでアグネスは言葉を止めた。彼女の思いは郷愁に満たされている。彼女は全てを忘れてしまっていた。立場も。責任も。過ぎ去った多くの時間と。遠くに置き去りにして来た過去との埋められない溝。

 少女の背後にいた二人のエルフは目を瞠った。二人は自分達の目前で何が起きているのか理解できなかった。先程までソファに座っていたはずの疲れ果てた老女の姿はどこにもなく、若々しい姿をしたシスターが思慕の笑みを浮かべて立っていた。

 今、二人のエルフの瞳に映る物をなんと表現すれば良いのだろう。

 夢、幻。

 もしくは奇跡。

 だが、冷酷に現実だけを捉える少女の瞳だけが、ノスタルジックに惑わされ浸る一人の老女の姿を捉えている。

 アグネスは理解しているだろうか。今、自分がどんな表情をして微笑んでいるのかを。彼女が自分の身に起きている現象を理解できることはない。

 時間を忘れてしまっている今の彼女では、不可能だ。

 そして、彼女が求める物は、永遠に手に入ることはない。

 決して。

「そんな貴方を私は愛していた。他のシスター達も、エルヴィラ様も、皆、貴方を心から愛していた。あの子だって、貴方を心から愛していた」

 アグネスは郷愁に捕われ続けたまま、黙して座する少女を見つめた。まるで縋るように、救いを求めるように。

 灼熱と燃える少女の赤い瞳は、無情にアグネスの希望を焼き尽くした。

 少女の瞳を見通したアグネスが実感したのは、取り戻すことのできない過ぎ去った時間の長さである。

 その瞬間、魔法は解けた。

「……貴方は……本当に……」

 少女の背後でずっと沈黙を保ち続けるダークエルフは、自分が目の当りにした事象を理解できなかった。ダークエルフは何度も目を擦って、自分が見ている者を確かめた。ダークエルフの視界には、先程までの妙齢の美しいシスターの姿はどこにもない。あるのは疲れ果てた老女が一人窓辺に立っているだけだ。

「貴方は、本当に酷い人」

 アグネスは思慕に満ちた眼差しで少女を見つめた。その視線を受け止める少女の瞳の先には、老女が置き去りにした過去がある。それだけでアグネスは心から祝福を受けたような気分に浸れた。

 アグネスは再び窓辺から見下ろせるシスター像を眺めた。

「そうね。私は満足してしまった。彼女の像を作った瞬間、私は自分に課した責務を果たせたような気がした」

 アグネスは胸を抑えた。広場のシスター像を見ると、アグネスの中に一つの思いを込み上げて来るからだ。

「私はあの子が大好きだった。コロコロと表情を変えて、良く笑うあの子が大好き。いつも賑やかで、むしろちょっと五月蠅いくらいだった。だけど、眩しいくらい明るくて。どれだけ悲しい時があっても、彼女がいると笑っていられる。不思議な子だった」

 ガラス越しに映るシスター像を、アグネスは愛しそうになぞる。

「あの子こそ本物の聖女。暗い世界を灯す希望の光、だった。だからこそ、私はガストラ帝国のことを絶対に許すことができない。彼女が歴史の彼方に忘れ去られてしまうことを受け止めることができなかった」

 ガストラ進攻の際、一人のシスターが難民の為に命を捧げた。まだ十代の少女は、進攻するガストラ軍の前に単身で立ち塞がった。

 少女は必死に平和を訴えた。だが、無情にも少女の命は散らされた。

 だが、シスターが作った僅かな時間のおかげで、多くの難民の命が救われた。各地で語り継がれる紅蓮の戦乙女の勳しの中には、彼女の物語と思われる節が何節も残されている。

「もし彼女が生きていれば、きっと私はあの子の補佐を務めていたはず。そして、たまに訪れた貴方とこうして三人で昔話に花を咲かせていたでしょうね」

 アグネスの心はいまだにノスタルジックに惑わされていた。少女は冷たい言葉で老女の縋る綱を断ち切った。

「過去は過去、『かも』は『かも』、今は今よ」

 リアリストの現実的な氷の言葉に、アグネスは嫌という程の現実の非情さに打ちのめされた。ノスタルジックに酔っていたいアグネスは、彼女を現在に呼び戻そうする少女を再び恨みがましく睨んだ。

 しかし、諦めたように表情を和らげる。埋められない物は、何をしたって埋めることはできない。アグネスの理性はそれを痛いほど理解している。

「そうですね。所詮は老女の古ぼけた妄想でしかありません。きっと、明日から私は今よりももっと老け込んでいるでしょうね。貴方のおかげで嫌という程、過ぎ去った過去を見つめ直させて頂いたので」

 そう言いながら、アグネスは少女の対面に座り直した。微笑む彼女には、長く生きた者だけが持つ疲れ果てた独特の雰囲気が漂っている。彼女の笑みは、諦観からくる抗う気持ちのない無気力な人間の笑みであった。

 少女はそんなアグネスの気持ちに棘のある言葉を投げつけた。

「それで、こんな意味のない思い出話をする為に、私を呼びつけたんじゃないでしょうね?」

 優しさの欠片も無いリアスト一色の言葉に、辟易とした様子でアグネスは一枚の写真を取り出した。

「旧知の縁を頼って、貴方にクエストの依頼を申し込ませて頂きます」

 少女は差し出された写真を手に取って眺めた。それはシスターの服を来た一人の少女の写真だった。亜麻色の髪に、エメラルドグリーンの瞳が印象的な、美しい顔立ちをした少女だ。

「一週間前、一人のシスターが行方不明になりました」

 写真の少女は、シスター服に身を包み貞淑にして厳かな雰囲気がある。しかし、少女のエメラルドグリーンの瞳が物語っている。活発な好奇心に輝く瞳から、少女はアグネスの心情を色々と察することができた。見るからにアグネスの手を焼くようなシスターだ。天真爛漫とした笑みからして、修道女としての教えを守っているような娘には見えない。

含むような笑みを浮かべてアグネスを観察する視線を無視して、アグネスは話を続ける。

「アンタの手に負える様な子じゃないでしょ」

「貴方よりは大分マシですよ。それに手を焼く子ほど可愛いですしね」

 アグネスは母親のような微笑みを浮かべる。

「彼女は何を勘違いしたのか知りませんが、彼女は一部の難民達を引き連れて『外界』へ渡るつもりです。恐らくは、難民達を外界へと亡命させるつもりでいるんでしょう」

「ふ~ん、なかなかに面白い子じゃない」

 少女は写真に写るシスターの、天真爛漫な笑みと好奇心が躍動するエメラルドグリーンの瞳に、ある一人のシスターの姿を重ねていた。

「いかにもここの常識に収まらなそうな子ね」

 少女の脳裏に浮かぶ人物と、写真のシスターとは似ても似つかない。だが、少女にはこの写真のシスターが何を考え、何を求めているのか理解できた。まだ一度も会った事もなければ話したことも無い相手なのに、少女には写真のシスターが何を求めて外界へ渡ろうとしているのか。この赤い瞳を煌々と輝かせて笑みを浮かべる少女は、写真のシスターのことを手に取るように理解できた。

「ユイガ、彼女を見つけ出して欲しいの」

 縋るように願うアグネスには、家でした娘を心配する母親のようだ。

 そんなアグネスの願いに少女は答えた。意地悪な笑みを浮かべて、写真をアグネスに見えるように提示して。

「それで? 見つけだした後はこの子をどうするればいいの? ここに連れ戻せばいいのかしら? 大人しく連れ帰るような子じゃないわよね。その時は無理やり、力づくで?」

 少女の含みのある問いかけに、アグネスは親愛に満ちた笑みを浮かべて答えた。まるで母親が子供に向ける、愛情に満ちた表情だ。

少女の問いかけの裏にある言葉は、これまでずっとアグネスが自分に問い掛けて続けて来た言葉だ。その問いかけに対する答えはアグネスの中ですでに決まっている。アグネスは写真に写るシスターを愛おしそうに見つめながら、これまで『彼女』から求められ続けて来た答えを少女に託した。

「ユイガ、お願い。彼女を――――」

まだ誰も知らない。

 運命が動き出す時はいつもそうだ。

 いつも当事者達がいない所で、勝手に動き始める。

 くるくると。

 クルクルと。

 狂狂と。



リンドブルム王国は独自の同盟連合を設立しており、オーダリア大陸の東側にあるほとんどの都市国家と自由防衛協定という名前の同盟を結んでいる。その同盟の影響力は、オーダリア大陸の東側全土に行き渡っている。

地方と中央都市国家を結ぶ交通機関の一つであるバスはその一つだ。リンドブルムは魔導と呼ばれる、魔法と科学の複合技術の先進国である。自由貿易協定同盟を結んだ都市国家は、リンドブルムの魔導技術の恩恵を受けることで、オーダリア大陸西側諸国が目も見張るような経済発展を成した。

 リンドブルム王国は、その魔導技術で各国との特殊なインフラ網を築いた。バス、大陸鉄道といった交通機関による高速での物流網によって、オーダリア大陸の経済バランスは大きく東に傾いている。

 それによって各地では様々な問題が生じていた。

 そんな世情のことなど知らない未来の偉大なる冒険家ジーニアス・ウィルナイツは、自由貿易同盟に加盟している『鉱山都市ティンバー』に辿り着いた。バスに乗ったのは早朝で、現在の時刻は昼過ぎである。

丘陵地帯で発展した都市だけあって、いくつもの豊富な埋蔵量を有する鉱山を所有している。その為、この都市には一年中各地からの出稼ぎ労働者で溢れ返り、常に騒々しいぐらい賑わっている。

 バスから飛び降りたジニーが目撃したのは、大通りを埋め尽くしながら押し寄せてくる人の波だった。ほんの一瞬、圧倒されている内に、ジニーは人波の中に飲み込まれてしまった。山奥の人里離れた森の中で暮らすジニーには、全てが初体験なことばかりだ。大通りには、各地方から訪れて来た商人の大小様々な露店が無数に立ち並んでいる。各地方の名物料理を出す店からは、食欲を刺激する匂いが漂ってくる。各露店は物欲を掻き立てる珍しいアイテムばかりが陳列されている。

 人混みの中でもみくちゃにされながらも、ジニーはこれら露店の陳列棚に並べられたアイテムを見逃すことなくチェックした。珍しいアイテムが並ぶ露店を一つ通り過ぎる度に、ジニーの悪癖であるコレクターとしての本能が、うずうずと呼び覚まされそうになってくる。この財布の紐を緩めるだけでなく破産の危険性を孕む悪癖は、ウィルナイツ家の習性だ。

 ジニーは懐具合を思案する。ジニーの所持金は、外界へ渡る為の資金であり、余分に浪費する資金力は有していない。ジニーを疼かせる買い物衝動のままに資金を散在すれば、この町で路頭に迷う未来が実現するだろう。

 涙を惜しんで、ジニーは少ない全財産が収められた財布を、肩から下げた鞄の奥に封印した。彼女には叶えなければならない夢があり、目先の欲に散財する余裕など一切ない。

 人の大海をもがきながら、ジニーは前へ進む。左右に立ち並ぶ露店が、彼女の後ろ髪を引くかのように欲望を掻き立ててくる。しかし、ジニーは欲望を振り切って前進した。多くの人間がひしめき合う大海の中を、ジニーは目的地に向かって邁進する。

 彼女には夢がある。

 彼女は外界へ渡り、冒険者になるのだ。

 人混みを掻き分けて、ジニーは大通りの先にある駅前広場に辿り着く。リンドブルムが提唱する自由同盟に加盟する都市国家間に敷設された大陸鉄道。各都市国家の資源を同盟に加盟する国々の間で高速で物資を輸送するインフラ網。魔導バスによる地方の村々や町々を結ぶ交通網も、その一環である。魔導王国リンドブルムが発明した魔導列車の停車場である駅は、広場にいる人の多さと異なり、出入りしている人の姿がまばらだ。

 それはとても異様な光景に、ジニーの瞳には映った。

 生まれてずっと大樹の森の中で暮らしてきたジニーが、この都市に来たのは今日が初めてだ。魔導列車に乗った事なんてない。見た事もない。だけど、魔導列車が何なのかは知っている。

 魔導列車は、大量の物資と大勢の人を各都市に短期間で移動させる物流の要である。オーダリア大陸の西側諸国と異なり、東側の国々が大きく経済発展できたのもこの大陸鉄道が大きな要因となっている。

 駅構内に足を踏み入れたジニーは、その違和感が強調される光景を目の当たりすることになる。

 構内は駅前広場の騒々しさとは別世界のように、静まり返っていた。閑散とした駅構内では、駅員が手持ちぶたさに暇を弄んでいる。ジニーの旅客は、目に見える範囲で数えられる程度でしかない。

 ジニーは次第に心中を穏やかにならない違和感の正体を掴み始めて来た。

 静まり返った駅構内のロビーには、まばらにだが旅客がそれぞれに寄り合い駅員を交えて立ち話をしていた。遠目から見ても、景気の良さそうな話をしているようには見えない。ジニーは暗澹とした空気が垂れ込める構内を突き進む。誰もジニーに気を留めたりせず、ひそひそと話しに夢中だ。

 ジニーは通り際に、彼等の話に耳をすました。

「聞いたか? 昨日もまた列車強盗が出たらしいぞ」

「だからか、こんなに客が少ないのは」

「最近、多いな。戦争が終わって随分経つのに、物騒な事件ばかり立て続けに起こる」

「それに関してはご安心ください。先日の列車強盗の一味は、専属で雇った傭兵隊の活躍で、襲ってきた強盗団を撃退することができました。被害はほぼ皆無です。すでに各都市に手配書も出回っていますので、強盗団が摑まるのも時間の問題でしょう」

「それなら安心だ。少なくとも、陸上での旅ならば安全だということか。だが、外界へ渡る海路では、幽霊船騒ぎでかなりの数の商船が行方不明らしいぞ」

「一難去ってまた一難、不景気な話ばかりだ。一体、いつになったら世の中は平和になるんだ?」

 構内のいたる場所で交わされる陰鬱とした内容の話に耳を立てながら、ジニーは列車に乗る為に必要な切符の販売窓口の前に立った。窓口はいくつもあるのに、駅員が立っていたのは一つだけだった。口ひげを生やした中年の男性は、大きな口を開けて欠伸していて見るからに退屈そうだ。切符を購入する為に、窓口の前に立っているのもジニーだけである。

 駅員はようやく訪れた暇潰しの相手が、まだ幼い少女なことに駅員は怪訝な表情を浮かべた。木製の枠に嵌めこまれた透明な薄い板越しからの、駅員の不躾な視線を受け流しながらジニーは声を掛ける。

「駅員さん、切符を頂戴」

 ジニーの要求に、駅員は少しだけ時間を置いてから答えた。ジニーを不審そうに眺めてから口を開く。

「どこまで行くんだい?」

 ジニーの出で立ちから、駅員は勝手に色々と詮索して納得したようだ。通常営業スマイルを浮かべる。

「マイア、自由貿易マイアまで」

 窓口の駅員は一枚の紙片を取り出す。

「マイアなら終着点になる。三等車両でいいよね」

「三等?」

「なんだい、列車は初めてかい? まぁ、車両の設備に差があって、お金を出せば出すほど列車の旅が快適に過ごせるわけなんだよ。ちなみに三等だと、座る為の座席がないんだ」

「つまり、旅客が多いと車両にすし詰め状態の立ったままで次の駅まで行くことになるのね」

「そういうことだ。どうする?」

「そりゃ、三等車両一択ね」

「なら三千ギルになるよ」

 三千ギルは、一般人にしてみればかなりの大金だ。役所で働く公務員の平均月収に値する。

「マイアまでは何日で着くの?」

 ジニーは銀貨を三枚差し出しながら尋ねる。

「マイアの到着は何も無ければ一週間で着くよ」

 ジニーの質問に答えながら、駅員は差し出された銀の硬貨に驚いた。そして、品定めでもするかのようにジロジロとジニーを眺めた。

「へぇ~、珍しい。君みたいな普通のお嬢ちゃんがこいつを持っているなんて」

 ジニーが出した硬貨は、リンドブルム王国を含む自由都市同盟間で導入されている通常の貨幣ではない。ジニーが出した硬貨は、商業ギルド連盟が発行する世界で最も信用されている貨幣である。その貨幣価値はどの国でも共通である。世界貨幣は銅貨、銀貨、金貨の三種類の硬貨が一般的に流通されているが、金貨は一般人が扱うことはない。

「偽物じゃないだろうね」

 再び、駅員は不審そうな視線で硬貨とジニーを見る。

「いいえ、違います。祖母が用意してくれたお金です。祖母は昔、冒険者に携わる仕事をしていましたので」

 その視線を真っ直ぐに見返す青い瞳に、明るく素直な声音で答える様子に、駅員は態度を改めた。

「ふむ、世界貨幣の偽造は重罪だ。君みたいな普通のお嬢ちゃんがやるとは思えない。なにより、この硬貨に彫り込まれた緻密にして精巧なデザインを見れば、まず十中八九、偽物ではないだろう。だけど、一応決まりだから鑑定はさせて貰うよ」

 道具を取り出した駅員は硬貨を細部まで調べ始める。特殊な文字が刻まれた虫眼鏡を覗き込む駅員の目は真剣だ。

スキル『鑑定』。未鑑定のアイテムを調べるスキルがある。一般的に用いられるのは、対象アイテムの価値と真偽だ。商人やお金のやり取りをする仕事に就くのに必須なスキルである。

「うん、間違いなく本物だ。それじゃ、切符を発券するからそこで待ってなさい。行先はマイアまでだったね」

 駅員は小さな紙片に筆を走らせた。偽造した切符を使って乗車する者がいる。また一度発行した切符を複製して、それを闇で売買する者もいる。駅員はそれら不正な方法で乗車するのを防ぐための対策を施す為に、最後にハンコで押印する。

「列車はもう来ているの?」

「あぁ、もうホームに到着している。今点検作業中で、作業が終りしだい出発することになっているよ。出発予定時刻は十分後だ」

 駅員は完成した切符をジニーに差し出す。小さな紙片には様々な情報が書き込まれている。

「乗車したら切符の確認を車掌がするから、忘れずに提示すること。あと紛失したら再発行はしないから、ちゃんとしっかり持っておくように。失くさないように気を付けなさい」

 そう言う駅員の声音には、どことなくくすぐったい優しさが含まれている。

春は旅立ちの季節である。家族の為、仕事の為、夢の為、若者は自分のまだ先行きの定まらない未来の為に新天地へと赴く。その為に、例年ならジニーと同じような若者達で、ティンバーの駅構内は別れの悦びと悲しみが至る場所で見受けられるはずである。

 だが、今年はジニー一人だけである。

 駅員の勝手な詮索だが、ジニーはそれが嬉しかった。

「ありがとう」

 一言、ジニーは親しみを込めて駅員に言う。

「あぁ、頑張るんだよ」

 その時、背後から野太い粗野な男達の騒々しい声が構内に響き渡った。振り返ったジニーが見たのは、風体も風貌は最悪な男達が我が物顔で駅構内を闊歩する光景だった。彼等は携帯した武器を隠そうともしていない。なのに、構内の各所にいる駅に滞在する警備兵は、彼等を職質する為に呼び止めずに素通りさせた。武器を携帯して不穏な空気を漂わせる集団は、誰がどう見てもこれから列車強盗をしようとしている集団にしか見えない。

駅員だけでなく、駅を利用する客達も彼等を恐れて道を開けている。不審人物を見張る警備兵の横を横柄な態度で男達が通り過ぎる時、警備兵は視線を下げていた。誰もがこの空間にそぐわない男達の存在を黙認し、決して彼等と関わろうとしない。その異様な光景に、ジニーの胸中に穏やかでない気持ちが込み上げてきた。

「あぁ、あいつらか。最近、大陸鉄道を狙った列車強盗が頻発してな。当然、列車には正規の警備兵が乗り込んでいるんだが、戦争が終わって仕事にあぶれた傭兵連中が強盗をするようになってからは、どうにも太刀打ちできなくなってきてな。それで各都市で列車を護衛する為の専門家を雇うことにしたんだが、ティンバーが雇ったのがあいつらだ」

 ジニーは再び、これからマイアまでの列車の旅の道中の安全を確保してくれる予定の一団を観察する。薄気味悪い妙な笑みを浮かべて話し合う彼等の目は、異常なほどに鋭い。絶え間なく周囲を観察し、ジロジロと列車に乗るであろう乗客を横目で見る彼等の姿は、どこからどうみても獲物を物色する肉食獣と同じようにしか見えない。

「大丈夫だ。見てくれは悪いが、まぁ悪い奴等じゃない。先日だって奴らのおかげで被害はほとんど無かったんだ」

 護衛集団を訝しんで見ていたジニーの心配を取除こうと、駅員が話し始めた所でジニーの不安を高まらせる出来事が発生する。護衛集団があろうことか、遠目で彼等を見ていた彼等が守るべき乗客に対して、がなり声を発して絡み始めたのだ。乗客に危害が及ぶことを恐れた駅員が、男達の前に立ち塞がるが、男達はその駅員に暴力を振るった。そこでようやく警備兵が男達の蛮行を止めに入った。

 一部始終を見た後の駅員には、あからさまな軽蔑の色が浮かんでいる。唾を吐き捨てるかのように話を続けた。

「……まぁ、傭兵なんてのは、皆あんな奴等ばかりなんだろ。あんな犯罪者予備軍の奴等に守って貰わないと、安全に移動できないなんて世も末だ」

 駅員は暗澹とした溜息を吐きながら静かに憤慨する。これまであの連中がらみで色々問題があったのだろう。隠す気もしない不満が駄々漏れだ。

「少なくとも金を払っている限りは仕事をする奴らは有益だ。あいつらが乗るのは最後尾の車両だ。嬢ちゃんが乗る三等車両の前だが、問題が起きない限り奴らは自分の車両から出てこない。だから絶対に一番後ろの車両には近づかない事だ。関わらない限り、奴らは害にはならない」

 駅員の話を聞きながら、駅構内の奥に向かって遠ざかって行く護衛集団の背中を見ていたジニーは、先程からずっと胸中で蟠る違和感の正体に気が付いた。

 嫌な予感。ジニーが漠然と抱くその勘は、幼い頃から必ず的中してきた。何が起るのかは解からない。だが、この勘が働いた時、必ず悪い事が起きる。しかし、ジニーは運が良い事に、今回の悪い予感が何に起因しているのか予想できた。

 ジニーの青い瞳は、その答えを睨み続けた。彼等の姿が見えなくなるまで。

「お嬢ちゃん、どうかしたのかい?」

 ジニーは、日頃から飽きるほど聞かされた祖母の忠告を思い出していた。

――作法に気を付けなさい。礼儀を忘れるな。礼節は守りなさい。それらを守らない人間は、どんな世界に行っても誰からも相手にされない――

「嫌な物を見せて悪かった。もしあんな奴等が守る列車に乗りたくないってのなら、切符の返金を承るよ。本当はダメなんだけどね。マイアまでだったら、日数は掛かるけどバスでだって行けるしな」

 ジニーに選択肢はない。そもそも資金が不足している。運賃の面で見れば、バスの方が安い。しかし、移動時間が長くかかる。いくつもバスを経由して、各地方の村や町、そして中継ぎポイントとなる都市国家を巡る旅に、ジニーは好奇心が誘われなくもない。だが、ジニーにそんな無駄に消費する時間の余裕はない。

この旅にはタイムリミットが設けられている。ジニーはあと一か月以内に、外界へ渡らなければならない。バスで移動を選択した場合、タイムオーバーとなる。

そもそもバスでの移動は運賃面で見れば安いが、宿泊代に飲食代を含めた旅費の面で見ればとんでもなく高額だ。

そもそも列車もバスも、どちらのルートを選んだところで危険な目に遭う可能性は同じである。

 だが、時間と資金を鑑みた場合、ジニーが自由貿易都市マイアに行くには、大陸鉄道の列車での移動ルート以外の選択肢はない。

 ジニーはためらうことなく、夢の為に前へと進む。

 駅構内の奥へと駆け出した少女の背中を、駅員は眩しそうに眺めてエールをその背中に送った。

「頑張れよ。嬢ちゃん」

 ジニーは振り返らずに手を振っただけだった。

 駅構内は奥へ進めば進むほど、人気が減り静寂が増して薄闇が深まる。想像力豊かなジニーにはここが、まるでダンジョンの中を探検しているかのような錯覚を覚えさせた。

 彼女はこれまで、小さくて狭い、箱庭のような世界で暮らして来たのだ。外の世で暮らし、外の世界に慣れた者にはありふれた光景でも、ジニーには全てが新鮮で好奇心が刺激される。

 階段を下りて行く。昼間だというのにやたらと暗い。怪しく青白く輝く魔光の光を頼りに階段を駆け下りると、耳を聾するほどの汽笛がジニーを出迎えた。かつて新時代の幕開けを世界に知らしめた音である。階段を降りた先の駅のホームで、ジニーは自分が目の当りにしている驚きの光景にしばらく動くことができなかった。

 冒険小説に魔導列車はよく登場する。ジニーが列車の存在を知ったのも、好きな冒険小説に登場していたからだ。その物語の中で語られる列車は、ジニーの冒険心を強く擽った。祖父も祖母も、トマスさんを始め列車を見た事のある大人はジニーの周囲には数人しかいなかった。そんな彼等が口々から語られるその圧倒的な存在感に、ジニーは期待で胸を膨らませた。

 そんな幼い頃の期待をそのままに、魔導列車がジニーの眼前に現れた。

 魔導列車、魔素を動力エネルギーに変換する魔導技術の結晶にして、世界を最初に変えた発明である。その巨大にして長大な鉄の塊が、白い煙を噴き出して停車している。黒い鉄製の車体は、昼の陽射しを浴びて輝いていた。二度、三度と鳴らされる汽笛の甲高い音が、駅全体を打ち叩いていく。

 汽笛の音を聞きながら、ジニーはその黒く輝く車体に手を伸ばす。巨大な熱を奥に宿す魔導列車の車体の触感は、とても固くて冷たかった。ジニーは車体に沿って、駅を進んでいく。途中で下卑た男達の笑い声が、車体の中から漏れ聞こえてきた。ジニーは素早く車体から離れる。

 ジニーが手近にあった物陰に隠れると、車体の連結に数人の男達が姿を現した。先程、駅の構内で我が物顔で歩いていた護衛隊の男達だ。次から次へと連結部に現れる護衛兵達が、移動する列車の各車両で横柄で粗暴な行為に及んでいるのが、漏れ聞こえてくる音の内容で想像することができた。

 ジニーは先程から続く嫌な予感に嫌悪とした感情が混ざり、独特な不快感から辟易とした疲れた溜息を洩らす。先程までの好奇心に弾んでいた軽やかな気持ちが、どこかへと霧散してしまっていた。

「……本当に最悪」

 ジニーの悪い予感は強まるばかりである。粗野にして粗暴な連中に、護衛されながらの旅が平穏に終わるとは思えなかった。

 祖母とトマスに口煩く言われた説教が、彼等を見る度にジニーの中に蘇ってくる。

――傭兵だろうと、冒険者だろうと、最低限のルールを守らない奴は絶対に信用されることはないし、信用することはできない――

「何をしてんだい? お前さん」

 ジニーが見上げると、恰幅の良い中年の女性が不審なものでも見るかのように見下ろしていた。ジニーが咄嗟に身を隠した場所は、駅のホームにある露店の商品棚の裏だった。

「まさかと思うけど、この私が丹精込めて作った弁当を盗み食いするつもりじゃないだろうね? もし、そうなら子供だからって容赦しないよ!」

「……お弁当?」

 突き刺さる店主の視線を無視して、立ち上がったジニーが最初に感じ取ったのは、周囲に充満する食欲をそそる香ばしい良い匂いだ。視線を下へ向けると、そこにはティンバー名物のパン料理数々が棚の上一杯に陳列されている。

「お、美味しそう、美味しそう!」

 突然、ジニーは思い出す。トマスの家でパンにチーズとハムを挟んだだけの簡易的な朝食を済ませてから、まだ一度も何も食べていないことを。

 ジニーの言葉に、女店主は露骨に不快な表情を浮かべる。

「美味しそうだって?」

 女亭主は大きく息を吸い込み、声を張り上げた。

「違うね。私が作った弁当は、凄く美味しいんだ!」

 自信満々に言う女亭主に見向きもしないで、ジニーは突き上げてくる空腹という欲望のままに商品棚を貪るように見回す。

「美味しいの!」

「そりゃ、この私が作った弁当だ。不味いなんてことは絶対にあり得ない。美味しいだってあり得ない。誰が食べたって、私が作った弁当は凄く美味しいんだ!」

 女店主は胸を張って豪語する。快活な声が駅のホームに響き渡った。誰もが振り返るほどの大きな声だが、ジニーの意識はその自慢の弁当に集中していた。

「どれがおすすめなの?」

「全部に決まっているだろ!」

「私は地方から出てきたから、ここの名物料理がいいかな。でも、あんまりお金はないからできるかぎり安いので。だけど、出来る限り食べごたえがある物でお願い」

「安くて腹に溜まる物って、随分と我儘な注文だね。まぁ、それだったら、これがちょうどいいんじゃないかい?」

 女店主は商品棚から商品を一つ手に取る。包み紙を外してジニーに見せたそれは、潰したジャガイモを油で揚げたコロッケをパンで挟んだ物で、コロッケパンと呼ばれるティンバー周辺の村々で食されている家庭料理である。

「だけど私が揚げたコロッケはただのコロッケじゃないよ。潰したジャガイモに、牛肉のひき肉を混ぜているから、普通のコロッケと違って段違いの美味しさだよ! それにうちのコロッケパンは他のとは違って、パンもコロッケも大きいから食い応えは十分すぎるくらいあるよ。まぁ、その分値段は釣り上るけどね」

 ジニーは女店主と同じ物を商品棚から一つ手に取る。顔が隠れそうな程大きなそれは十分な重さがある。

「これ一つでいくら?」

 空腹を告げる腹の音をさせながら、無駄遣いをする余裕のないジニーは大切なことを聞いた。

「五十ギルだよ」

 ジニーの常識では、食パン一斤十ギルが相場だ。それを考えると値段が高いと感じる。この辺りでは物価が高いのかもしれない。ジニーは少しだけ悩んだが、空腹に抗うことはできなかった。

 ジニーは銅貨五枚を出そうとポケットの中を探り始めた時、突然列車の長い汽笛がホーム全体に響き渡った。空気を震撼させるほどの大きな音に、ジニーが振り返ると再び汽笛が鳴り響いた。

「何、何なの!」

 困惑するジニーに女店主が叫んだ。

「嬢ちゃん、大変だ! 列車が走り出すよ! どうしたんだい、予定よりも早いじゃないか!」

 女店主が近くの駅員に向かって文句を言うが、駅員も困惑とした様子で白い煙を勢いよく噴き出し始めた列車を見ていた。

「え、えっと、あ、あの! 列車が、列車が出ます! 列車が出ます! 危険ですので、黄色い線から離れて下さい」

 列車の車輪が動き始めると同時に、スピーカーから女性駅員の慌てた様子の声がホーム全体に響き渡った。

 巨大な鉄の塊が動き始める。あちこちから金属を擦るような音が響くなか、列車は重々しく前進する。

「ちょっと待ってよ! 私が乗ってないのにどこへ行こうっていうのよ!」

ジニーは動き始めた列車を追って走り出した。そんなジニーの背中に向かって、女店主は怒声を飛ばした。

「あ、嬢ちゃん、待ちな! 代金を払ってないだろ、その手に持ったパンを置いていきな!」

「ごめんなさい! ツケといて!」

 叫びながら、ジニーは手にしていたコロッケパンを肩から下げた鞄の中に突っ込んだ。

「うちの店で盗み食いだなんて良い度胸だよ。アンタの顔は覚えたからね、このツケは高くつくよ!」

 女店主の怒声を背に、ジニーは列車を追う。列車は徐々に速度を増していく。置いていかれたら、色々とした問題が背中に待ち伏せている。焦ったジニーは走りながら必死に声を張り上げた。

「ま、待って! 待って、て言ってるでしょうが! 止まりなさいよ、こっちはお金をちゃんと払って切符を持っているのよ。寝坊したわけでも、時間に遅れた訳でも無い! それなのに、何で置いていかれなくちゃならないのよ!」

 しかし、列車は止まることなく進み続ける。減速する素振りなどなく、どんどんと加速していく。

 このままでは確実に置き去りにされる。ジニーはこの状態から列車に乗る方法を考える。動き出した巨大な鉄の塊を止める方法は思いつかない。飛び乗るにしても、扉も窓も閉まっている。鉄の車両に飛び移れる場所は車両の屋根部分しか見当たらない。しかし、無賃乗車対策を見張る駅員がいる目の前で、動き出した列車に飛び移ればジニーの初めての冒険は最悪の結末を迎えることになる。

 ジニーは走りながらも周囲を確認すると、ホームにいる駅員達が厳しい視線で監視しているのが見て取れる。ちらりと後ろを確認すれば、数人の警備兵がジニーの後方から走って来ている。

 列車に飛び移らんばかりに追い掛けるジニーを止める為に、警備兵達は後ろから走って来るのだろうか。いや、違う。様子がおかしい。どちらかといえば、ジニーと同じように彼等も列車を追っているように見える。

 しかし、そんなことを気にかけている余裕はジニーには無い。

「わ、私のぼ、冒険は始まったばかりなの。こ、こんな、こんな所で終ってたまるか!」

 ジニーの必死な思いとは異なり、列車との距離は無情にも引き離されていく。列車に追い縋ろうとするジニーに声に、最後尾車両の窓から護衛兵達が嘲笑を浮かべて眺めていた。

 嫌な笑みだ。彼等は口を開けて何かを言っているが、列車の駆動音で掻き消されて何も聞こえない。きっと気分が悪くなるような言葉をジニーに向かって言っているのだろうが、聞こえていたとしても今のジニーにそんなことに気をかまけている余裕は無かった。

「止まれぇ!」

その時、最後尾車両の手前の車両の扉が突然開いた。

「おい、お前!」

 開かれた扉の先から現れた一人の人間が、ジニーに向かって手を指し伸ばしてきた。フードを深く被っている為に顔は解からないが、声質から男性だ。声変わりし始めたばかりといった感じから、年齢はジニーとかなり近い。

「掴まれ!」

 ジニーは、手を指し伸ばしてくる少年をジッと見つめた。どれだけ注意深く見た所で、フードを深く被った相手の表情を見通すことはできない。

「何を躊躇してるんだ。乗るんじゃないのか?」

「乗りたい!」

「なら、掴まれ!」

 ジニーは差し伸ばされた手を目指して飛んだ。少年の手を掴むと、ジニーは車両の中へと引っ張り込まれる。気が付くとジニーは少年の胸に抱きよされていた。見上げると、フードの下に隠されていた顔が良く見える。

 端正な顔立ちには幼さがまだ残っている。ジニーと同じ位の年齢に見える。髪は栗色で綺麗に整えられ、ジニーを見下ろす大きなブラウンの瞳が印象だ。少年から漂う人懐っこい雰囲気が、初めて会う相手なのに何故か昔から親交があったかのような思いを抱かせる。

「大丈夫か?」

 掴んでいたジニーの手を離しながら笑みを浮かべる少年からは、他人との距離を埋めてしまうような親近感が沸く魅力があった。整った顔立ちには、どこか間の抜けてそうな雰囲気が漂っているからか、誰もが初対面の相手に持つ警戒心が弛まされる。

「ありがとう。おかげで乗り遅れずにすんだよ」

 車両の中をジニーは見回した。運賃の一番安い三等級車両の中は、料金通りの簡素な造りになっていた。座れる席は車窓に沿って左右に一列あるだけ。席は狭く小さく、座れる人数は限られている。見るからに座り心地の悪さが理解できる。席に座るよりは立っているか、邪魔にならない車両の隅で床に腰を下ろしていた方が良いだろう。三等車両の構造は、可能な限り客が詰め込まれるような設計になっているのが見て取れる。何より、誰も座っていない現状がそれを物語っている。

 ジニーは混雑時の悲惨な状況を容易に想像することができた。

 幸か不幸か、ジニーはそう思ってその場に座り込む。駅構内で聞いたように頻発列車強盗が原因なのか、広い車両には十人いるかいないか程度の客しか乗っていなかった。

「にしても、なんだか暗いよな」

 唐突に頭上から話しかけられたジニーは上を見上げた。そこには、先程ジニーを車両に引っ張りいれてくれた少年がまだそこに立っていた。少年もジニーと同じように車両を見回している。

「俺ってさ、列車の旅ってもっと楽しいもんじゃないのか? 車両の中は人と荷物で埋め尽くされていて、乗っている人達がそれぞれ好き勝手に話し合ってて、何も聞こえないくらい騒がしいものだと思ってた」

「……そうだね」

 ジニーは祖父が聞かせてくれた寝物語を思い出していた。

「乗ってる人達は、なんだか不安な表情を浮かべてヒソヒソと話していてさ。ちょっと気味が悪いぜ」

列車強盗の犯人達がまだ捕まっていない以上、彼等が犯行をやめることは無い。もしかしたなら、ジニーが乗っている列車を襲う可能性もある。この列車に乗り込んでいる人達は、危険と知りながらもこの列車に乗る以外の選択肢が無かった人達なんだろう。

 愚痴をこぼすと、少年は背負っていたリュックを足元に置く。深く被っていた外套のフードを外しながら、ジニーの隣に腰を下ろした。ジニーは、フードを取り払われた少年の顔を横目で観察した。綺麗な顔だ。幼さが色濃く残っているが、どこか上品さが漂っている。放浪者のような旅装だが、雰囲気は上流階級者特有の気品が感じられる。

 少年は、そんなジニーの視線に気が付くことなく話を続ける。

「まぁ、すし詰め状態の騒々しい車両に乗りたいのかって聞かれたら、できたなら乗りたくないけどさ」

「……まぁ、そうだね」

 ジニーは視線を車窓へと向けた。車両内の陰鬱な薄暗さとは対照的なまでに、晴れ渡った空が広がっている。

「でもさ、やっぱり旅の醍醐味ってのを味わいたいじゃん」

「……うん、それは解かるよ」

 列車はすでにジニーが体験したことも無い速度で東へ向かって進んでいた。山峰が続くヴァイスラント地方の光景が高速で流れていく。ジニーが知っている山は、とっくに地平の先へ消えてしまっていた。

「だよな。俺さ、冒険小説が大好きでさ。小説の登場人物たちと同じ体験できると思って期待してたんだよなぁ。列車に乗るのは初めてじゃないけどさ、こんな機会でもないかぎり三等車両に乗ることってないからな」

「……そういうもの……なのかな?」

 一般人の価値観から見ても、乗車賃を考えるかぎりジニーは三等車以外に乗る機会はないと考える。少年の言葉の裏側をジニーが勘が得ていると、列車が揺れてジニーの肩が青年の右腕に触れる。

 ジニーは再び、青年に視線を向けた。好奇心を躍動させるブラウン瞳が、ジニーの青い瞳を写し込んでいた。

「私はジニー。ジーニアス・ウィルナイツ」

「……そういえばお互い自己紹介なんてしてなかったけな。いきなり話しかけて、俺って凄い気持ち悪い奴だったよな」

 少年は愉快そうに笑った。

「気持ち悪いとは思わないけど、変な人だなって思った」

「そんな俺の会話に何も言わずに答えていたお前も変な奴だ」

 少年の指摘にジニーも明るく笑って答える。

「俺の名前は……」

 突然、困惑とした表情を浮かべて言い淀んだ。それは僅かな瞬間だとはいえ、普通の人ならば気に掛かる瞬間ではある。人によっては本名を名乗るのを避ける場合がある。大抵の場合が、その本人の背景に薄暗い事情がほとんどだ。偽名を好んで使うのは主に、指名手配されている犯罪者である。少年の表情と言い淀んだ僅かな間は、それらの疑惑を抱かせるには十分であった。

「ちょっと待ってくれ。今考えるから」

「名前を名乗るのに、考える必要ってある?」

 だが、その疑惑は一瞬で吹き飛ばされる。少年の間の抜けた慌てた様子で熟考する姿を見るかぎり、彼の背景に他人には言えないような薄暗い何かがあるとは思えない。何か事情があって本名を名乗りたくない者もいる。少年のような悪人に見えない人間の場合は、大抵が家庭の事情というやつが原因だ。

「……よし」

 あれこれと考えた末に、少年はどんな名前を名乗るのか決めたようだ。ただ、考えている最中に本名と思える名前が口から漏れていたことを、少年自身は自覚していない。

「俺の名前はスピッツ。スピッツだ」

「スピッツ? 名前だけなの?」

「俺はただの旅人だ。そんな人間に姓名なんてあると思っているのか?」

「あぁ、なるほどそういう設定なんだ」

 少年の耳にはジニーの指摘など届いていないようだ。妄想に熱を浮かされたように、スピッツと名乗る少年は目を輝かせて口早に熟考して練り上げた自身の設定を説明しだした。

「幼い頃に両親と死に別れてから、俺は各地で金を稼ぎながら転々と各地を巡る放浪者といったところだ」

「放浪者にしては随分と小奇麗な見た目をしているけど。着ている服も良い物だし」

「え? な、なんだよ、急に」

 身を乗り出してジニーは、スピッツと名乗る少年の装いを隈なくチェックする。

「旅埃で汚れた所がない。詳しくないけど高いでしょ。その服、良い生地を使っているものね。その綺麗に磨かれているブーツも同じように高いものでしょ」

「お、お前は鑑定スキルでも持っているのかよ」

「持っているよ。だけど、まだ低レベルだけどね。でも、誰が見たって一目瞭然でしょ。良い物は素人だってその良さが解かるものなのよ。この車両にいる人達と見比べて見なよ」

 三等車両に乗っているのは、どれも地方からの出稼ぎ労働者か旅の商人と思える人達ばかりだ。誰もが着ている服はボロボロで薄汚れていて着古されている。スピッツは周囲の人達と自分を何度も見比べて、場違いな自分の出で立ちをようやく理解できたようだ。

「ね? 正直、君は周囲から凄く浮いているのよ。その服、もしかして盗んだの?」

「ぬ、ぬぬ、盗んだ? ば、馬鹿なこと言うな! 俺は他人から物を盗むような奴に見えるってのかよ」

 問い質すように見てくるジニーに、スピッツは慌てた様子で声を荒げて否定する。

「そうね。君は他人を傷つけるようなことができない人、どちらかといえば人が良すぎて痛い目を見るタイプだね」

「な、なんだそれ、褒められている気がしないんだけど。それじゃまるで、俺が馬鹿正直のお人好しだって言われたようなきがするんだが。お前が俺の何を知っているって言うんだよ」

「あれ、違った?」

 ジニーはからかうようにクスクスと笑う。少女のその見透かすような青い瞳の前では、スピッツは何を言っても目の前の少女に勝てないことを理解した。

「とにかく俺はスピッツ、ただの旅人だ。それでいいだろ」

「そうだね。私に害が及ばない限りは」

「本当に口の減らない奴だな。えっと、ジーニアス・ウィルナイツだったな」

「ジニーでいいよ。改めてよろしく、スピッツ」

 そういってジニーは手を差し出す。だが、スピッツはジッと疑念を帯びた表情でジニーの顔を見つめていた。ジニーが首を傾げていると、スピッツは小さく呟くように言う。

「ウィルナイツ……、まさかな。まぁ、別に珍しい名字でもないしな」

 スピッツの中で疑念は晴れたのか、明るい笑みを浮かべて差し出されたジニーの手を軽く握った。

「よろしくな、ジニー」

 握手を交わした時、スピッツは思いもよらないだろう。この瞬間、自分の運命が大きく動き始めたことを。旅先で出会った不思議な雰囲気を纏った少女との出会いの先に、これから待ち受ける困難の数々をスピッツは知る由も無い。年齢の近い相手と何も気にせずに話し合えることを、この時のスピッツは無邪気に喜んでいた。

 二人が握手を交わすと同時に、盛大な空腹を告げる音が二人の腹から発せられた。空腹という問題を腹部に課していたジニーとスピッツは、互いに苦笑を浮かべる。

「そういえばお腹減っていたんだっけ。それなのに全力で走ったから目が回りそう」

「俺もそうだ。さっき力を使ったからか急に腹が減ったぞ。そういえば、昨夜から何も食べてないのを今思い出したぞ」

 スピッツはよほど空腹なのか、腹をさすりながら項垂れる。その様子をジニーは横目で眺めていた。

「お金が無いの?」

「無いわけじゃないさ。ただ、放浪の旅人だからな。金は有限、使える額も限られている。できるかぎり節約しないとな」

「お爺ちゃんが言っていたよ。腹が減っていたら動けない」

「そいつは名言だ。だけどな、金が無ければ何もできないって言葉聞いたことないか?」

「似たような言葉は飽きるほど聞かされてきたよ」

「俺もだよ」

 二人の腹が勢いよく鳴り響く。

「あぁ、腹減った。二等車両まで行けば、食料か飲料の移動販売をしている駅員がいるけど、値が張るんだよな。食堂車両は論外だし。こんなことなら、さっきの駅のホームにあった露店で何か買ってくればよかった」

「あ、そうだ」

 ジニーは思い出したように、肩から下げた鞄の中から先程駅のホームの露店で買ったコロッケパンを取り出した。

「買っておいて良かった~」

 包み紙を開けると、揚げ物独特の食欲をそそる匂いが空腹を更に増長させた。食欲に突き動かされるまま、大口を開けたジニーはコロッケパンにかぶりつこうとする。しかし、隣からの突き刺さるような視線が気になり、ジニーは顔を横へ向けた。

「……美味そうだな……」

 鳴き止まない腹の虫を抱えたスピッツが、粘り気のある視線でジニーが両手に持つコロッケパンを食い入るように見ていた。隣人からの空腹を訴える腹の音を聞きながら、自分だけ食欲を満たせるほどジニーは非情ではない。

 ジニーはコロッケパンを半分に分けた。

「ほら、食べなよ」

「え? い、いいよ。俺のことは気にしないでくれ」

 強気な言葉とは裏腹に、彼の空腹を告げる腹の音は鳴り止む気配はない。

「だったらその腹の音を黙らせてくれない? 隣で腹を空かせている人を放っておいて、私一人だけ食べていられるわけないじゃん」

 ジニーは半分に分けたコロッケパンの片割れを、スピッツに無理やり渡した。

「あ、ありがとう」

 コロッケパンを手にしたスピッツの声は感激に打ち震えていた。嬉し涙で濡れる瞳でジニーを真っ直ぐに見つめて感謝を告げる。まるで聖母から施しでも受けたかのような大袈裟な反応を見せるスピッツに、ジニーは苦笑いを浮かべた。

「正直、助かった。だけどタダで何かを貰うことはできない。だからこの半分に分けて貰ったパンの半額分を支払わせてくれ」

「いいよ。このくらい気にしなくていいよ」

「いいや、そういう訳にはいかな。俺は金の大切さをよく知っているんだ。タダほど高い物はない。このパンは一体いくらで買った物なんだ?」

 スピッツの言葉には理解できるが、それとは別の理由でジニーは一瞬言い淀んだ。そもそも、ジニーはパンの代金を支払っていない。ジニー自身は後で必ず払うつもりでいるが、現段階においてこのパンは盗んだ物ということになる。それなのにこれだけ感謝されるだけでなく、半額分とはいえお金を貰うのはどうなんだろうか。だがしかし、それを正直に言う必要はない。

 それに、これは断じて盗んだわけではない。いつになるか解からないが、ジニーは後でちゃんと代金を払うと決めているのだ。

「貰って増えはしても、減りはしないだろ?」

 スピッツは小銭を探しているのか、ズボンは外套のポケットの中を探っている。

「まぁ、スピッツがそうしたいのなら、別に構わないよ」

「ひとまずこれで足りるか?」

 値段も聞かずにスピッツが手渡したのは、金貨一枚だった。しかも、世界貨幣の金貨だ。金貨一枚は十万ギルになり、一般人ならまず目にすることはない高額貨幣だ。この硬貨は、高額の金銭のやり取りを行う特別な階級の人間だけが使用する貨幣とされている。これ一枚で過度な贅沢をしない限り十年間は働かなくても生活できる。

 そんな大金がジニーの掌に乗っかっている。初めて見るわけではないが、価値をしっているからこそジニーは目を見開いて仰天した。鑑定スキルが素人レベルのジニーでも、これが偽物でないことはすぐに理解できた。つまり本物の金貨である。このような人目のある場所で、しかも三等車両という空間の中で、金貨という存在がどれほど危険を孕んでいるのか、貨幣の価値をまだ理解できていない幼い子供でもない限り解からないわけがない。

「馬鹿じゃないの!」

 ジニーは可能な限り声を抑えて怒鳴った。怒りに任せてスピッツに金貨を乱暴に突き返す。スピッツは何故怒られたか理解ができず、不満顔でジニーを睨んだ。

「何が気にくわなかったんだよ。これじゃ足りなかった?」

「もう一度言うね。馬鹿じゃないの。何がお金の価値は知っている、だよ」

「何を怒ってんだ。これはれっきとした金だろうが」

「確かに、それはお金だよ。だけどね、人目の付く場所で出したら絶対に駄目なお金なの! 私の言っている意味が解かる? 君はそんなことも解からないの?」

 スピッツは憮然な顔をして突き返された金かを見つめていた。スピッツにはただの金貨にしか見えていないが、ジニーには厄介事を引き起こす爆弾に見えている。少しでもお金に関する知識があれば、多くの人間がジニーと同じ反応を示すだろう。

 しかし、スピッツはそれが何一つ理解できていなかったようだ。

「悪かったよ。これ一枚じゃ足りなかったんだろ?」

 スピッツは腰に提げた皮袋から小さな小袋を取り出すと、ジニーに向けて袋の紐を弛めた。中身なんて見せなくても、ジャラジャラとした音が聞こえただけで容易に想像できた。

「あと何枚必要なんだ?」

 ジニーが危惧した通り、小袋は金貨の小袋だった。ざっと見た限り、二十枚以上は入っているだろう。この小袋の分だけで、庶民ならば一生働かずに贅沢三昧の人生を送ることができる。

「馬鹿!」

 ジニーに声を抑える余裕はなかった。その怒鳴り声は車両全体に響き渡り、何事かと乗客達の視線がジニーに集まる。周囲の視線を気にする余裕はジニーには無かった。怒りに任せてスピッツが持つ小袋を引っ手繰ると、紐を固く締めるとぐるぐる巻き付けて固く縛って彼の胸に乱暴に押し付けた。

「いてぇな。ってか何すんだよ!」

 ジニーの乱雑で乱暴な行動にスピッツが声を荒げるのも仕方ないが、完全に悪いのは彼である。

「それは二度と出さないで! 私がいる前では絶対に!」

「だ、だから、なな、何でだよ!」

「いいから、絶対に私の前に出さないで! 出す時は私が良いって言った時だけ! 解かった?」

 拒否も質問も許さないジニーの凄みのある声音に、スピッツは反抗する気力を抑え込まれてしまった。不承不承とした様子で金貨の入った小袋を元の場所に戻すが、その仏頂面は自分がどれだけ危険な行為をしているのか理解できていないらしい。そんなスピッツにジニーは疲れと呆れを強調した溜息を吐いた。

「何だよ。その溜息は」

「何でもない。放浪の旅人さんがあまりにも世間知らずでね」

 ジニーの毒のある言葉にスピッツは不機嫌な顔をして文句を言おうとしたが、それ以上に不機嫌な顔をしたジニーに睨まれてしまい、スピッツは黙って言葉を飲み込むことにした。不平不満をブツブツと言ってはいるが、コロッケパンを一口食べてからは一言も言葉を発することなくは無くなった。

 そんなスピッツを横目に、ジニーもコロッケパンにかぶりつく。

ジャガイモ料理はジニーが暮らしたリンクス村周辺でもたくさんある。しかし、ほとんどの調理法が炒めるか煮るかの二択しかない。とくにリンクス村周辺のジャガイモは糖度が高く、ジニーは祖母が作るジャガイモの焼菓子が好きだった。

潰したジャガイモを油で揚げたコロッケというものを、ジニーが食べるのは初めてだ。それをパンと挟んだだけのシンプルな料理、味は容易に想像できる。しかし、最初のサクッという食感の後に続く美味しさに、ジニーは頬を綻ばせた。

 横目で見るスピッツもジニーと同じ表情を浮かべている。潰しただけのジャガイモを油で揚げた物を、パンで挟んだだけとは思えない美味しさだ。美味しさの秘訣はコロッケ自身と、なにより濃厚なソースだ。豊かで深い味わいで、様々な野菜の旨みが濃縮されているのがジニーでも理解できた。牛肉の挽肉が入っているからか、コロッケの旨みが凄い。潰したジャガイモを油で揚げただけとは思えない美味しさだ。

 空腹もあってか二人はもくもくとコロッケパンを食べ続ける。半分に分けても自分の頭と同じくらい大きなコロッケパンを、ジニーはぺろりと食べきってしまった。

 満腹感に浸る中、二人はしばらく無言と車窓からの景色を眺めていた。

「ジニー、お前ってさ、どこから出て来たんだ?」

「リンクス村からだけど、ヴァイスランド地方の山奥にある村」

「オーダリア地方か行ったことないな。俺はリンドブルムからだ……リンドブルムの下町を出て、あっちこっちを見て歩いている」

 スピッツが言い直したことに様々な違和感を抱いたが、ジニーはあえてそれに触れずに聞き流した。

「私もリンドブルムは話でしか聞いたことしかないよ。魔導技術の最先端をいく魔導都市っていうくらいだから、やっぱりすごい場所なんでしょう」

「……どうだろうな。何かと便利なだけの、それだけの都市さ。ま、俺みたいな下層の庶民には、その魔導とやらの恩恵を受けたことはないけどな」

「私みたいな地方の出身者にしてみれば、その魔導技術の恩恵ってのが想像できないのよね。今、私達が乗っているみたいな物が、リンドブルムでは溢れ返っているんでしょ?」

「魔導が当たり前の世界で育った俺にはしてみれば、それが当たり前だったからなぁ。正直な話、俺としてはあんなごちゃごちゃと魔導関係のアイテムが詰め込まれているだけの、小さくて狭い世界に嫌気がして出た人間だからな。ジニーが求める様な答えは持ち合わせていないよ」

「そんな場所だったかな。お爺ちゃんとお祖母ちゃんは一度行った事があるみたいで、と言ってもずっと昔の話だけどね。でも話で聞く限り、凄く魅力的な御伽の国のような場所に思えたよ」

「確かに、あの都市の中はまさしく冒険小説で描かれているかのような異世界だよ。だけど、それは外見だけ。余所者は表面しか見えない。実際は酷く濁っていて汚い場所だ」

「都市の上空を走る魔導列車とか、一度は見て見たいし乗ってみたい」

「エアキャブのことか? あんな騒音をまき散らすだけの物を喜んで乗ってるのは観光客ぐらいなものさ。あんなのが上で走る下で暮らす人間達の気持ちを考えたことがあるのか? 見えない所にあるのは、あの国の問題点ばかりだ」

「……人の夢を壊すのって楽しい?」

 ジニーの責めるような視線から逃げるようにスピッツは目を背けた。

「自分が生まれ育った場所なのに、悪い所しかないの? 嫌な思い出しかないの? 私の生まれ育った場所は、何も無い場所だった。見える景色は森と山と湖だけ。それ以外何もない。何をするにも不便だったけど、一度でもそこを嫌と思った事はない。良い面も悪い面も全部ひっくるめて私の故郷だもん」

 ジニーは故郷の風景を思い浮かべながら言う。ジニーはスピッツの考えに否定も非難もしたわけではない。しかし、そんなジニーの言葉に、スピッツは不機嫌な表情を浮かべた。

「じゃあ、何で出て来たんだよ」

 スピッツの言葉には、すこしだけ悪意の棘が含まれている。それを気付きながらも、ジニーはスピッツを真っ直ぐに見て答えた。

「私にはやりたいことがあるから」

 明るくはっきりと臆せずに答えた少女の青い瞳を、ブラウンの瞳が眩しそうに眺めていた。

「……やりたい事か……」

 唐突にスピッツは立ち上がった。その顔には希望に満ち溢れた若者らしい活力が漲っている。

「俺もそうだ。やりたいことがあるから、あんなところを出たんだ!」

 誰もがスピッツを見ていた。ほとんどが奇異とした良いとはいえない視線だが、スピッツはそんなことを気にした素振りは見せずにジニーを真っ直ぐに見つめた。

「なぁ、ジニー。冒険小説は好きか? 俺は大好きだ!」

 スピッツの突然の告白に、ジニーは彼が何を求めているのか理解できなかった。しかし、周囲の人々は、スピッツのその言葉の内容を勘違いしたらしく、身を乗り出して二人の会話に聞き耳を立てている。比較的近くにいる老齢の女性に至っては、スピッツを応援するような眼差しを向けていた。

 周囲からの変なプレッシャーを感じて、ジニーはスピッツの背後で聞き耳を立てている乗客達を眺めた。彼等はジニーに期待を寄せるような視線を向けていた。スピッツはそんな背後の状況には気が付いていない。

「も、もちろん、私も好きだよ」

 嘘を付く理由もない。ただ周囲の状況が気になりながらも、ジニーは周りからの視線を気にしながら答えた。それを聞いたスピッツは喜びを体全体で表現する。まるで長年探し求めていた理想の相手を見つけたかのような反応だ。

「ありがとう、ジニー!」

 感極まって眼に嬉し涙を湛えたスピッツは、ジニーの腕を引いて立たせると、まるで恋人のように強く抱き締めた。あまりにも突然のことでジニーは驚いて体を硬直させた。異性にこのような形で抱き締められた経験なんて、ジニーは一度もなかった。幼くてもジニーは乙女である。知り合ったばかりの異性からの抱擁に良い感情を抱ける訳がない。嫌悪と恐怖と不快感が入り混じった表情を浮かべている。

 脇腹に拳を突き刺すか。それとも股間を思いっきり蹴り上げるか。ジニーは、抱きついて離れようとしないスピッツへの対処を考えていると、勘違いした周囲の乗客が二人に向かって祝福の喝采を受けることになった。周囲の人々の眼には、青年の告白を少女が受け入れたようにしか見えるらしい。

「よかったな、兄ちゃん」

「お嬢ちゃんもおめでとう」

「まだまだ若い二人には苦難が待ち受けているだろうけども、互いに協力し合って頑張るんだよ」

 乗客から賜る若いカップルへ向ける数々の祝福の言葉に、ジニーは知人が作ったあまり美味しくないシチューを食べた時のような笑みを浮かべた。乗客達からの祝辞の意味をスピッツは理解できていないらしい。

「あ、ありがとう。皆、ありがとう」

 周囲の人から何故祝福を受けているのかスピッツは疑問に思いながらも、ジニーの肩を恋人であるかのように抱きながら周囲の人達に向かって感謝を述べている。ジニーはなれなれしく肩に手を回す青年を、じっとりと湿った視線を向けていた。

 そんなジニーの視線など誰も気が付いていない。まるで結婚式でも上げているかのような賑やかさの中、ジニーは周囲の浮かれた状況に逆らうことを諦めることに決めた。ジニーには、名前以外の素性も謎な自称旅人の青年にも、そんな彼と婚約したと勘違いして祝福する乗客達にも、今のジニーにはそんなことを気にしている余裕はない。

 ジニーはずっと拭いきれない不安を抱いていた。ジニーの必ず的中する嫌な予感である。その薄暗い影は、すぐ近くで燻り続けているようにジニーは感じた。トラブルという物はいつもそうだ。気が付いた時にはすでに孕み始めているのに、誰もがそれを目にしながらも気に留めず、そして予期せぬ瞬間に破裂する。

 ジニーはじっと最後尾の車両へと繋がる扉を睨んだ。車両扉の窓越しに、最後尾に乗っている男達の姿が時折見えるが、それだけである。あれだけ駅構内で横柄で横暴な行いをしていた男達が、これだけ賑やかな車両に対して何もしてこないことに、ジニーは強い違和感を抱いた。

 そんなジニーの不安を飲み込むかのように、周囲の乗客達は祝宴でも開くかのように騒ぎ始めた。皆めいめいに隠し持っていた少量のワインや食料が振る舞われる。スピッツは相変わらず、何故周囲の人々から熱烈に祝われるのか理解できずに、疑問を浮かべながらも勧められるままにワインを口にしていた。

 ワインを飲んで浮かれているスピッツに呆れながらも、ジニーは淡々と準備を始めていた。いつ何が起きても大丈夫なように。祖母に厳しく教えられているように。

――旅の間は、絶対に気を緩めるな――

 ジニー達を乗せた列車は、ジニーの不安をよそに東へ向かって順調に進み続ける。

 


 一隻の船が海上を北へ進む。船の甲板では船員達が慌ただしく働いている。しかし、船員達が発する物々しい雰囲気から、この船が漁船や商船といった普通の船でないのが一目瞭然だ。甲板で働いている船員全員が武装しており、船全体が物騒な気配を漂わせていた。

 船の甲板上の空気は、緊張で張り詰めている。いつ戦いが始まってもおかしくは無い空気だ。船の至る所から、慌ただしく作業をする船員達の怒声が飛び交っている。

 そんな下甲板の船首近くで、一人の少女が前方に広がる海を眺めていた。少女の視線は、船の進む進路の先を注視している。シスター服に身を包んだ少女は、清らかな雰囲気を纏っている。長く絹のような亜麻色の髪を、海風に靡かせる姿は幻想的でさえある。エメラルドグリーンの瞳は慈愛に満ちている。海を眺めるその姿は、宗教画で描かれる聖女のように神秘的なまでに美しい。

 シスター服を来た少女の装いは、海賊船と思しき船に乗っているにはあまりにも場違いだ。誘拐されている雰囲気でもない。近くを通りかかった船員達と親しげに挨拶をしているが、仲間という訳でもなさそうだ。

 少女は先程からずっと、船が進む進路の先を見つめている。その眼差しは真剣で、少女が意識を水平線の彼方へ向けられている。少女は明らかに何かを警戒していた。甲板で働く船員達もそれを知っているのか、少女の仕事を邪魔しないように注意しているのが見て取れる。

 時刻は昼過ぎ、空は快晴で海は比較的穏やかだ。少女が注意して見つめる海は平穏そのものである。普通の海原の風景が果てしなく続く以外、何も無ければ何かが起きる気配はない。

 しかし、それでも少女は意識を前方へ向け続けた。

 その時、突然風がその強さと向きを変えた。

 東から風が西へと吹き抜けて行く。船の下甲板に立つ少女の亜麻色の美しい髪が、風で巻き上げられる。少女は髪を押さえながら、吹き抜けていった風をエメラルドグリーンの瞳で追い掛けた。まるで誰かに呼ばれた様に振り向いた少女の視線の先には、海と空がどこまで続くだけの光景が広がっている。空は快晴で雲一つ無くて、海と空との境界が解からなくなるほど青で埋め尽くされた光景だ。しかし、少女の緑翠色の瞳は美しい海の風景など興味がないのか、西に広がる水平線の彼方をずっと見据え続けた。その真剣な眼差しの奥には、少女の純粋な期待が込められている。

 だが、真剣な少女の眼差しとは異なり、視線の先に広がる空と海に変化は何一つ起らない。昔からも、そしてこれからも、その景色が変わることはない。そんな海と空に、少女の瞳の奥で膨らんだ期待は萎んで小さくなっていく。少女は憂う表情を浮かべて、海平線の彼方を睨んだ。口に出してはいけない言葉が喉元まで上がってくる。

 それは、決して形にして出してはいけない言葉だ。

 何故なら、少女を乗せた船が航行している海域は、モンスター出現率が高い魔の海域である。甲板の上で働く船員達は、誰もが張り詰めた表情で働いていた。そもそも、この船がそんな危険な海域を走る原因を作ったのは、少女自身の希望を叶えるためである。

 今、喉元まで上がって来た言葉は、そんな少女が決して発してはいけない言葉だ。

 だが、それでも思わずにはいられない。

 不謹慎でも、願ってしまう。

 だけど、それだけは絶対は許されない。

 少女は喉元まで上がって来たそれを、溜息という形で口から吐き出した。

 だけど、諦めることができない。少女の南国の浅い海辺を思わせるエメラルドグリーンの瞳は、水平線の彼方へ再び向けられた。その先に、少女が待ち望む何かがあるかのように。

「どうした、何か見えるのか?」

 少女の背後から、長身の青年が声を掛ける。鋭く硬質な声は大人びている。青年の精悍な顔立ちには、僅かな幼さが薄く残されていた。その黒い瞳には鋼のような生気が満ちている。腰に剣を下げ、服の盛り上がりから見て取れる鍛えこまれた肉体からでも、青年が持つ戦闘能力の高さが窺い知れる。隙の無い立ち姿からは、傭兵然とした剣呑さを纏っているのを感じられた。

 呼び掛けても反応を見せない少女に、青年は彼女と同じ方向へ目を凝らした。青年の鋭い視線は、まるで密林の中で敵の襲撃を恐れて周囲を警戒しているかのような緊張感で漲っている。しかし青年の視界にあるのは、果てしなく続く青の世界であった。

「何も見えないぞ」

 不可解に言う青年の低いながらに迫力のある声には、他者を威圧して畏怖させるだけのものがある。

 しかし、少女は青年の声を無視して水平線の彼方を眺めていた。青年はそんな少女に辟易とした溜息を漏らす。そして、青年は皮が厚い掌で拳を作る。青年の拳には、若年とは思えない数々の歴戦の記録が刻まれていた。握りしめられた拳は、見るからに鉄のように固そうだ。青年は黒髪を掻き揚げながら、その拳を躊躇することなく少女の頭上に落とした。

「ふぎゅ!」

 カエルが潰れたような音が、美しい少女の口から漏れた。頭を押さえて痛みを堪えている少女からは、先程まで纏っていた聖女としての神秘的な美しさは消え失せていた。怒りが浮かんだ顔を上げて痛みで濡れた瞳で青年を睨む姿は、どこにでもいる年相応の少女である。

「痛いじゃない! 何するのよ!」

 少女は真っ直ぐに青年の顔を真っ直ぐに見つめる。若いとはいえ青年の顔立ちは、その辺のゴロツキ程度ならば、その鋭い眼光で退かせるだけの凄みがある。しかも、腰に長剣を提げて傭兵然とした剣呑とした鋭い雰囲気を持つ青年に、ほとんどの大人達は恐れて近づきはしないだろう。そんな青年に対して、少女は恐れを知らないかのように強気に次々と文句を投げつけるように言う。

「普通女の子の頭を小突いたりする? たんこぶができたらどうするの? 年上なんだから、もっと年下の、それも女の子に対して優しく接することはできないの?」

勝気に言葉と視線で青年の粗暴さを責めたてる少女からは、先程の清らかでお淑やかな聖女とした姿が嘘のようで、少女が着ているシスター服が似合っていない。

「ちょっと、バンク聞いているの?」

「喧しい。お前が海をボケッと眺めているのが悪い。一体、何を見ていたんだよ」

「何って、海と空と雲以外、何が見えるっていうのよ」

 何を馬鹿なことを聞くのだろうという、少女の態度に青年は怒気を露わにして睨んだ。

「ならその眼で周囲を見て見ろ」

 常人なら恐れ慄くほどのドスの効いた迫力ある声だが、少女に応えた様子はない。青年に言われるがまま、少女は顔を左に向けて右を向く。上甲板上を視線で掃くように見回した少女に視界には、作業の手を止めて少女を見つめる船員達の姿が見えた。船員達は少女と視線が合うと、困ったような笑みと嘆息を少女に向けた。そんな船員達の態度に、少女は目の前の青年が不機嫌な理由が理解する。

 少女は青年を和ませようとして、精一杯の笑みを浮かべた。

「ぷぎゃん!」

 少女の頭上に二発目の鉄槌が振り下ろされた。

「笑って誤魔化そうとするんじゃない」

「だからって殴らなくてもいいじゃない!」

「何度注意しても仕事に集中しない、お前が悪い!」

 下甲板上で交わされる青年と少女の口論を、周囲の船員達は見飽きたかのような呆れ顔で眺めていた。緊張で張り詰めていた船員達が弛んでいる。青年と少女の他愛もない口喧嘩が、甲板上に漂っていた戦場の前線を思わせる空気が和んでいく。

 そんな甲板上に突如、落雷を思わせる怒声が響き渡った。

「手を止めて何してんだ、テメエら!」

 上甲板に現れた男は、この武装商船の船長だ。一部の商業ギルドから独自に懸賞金がかけられ、内界と外界を繋ぐ海路上で名の知れた海賊の頭目である。海鷹のホークと海賊からも恐れられる海賊だ。

右目を失っているが、今なお鷹の眼と恐れられた力は健在で、残された左目は鋭利な刃物を思わせるだけの覇気で満ちている。齢は間もなく五十という老境を迎えようとしているが、太陽と海風に晒し続けた肉体は、衰えを知らないかのように生気で満ち溢れていた。逆立った頭髪と髭を蓄えた相貌はライオン思わせる。

「俺達が今どんな海を渡ってるのか、忘れたのか!」

 作業の手を止めていた船員達に、鷹の眼と恐れられる鋭い双眸でホークは睨む。まるで刃を突きつけているかの、荒事を生業としている屈強な船乗り達が震え上がるほどの鋭い眼光だ。

「ここはモンスターとのエンカウント率が高い、魔素濃度の高い海域だぞ! ボサッと手を止めてサボっている奴は、モンスターが殺す前に俺が殺す!」

 殺意に近い怒気を飛ばす船長に、恐れをなした船乗り達は声を張り上げてがむしゃらに動き始めた。そんな部下をホークは鋭い眼光で睥睨すると、呆然と立ち尽くす少女と青年を睨む。怒気を孕んだホークの視線は少女に集中していた。

 少女は一瞬だけ、ホークの鷹の眼を思わせる鋭い眼光にたじろぐが強気に睨み返す。そんな少女の勝気な視線を、ホークは鼻息で飛ばした。

「バンク! テメェもボサッとしてねぇで、所定の位置で待機してろ!」

 ホークは青年を指差して、空に轟くほどの怒声をぶつける。それは声による暴力のようなもの、普通の人間ならば腰を抜かしていただろう。声の矛先でもないのに、甲板にいた船乗り達は聞いただけで体をビクつかせて萎縮している。しかし、青年は船長の殺気混じりの視線を物怖じすることなく見返した。

「了解」

船長の命令に逆らうことなく、青年は無表情で小さく答えると、船尾のほうへ向かって歩き少女から離れて行く。

 離れて行く青年の大きな背中を、少女は寂しそうな表情で見送った。

「おい、嬢ちゃん」

 頭上から降りかかる不機嫌な声に、少女は上を見上げた。落ち着いた声だったが、深い苛立ちを抑えこんでいるのが船長の顔から窺いしることができる。少女を睨む瞳には、激しい怒りが垣間見える。

「海を呑気に眺めているなんて、観光気分か? 俺はお前を客として、この船に乗せたつもりはないんだがな。それだけのものも貰ってないしな」

「そんなこと言われなくても解かっているわよ。だから、こうして昼間は私が魔素濃度の探知とモンスターの索敵をしているんじゃない」

「当たり前だ。誰の為に、俺達がこんな危険な海を渡っていると思ってるんだ! パスポートを持たないお前とお前の荷物達は、内界から外界へ渡る不法渡航者を見張る巡視船に見付かれば、強制的に元いた場所に戻されることになる。身分があるお前はまだいいが、お前の荷物はどうなるかわかったもんじゃないぞ」

 本来、船は魔素濃度の低い海域を進むのが鉄則である。魔素濃度の高い海域を渡るのは自殺行為でしかない。その為に、海洋を進む船の乗組員は大抵低レベルの探知もしくは索敵スキルを持っているものだ。内界と外界間の海を航行する船には、魔素を察知できる探知スキル、周囲にモンスターの出現を感知できる索敵スキル、これらを持つ航海士が必須となっている。

「魔素濃度が高ければ高いほど探知スキルの長けた者でなければ、まともに航行することは不可能だ。俺の船でそれができるのは一人しかいない。本来ならば、お前のような信用も信頼もしていない小娘なんぞに頼ったりはしない。だからこそ、監視の楽な時間帯である日中を任せているのに、お前ときたら何度も周囲の人間が勘違いするような行動ばかりしやがって」

 これまで少女に対して抑えてきた口が漏れ始める同時に、ホークが耐えてきた怒りがここで爆発した。

「小娘、言っておくがな、いざとなったら俺はこの船と部下達の命を優先するからな! 一ギルの儲けにもならない、お前の荷物を必死になって守ると思ったら大間違いだぞ! なんなら、今すぐにでもあんな厄介な荷物なんざ海に捨ててやってもいいんだからな! お前の自己満足の為の偽善なんかに命をかけられない!」

 その言葉に少女は敵意を込めてホークを睨んだ。彼女がこの船に持ち込んだ荷物は、彼女にとってかけがえのない大切な物である。それを目前の男は、平然と冷徹に捨てるといった。その言葉は少女が荷物をここまで持って来ることになった原因であり、それは彼女にとって憎むべき敵だ。

 だが、ホークが少女の心情を知るわけがないし、知る必要も無い。シスター服を来た彼女が、何があってここまで旅を続けて来たのか、それはホークにとって関係ないことだからだ。

 何故、少女は外界を目指しているのか。

 ホークは知らない。少女が幼いながらも、彼女が強大な敵と戦っていることを。

 だからか、ホークは激しい感情が渦巻く瞳で睨む少女を、蔑むかのように鼻で笑ったのだろう。ホークの眼には、少女が確固たる信念も、信念に対する覚悟も無く理想を掲げる愚か者に見えた。

 そんなホークに対して、熱烈とした怒りが少女の腹の底から込み上げてきた。少女の瞳に映るホークは、少女の眼にはモンスターとして映っている。

 しかし、少女は今にも口から飛び出しそうになる激情を、必死になって飲み込んだ。そもそも、外界へ渡る商船を探していた少女が見つけたのが、この海鷹のホークが乗る武装商船だった。港に停泊していたそれ以外の商船全てに、少女の荷物の乗船を断わられていた。少女が外界へ持ちこもうとしている荷物は、内界の厄種のような物だった。誰もが関わるのを嫌がり、誰一人も少女の話を聞こうともしなかった。

唯一、ホークだけが少女の頼みに耳を貸してくれた。そして、少女の願いを聞き入れてくれた。

少女と海賊ホークが交わした約束は、少女と少女の荷物を外界へと渡らせることだ。報酬は少女の全財産である。それはホークにとって一ギルの儲けの無い話だった。少女の全財産は、少女と少女の荷物を外界へ渡航させる金額よりも少ない。

 これでは儲けどころか、むしろ損益になる。

そこでふと湧いた疑問が、少女の怒りを急激に低下させた。

「なら、何で私のお願いを聞いてくれたの?」

 他の商船が少女の依頼に耳も貸さなかったのは、その荷物が原因だったわけではない。単純に儲けが一ギルもなかったからだ。少女自身も、無理を押し通せるだけの大金を持っているわけでもない。

 ホークと出会うまでに多くの人達から、少女が言われ続けた言葉が『偽善』である。

 少女が求めること、少女が願うこと、誰もが最初はそれを聞くと褒めてくれる。しかし、それに関わろうとすると、褒めてくれたほとんどの人がその言葉で少女を責めたてた。

 偽善、その言葉を言われるたびに少女は一人のシスターの姿を思い浮かべた。どれだけ少女が本気で必死で善行を成し遂げようとも、それが形にならなければ全て偽善だと、少女の期待と希望を裏切った人物でもある。

 それから少女は飛び出すようにして、荷物を抱えて外の世界に飛び出した。

計画性の旅は、言い換えればただの無謀でしかない。世界に対して無力で無知な少女が、沢山の荷物を抱えて無事にここまで来られたのは、ひとえに青年のおかげである。

少女は視線を下げて、船尾から後方の海を監視する青年の背中を見つめた。彼は少女から一ギルも受け取っていない。

青年だけでは無い。これまで多くの人の手助けがあったからこそ、少女は荷物を一つも失わずに旅を続けてこられたのだ。

これまでの少女の無謀な旅を支えたのが、その全てが善意である。

偽善という言葉は、それら全ての善意を蔑ろにした言葉のように少女には聞こえた。

少女は恐ろしい海賊のキャプテンの顔を見上げる。海賊から海鷹として恐れられる男なだけに、見るからに恐ろしい顔をしている。海賊である以上、男は悪党であることは間違いない。

なのに、そんな男が唯一少女の依頼を聞き入れた。彼女の全財産という少ない金額で、だ。商船としてはむしろ赤字でしかない依頼である。

それは少女の目線からは善行であり、少女の善行はこれまでずっと偽善と言われ続けて来た。

だからこそ、少女は目の前の男の真意が知りたかった。何を考え、何を求めているのか。

「ねぇ、なんでなの、なんでこんな一ギルもお金にならない私の依頼を受け入れてくれたの? それも厄介事と面倒事しか置きそうにない荷物を抱えた私なんかのを」

 目の前の男は、海賊からも恐れられる海賊だ。善行と偽善という言葉からは遠い所にいる人間のはずだ。彼の船に乗って二週間が経とうとしているが、少女の眼にはこの男を完全の悪者には見ていない。しかし、この男が悪を抵抗なく実行できる人間であるのは知っている。実際に、これまでの航海で他の海賊から襲われた際に、ホークは降伏した敵を躊躇なく殺していた。

「貴方の、海賊海鷹ホークの狙いは何なの?」

 少女はホークという人間を、心のどこかでまだ疑っているのかもしれない。海賊稼業に身を窶している男が、金にもならない少女の頼みをどういった考えで引き受けたのか知らなければならない。

 それは少女自身の為だけでなく、彼女の大切な荷物の為だからだ。

「……狙いか」

 ホークは少女の疑問に顎髭を撫でながら、何と答えようかと考えあぐねている様子だ。答えをはぐらかすか、適当な嘘で納得させるのか。

 しかし、口から出たのは正直な思いだった。

「お前が似ている。いや、似てはいないが、だけど似ている」

 少女はホークが何を言っているのか、何一つ理解できなかった。

 ホークは自分が思わず漏らした失言を後悔するように、低くぼやきながら乱雑に後ろ髪を掻き乱す。深い溜息のあと、ホークは諦めたかのように本音を語り始めた。

「嬢ちゃん、お前さんのそのシスター服を見るに、ニサンの修道女だろ? 俺はガキの頃、その国の世話になっていたんだ」

 軽くなった口を閉ざすことができなくなっていることに、ホークは自分自身に嫌気がさしている。これから漏れだす言葉が気恥ずかしくて、ホークは表情が見られないように少女に背を向けた。

「そこで一人のシスターに、俺は命を救われたんだ。あえていうなら、これは俺なりの恩返しだ」

 少女の位置からはホークの顔を見ることはできない。しかし、その言葉で少女は納得することができた。初めて会った時から、ホークはいつだって粗野で粗暴な態度と言動ばかり繰り返していたが、少女にも少女の荷物にも危害は一度も加える様なことはなかった。口汚く罵ってくる言葉の真意には、この海賊なりの不器用が垣間見えていた。

 背中から漂ってくる少女からな暖かな視線を、ホークは鬱陶しそうにして振り向く。頭上から見下ろすホークの視線は、少女の甘えを断ち切るような厳しさがある。

「嬢ちゃん、お前のやっている事もやろうとしていることも、俺は立派なことだと思う。だがな」

「実現できなければ偽善だっていいたいんでしょ」

「あぁ、そうだ。実現したければ、非情になれ。お前が成そうとしていることは生半可な覚悟じゃできない」

 少女は一人の年老いたシスターの姿を思い出していた。一つでも多くの戦火を鎮めようと、一人でも多く戦禍に見舞われた人々を救う為に、自分の人生を捧げた人物だ。

「人には出来ることと出来ない事があるって、私を諭したいですか?」

「違うな。やる以上はどんな手を使ってでも成し遂げろってことだ。どんなものでも利用して、どんなものでも犠牲にしてでもな」

 冷厳と言い捨てて、ホークはその場から立ち去ろうとする。こうしている間も、船は危険な海域を航行している。船の船長であるホークに、長話をしている暇も気を弛ませている余裕もない。

「待って」

 そんなホークの背に向かって、少女は声を上げて呼び止めた。

「恩返しなら、どうしてその人に直接返さないの?」

 その問いにホークは振り返らずに答える。

「返したくても、その人はもういないからだ」

 短く答えた声には、深い悲しみが込められていた。

 ホークが立ち去り一人残された少女は、静かに彼が残した言葉を噛みしめていた。

 自分が周囲の反対を無視して、家族のように慕う彼女の言葉を疑って、このような場所にいることに、少女は自分自身の行動と判断が正しかったのかと迷い悩んでいる。彼女が生まれ育ったニサン教国から、船倉に閉じ込められ続けている荷物……いや、難民達を連れ出したことは間違いだったんじゃないだろうか。

 少女の行動の正否を答えてくれる者はここにいない。たとえそれを答えてくれたところで、その答えが本当に正しいかどうかなんて誰にも解からない。

 それに少女が迷う原因の底にあるのは、暗い罪悪感が沈んでいる。

 彼女は本当に純粋な思いから、救いを求める難民達を内界から外界へ逃がす為に目指しているのだろうか。

 本当は自分自身の夢を叶えるために、難民達を利用しているんじゃないだろうか。

 これを機に、少女自身の夢、見知らぬ世界を冒険したい、という幼い頃の夢を叶える為に。

 風が吹き抜けて行く。東からの風だ。縦帆船は怒声を張り上げる船長の指示と、その指示に従って雄々しい声を上げる船乗り達の巧みな操船によって、上手く風を捉えて海を北上していく。

「おい、この先の海の様子はどうなんだ!」

 ホークの怒声を受けて、少女は探知スキルを利用して周辺の魔素濃度とモンスターの有無を探る。船の進路上の魔素は低く、モンスターの出現はない。

「このままで大丈夫!」

 声高に叫ぶと、少女は船の進路の先では無く、静かに風が吹き抜けて行く西に広がる水平線の先を見つめた。先程、青年とホークから注意を受けたばかりなのだが、少女はどうしても西側に何かがあるように思えてならなかった。彼女が幼い頃から夢に見た見知らぬ世界『外界』に背を向けて、彼女はこれまで過ごして来た『内界』を見つめ続けている。思い出も、愛する人々も、全部を置き去りにして少女はここまで飛び出してきた。

 少女の瞳に、重苦しくて薄暗い、まるで冬を前にした秋の風を思わせる感情が込み上げて来る。これまで押し込んでいた感情と共に、少女の名前を愛おしげに呼ぶ一人のシスターの姿が、脳裏に浮かび上がってきた。

 帰りたい。

 その言葉が頭に過った時、少女は込み上げてきた弱さを両腕で乱雑に拭い捨てた。やって後悔するくらいならやるな、やらずに後悔するくらいならやる、そう少女に教えたのは彼女が慕うシスターである。

 今戻った所で、きっと追い返されるに決まっている。

「……行ってきます」

 少女は一人静かに、彼女の慈しむ大切な過去と別れを告げた。

「わぁー、海だー!」

 突然、背後から幼い子供達の陽気な声が響き渡る。何事かと少女が振り返ると、甲板下へと通じる階段の扉が開かれていて、続々と子供達が飛び出してきた。

 子供達は縦横無尽に、無邪気に下甲板をはしゃぎ回る。

「誰だ。ガキ共を部屋から出した奴は!」

「仕事の邪魔だ! 誰かさっさと捕まえろ!」

「クソガキ共が、死にたくなかったら大人しく言うことを聞きやがれ!」

 上下甲板上を走り回る子供達に向かって、船乗り達が怒鳴り声を上げて追いかけ回す。

「いやよ」

「あんな所にいつまでも閉じ込められていたら死んじゃう」

「ジメジメだし」

「蒸し暑いし、暗いし」

「狭いし」

「つまんないし」

「捕まえられるものなら、捕まえてみやがれってんだ!」

そんな船員達相手に遊んでいるかのように、子供達は無邪気に笑って逃げ回る。息が詰まるほどの緊張で張り詰めていた甲板上の重苦しい空気が、子供達の陽気な声で明るく賑やかになっていく。怖い物知らずの子供達の前では、海鷹ホークの威厳も肩透かしである。ホークは諦めたかのように、怒りが混じった溜息を吐いた。怒った顔で子供達を追い掛ける船乗り達の表情も、どことなく和らいでいるように見える。

「あ、エアリス様だ!」

「エアリス様、何してるの?」

 逃げ回る子供達を愉快に眺めていた少女を一人の子供が見つけると、あっという間に少女の周りには子供達が集まっていた。

「エアリス様、一緒に遊びましょうよ」

「今はお仕事中なの。だからみんなも船乗りさん達の邪魔をしちゃ駄目だよ」

「だけど、いつまでもあんな狭くて汚い部屋でこれ以上閉じ込められていたくないよ」

「あと、ちょっとだけ我慢してくれないかな。そうしたら、何も気にせずに遊び続けられる場所につくから」

「そこなら何をしても大丈夫なの? 誰の眼もしなくても平気なの?」

 少女の周囲に集まる子供達は特徴がある。肌は浅黒く焼けていて、顔にも腕にも多種多な紋様が多色に描かれていた。

「うん、約束したでしょ。自由に遊べる場所に連れて行ってあげるって」

「おい、お前達、外に出たら駄目だって言っただろうが!」

 男性と女性が心配したような表情をして、少女の周囲に集まる子供達に近づいてくる。二人とも同じ肌色で同じような紋様を肌に描かれている。顔立ちはまだまだ幼く、見るからに二人とも成人前に見える。

「ほら、みんな下に戻るよ」

「え~、やだよ~」

「わがまま言うんじゃない」

 二人に連れられて、子供達は不承不承と船室へ降りて行った。

 それを見送った船乗り達は、嵐が過ぎ去ったかのように疲れた溜息を漏らす。

 子供達が去った後も、子供達が残した和やかさは甲板上に残り続けた。

 少女も子供達の顔を見た事で、先程まで胸中に渦巻いていた不安は取り払われていた。覚悟を決めた少女は気を引き締めて、船の進路の先を集中して見張る。

 少女はまだ知らない。

 少女が歩み始めた一歩が、やがては大きく世界を変える大きな一歩になることを。

 少女は知る由もない。

 運命的な出会いと、思いがけない大冒険が待ち受けていることを。


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