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Episode1-1-1

プロローグ


 ここに一枚の羊皮紙がある。とても古い時代の物だ。日に焼け、海風でしわがれ、長い時間にさらされ、多くの人々の手を渡り歩いている内に、紙はボロボロに擦り切れてしまっている。紙面には何か描かれているが、そのほとんどが失われてしまっていた。この紙には古いというだけしか価値の無い紙屑だ。

だが、この古い紙きれ一枚を才ある者が持つだけで、巨万の富を生み出すことができた。その価値は、あらゆる国が秘蔵する宝物を凌ぎ、ありとあらゆる財宝よりも価値があった。この薄い紙切れ一枚を作製するだけで、国が傾くほどの莫大な資金が費やされ、多くの人々が多重な労苦に苦しんだという。

 この一枚の古紙は、現在歴史博物館の片隅にあるショーケースの中に保管されている。子供なら出入りが無料の博物館の中には、多くの歴史的遺物が展示品として自由に鑑賞できる。古代の生物の化石や、超古代技術の結晶体であるアーティファクトと知的好奇心の宝庫が収められた博物館が誇る多くのコレクションの中で、このたった一枚の古くてボロボロな紙切れを見る為に訪れる客はいない。

『世界地図』、この紙切れが収められたガラスケースのネームプレートにはそう記されている。ほとんどが消え失せてしまっているが、かつてこの紙面には、人類が既知とする世界の全てが克明に鮮明と描かれていた。

 今現在を生きる私達が知る世界から比べると狭く小さな世界、多くの島々と大陸が記されていない地図としてはあまりにも不完全な代物だが、かつての人々はここに記された者が世界だと信じて疑わなかった。

 この時代の人々は、この地図の描かれることの無い枠の外、水平線の彼方、世界の果て、そこには大海が底の無い虚無へと流れ落ちる巨大な滝が広がっていると信じていた。酒場で酔っ払いが子供に聞かせるような笑い話だが、これは冗談では無い。この古い紙が世界地図として呼ばれていた時代、世界は水盆の上に浮かんでいるという馬鹿げた説が信じられていた。

 世界の果てを、誰かが見たわけでも無い。

 世界の果てへ、誰かが行ったことがあるわけでもない。

 だがしかし、誰一人疑問に思わなかった。それが世界の常識だったからだ。

 その常識に疑問を持った冒険家が一人いた。彼は一枚の世界地図を手に、彼を慕う友人達からの融資を元に、信頼できる仲間と共に、世界の果てを目指して遥か東の海の彼方へと向かった。その冒険を無謀なものとして、彼等以外の人々は嘲り笑った。東の水平線の彼方へと消えた船を誰もが憐れんだ。誰一人、彼等が生きて戻って来ると信じていなかった。

 しかし、彼は人々の期待を裏切っただけでなく、世界の常識を打ち砕く手土産を持って戻って来た。

「遥か東の海の彼方で、俺は新世界を見てきた」

 これは生還した彼が、港に集まった群衆に向かって発した第一声である。この瞬間、新しい時代が空を埋め尽くすほどの大歓声と共に始まった。

 これ以降、世界は二つに分け隔てられる。現在、博物館に収められているかつての世界地図で記されている既知とした世界を『内界』とし、その世界地図にいまだ記されていない外に存在する世界を『外界』と呼んだ。

 外界には、いまだに誰も見た事も無ければ、誰も足を踏み入れたことのない未知なる世界が存在する。そこには無限の可能性が眠っている。それを信じて大国はたくさんの船を外界の海へと差し向けた。船には富と名声と、なによりも未知の探索という好奇心で胸を躍らせる多くの冒険者達が乗り込んでいた。

 世に言う大航海時代の幕開けである。

 それから千年の月日が流れた。

 世界は、いまだに未知で覆われている。



第一話 『冒険の始まり』 

 

 これは夢だ。ただの夢にすぎない。

 誰だって一度は見たことのある夢がある夢。

 それはまだ小さい、ほんの幼い頃に見る夢。

 白い画用紙に、様々なクレヨンで描く、誰も想像したことも無い未知なるファンタジー。そこには見た事も無い生き物がたくさんいて、想像すらできない凄い光景が広がっている。そこを誰にも邪魔されることなく好きなように好きなだけ冒険している。そんな幼い子供が見る夢。

 冒険小説を読んだことがあるのなら、必ずその胸に抱いたことがあるはずだ。光が差し込まない深い森の奥、太陽の光が刺さすように降り注ぐ砂の大地、乾いた風が吹き荒ぶ荒野、氷で閉ざされた雪原、凶悪なモンスターが巣食うダンジョンの奥底、そんな誰も見た事も無ければ、誰も足を踏み入れた事の無い場所に胸を躍らす好奇心を。

 そんな夢も大人になればいずれ消えてしまう。しかし、その夢を抱き続けた大人達がいる。自由にあちこちの世界を見て歩き、未知なる世界に足を踏み入れ、世界から未知を無くそうとしている彼らを、世間一般では冒険者と呼んだ。

 冒険者、子供が憧れるかずある職業の一つである。世間の大人達は、彼等に対して好感を持っていない。悪者と冒険者にはなるな。世の大人達が子供に言い聞かせる常套句である。社会から疎まれ蔑まされる冒険者だが、だけど、未知なる世界を冒険する彼らは、子供にしてみれば英雄や勇者と同じくらい憧れる職業だ。

 そんな彼等を題材にした冒険小説は、子供にとっては大切なバイブルである。

 だけど、そんな夢も希望も、大人になるにつれて見なくなる。社会を知れば自然と冒険者に良い感情を抱かなくなる。気が付けば、冒険小説は読まなくなり本棚の奥に仕舞われてしまう。

 そして、かつての子供達はかつての大人達と同じようなことを、自分達の子供達に言い聞かせるのだ。

 悪者と冒険者にだけはなるな。

 だけど、大人達が忘れて仕舞いこんだ夢は、再びその子供達が手に取ることを大人達は忘れてしまっている。

 自分達がそうだったように。

 本棚の奥底に大人達が仕舞い込んで忘れてしまった夢を、いつしか子供達が見つけることを。

 凶悪で未知なるモンスターが巣食うダンジョンを探検する少女も、ある冒険小説を呼んで、未知なる世界に熱を浮かされて冒険者を志す多くの子供達の内の一人である。

 重ねていうが、これは現実ではない。目に映る全てが虚構にして虚像である。

 そう、これは夢だ。これは冒険者に憧れ、いつかこの世界にある『外界』と呼ばれる異世界を冒険することを目指している少女が見ている夢。

 少女はダンジョン化した遺跡を攻略する夢を見ている所だ。ダンジョンの奥深く、魔光の妖しげな光が少女の瞳に映しだすのは、超古代文明時代の遺跡に残る未知が眠り続けている広大な空間だった。薄暗い空間の中で、少女は巨大な扉の前で立ち尽くす。少女は固く閉ざされた扉を見上げている。見るからに興奮しているのが見て取れた。表情には恐れが一つも無い。青い瞳の奥で好奇心が躍動している。

 少女は逸る気持ちを抑えながら、何千年も閉ざされてきた大きな扉を押し開こうとする。巨大で重厚な扉だ。それこそ巨人族が左右に一人ずついなければ押し開くことができないような巨大な石扉で、小枝のように細い少女の両腕で押された程度で動くはずがない。きっと魔法か鍵か、それとも仕掛けを解くのか、いずれにしても押して開くような扉ではない。

 しかし、扉は簡単に開き始めた。幼い少女が、巨大な扉を開く。神話か、酒場で聞く酔っ払いの冗談のような光景だ。開き始める重厚にして巨大な石の扉は、砂糖菓子で出来ているかのように重さが感じられない。それもそうだ。これは夢であり、少女が押す巨大な石扉は虚像でしかないのだ。

 ハの字に開き始めた扉の隙間から、何千年間も押し留められていた古代の空気が外へと漏れ出してきた。そして、眩いばかりの黄金の輝きが徐々に外へ漏れ始めた。何千年間もこの未踏の奥地に閉じ込められ続けて来た輝きだ。冒険とダンジョンには、その危険な場所に見合った財宝が不可欠だ。命を失うかもしれない危険を冒した成果でもある。今まさに、それが少女の目前に姿を現した。冒険者として、これにまさる瞬間があるだろうか。

 開かれた扉の先には、黄金に輝く財宝の山が果てしなく広がっていた。しかし、ダンジョン攻略の目的である財宝を前にしたというのに、少女の反応は薄い。何かを探すように、周囲をぐるりと見回しながら、財宝が鎮座する部屋の中へと歩みを進める。

 苦難を乗り越えた後の達成による悦びなのか。巨万の富を前にした時、少女の表情に薄く笑みが浮かび上がる。財宝を目の前にして興奮しているのが伝わって来るが、その様子があまりにも異様だ。それは多くの冒険小説で描かれる冒険者の姿とは異なっている。冒険小説に登場する冒険家は、こういった時は全身で歓喜を表現するか、信じられない様な黄金の財宝を前に驚きのあまりに呆然としているかのどっちかである。呆然とではなく何かを考えているのか、歓喜からではなく薄く笑みを浮かべている少女の姿は、あまりにも攻撃的だ。それは、戦場の火蓋が切って落とされる寸前に、最前線の戦士が見せる笑みと同種のものだ。

 少女の青い瞳の奥底で激しく脈打つそれが見て取れるところから、明らかに何かを期待しているのが見て取れる。それは財宝が収められた宝物殿に足を踏み入れる少女の足取りから窺い知れた。黄金と宝石が乱雑に積み上げられた財宝へ近づく少女は、何かが起きることを知っているかのように警戒している。

 少女は何を期待して、何を警戒しているのか。

 ダンジョンの最後に手に入るダンジョンの秘宝。しかし、ダンジョンの最後にあるのは宝物だけでは無い。

 それは突然、頭上から降って来た。足元に現れた巨大な影に気が付き、少女は後ろへ飛び退く。次の瞬間、石床を砕く激しい地響きと共に、巨大にして凶悪なモンスターが少女の前に立ちはだかる。

 ダンジョンに不可欠な物、それは財宝と財宝を守る番人、ダンジョンボスの存在だ。ダンジョン攻略の最大難関にして醍醐味である。

 ドラゴンだ。このダンジョンのボスは、神話と呼ばれる古き時代からこの世界に存在し、食物連鎖の頂点に君臨し続け、この世のありとあらゆる生物が畏怖し恐怖する化物、それがドラゴンである。

 鋼よりも強靭な巨体は、その全身が熱した鉄のような鱗で覆われている。噴火直前の山が目の前に立ちはだかっているようだ。獰猛な双眸に鋭利な爪と牙からは、見る者に恐慌とした絶望を抱かせる。ダンジョンボスたるドラゴンは、冒険小説で語られるどおりの凶悪さでもって少女の前に現れた。

 猛々しい咆哮が少女に向けられた。ただ威嚇しただけの雄叫びが、ダンジョン全体を揺るがした。

 宝を守る番人は、財宝を奪いに入って来た小さな侵入者に対して、敵意を孕んだ瞳で睨み続ける。黄金に輝く財宝を踏み締めながら、その所有権を主張するかのようにドラゴンは少女に向かって再び咆えた。大口を開けたドラゴンが放つ咆哮が、少女の幼い全身を激しく叩く。略奪者を威嚇するドラゴンの刺すような禍々しい殺気で大気が歪み始める。

 ダンジョンボスであるドラゴンと、その侵入者である少女との間には歴然たるレベル格差、いや種族として歴然たる能力の格差が存在している。そもそもドラゴンとは、食物連鎖の掟を制定した神が全ての生物の最上位に君臨させた生物だ。たかが人間の、それもただの少女がドラゴンに挑むのは狂気以外のなにものでもない。いや、狂人ですらドラゴンに挑みはしない。

 強大な敵を目の前にして、少女はたじろぐどころか不敵な笑みを浮かべている。ダンジョンの宝物殿の中には、財宝とそれを守るドラゴン、まさしく冒険小説定番の展開だ。これで胸が熱くならないわけがない。

 少女は手にした武器を強く握りしめながら、好戦的に大きく見開かれた瞳を強大な存在であるドラゴンに向ける。ドラゴンに負けないくらいの雄叫びを上げる。巨大な死の塊を視界に収めながらも恐れは微塵もない。少女が熱く滾らせている闘争心に引き寄せられるように、ドラゴンは低く唸りながら頭を低く倒して前傾姿勢で身構えた。

 ダンジョン探索の醍醐味、ダンジョンボスとの壮絶なバトルが今始まろうとしている。

 その瞬間だ。

「ジニー!」

 ダンジョン全体を揺るがすほどの大音声が響き渡った。

「ジニー、いつまで寝ているんだい!」

 突然現れたドラゴンにすら驚きも動揺もしなかった少女が、ダンジョンを激しく揺す振る大声に驚き慌てふためく。頭上から落ちてくるダンジョンを構成していた壁を避けながら、少女は何事が起きたのか理解できずに目と鼻の先にいるドラゴンを無視して真上を見上げた。

 戦闘中に相手から視線を逸らすのは、即ち死を意味する。だが、これは所詮は現実ではないのだ。

「聞こえないのかい、ジニー!」

 何者かは解からない怒声。その怒声で、ドラゴンがまるで泥人形であるかのように、その雄々しい姿が判別しにくくなるほど形が崩れ出した。そこで少女は重要なことに気が付き、声の主が誰なのかすぐに理解した。

「ちょ、ちょっと待って! い、今、今いい所なの、あとちょっとだけ待って、お願いだから!」

 状況を理解した少女は、頭上に向かって声を張り上げて懇願する。それに対して更なる怒声が降り注いできた。

「あとちょっとだけ待ってだって? 何を寝ぼけたことを言っているんだい!」

 ドシン、どこからか響き渡ってくる怒った巨人の足音が轟然とダンジョンを揺るがし始める。

 ダンッ、ダンッ、ダンッ、何者かが怒りを踏み締めながら階段を昇ってくる音が少女の世界を壊し始めた。先程まで目の前にいたはずのドラゴンが、いつの間にか影も形もなく消え失せてしまっている。

「お、おね、お願いだから! あ、あと、あと五分だけでいいから! 夢の中で夢だって気付くのなんて滅多にないんだから」

 立っていることもできない地震の中で、少女は必死に声を張り上げる。そんな少女の願いは、相手の怒りに油を注ぐ結果に終わった。

「あと五分! あと五分、私が朝に一番聞きたくない大嫌いな台詞だ! いいかい、ジニー! 私が部屋に入ってもまだ寝ているようなら、覚悟しておくんだよ。いっておくけど手加減しないからね!」

行動と言動には結果が伴う。冒険者にとって大切な第一の教訓である。この場合の少女の言動の結果は、無惨な失敗に終わった。

「たまにはいいでしょ。一度くらい、私のお願いを聞いてくれたっていいじゃない。今、本当に良いところなの。最後までこの夢を見させてよ。昔はいろんなところを冒険者として冒険していたんでしょ。元冒険者なら、私のこの気持ちくらい解かってくれるでしょ」

 ほとんど原形を留めていないほど崩壊したダンジョンの中で、諦めの悪い少女は必死にその世界にしがみ付いていた。

「夢になんか興味はないね。夢で得られることなんて何もない。大事なのは現実だよ。あと、何か勘違いしているようだけど、私は冒険者として冒険をしていたわけじゃないよ。私がしていたのはね、アンタみたいな駄目で愚図でノロマな冒険者のケツを叩くか、それで駄目なら蹴っ飛ばすかだ。昔も今もね!」

 階段を昇る足音が近付くにつれて、怒声も近づいてくるのが解かる。今まさに階段を昇り終って部屋の扉の前にいるのを少女は感じ取った。

「お祖母ちゃん、一生のお願いだからあとちょっとだけ寝かして!」

「アンタの一生のお願いとやらは、死ぬまでに一体あと何回あるんだい!」

 怒りのままに部屋の扉を開いた老婆は、その先で目にした光景に呆れ返った。老婆の視線の先では、窓際のベッドの上で、老婆にとってたった一人の孫娘が必死に起きるのを抵抗してもがき苦しんでいる姿があった。夢の世界に醜くしがみ付く光景を、老婆にとっては朝の見慣れたものである。

「あとほんのちょっとだから、このドラゴンを倒したらすぐに起きて支度するから」

「冒険者を志す者が夢の世界にしがみ付くとか、なんて情けない孫なんだ」

 孫娘のくだらない寝言に嘆息一つ漏らして部屋の中を見回す。

「まぁ、これは私の血じゃないね」

 カーテンが閉められ薄暗い部屋の中は混沌をテーマにしたように有様だった。様々なアイテムで床の踏み場もない。謎の文字で書かれた古書、謎の液体の入ったビン類、何に使うのかも解からない謎の器具類、用途も解からない様々にヘンテコな形をした謎の古代文明時代のアイテム類、老婆の価値観ではガラクタに類するアイテムに埋もれながら年頃の娘が過ごしていると思うと、祖母としては鉛のような頭痛を覚える。

 祖母はカオスな部屋の中を勇んで進みだす。

「ウィル、本当にこの子は良い所も悪い所も全部アンタそっくりだよ」

 込み上げてくる数々の愚痴を飲み込みながら、カオスな状態の床上を祖母は慣れた足さばきで進み、あっという間に目的地へ到達する。

「すごい財宝だよ。お祖母ちゃんに見せられないのが残念だよ。ドラゴンだって凄いんだよ。お爺ちゃんが話していたようなとんでもないモンスターだ。これを倒すのは、さすがにちょっと骨が折れるかも」

 ベッド脇に立つ老婆は、いまだに起きようとしない孫娘を見下ろす。

酷く滑稽なほどに見苦しい寝姿だ。起きることを拒んで必死に瞼を固く閉ざしている。せっかくの母親譲りの凛と美しい顔立ちが見る影もない。どんな夢を見ているのか、寝姿を見ているだけでも想像が容易い。毛布も枕も床に落ちており、ぐちゃぐちゃのシーツと同様に祖母と母親譲りの美しい金髪が爆発でも受けた後のようにめちゃくちゃだ。

「まったく毎度毎度飽きもせずに、アンタらは本当に手を焼かせてくれる」

「今まさに、伝説の冒険者ジーニアス・ウィルナイツの冒険譚に、ダンジョン奥の財宝を守りしドラゴンとの戦いが記されようとしているの」

 寝ているとは思えない流暢な寝言に、祖母は頭痛で頭を押さえそうになる両腕を伸ばして孫娘が寝そべるベッドのシーツを掴む。

「いい加減に諦めて起きなさい。ジニー!」

 そして、怒りに任せてシーツを孫娘ごと引っ張り上げた。

 意地で意識を夢の世界に居座り続けさせている孫娘は、祖母の怒りに任せた渾身の馬鹿力によって宙を舞う。肉体が中空の無重力空間を漂う中、少女の意識も崩壊する夢の世界の中を飛びあげられていた。

そして宙を舞った少女の肉体は重力に逆らうことなく落下し、床上をボールのように勢いよく転がる。床に散乱するアイテム類を巻き込みながら転がる少女の肉体を、雑に本や雑貨類が収納された棚が受け止めてくれた。小さな悲鳴を上げる少女が寝ぼけ眼を見開いて最初に見た世界は、自分の雑多なコレクション達が頭上から降り注ぐ光景だった。

 少女の悲鳴は、彼女が雑に収納したアイテム類の底に埋め尽くされてしまった。

「いつまで寝っころがってるんだい、さっさと起き上がりな! もうとっくに太陽は昇ってしまっているよ。時間は待ってちゃくれないよ。過ぎ去りし時は、あらゆる財宝よりも貴重な物だっていっているだろ」

 怒鳴り散らしながら、祖母は朝日を遮るカーテンを開ける。眩しい光線が混沌渦巻く部屋の中の酷い様相を白日の下に暴き出していく。

「ほら、ジニー、はやいとこ準備を済ませなさいな。トマスはいつまでも待っていてくれるような甘い奴じゃないよ。置いていかれたからってここに戻って来ても、アタシがアンタを家に迎え入れるなんて甘い考えが、この私に通ると思わない事だね」

 雑多なアイテム類の下敷きになっている孫娘に吐き捨てるように言うと、祖母は荒々しい足取りで部屋を出て行った。階段を下りる足音で不機嫌の度合いがよく理解できる。

 部屋にまで響く階段の音の中、少女はようやく自分のコレクションの山から這い上がる。窓からは澄んだ青い空と燦然と輝く太陽が見えた。

「……」

 立ちあがった少女は欠伸をしながら、窓から見える快晴な空を黙って眺めていた。太陽の位置で、すでに朝というにはあまりにも遅い時間なのは解かる。

 ちなみに、今日は少女の旅立ちの日だ。知り合いの交易商人の馬車で山向こうの街へと向かう予定である。待ち合わせ相手は、祖母と同じくらい時間に厳しくて、祖母と同じくらい口煩い相手だ。起き抜けの寝ぼけ頭でそれを考えながら、時間を計算してみる。待ち合わせ時間は昼前だ。空の浮かぶ太陽の位置から見ても、すでに昼といえる時間である。ここから待ち合わせ場所まではかなりの距離がある。

 そこから導き出される答えは。

「ち、遅刻だー!」

 少女の名前は、ジーニアス・ウィルナイツ。後にその多大なる功績により『エクスプローダー』の称号を与えられし偉大なる冒険者となるのだが、この時は冒険者に憧れる普通の少女であった。

 ジニーは急いで旅支度を始める。寝間着を床に脱ぎ捨てると、椅子の上に脱ぎ捨ててあったシャツを羽織りながらハーフパンツに穿こうとするが、慌てて行う行動にはリスクが伴うものだ。床上に散乱するアイテムに躓き派手に転んでしまった。

「喧しいよ、ジニー。旅の支度くらいもっと静かに、なおかつ素早く済ませられないのかい」

 階下から祖母の怒鳴り声が響いてくる。

痛みと共に喉元に込み上げて来る苛立ちを抑えて、立ち上がったジニーはアイテムが散乱する床上からブーツを発掘して素早く履く。旅の支度自体は何日も前からすでに準備は済ませてある。祖父が使っていた特殊な加工が施された革製の鞄に、貴重品は全て収納しておいてある。昨夜、忘れ物はないかと何度もチェックした後に、机の上に置いておいてある。ジニーは忘れずに、その鞄を手に取って急ぎ足で部屋を飛び出した。

 彼女は部屋を出る時、立ち止まりもしなければ振り返りもしなかった。物心ついてからずっと過ごして来た彼女のプライベート空間には、今日までの思い出が沢山詰め込まれた部屋である。冒険者に憧れ、異世界を冒険する夢を抱き、冒険者になると誓った、幼き日々の記憶が残る部屋。この後、彼女がこの部屋に戻ってくるのはだいぶ先のことになる。

 しかし、この時の彼女がそんな未来を知るはずがない。

 ジニーは慌ただしい足取りで、滑るというよりは落ちるように階段を駆け下りる。リビングの扉を開けると、食卓に座る厳めしい面構えをした祖母のコーデリアの鋭い眼光が待ち受けていた。

「一度でもいいから静かに下りてこられないの」

「なんでもっと早く起こしてくれないの!」

「起こしてあげただけでも、ありがたく思いなさい」

 バタバタと急ぎ足で、手にしていた鞄を壁に掛ける。

「大体、冒険者になろうって奴が普通に寝坊するってのが信じられないね。今日の予定は全部アンタが決めたはずだ。何時に起きて、何時に家をでるかなんてアタシは聞いてないはずだよ。予定通りに行動できない奴は冒険者としちゃ三流以下だ」

 祖母のいつもの小言である。声には平伏して許しを乞いたくなるような威圧感が込められているが、ジニーには聞き飽きた説教である。聞き流して適当に相槌をうちながら、祖母の向かい側の席に座る。そんなジニーの心内など読み通しているかのように、コーデリアは眼前に座る孫娘を睨んだ。だが、ジニーは平然とその視線さえも受け流す。

 食卓の上には、カリカリに焼かれた分厚いベーコンと卵三個の目玉焼き、山の木の実を混ぜこねて焼かれたパン、山で採れたキノコと鶏肉の香草スープ、全て祖母お手製の料理である。

「遅すぎて全部冷めているよ」

「私は別に冷めていても平気」

「料理は最も美味しい時に食べるのが一番じゃないのかね」

「冷めたのも私は好きだよ。だってお祖母ちゃんが作った料理だもん」

 その言葉は、孫を持つ者なら誰もが喜ぶ一言だろう。しかし、その孫が行儀作法を無視して、コーデリアが用意しておいた朝食を飢えた動物のようにがっつく姿を見たら、保護者であるなら誰だって眉を吊り上げるに違いない。

「作った側からしたら、もっと落ち着いて行儀よくして、しっかりと噛んで味わって食べて貰いたいもんだね。そんなにアタシの料理が好きなら尚更ね」

 ジニーは祖母の不満を訴えかけてくる冷ややかな視線を無視して、小言は聞き流して、パンを咥えたまま齧り、パンを咥えている逆側の口の端の僅かな隙間にスープを皿から直接口の中に流し込む。見ていて好ましい行儀作法ではないが、ある意味曲芸じみた器用な食べ方でもある。両手にはナイフとフォークが握られており、分厚いベーコンと卵三個の目玉焼きを器用に切り分けると、それぞれを口の中に隙間なく詰め込んでいく。

 見事な食べっぷりだが、行儀が良いとはお世辞にもいえない。未開拓地の野蛮人でさえ、このような無作法な汚い食べ方はしない。大きく激しい音を一つ立てるたびにコーデリアの眉が一段階ずつ釣り上る。

「ジニー、言っておくけどね。礼儀作法のなってない冒険者を相手にしてくれる奴なんて、ろくでもない奴だけだよ」

 頬をげっ歯類のように膨らませて咀嚼して飲み込む。それを繰り返すジニーのガチャガチャと音を立てる騒々しい食事作法に、呆れ返ったコーデリアにはいつもの説教をするつもりがなかった。

「全く、こういった部分も含めて一体誰に似たんだか。ジニー、口に食べ物を入れている時は口を開くんじゃないよ。これも含めてずっと昔から言っているような気がするよ。アンタが生まれるよりもずっと前から」

 時間厳守、冷静な言動と行動、無駄の無い効率的な動作、常識的礼儀作法、今日までの十四年の間コーデリアが一日でも教訓としての説教を言わなかった日はない。

「時間にルーズなうえに無計画で、意味も無く騒々しくて考え無しに慌ただしくて、いつからだったかしら。本当にずっと昔から苛々することも腹が立つこともなく、そして怒鳴らずにすんだ日なんて一度もなかった」

 雛鳥が巣立とう時にまで、親鳥が手を貸してしまっては逆に雛鳥に良くない。祖母としての思いを、コーデリアは抑えながら孫娘の成長を眺めた。

「本当に、せめて最後の最後の日くらいはできれば怒鳴りたくないんだけどね」

 コーデリアはそれを良く理解している。だからこそ、積り貯まる怒りの小言を次々と胸の内に収めていく。次第に冷たさが増していく瞳に氷の刃のような恐ろしさが秘められているような気がするのだが、それを差し向けられている相手は意に介した様子はない。

この手ごたえの無さと晴れない苛立ちのやるせなさは、コーデリアにとってなじみ深い感情である。

「本当に、お前はどこまでもあの馬鹿にそっくりだよ」

 ノスタルジックな色を表情に浮かべて、孫を見つめるコーデリアの視線はどこか遠くの景色を見ているようである。食べることに集中しているジニーは、そんな祖母の様子など気に留めていなかった。

コーデリアが用意した朝食を残さず口に詰め込むと、冷えたハーブティーでそれを胃の奥底へと流し込む。さすがにゲップをするのはコーデリアの堪忍袋を破裂させるので、ジニーはそれだけは必死に抑え込んだ。

「ごっ、ご馳走様でした」

 朝食を食べ終わったジニーは慌ただしく立ち上がると、祖母の小言から逃げるように急ぎ足で玄関へと向かう。玄関のコート掛けに掛けられている革のジャケットを手に取る。祖父が使っていた魔獣の革で縫製されたジャケットである。それを羽織りながら、家の外へと飛び出して行ってしまった。

 行ってきますと一言も言わずに、玄関の扉を閉めもせずに、慌ただしく旅立っていった孫娘の跡を祖母の視線が追って行く。

 そして、呆れ返った様子で溜息を漏らした。コーデリアの視線の先には、壁にかけられたまま忘れられた鞄が下がっている。中には貴重品や祖父が使っていた冒険に必要なアイテム類一式が詰め込まれている。何が起きるか解からない冒険の最中に貴重品を無くすことはよくある話だ。しかし、冒険に出発する時に貴重品を忘れるのは、冒険者として失格である。

「本当に最後の最後まで世話を焼かせる子だね」

 コーデリアは立ち上がると、壁に掛けられた孫娘の忘れ物を手に取った。その鞄はコーデリアにとっても沢山の思い出が詰まった大切な鞄である。とても古く使い込まれた鞄だ。それを慈しむように見つめるコーデリアの瞳には、悲哀が満たされていた。コーデリアはゆっくりとした足取りで孫の後を追って家を出る。これがコーデリアにとって祖母としての最後の役目となる。

 家から飛び出したジニーは走り出す。ジニーが暮らす家は山上の森の中にある。春が訪れたとはいえ、空気はまだまだ寒い。白く弾む息が、風に流されていく。頬を撫でる風には冬の名残が感じられた。だが、春はすでに訪れている。母屋のすぐ隣にあるハーブや薬草を育てているファームハウスからは、春の香草の華やかな香りが漂ってくる。小さな畑には霜が降りておらず、先日に耕したばかりだ。畑脇の作業小屋の前には、春に蒔く種の準備ができている。家の前に広がる森は、長い冬の眠りから目覚めるように命が芽吹いている。

 春は一年の始まりの季節である。冬に凍り付いて停止していた世界が気温の上昇と共に動き出す時節、旅立ちにはうってつけの機会だ。

 ジニーにとって、幼い頃から待ち続けて来た瞬間が訪れたのだ。これから待ち受ける大冒険を前にして高まる期待と興奮に、まだまだ未熟なジニーは込み上げて来る喜びを抑え留める術を持っていなかった。冷静さを失い、自分がとんでもないミスを犯していることに気が付かず、ジニーは高く跳躍して喜びを表現する。浮かれているのは一目瞭然だ。祖母が見ていたなら、鋭い怒鳴り声がその背中を貫いていただろう。

 止めどなく溢れ出す好奇心。目の前に広がる森の先、森の先にある村を過ぎる。山を降ってまた昇って再び降って山を越える。その先には、まだ一度しか訪れたことのない街がある。その街から国営バスに乗る。そこから先はジニーにとって一度も足を踏み入れたことの無い世界が広がっている。バスが向かうのは、近くの大陸横断列車が通る都市であり、列車が向かう最終地点は『自由貿易都市マイア』。そこから船に乗って、内界の外にある世界、『外界』へと向かう。

 これが偉大なる冒険者となる少女の最初の旅の計画である。

 ジニーにとって幼い頃から夢に見て来た大冒険が、今この瞬間から始まる。彼女の行き先を遮る物はない。足を止める理由もない。目的地へ向かって突き進むのみだ。

 その瞬間、森から駆け抜けて来た強い風がジニーの足を止めた。思い出さなければならない事を思い出したわけでも、気が付かなければいけない事に気が付いた訳でも無い。何者かに呼び止められたような気がしたのか、立ち止まるジニーは顔を太陽の陽射しとは反対側へと向けた。

 ジニーの視線の先には、一本の大きな樹が聳えたっていた。誰も覚えていなければ、歴史にも記されていないほど、古い時代からこの地に根付く名も無き大樹は、空を掴もうとしているかのように高く枝を伸ばしている。緑で生茂る枝々が、風に揺られて葉擦れの音を立てる。まるで漣のように、その葉擦れ音が森全体へと広がって行く。この辺り一帯は、魔素濃度が高い為『魔の森』と呼ばれており、付近の村に住む者達は決して足を踏み入れない。唯一、大樹の周囲は魔素濃度が低く、大樹周辺の開けた場所に代々ウィルナイツ家は森番として暮らしている。

 気が付けば、ジニーは大樹の足元へと歩み寄っていた。太古から息づく生命力あふれる枝々の隙間から零れ落ちる無数の陽射しの中、それはそこで静かに眠っている。ジニーが見下ろす視線の先には、一つの粗末で小さな石碑が立っていた。銘の刻まれていないウィルナイツ家の墓である。そこには寝物語で祖父から教えられたウィルナイツ家の先祖たちが眠っている。祖父の叔母や祖父の両親も、そしてジニーの母親も。

 静かに佇むジニーの頭上で、大樹が風に揺れる。無数の木漏れ日が揺れ動く。まるでジニーの心に沁み込むように。

 十四年間、ジニーはこの地で暮らしてきた。

 今日、ジニーはこの地から旅立つ。

 まるでそれを祝うかのように。

 まるで別れを惜しむかのように。

 大樹と森の木々たちが歌う様に、枝を揺り動かし、葉を擦り合わせて、漣のように静かにざわめく。

「別れは済ませたのかい?」

 突然の背後からの声、だがジニーは振り向かない。声は聞き飽きるほど聞き続けた声。だけど、その声色はこれまで一度も聞いたことは無かった。

 いつも通り威厳ある強い口調だけど、なんとなく悲しそうで、どこか嬉しそうに聞こえるけど、どことなく寂しそう。

 母親のことを、ジニーはおぼろげでしか覚えていない。母親との思い出の記憶はどこか不透明で所々が擦りきれている。そんな幼い頃の思い出の中で、母親はいつも優しく微笑んでいた。母親のことを想うと、母と最期の日のことが記憶の底から浮き上がってくる。ジニーの母親は元から病弱で、長年の心労がたたってベッドに横たわっていた。だけどどれだけ辛くても、母はジニーの前では常に優しく微笑んでいた。最後の最後の日まで。

 そんな母親が亡くなる直前に漏らした言葉は。

 消え入りそうな声で、だけどどこか安心したような優しく、まだ元気だった頃のように明るい声で。

 それは、ジニーの父親の名前であった。

 リチャード・ウィルナイツ。

 ジニーにとって父親は、名前でしか存在しない。ジニーは、写真と母親の思い出話の中でしか父親を知らない。父親は外界の王国から未探索地域の調査を依頼され、ジニーが生まれる前に旅だった。短期間で終える予定の探索で、ジニーが生まれる前には帰って来る予定のはずだった。父は仲間達と共に外界へと赴くが、それから一度も音沙汰は無い。解かっていることは、母は最期の最後まで父が帰って来るのを待ち続け、生きていることを信じていた。母が亡くなる一年前に、祖父は父を連れ帰る為に旅立ったが、祖父もまたまだ戻って来てはいない。

 祖母も母と同じように、この世界のどこかで二人が生きていて、いつか帰って来るのを待ち続けている。そこに、今日から一人加わることになる。この地で、たった一人で、いつまでもいつ帰って来るのか解からない家族を待ち続ける日が始まる。

「いつまでここにいるつもりだい? 時間はいつまでも待ってちゃくれないよ」

 ジニーが振り向くと、祖母のコーデリアは見慣れた呆れ顔で立っていた。コーデリアの表情には寂しさなんてものは微塵も浮かんではいない。ジニーが置き忘れた鞄を差し出す姿は、いつもと何一つ変わらない様子でいる。そんな祖母の姿を通して、ジニーが十四年間過ごして来た我が家を眺めた。

 祖母よりも古い木々が息づく森の中で、ポツンと俗世から外れた家で静かに孤独と共に過ごす。親しい友人は、森の外にある村や山向こうの街で暮らしている。彼らがここまで足を運ぶことは無い。

「何をぼっと突っ立ってるんだい。早いところ受け取ってさっさと行きなさい。いつまでもこんな所で時間を無駄にするつもりなんだい」

「解かっているよ。もう行くから」

 鞄をひったくるようにして受け取ると、ジニーは走り出した。鞄の紐を肩に掛けながら、森に向かって駆けて行く。

「お祖母ちゃん、行ってきます!」

「ジニー、何かを見つけるまで帰って来るんじゃないよ!」

 森の奥へ走り去って行く孫の背中に向かって、コーデリアは声を張り上げた。元気の良い返事が、高地の森の中に響き渡る。瞬く間にジニーの姿は、森の奥へと消えて行った。コーデリアは孫の姿が見えなくなっても、しばらくの間その場を動くことができなかった。森の先を見つめる視線には、僅かばかりの期待が込められているように見える。巣立った孫の姿が、目の奥に焼き付いて離れない。孫と共に過ごした日々の思い出が、コーデリアの瞳に込み上げて来る。心の中に一つの思いが湧き上がって来るが、コーデリアはそれを胸の奥へと押し込んでしまう。

「やだね、歳を取るのは。こんな弱い女じゃなかったのに」

 コーデリアは森の奥を見つめるが、彼女の微かに芽生えたばかりの願いが叶うことはない。

――ジニーと二人で、ずっとここで暮らしていたい――

 そんなことをコーデリアは望んでなどいない。それは一時の感傷から生まれた気の迷いでしかない。決して孫には見せるつもりなどない祖母の弱さである。

風が流れる。コーデリアにとって懐かしくも、親しみ慣れた風だ。この地にウィルと共に訪れた時から今日までずっと流れ続けている。大樹の枝が真下にいるコーデリアを慰めるかのように優しくさざめく。まるで呼ばれたような気がして、コーデリアは大樹を見上げた。途端にこれまでに過ごした時間が呼び戻されたかのように、思い出が次々と鮮明に浮かび上がってくる。

 愛する人と結ばれてこの地にやって来たのは、もう何十年も昔の話である。コーデリアは後ろを振り返り、生涯のほとんどの時間を過ごして来た我が家を眺めた。コーデリアの全ての思い出があの家に詰め込まれている。

「不思議だね。時間ってのは、長いのに、長いはずだったのに、とても短かったと感じるよ」

 ノスタルジックに浸る声には哀しみがある。しかし、声には確かな喜びが含まれている。コーデリアにも、ジニーのような時代があった。やがて大人になって母親になり、そして老いて孫を得る。

コーデリアが生まれ育った故郷を出たのは、はるか昔のことだ。今日に至るまでの過去を振り返るコーデリアには、微塵も後悔は無い。過去を思い出して感じることは、人生を全力で生き抜いた誇らしさで満ちていた。

 コーデリアと同じ年頃に旅立つジニーは、どのような人生を歩むのだろうか。ジニーはコーデリアと同じような人生を送ることができるのだろうか。

 それはまだ解からない。願うことは、孫が後悔するような人生を送らずにすむことを願うだけである。

風が流れる。草花を揺らしながら森に向かって流れて行く。まるで、この地から巣立ったジニーを追いかけているかのようだ。視線を下げたコーデリアは、優しい瞳で足元に佇む墓石を見つめた。

「セリス、アンタの子は旅立ったよ。大丈夫、あの子はアンタに似て強い子だ。それに何て言ったって、あの子はアンタだけでなくアタシの血も引いているんだ。大丈夫、あの子はきっとやり遂げる。だから待とうじゃないか。あの子が何かを見つけて帰って来るその日まで、この家で、この地でずっと」

どこか寂しげに、何故か儚く、だけど嬉しそうに言って、コーデリアは静寂が澱のように鎮座する家へと戻って行く。家に入ったコーデリアは、静まりかえった家の隅々には、まだ孫娘が残した騒々しさを感じて、少しだけ込み上げてきた涙を堪えた。

 ジニーは風と共に森の中を駆け抜けて行く。ジニーが履く革のブーツが、大樹の森の中に敷かれた古道の石畳を軽やかに打つ。リズミカルに弾む足音が、いにしえの森に鎮座する神秘的な空気を打ち破る。

 祖父の話では、この大樹の森の周辺には、小さいながらも王国が築かれていたという。森の中に至る場所で、かつてこの地にあった栄華の名残が森の中で眠りについている。今、ジニーが走り抜ける古道もその一つらしい。森の抜けた先にある村には、そういった類いの伝承がいくつか残されている。

 祖父が寝物語の最中に笑いながら言った事がある。もしかしたら『ウィルナイツ家はかつてこの地に栄えた王国の王家の血筋に関係するのかもしれない。ジニー、お前は王女様なのかもしれないよ』と。悪戯をした時のような笑みを浮かべる祖父にジニーが何を答えたのかは覚えていない。興味もなかった。ジニーにとっては、好奇心を掻き立てられるような面白い話ではなかった。しかし実際、古い村人達の中にはこれに似たとある眉唾物のお伽噺を信じていた。

 それはこういった内容のものである。

――かつて、世界が闇に覆われようとした。女神に選ばれし者が聖剣によって破滅を齎す闇を打ち倒した。聖剣は大地に根を生やし、やがて大樹となり闇によって荒廃した世界に安寧の地を築く。闇を打ち倒した勇者は、人々をこの安寧の地へと導いた――

 その末裔がウィルナイツ家だという。子供に聞かせるようなお伽噺だが、森を抜けた先にある村人達の中にはこの話を信じている者がいる。信じていない者達でも、ウィルナイツ家を特別な存在として見ていた。

 ジニー自身は、ウィルナイツ家の歴史には興味が持てなかった。彼女の興味は、実際にあったかどうかも解からない過去よりも、今まさにこの世界に存在する未知なる世界を探索することだ。

「急がないと、トマスさんが待っているわけがない」

 厳静な薄闇の森の中に降り注ぐ木漏れ日が、大樹の森の神秘的な美しさを際立たせる。その中をはしゃぐように駆けるジニーは、悪戯好きのフェアリーを思わせる。奥へ、奥へ進めば進むほど森は深まり、人が入り込むのを拒む薄闇が濃くなっていく。

 魔の森がその本来の姿を現し始めて来た。瘴気のような禍々しい空気が森の中に漂い始める。

 突然、ジニーは足を止めた。急ぐジニーに時間を無駄にする余裕なんてない。森を早く抜けようと思えば、石畳が布かれ開かれたこの道を直進するべきだ。しかし、ジニーは直感的に道先に何かを感じ取ったように見える。身体を低く屈め、息を殺して周囲の気配を窺う。鋭い眼つきで薄闇が深まる森の奥を見つめるその姿は、警戒心を露わにした獣を思わせる。暗闇が深まる森の奥を睨み続けたジニーは、慎重な足取りで道を外れていく。道の両脇には背の高い群生している。乱雑にその植物を振り回して花粉を飛ばすと、反対側の木々の後ろへ足音に注意して周り込んで、太い幹と幹の間に体を滑り込ませる。周囲の自然に姿を溶け込ませるように気配を消してじっとその場に留まる。

 次の瞬間、モンスターが道の先から現れた。ジニーが進む進路の先から現れたのは、獣型のモンスターである。ウサギのような姿形をしているが、狼と同じくらいの大きな体躯だ。鋭い牙と爪を持ち、頭部には一角獣と同じ鋭い角が生えている。モンスターはその場に留まり、獰猛な眼つきを左右に動かして周囲を注意深く窺っている。獲物を嗅ぎ逃すことがないように、常に鼻をヒクつかせて匂いを嗅ぎ取っている。しかし、視認できるほどに濃く周囲に漂う花粉に嗅覚が狂わされているのか、落ち着きなく同じ場所をぐるぐると円を描く様に動く。立ち止まって何度も足で地面を叩く。苛立ちのあまり落ち着かないのが見て取れる動きだ。

 ジニーは幹と幹との僅かな隙間から、モンスターの様子を注視している。獲物である生者の気配は察知しているのか、モンスターは執念深く執拗に周囲の気配を探り続けている。

 モンスターとは、魔素濃度が高い領域で出現する全ての生物に敵対する魔物である。ジニーがいる場所は、すでに大樹の森の中でも魔素濃度の高い領域になる。モンスターとは、濃度の高い魔素によって変化した生物とされている。だが現在において、その存在はまだ何一つ解明はされていない。一説によっては、魔素濃度の高い領域では空間そのものも変質していて、モンスターはその空間の歪みつまりは異界からこちらの世界へ現出してくる未知の生命体ではないかという説があるが、この説の信憑性は低い。

 だが、先程のモンスターは突然道の先から現れた。大樹の森にも小型の動物は生息している。それらが魔素によって変質した可能性はあるが、だとしてもあまりにも唐突の出現だ。足音も息遣いも、なにより気配すら感じることができなかった。モンスターが異世界からこちらの世界に現れるという説も、眉唾物としてあながち馬鹿にはできない説かもしれない。

 しかし、そんな神出鬼没なモンスターの存在を、何故ジニーはいち早く察知することができたのか。それは彼女が冒険者に必要な様々なスキルをすでに習得していたからだ。モンスターの出現は、特殊な探知と探索スキルの複合技能で察知することができる。モンスターとのエンカウントを防ぐスキル類は、冒険者として最低限習得していなくてはならない数あるスキルの内の一つである。今のジニーが有する探知のスキルレベルならば、大樹の森の中に出現する全てのモンスターとのエンカウントする確率は低い。

 ジニーは木々の間に隠れて、じっと動かずにモンスターの動向を監視し続ける。モンスターのレベルは低い。ジニーにとって目の前にいるモンスターの脅威は低く、危険性は少ない。ジニー単独でも倒すことは難しくない。しかし、無駄な戦闘は可能な限り避けるべきである。戦闘自体、多様で多大なリスクを伴う行為だ。この場でモンスターと戦闘し勝利した所で、無傷でモンスターを倒す確率は少ない。何より一番危惧する場面としては、戦闘音を聞きつけた他のモンスターが現れる可能性だ。レベルの高いモンスターが現れたりしたら考える限り最悪だ。冒険譚を語る時の祖父から、森の中の歩き方を教えてくれた祖母からも、戦闘は避けることができない場合を除いては可能な限り避けるように教えられていた。

 目的も目標も無い戦闘行為ほど、無駄で無意味なものはない。あるのはリスクとデメリットだけである。ジニーは祖父母から、そのことを徹底的に教え込まれていた。

 撒き散らした植物の花粉のせいで、モンスターはその場に残るジニーの匂いを嗅ぎ取ることができていない様子だ。鼻を何度もヒクつかせて、何度も周囲を見渡している。やがてモンスターは、ジニーが隠れる風上とは反対側の方角へと歩き出す。

 諦めたのか、もしくは別の獲物の気配を察知したのか。モンスターは、森の奥深くへと姿を消した。

 周囲からモンスターの気配が消えると、ジニーは素早くかつ静かに走り出した。石畳の道に沿って、森の中を駆け抜ける。木々の合間を縫うように、枝々から零れ落ちる木漏れ日を避けるように、森の中に点在する闇から闇へと移りながら進む。その姿を森の中に溶かし込むようにして、自由自在に森の中を駆け抜ける。

 ジニーにとって森は庭のようなものだ。幼い頃から大樹の森を遊び場として使っていた。森の中は隅々まで探索済みだ。樹と木の根が交わる窪み、どの樹がよじ登りやすいのか、その樹のどこに足を掛けて登れるのか、大樹の森でジニーの知らない場所は一つもない。そういった身を隠せるポイントを利用して、モンスターの気配を察知する度に隠れて戦闘を回避する。時間は有限なれど、急いだって遅れを取り戻せるわけでもない。かといって急がば回れなどという悠長な暇もない。可能な限り早く、なおかつ効率よく進行する必要がある。

 ジニーは森の中を風のように駆け抜けて行く。森は奥へ行けば行くほど、薄闇は深まって行く。道も険しく、魔素濃度も高まる。空気は淀み不気味な気配を漂わせ、進めば進むほど苦しいほど瘴気が濃くなる。空気は薄くなり凍えるほど冷たく感じだす。気付けば、夜よりも暗く冷たい闇がヴェールのようにジニーの周囲に垂れ下がっている。ジニーはすでに常人ならば恐れて足を踏み入れない魔の領域を進んでいた。しかし、踏み出すジニーに恐怖はない。森を知り尽くしているジニーならば、目を瞑っていても、石や根っこなんかに躓かずかないで走る自信があった。木々の枝々に体を引っ掛けることもなければ、木々の上に駆け上って太い枝伝いに飛び移りながら移動することだって簡単にできた。森を熟知しているからこそ、出現したモンスターへの対策も容易だ。仮にモンスターとエンカウントしたとしても、ジニーの戦闘スキルならば対処することもできる。

 ジニーのステータスは、すでに大樹の森を単独で攻略できるレベルに達していた。ちなみに世間一般では、大樹の森はある程度の経験を積んだ冒険者でなければ奥まで入って行こうとはしない。

ジニーは走る足を速めた。五感を研ぎ澄ませた今のジニーならば、複雑に木々の太い枝や根や背の高い植物がひしめき合いながら複雑に入り組んだ森の中を、泳ぐようにすいすいと進んでいく。

 進む内に、深まっていた森の薄闇が薄れてきた。空気が澄んできて、木々を通り抜けていく風に再び春が感じられるようになってきた。周囲が明るみ始めている。木々の隙間から、透き通るような青い空が見える。

 森の出口はもう目の前だ。

 薄暗い大樹の森を抜け出ると、眩い光がジニーを出迎えた。降り注いできたのは暖かい春の陽気だ。最後に村へ行くのに森を抜けたのは、雪が降り積もり始めた冬の初めの頃だ。何もかもが雪の下で眠りについているように世界は鎮まり返っていた。春の風が谷間に居残る冬を連れ去って行く。世界は活気で満ち溢れていた。芽吹き始めた命で、山も丘も平原も騒がしいぐらい色めき立っている。ジニーの眼前に、春一色に染まる世界が広がっていた。

 訪れた春に謳歌する山間の美しさに目もくれず、ジニーは坂道を駆け下りて行く。ジニーの視線の先には小さな村が見える。大樹の森の隣にある山村『リンクス』。人里離れたただの田舎村だ。しかし、人が踏み込まない大樹の森の奥深くで暮らすジニーにとって、この村が彼女の知る唯一の外の世界であった。

 緩やかな下り坂沿いには石垣で築かれた棚畑が続いている。畑では村人達が土を耕していた。春ならではの光景だ。森の出口近くの小屋では、これから森の中で育つ山菜やキノコを採取する人達が森に入る準備をしている。森の浅い領域ならば魔素濃度は低く、心得のある村人が、森の恵みを採取する仕事に携わっている。

 村は春の活気に賑わっていた。冬の間、巣に籠もっていた獣達が春の訪れと共に巣穴から這いだしてくるように、冬の間家に閉じこもっていた村人達が忙しそうに働いている。

 春の仕事始めに準じて。夏が来る前に慌ただしく、落ち着きなく。喧しいくらい陽気で活発で。あっちこっちから笑い声と怒鳴り声が混じった賑やかな声が。

 春だ。山間の高原を覆っていた長く厚く降り積もった雪は、すでに影も形もどこにも見当たらない。青い空、緑一色の山と大地。暖かい陽気とせっせと働く人々の活気に満ちた声。待ちに待った春だ。リンクス村の毎年恒例となっている春の光景が、ジニーの目前に広がっている。

 去年の春までなら、今頃は祖母のコーデリアと一緒に森奥でしか採取できない様々な薬草を取っていた。それを手押し車一杯に詰め込んで、リンクス村へ売りに行く。祖母が村人と長話をしている間、ジニーは村の子供達と遊び回る。すぐ近くの草原を走り回れば、すぐ側に流れる谷川へ釣りをする時もあるし、冒険者の真似事で森の中を探検したりもする。

 それがこれまでのジニーにとって春の行事の定番であった。

 だけど今年からは違う。

 彼女は去るのだ。

 生まれ育ったこの地から。

 永遠ではないが、すぐに戻って来るわけでもない。

 生まれて十四年間、この地で育った。まだ、ジニーは幼い少女でしかない。彼女は知らない。時間がどれほど速くて、どれだけ短くて、とてつもなく冷たくて、恐ろしいほどに無情なものだということを、彼女は何一つ知らない。

 この時の彼女は、まだ夢と希望しか知らず。夢と希望しか見ず。ただ、前だけを見て、前へと進んでいた。

 今の彼女の前に立ち塞がるものは、何一つない。

 ただ真っ直ぐに駆けて行く。

 森から駆け下りてくるジニーの姿を目にした村人達が、呼び止める為に彼女の名前を大声で呼んだ。しかし、ジニーの足が止まることはない。振り返りもしない。村人らの呼び掛けに、手を振って同じくらい大きな声で応えるぐらいだ。

 ジニーが村へ近付くにつれて、彼女を呼び止める声が増えていく。森から村へと続く坂道の間、村の通りを走り抜ける中、彼女を見止めた老若男女問わず、誰もが彼女の気を引こうと大声で彼女の名前を呼ぶ。種々様々な招き言葉で呼び止められるジニーだが、決して足を止めようとはしない。ただ笑って、ただ声を張り上げて、ただ手を振って、走り去って行く。

「――」

 一言か二言か、短い言葉だけを残して、風のように駆け抜けて行く少女の後ろ姿を見て、大人達は何かに勘付いてそれ以上声を掛けなかった。ジニーを呼び止めようとはしなかった。

 春は旅立ちの季節。

 若者が巣立つ時期。

 それは、田舎村では良く見かける光景である。しかし、相手がウィルナイツ家の人間だと、リンクス村の住人にとっては話が変ってくる。ウィルナイツ家の人間の旅立ちの日に立ち会えることは、ここリンクス村では稀に起きる一大イベントである。

大人達は大声で、走り去る少女の背中を押す言葉を叫んだ。簡単に戻ってこないように、いつかまた帰って来るように、幼い頃から村を出入りして見知っている少女の旅立ちを、それぞれ思い思いの言葉で祝って送り出す。

 少女は背後からかかる声援の言葉に対して振り返らず、ただ大きく手を振って応えるだけだった。

そんな大人達とは違って、子供達は必死に彼女の後を追う。追いかけて来る子供達全員が、ジニーの遊び仲間達だ。必死に彼女の足を止めようと、彼女の名前を叫んだ。何度も。張り裂けそうな声で。立ち止まって欲しくて。振り返って欲しくて。何度も、何度も彼女の名前を呼んだ。

 森から村へと続く道を駆けて降りて行く時、村の中央の通りを真っ直ぐに突き抜けて行く時、子供達が遊んでいる村の広場を通り抜ける時、ジニーを見かけた子供達が次々と彼女の背中を追いかけた。

 だけど、誰も彼女に追いつくことはできない。彼女も足を止めない。

 それでも子供達は追いかけ続ける。転んでも諦めずに、一生面命になって。子供たちなりに何か勘付くものがあるようだ。ジニーを呼ぶ子供達の声に涙が混じり始めている。

 しかし、風を止めることも捕まえることもできない。どれだけ名前を呼ばれ様とも、どれだけ一生懸命に呼ばれても、彼女は足を止めない。決して、振り向かない。

 ただ、手を大きく振って。

 大きな声で。

「行ってくるね!」

 ジニーのその言葉に、子供達は思い思いの言葉を叫んだ。行かないで、どこへ行くの、待ってよ、沢山のジニーとの別れを惜しむ言葉を背に受けながらも、ジニーは振り返ることなく走り去って行く。

「ジニー、すぐ戻って来るよね!」

 最後に叫ぶ少年の悲痛な言葉に、ジニーは答えなかった。子供の叫んだ大きな声が山間に響き渡る中、ジニーは大きく手を振っただけだった。

 彼女は振り返らない。

 そして、絶対に立ち止まらない。

 彼女は、今日、この地から旅立つのだから。

 だから、彼女は決して振り返らない。絶対に立ち止まらない。

 待ち合わせ場所の村の出入り口には、ジニーが予想していた通りに求める待ち人の姿はどこにもなかった。ジニーは立ち止まらずに、村の外へと駆け出していく。村から外へ続く一本道は、大きな町へと続く道でもある。どれだけ道を知らなくても、方向音痴でも、真っ直ぐに進んでいればいずれ目的地に着くし、ジニーが目的とする人物にも確実に遭遇できる。

 春の麗らかな風に押されながら、緑に染まる丘を登るとジニーは目標を捉えられた。緩やかな坂道をゆっくりと下る驢馬が引く馬車を。

「トマスさん! 待って!」

 ジニーの大声は山に轟くほどだった。しかし、馬車の御者台に座る老人は振り向かないし、馬車を止める様子は無い。谷中に響くほどの大声で、耳が悪くても聞こえるほどだ。ボケてでもいないかぎり、聞こえないわけがない。

「待って、て言ってるでしょ!」

 駆けながらジニーは苛立ちを露わにして叫ぶ。御者台の老人を、ジニーは嫌というほど良く知っている。暗算でするお金の計算で間違えたことはないし、どれだけ離れた所の会話でさえも耳聡く聞き逃さない地獄耳の持ち主だ。ジニーの声が聞こえていないわけがない。

「聞こえているでしょ。この性悪狸爺!」

 緩やかな坂道を駆け下りながら、ジニーは怒りを込めて叫ぶ。ただの悪口である。しかし、聞こえない振りも老境の域に達すると、どのような言葉でさえも聴覚に届かないらしい。老人はただ前だけを見据えて手綱を握るだけだ。

「少しくらい振り向いたらどうなの! 女の子がこうやって必死になって追いかけているのに! 確かに、時間に遅れた私が悪いだけど、ほんの少しくらい待ってくれたっていいじゃない! このドケチ! 悪徳商人、鬼畜爺、ケチンボ、バカ、アホ、止まれって言ってるでしょ、クソジジイ!」

 どれだけジニーが怒鳴った所で、老練された聞こえない振りを続ける老人が振り向くことはない。山中に響き渡るジニーの悪口雑言も、草原を吹き抜けるそよ風と変わらないのだろう。

 ジニーの苛立ちは激しく噴出するばかりだ。すでに馬車は目と鼻の先である。それでも決して老人は振り向かない。腹立ちまぎれに、ジニーは背後から荒々しく馬車に飛び乗った。それでも老人は無関心と振り向かない。商人が引く荷馬車の荷台だ。知人といえども手痛い怒鳴り声で叩き降ろされて当然の行動だが、小さな荷台は空だったからだと思われる。

「ねぇ、いつまで聞こえないふりをしているつもりなの? だいたい、この前私が馬車に乗せて欲しいって頼んだら、文句も言わずに二つ返事で町まで乗せて行ってくれるっていったじゃん」

「あぁ、コーデリアにも頼まれていたからな。それにこれがお前からの最後のお願いになるだろうしな。だがな、待ち合わせ時間に遅れたのはお前だ。置いてけぼりをくったからって文句を言うのは筋違いというものだ」

「女の子を待つのは、男の度量の見せどころじゃないの?」

「ふざけるな。約束の時刻から二時間も遅れて置いて何を言ってるんだ? まったく、時間にルーズなのはウィルナイツ家の悪い遺伝だ。いい加減、断ち切らなければならないな。いいか、時は金なりだ。それは商人だけじゃない。全ての職種に言えることだ。時間を粗末にする者が大成することはない」

 老人は古い懐中時計をジニーに見せながら言う。振り向かなくてもどんな顔をしているのかジニーには簡単に想像できた。

「まったく、そんなんだからトマスさんは友達が少ないのよ」

「友達ってのはな、互いに益を渡し合える対等の立場である相手を友と呼ぶんだ」

 そう言ながら、ようやく振り向いた老人は好好爺のような笑みを浮かべていた。だが、その笑みに騙されてはいけない。人の良さそうな顔を浮かべながらも、その瞳には厳格とした固く揺るぎない意志が感じられる。

 トマス・コルネオ。コルネオ商会の創始者であり、一代で大都市に店を構える大手商業ギルドまで築き上げた辣腕商人である。老人の柔和な笑みの裏側には、耳煩い厳しさが詰め込まれているのをジニーはよく知っている。

 優しい視線は、ジニーの遅刻を非難して咎める矛先でもある。ジニーは逃げるようにその場に荷物を下ろすと同時に腰も下ろした。

「ふ~ん、ならお爺ちゃんとはそういう関係だったの?」

「んなわけあるか。ウィルはただの厄病神。アイツが決まって俺の前に現れた時は、決まってその後ろに面倒事を引き連れて来ているんだからな。アイツはな、ケツにトラブルをぶら提げて生まれ落ちて来た生粋のトラブルメーカーだ」

 トマスの言うウィルとは、ジニーの祖父ウイリアム・ウィルナイツの愛称である。

「でも、そのおかげでリンドブルムでも有数の一大商業ギルドになるほど儲けられたんじゃない?」

 内界には六つの大陸がある。六大陸の中で、内界で最も東に位置するのが『オーダリア大陸』である。オーダリア大陸は二大大国があり、東側にある大国がリンドブルムである。ジニーが暮らす大樹の森やリンクス村は、オーダリアの中央部『ヴァイスラント地方』の辺境地である。リンドブルムまで、距離だけでなく旅金面で見ても、ジニーにはとてつもなく遠い国である。

「それが必ずしも良かったわけでもないさ」

 トマスの表情から好好爺とした笑みが消えていた。ジニーはその顔をじっと見つめている。ジニーの青く澄んだ瞳には、薙いだ海を思わせる。その瞳が空の荷台を見渡した。

「まぁ、アイツが俺に齎した唯一の益は、コーデリアとの縁だな。あれは出来た嫁だ。アイツが数ある冒険の中で得たたった一つの財宝だな。他は全部ガラクタだ」

 トマスは陽気な声で言う。どのような表情を浮かべているのかはジニーには解からない。彼はすでに前だけしか見ていなかったからだ。

「なんといってもコーデリアが作ったポーションは高く売れる。それこそリンドブルムまで持って行けば、リンクス村で売られている値の十倍以上でも売れるぞ。まぁ、そんなあこぎな商売をすれば、要らぬ厄介事を生むだけだがな」

 トマスの話に耳を傾けながら、ジニーはゆっくりと進む馬車から見える景色を眺めていた。木と山と空しかない景色だ。何一つ見栄えしない辺境地の風景である。無味乾燥とした様子で移ろうことの無い風景を眺めていたジニーは呟くように言う。

「それで次からは誰が来るの?」

 ジニーが知る限り、トマスがリンクス村に訪れたなら必ずコーデリアお手製のポーションを可能な限り買い込んでいる。一つもメリットの無い無駄な行動は、トマスが最も嫌っているのをジニーは良く知っていた。トマスが住む町はリンクス村まで遠い。といっても数日かかるほど遠いわけではないが、往復すればそれだけで丸一日潰れてしまう。普段から時間を大切に使うことを口煩く言うトマスが、リンクス村まで来て手ぶらで帰る。それはジニーに強い違和感を抱かせた。

 トマス自身も、ジニーの勘が鋭く聡いのを知っている。だから彼女が何をどれだけ把握できているのか理解できた。なんといっても、ジニーに様々なスキルを教え込んだコーチの一人には、トマスも含まれているからだ。

「儂ももう歳だしな。隠居して全てを息子達に継がせることになった。おそらく今後リンクス村へ来るのは、うちのギルドから雇われた配達人が来ることになるな」

「ふ~ん。そうなんだ」

「まぁ、息子達は俺に似ず、良くも悪くも商人だ。しばらくは安泰だろう。俺としては残り少ない余生を、生まれ育った町で静かに過ごすつもりだ。今日は昔からの古い知人達にそれを伝えに来ただけだ」

「……そっか」

 ガタゴトと、悪路の山道を年老いた驢馬は文句も言わずに馬車を引く。大きな雲がいくつも頭上を流れて行く。ジニーはしばらくの間、黙って馬車からの風景を眺めていた。見えるのは、山と木とそして空だけだ。

「トマスさん、遅れてごめんなさい」

「いいさ、お前は俺のたった一人の親友の孫娘だからな」

 ジニーの呟きに、トマスは好好爺のような笑みを浮かべて振り返った。ジニーもその人の良さそうな柔和な笑みに頬を緩ませた。

 しかし、トマス・トルネコという人物をジニーは良く知っている。優しい笑みを一皮むけば、そこにあるのは厳しさである。

「いいか、ジニー。これからお前が旅立つ先がどんな所であれ、そこは大人が働く社会の中だ。世の中には沢山の職種があり、それぞれに形成された常識というのがあるが、時間厳守はどこでも守られている常識だ」

くどくどと始まる叱言に、ジニーは苦笑を浮かべて上を見上げた。一つの、パンのような形をした雲が通り過ぎて行くところだった。

「聞いているのか、ジニー」

「はいはい、解かってますよ」

「いいや、お前は解かっていないからちっとも直せてないんだ!」

 ジニーはさきほどのトマスのような老練された聞こえない振りのスキルを体得していない。しかし、祖母コーデリアを始めとした叱言を幼い頃から聞かされている。その過程で得たのが、聞き流すというスキルである。ジニーのそのスキル練度は高いレベルにまで磨き上げられていた。

「だいたいお前はウィルの悪いところばかり似すぎている。もっと祖母のコーデリアを見習え!」

「でもお爺ちゃんが、若い頃のお祖母ちゃんの喧嘩っ早い気性には困らせられたって言ってたけど」

「コラッ! 説教をされている時は黙って聞いていろ!」

 それから町まで続く道中、ガミガミとトマスは説教を続けた。ジニーも町に着くまで、終わらない説教を耳から入ってきた言葉を、反対側の耳へと押し流す作業を続けた。しかし、説教の内容は一言葉残さず覚えている。何故なら、トマスの説教は耳にたこができるほど聞かされ続けてきたからだ。

 馬車はゴトゴトと音を立ててゆっくりと進む。説教を続けるトマスと、それを聞き流すジニーを乗せて。

 ジニーが気が付いた時には、馬車はすでに町の中を進んでいた。町と言ってもリンクス村を四つ分足した程度の規模である。僻地にある村と大して変わらない。だが、それでもリンクス村以外の人の住む場所を訪れたジニーにしてみれば、この町は初めて見る外の世界である。

 首をゆっくりと動かして、ジニーは周囲を見渡した。好奇心が導くままに動く青い瞳には、初めて訪れた町の地味な風景が映し込まれている。町にある家は山奥にあるリンクス村と大して変わらない。質素で簡素な造りだ。通りを歩く人々の風体と装いも大して違いは無い。日も大分暮れ、夕餉の香りがどこからか漂ってくる。嗅ぎ慣れた香りだ。それだけでこの町もリンクス村と対して変わらないのが解かる。

 そこはジニーが知っている世界と大して変わりは無い。違うのは通りを歩く人々の中に知っている顔が一つもないだけである。

 それ以外はすべて一緒。仕事を終えた人々が家に帰る為に通りを歩いている。さすがにリンクス村よりは人の数が多いが、それだけだ。どこにでもある夕方の風景だ。

 だが、ジニーにはそれで充分であった。ジニーの胸を高鳴らせるのに充分だ。知らない場所にいる。そう思うだけで好奇心が高鳴り、心臓の鼓動が早まる。

「着いたぞ」

 トマスが呟くのと同時に馬車が止まる。止まったのは周囲に立ち並ぶ家と変わらない家だ。とても一代で大きな財と富を築いた大商人が住む家とは思えないほどの質素で簡素な造りである。

 ジニーは荷台から飛び降りると、固まった筋肉をほぐすように全身を伸ばす。そして、大きく深呼吸をする。夜気を含み始めた風は、まだ冬のように冷たい。しかし、知らない土地の空気はすこしだけリンクス村よりも空気が濃く暖かいように感じた。

 しかし、ここはまだ遠くへきたわけではない。距離で言えば、驢馬に引かれた馬車で半日ほどの距離しか進んでいない。戻ろうと思えば、歩いて戻れる距離だ。街の西に聳える山の先には、ジニーが良く知る世界が広がっている。

「儂は驢馬と荷馬車を返してくる。家の扉は開いているから、勝手に中に入っていて構わん。好きに寛いでいろ」

「え? この後すぐにバスに乗って別の街に行くんじゃないの?」

「アホかお前は、なんも知らんのか! 前情報も調べもしない奴が、どうして冒険者なんかになろうとするんだか。いいか、こんな田舎町のバスなんて一日一便しか出ていない。時間は決まっていて、バスが出るのは早朝だ。だから、今日は俺の家で一泊することになっている。コーデリアから頼まれていたんだが、お前は何も聞いていないのか? まったく、あれは本当に良くできた嫁で祖母だ。」

 ジニーは熱を帯び始めたトマスの説教から逃げるように、遠慮なく家の中へと退散することにした。一人で暮らすには広すぎるが、トマスの財力を考えれば狭くて小さい家だ。家の中に入ると、トマスの質素倹約な生活ぶりを感じさせる。生活するのに必要最低限の品物しか置かれていない。大商家の家だというのに使用人の姿はどこにもいない。しかし、部屋の隅々まで掃除が行き届いているのが見て取れる。

「神経質のトマスさんのことだから、掃除を怠ったりしないだろうけど。……とてもお年寄り一人でこれだけの大きな家を管理できるとは思えない」

 ジロジロと家の中を見渡ながら、ジニーは荷物を置くと広間にあるソファーに寝っころがった。肩透かしの冒険心が静まれば、その後にやって来るのは、旅の疲労感からの眠気である。馬車で乗っていただけなのだが、それでも疲れるものだ。それに今日という残りの退屈な時間をさっさと終わらせてしまう為にも、ジニーはさっさと眠ってしまおうと瞼を閉じた。

 馬車に揺られる道中で、時間を粗末に扱うなとトマスに口煩く説教をうけたばかりなので、これからの旅の計画を妄想しながら眠りにつくことにした。

 しかし、ジニーの考えは浅慮であった。トマスは事務所で父親の帰りを待っていた息子家族達を連れて戻って来た。なんでもジニーと、次代の商業ギルドを経営者となる息子達との顔合わせの為にである。これが商人として最後の仕事だと、ジニーの耳元で小さく呟いた。だがトマスの本来の目的は息子達にではなく、孫達とジニーを引きあわせることが目的だったのではないかと、途中でジニーはトマスの狙いに気が付いた。トマスの孫がジニーに色々質問している時、その背後で頬を緩ませて喜んでいるトマスの好好爺とした姿が印象的だった。

 その夜、質素な家で行われた歓待パーティーは、リンドブルムでも屈指の商業ギルドの一族の財力を見せ付ける盛大なものであった。息子の誕生日でもこれほど豪勢なものを行った事がない、と三人いる息子達の一人が陰気にぼやいていた。ジニー自身、三人いるトマスの息子達に良い印象を持てなかった。トマスとは異なる商人らしい商人達だ。後継者である彼等との挨拶は、その背後に打算な利益が露骨に見えていた。彼らが気にしているのは、ジニーの祖母であるコーデリアとの繋がりである。

 ジニーとしてはそんな彼等よりも、トマス自慢の孫達が印象深かった。いずれはリンドブルム屈指の商会を継ぐことになる未来の商人である子供達だ。だが現商業ギルドを継ぐ父親達の思惑とは異なり、次代の幼い後継者達は商人になるよりもジニーと同じように外界に実在する異世界を旅することだった。

 そんなトマスの孫達から様々な外界に関する情報を聞くことができた。さすがは外界とも商取引を行っている商業ギルドなだけあって、ジニーも知らない様々なことを知ることができた。特に気になったのは、現在内界と外界を結ぶ海路上では、幽霊船が出没しているとのことだ。

 幽霊船、ジニーの冒険心を激しく掻き立てる内容に、トマスの孫達との会話は熱を帯びて行く。そんな彼らとの弾む会話も、それをあまり良く思わない父親達に中断させられた。

 盛大なパーティーは早々に終わらされた。ジニーは案内された一室で寝ることになった。その部屋は質素な家の中で最も広くて華やかで綺麗に整えられていた。今晩泊まるジニーの為に用意された部屋という訳では無い。この部屋は、トマスの亡き妻の部屋である。トマスの妻はジニーが生まれるよりもずっと前に病気で亡くなっていることを、ジニーは人伝に聞いて知っていた。どんな人なのかジニーは知らない。しかし、トマスが亡き妻にどれほど深い愛情を今でも抱いているのか、部屋を見れば一目瞭然であった。

 部屋は生前の彼女が使っていた当時のまま、時を止められたかのように保たれていた。花瓶には季節の花が活けてある。窓辺の小さなテーブルには埃一つない。毎日、こまめに掃除されているのが窺える。使用人のいない家で掃除をする人間は一人しかいない。

 次の日の朝早くに、ジニーはトマスに短い別れの挨拶をしてから家を出た。玄関口で見送るトマスの姿を最後に、ジニーはトマスと会うことは二度とない。しかし、そんなことをジニーが知るはずもなく、トマスとの別れは簡素で短かった。

 ジニーは一人でバス停へ向かう。バスの停留場所は、昨夜のうちにトマスから教えられている。大通りに出て、ほんの少しだけ歩いた場所だ。リンクス村より大きいとはいえ、所詮は丘陵地域の小さな町を横断する通りは二本しかない。街を四分割するように縦と横の直線の通りがあるだけだ。バスはその二本の通りが交わる中心で、頭を東に向けて停車していた。停車場にはすでに人だかりができていて、荷物を持った人達が乗り込み始めているところだ。

 ジニーはバスという単語は聞いて知っている。地方の街や村の人達が、最寄りの都市へ移動するのに使用するリンドブルム王国が主体となって運営されている交通機関である。

バスは魔導技術と呼ばれる最新技術によって生み出されている。バスがどのような技術で動いているのかなんて、利用する側がいちいち知る必要なない。ジニーが知っているのは、地方に住む者にとってバスは便利な乗り物だということだけである。

 幼い頃からその存在を聞いてはいたバスの実物を、ジニーは初めて目にすることができた。バスは馬車よりも遥かに大きいが、ジニーが思っていたよりは小さかった。獣が威嚇している呻り声のような低い重低音が、朝の空気を一定のリズムで打ち続けている。バスは幌馬車に比べれば十分大きい乗り物だ。しかし、バス停に集まる大人数とたくさんの荷物を乗せて、ここから馬車で何日も掛かる遠い都市まで半日ほどで着くのか疑問である。そもそも、本当にジニーを含めた全員が入ることができるのか、一抹の不安が過る。しかし、それ以上にジニーは初めて見る未知である巨大な乗り物に好奇心が激しく疼かされていた。ジニーには、馬も驢馬も無しでどのように動くのか、それが楽しみでならない。

 逸る気持ちを抑えてはいるが制御できるはずもなく、興奮してはしゃぐ子供のようにジニーはバスへ向かって駆け出した。この場にトマスやコーデリアがいたら、その動きを諌める様な怒声が飛んできそうなはしゃぎぶりである。バスの乗車口はすでに開いていて、次々と人々がバスの中へと乗り込んでいく。ジニーが乗車口の前で立ち止まると、バスの運転席に座る運転手と目が合った。不精髭を生やした男性で、トマスよりはすこしだけ若く肉付きが良いように見える。口は固く閉ざされたままだが、その双眸は乗客一人一人を審査しているのか厳しい眼つきだ。そんな視線に対してジニーは真っ直ぐに見つめ返すと、相手はやりづらそうに顔を顰めて視線を逸らした。

「どうしたの? お嬢ちゃん」

 すぐに乗車口すぐ近くの席に座っていた女性が、柔和な声音でジニーに話し掛けてきた。女性は革製の軽装を装備し、腰には刀幅が広い短剣を携えている。ジニーに笑顔で近寄る彼女の動きには、戦闘技術を有する人間の警戒動作が含まれているのをジニーは見て取った。いつでも相手を組み伏せることができるように、ジニーに対して斜に構えている。死角に隠した右手は、腰の短剣をすぐに引きぬける位置にある。

 女性の戦闘技術の高さが窺い知れる自然な動きだ。

「初めてバスに乗るんだけど、このまま中に入っていいの?」

 笑みを浮かべてはきはきとジニーが言うと、女性は笑いながら言う。

「ええ、お金さえ払えば誰だって乗れるわ。だけど、乗ったら大人しく座っていること。そして、バスの添乗員であるこの私の指示には逆らわない。この二つのルールを守れるのなら、乗ってもいいわよ?」

 ジニーは元気よく頷いた。すると、横目でジニーを注意深く見つめていたバスの運転手が、前を向いたまま口を開いた。

「嬢ちゃん、このバスは都市国家『ティンバー』までしか行かない。それでも乗るなら百ギルだ」

 乗車賃は事前に聞いていた通りの金額だ。

 ジニーは意気揚々と大地を蹴ってバスへと乗り込もうとした時、遥か東からやって来た風がジニーを包み込みながら西へと吹き抜けていった。ジニーは風に何かを囁かれたような気がして、吹き抜けていく風を追いかけるように振り向いた。

 ジニーの視線の先には、朝日を受けてそびえ立つ山々の風景が大きく広がっていた。あの山々を超えた先には、ジニーが知る小さな世界がそこにある。生まれ育った家と大樹の森、通い続けた知人と友人が暮らすリンクス村、それらすべてをあの山の向こうに置いてジニーは今まさに旅立とうとしている。

 ジニーがこの地を旅立つのは、幼い頃からの夢を叶えるためである。この度はその最初の一歩だ。冒険者が旅をするのは、そこ先にある目的と目標があるからである。偉大なる冒険家ジーニアス・ウィルナイツ、その彼女の最初の旅の目的は、外界で人間が築いた唯一の国へ行くことだ。その国には様々な職業に必要なスキルを習得させてくれる施設がある。ジニーはそこへ入学して冒険者になるのに必要なスキルを習得するために外界へと旅立つのだ。

 外界の外にある世界。まだ誰も足を踏み入れたことも無ければ、誰も見た事すらもない世界。

 人々はその世界を『アンノウンワールド』と呼んだ。

 ジニーの夢はその世界を最初に眼にすることにある。

 誰よりも早く。

 でなければ意味が無い。

 誰も知らない。誰も見た事もない。誰も足を踏み入れたことも無い。それが『アンノウンワールド』なのだから。

その為にも、ジニーは冒険者になる為に、外界にある人間の国に赴き、そこで様々なスキルを身に付けるのだ。

 だが、それは旅の目的であって目標では無い。目標とは旅における一つのゴールであり、一つの通過点でしかない。夢とは、その道中にいくつも通過点を超えた先に辿り付く最後の到達点である。ジニーの最終到達点がアンノウンワールドだ。それは遠い旅路の果てに辿り着く頂点である。これからジニーの長い旅路が始まる。その旅の最初の通過点をジニーはすでに定めていた。

 ジニーが定めたこの旅の目標。それは、祖父と父を探し出して、一緒に帰りを待っている人がいる家に帰ることである。

 ジニーも、亡くなった母と同じで父が死んだとは思っていない。祖母と同じで、祖父が死んだとは思っていない。二人は、外界のどこかに必ず生きていると、何故か信じていた。ジニーが様々なスキルを身に付けて冒険者になった時、彼女が最初に探すのは行方不明の祖父と父親である。その二人を見つけ出すまで、ジニーは再び生まれ育った故郷に帰るつもりはない。

 ジニーは決めていた。必ず祖父と父親を見つけ出して、祖母と母が待つ、大樹の森の中にある我が家に一緒に帰る、それがこの旅の目標だ。

 そして、皆でアンノウンワールドを目指す。

「お嬢ちゃん、どうしたんだい?」

 バスの運転手の声で振り返ると、そこには不思議と訝しんだ二つの顔があった。添乗員の女性も、ジニーが具合でも悪くなったのか心配そうに見つめていた。

「大丈夫なの?」

「うん、平気。なんでもないから」

 短く答えたジニーの言葉に、二人は色々思う所があったのかそれ以上聞こうとはしない。春は若者の旅立ちの季節である。ジニーのように夢や希望に向かって、この地を旅立つ者は少なくない。

 ジニーは飛び乗るようにバスに乗車する。ポケットに入れておいた銀貨を一枚、運転席脇の箱に入れると、一目散に一番後ろの席に座った。添乗員の女性に言われた通り、ジニーはそれからバスの目的地に着くまで座り続けた。静かに、窓から見える外の風景を眺めていた。

 ほどなくしてバスは発進する。

 ジーニアス・ウィルナイツ。後世において数々の功績を遺した偉大なる冒険家。そんな彼女の冒険がこの瞬間から始まったのだ。

 この時の彼女は知らない。自分がこれから歩む長い旅の道のりを。これから何を見て、何を得て、そして何を成すのか、この時の彼女に知る術は無い。想像すらしていなかったに違いない。

車窓を流れる風景を眺める彼女はこれから待ち受ける未来など知らず、その胸には未知に対する好奇心で溢れ返っていた。

 この時の彼女はまだまだ夢に夢見る普通の少女である。


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