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傍観録2302  作者: 谷尾 香緒
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どこまでも傍観

「昨日は災難でしたね」

 久しぶりの夜間呼び出しから一夜明けて出勤した俺にユノはそう言った。昨日は警察から解放されてそのまま帰っていいと主任に言われたから、随分久しぶりに会う気がする。

 珍しくイチキがイズモと現場に行って、主任は不在。今年は内務大臣であるハルタが忙しくて監察に行けない代わりに各局の主任局長が直接報告に行くらしい。端的にこの後輩と二人きりだ。

「ああ、でもワクラさんには何事もなくて良かったよ」

「…でも中将の方は亡くなってますよね」

 やけにひっかかる物言いだった。

 俺たちの仕事上、駆けつけた先で生きていた人なんていないが、それは仕方のないことで、この仕事を十一年もやってる俺からすれば当然のことだった。けれど、ユノはまだ二年目。割り切れていないのかもしれないなんて思いながら、頭の片隅で昨日イチキから届いたメッセージを思い出していた。警察から解放されて、イズモと現場に車を取りに戻っている途中にきたものだ。

『カスミちゃん、やっぱり元気ないっぽいです』

 そのメール画面を見てイズモは鼻で笑っていた。「ほっとけ」だそうだが、なんとなく俺が対処しないとどうにもならない気がしていた。イズモと主任は動かないだろうし、イチキだってこちら任せだ。かといって放っておくのもよくない気がする。大事な新人だし。

 それで、なんでこの新人は元気がないんだっけと考えて三秒。自殺現場から戻ってきたら元気がなかったのだと思い出す。そう言えばあの時イチキにサンドイッチを取られたままで、結局サンドイッチ一つ分の働きもせず俺に頼りきりだ。ユノの事情がわかったら何か奢らせようか。

「ユノさ、今時間あるよね?」

 そうと決まればさっさと聞き出してしまおう。時間をかけてもいいことはない。何か悩んでいるのならなおさらだ。あとは、タダ飯にありつきたいという欲がほんの少しだけ。

 話がしたいんだけど、と言う俺の話というのがどういうものか見当がついているのだろう。緊張した顔で頷いた。

「…心配をおかけしている自覚はあるんです」

 話し始めるのをもう少し渋るかと思っていたが、ユノは案外あっさりと口を開いた。こんな簡単に話してくれるならイチキにやらせればよかったかもしれない。

「自殺の現場から戻って来てからだったよね。そこでなんかあった?」

 前置きも何もなしに本題に突っ込めば、困ったように眉を下げた笑みを返された。話を進めるのはユノ自身にやらせた方が良さそうだ。

「ナジマさんは家族とか友人とか、そういう近い間柄の人が亡くなったことはありますか?」

「ないな。中学の時父方の祖母が亡くなったけど、そういうのじゃないだろ」

 こくんと生真面目そうな視線をまっすぐ向けながら頷く。

 平凡な家族は今でもぴんぴんしてるし大きな病気もしていない。せいぜい腰痛が酷いだとか足が上がらないだとかの程度だし、同年代の友人たちに至っては誰一人と言っていいほど欠けていなかった。これは恵まれている方かもしれないなんて思ったのは、友人の友人が自殺したという話を聞いてからだった。俺たちくらいの年齢で自殺する奴は多いのだと話す友人の言葉がやけにショックだったことまで覚えてる。

「私は二人いるんです」

 二本の指が立てられる。

 これはいよいよ核心に触れていくんだろうという気がして、まだ立ったままのユノに隣の椅子を勧めた。イズモの椅子は質素な服装の彼女にはあまり似合っていない。座り心地が良すぎて逆に座りにくいと言うので、その椅子の値段を教えてやると口の端を引きつらせて姿勢を正す。別に乱暴に座った程度でどうにかなるとは思えないが。

「えっと…どこまで話しましたっけ」

 そう言ったユノは自分で立てた二本の指を眺めて思い出した。中指の方を折って「一人目は」と懐かしむように穏やかな口調で話し出す。

「私の兄でした」

「…理由は?」

「フラれたんだそうです。バカバカしい理由だと思ってたんですけど」

「この前の自殺も似たような理由だったね」

「…はい」

 でもこっちの件はそんなに気にしていないのだと、ぱたぱた手を振る。亡くなってから何年も経っていて整理もついてるらしい。

「じゃあ、二人目は?」

「二人目は…」

 明らかに落ち込んだ表情になって、それはあの現場から戻ってきた時と同じものだった。今までまっすぐ向けられていた視線がぽとりと落ちて、しばらくの間ひそめられた呼吸音だけになる。

「…同期、でした」

「LMBの?」

「はい」

 同期ということは去年の話だろう。最近の話なら、あの現場と被らせてしまっても無理はない。

「その子の理由は?」

「LMBの新人局員にはよくあることですよ。しんどくなったんです」

 特にユノがいたのは最もキツいとされるシンジュクだ。毎日何体もの遺体を拝み続けるのはしんどかったのだろう。けれど、それなら

「それなら辞めたらよかったんじゃないかって思ったでしょ?」

「…まあ」

「辞められなかったんです。彼の父がシンジュクの区長で、何かしら公職じゃないといけないらしくて」

「あー…」

 悪しき風習だ。イズモの毒づく顔が目に浮かぶ。

 貴族の役職と平民の役職が分かれているこの国で、公職はその中間にある。平民にとっては憧れの職であり、貴族にとっては就くべき職の最低ライン。一年目で辞めたとなれば家に帰ることもできないだろう。

「それに彼、責任感が人一倍強くて、この仕事で国の役に立つんだって言ってました」

「そっか…その彼の自殺とあの現場が重なったんだ?」

「それもあるんですけど…」

 言いにくそうに言葉尻を濁される。じっと続きを待っていると、言葉を選んでいるような間の後で口が開いた。

「彼が自殺する前の頃よく言ってたんです。俺たちはいつも間に合わない、って」

「間に合わない…」

「あの現場で彼の自殺とその言葉を思い出したら、なんか虚しくなっちゃって。この仕事の意味ってなんなんですかね」

 人の死を知らせてくれる機械は、その人が生きている限り絶対に通知を発しない。命の危機を知らせてはくれないから俺たちはそもそも人の命を救う仕事をしていないのだ。もう手遅れになった人の後始末をするしかできない。それでも誰かが命を見張っていることによる抑止力は確かにあって、現に公国内での殺人件数は年間を通して数えるほどしかない。今は少し、別の理由で増えているけど。

 俺たちの仕事で救われている人は少なからずいるはずで、数字を見ればそれは明らかだけど、そのことを一番実感できていないのはLMB局員だと言われている。手遅れになったものだけが眼前に並んでいるからだ。

 本当にきつい仕事だから嫌になったらいつでも辞めていい、と俺を一番楽な支部に配属した男が言っていた。さすがに俺はもう失われた命を見ていちいち悲嘆に暮れることはないけど、ユノと同じようなことを考えなかったと言えばウソになる。もう思い出すこともないくらい昔のことだ。

「…俺が高卒でLMBに入ったの知ってるよね」

「はい。コネを使った汚い手で入局したんですよね」

 否定できないのが辛いところである。

 呆れたような色をにじませる後輩からの視線を受け流して、人差し指を立てた。これはあまり人に喋ってほしくない話だから。

「秘密にしといてほしいんだけど、俺が入局してすぐの頃一か月休んだことがあるんだよ」

「一か月も?」

「そう。死体を見慣れてる生活してたわけじゃないからしんどくてさ」

 今となっては恥ずかしい思い出だ。けれどあの時は夢にまで死体が出てきてさすがに参った。しかもコネで入ったとはいえ親や親戚ではなく友人であるハルタの口利きだ。おまけに一番楽なところに入れてもらったというのに、辞めるのも休み続けるのも申し訳なく、ちょうどユノの同期と似たような状況だった。

「それで?」

「俺をここに入れてくれた人が家にきたんだよ」

「まあ、自分が入局させた人が一か月も休んでるんですもんね」

「そう。そんで言ったの」

 挨拶もそこそこに家にずけずけと上がり込んできて、さも自分が家主ですと言わんばかりの態度で座ったハルタは、さっそく俺を正面に座らせて両方の手のひらを並べて見せた。そして開口一番こう言ったのだ。

 ――仏様の手って知ってるか?

 もちろんなんとなくだが知っている。仏様とはいえ人の手と大差ないんだろうと、俺は広げられたハルタの手のひらを指さした。けれど、彼は真剣な顔で首を振ったのだ。

 ――たくさんの人を救う仏様の手には水かきがあるんだ。

 俺はそれに気のない返事を返しただけだった。友人の話が耳を通らないほど気落ちしていたわけじゃないが、大勢を救える仏様の話に食いつく弱さなど見せたくなかった。

 ――でも、そんな仏様の手からだって水は零れていくんだよ。

 聞いてるか?と生真面目に尋ねるハルタにまたてきとうな返事をしたのは、子供が拗ねているのと変わらなかった。だからなんだと心の中で不貞腐れながら、しっかりと話の続きを待っていた。ちゃんと耳を傾けている様子に気付いたのか、そこからのハルタはいやに饒舌で、ちょっと癪だったことまで覚えている。

 ――で、仏様の手からも水は零れるっていうのは、救えないものもあるから仕方ないってことでも諦めろってことでもない。

 ハルタの言葉に首を傾げた俺を見て、彼はようやく笑みを浮かべた。家に来た時から思いつめたような難しい顔をしていたからそれを見てなんだかホッとした。

 ――ただ、手に残った水のことを考えて大事にしろっていうこと。それでお前たちLMBの仕事は、零れた水が溜まって腐らないように流れていくのを見届けること。

 俺が言いたいことわかる?と言ったハルタに首肯だけで返したのは泣きそうだったから。これは恥ずかしいから絶対に言わないけど。

「要するにさ、俺たちの仕事は誰かの命を助けることじゃなくて、誰かの命の尊厳を最期に守ることなんだよ」

「…いいこと言いますね、その人。コネ使ってナジマさん入局させたくせに」

「悪い奴じゃないんだよ」

 その話をし終えたハルタはそそくさと帰っていった。ちょうど俺の入局一年目はあいつにとって大臣としての仕事と大学生活が重なってめちゃくちゃ忙しい時期だったから、あの数分程度の時間でさえ取るのは厳しかったんじゃないかと思う。

「でも、ナジマさんにもそういう時期あったんですね」

「俺を何だと思ってるんだ?」

 どうにも周りからはメンタルが強いと思われているらしい。実際はそんなことないんだと自分では思うが。

「だってナジマさん、最初から一人で何でもできそうじゃないですか」

「そうでもないよ。あの時は主任にもお世話になったし」

「主任って…」

 目を丸くしたユノはゆっくりと俺の後ろを指さす。そこには窓を背に構える大きなデスクがあった。

「そうだよ。俺が来る前からもうずっと主任はサワタリさん」

「あの人って部下の面倒見れるんですか」

 さすがに失礼だよ、と言いかけて思いとどまった。普段のあの人の態度からしたらそう思われても仕方がない。徹底した放任主義なだけなのだ。

「本人は絶対認めないんだけど、多分休んでる俺のところにあの人が来るようにしたのも主任なんだよ」

 眺めてるだけでも勝手にこちらの気が急いてしまいそうなほど忙しかったハルタが、いくらコネで入れた友人とはいえ俺が一か月仕事を休んでいることに気付けるとは思えない。目の前の仕事以外のことを考える余裕なんてあったはずがないんだから、主任が連絡したのはほぼ間違いなかった。

「意外と頼れるんですね」

「いざって時は頼りにするといいよ。なんだかんだ一番大人だしね」

 ふぅん、と呟いたユノは背もたれに体を預けた。ギッと軋んだ音が鳴る。イズモの椅子の値段のことはすっかり忘れている。

 何も言わずに指を開いて、くるくると回しながら宙にかざす。ぼんやりとその手を見つめているのは、きっとさっきの話を思い出してるんだろう。

「仏様の手の話、あと一年早く知りたかったです」

「…そうだね」

 そう答えることしかできなかった。気の利いた返事は今の俺の中にはない。取りこぼしたものを見つめても仕方がないということをわかっていても見つめてしまうものだ。

「そしたら私、好きな人を助けられてたかもしれません」

 今度は「そうだね」と答えることさえできなかった。





 その電話を受けた時、漠然と遠くに感じていたものはやっぱり身近な事だったんだとぼんやり考えた。でも遠くのものは遠くのままで、それが身近なんだという実感が湧くことは無く、逆に今度は現実が遠くにいってしまったように取り残されてしまった。

 ぼんやりしすぎたせいで少し離れてしまったスマホから、久しぶりに聞いた女の子の声が俺の名前を呼び続ける。この前、旅行のお土産をくれた女の子。直接ではなく彼女の兄を通してだけど、心が温まるように嬉しかったことを思い出す。

『ヒロトくん聞いてる?』

 彼女の声はどう聞いても上擦っていて、俺がしっかりしなきゃなんて回らない頭でそれだけ考えた。何も考えられないくらいぼーっとするのは、現実が俺を取り残して遠くに行ってしまったせいだ。

「…聞いてるよ。ちょっとびっくりしただけ」

 なるべく平静を装って返したのに、隣でイズモがこちらに視線を寄越したのがわかった。普段は俺が何してようが気にも留めないくせに。ましてや俺の電話の内容なんて興味もないくせに。イズモでこれなんだから向かいのイチキやユノはあからさまにこちらの顔を凝視してくる。視線で心配されているような気がしてくすぐったくて、でも精一杯繕っているつもりだった。

『あたし、どうしよって思って、それで…ごめんね、仕事中に』

「大丈夫だよ」

 声だけでも気丈に。俺は大人で、電話の向こうの彼女はまだ学生なんだから。

 それでも表情はもう作れなくなってきていて、感情に任せて力を抜いたら仕事の手を止めて真剣に俺を見ていたイチキが泣きそうな顔になった。よほど酷い顔だったらしい。

 おもむろに立ち上がったのは隣のイズモで、すたすたと向かう先は仕事中は誰も使わないソファ、の前のローテーブル。そこに無造作に置かれたリモコンを手に取ってテレビを点けた。

「これか」

 夕方のニュース番組。モニターの中は慌ただしく、キャスターが今まさにスタッフから手渡された原稿を読み上げるところだった。速報が入りました、と緊迫した声で言う。

 目を逸らして俯いた俺は、そのキャスターが読みあげたニュース速報なんて聞いていない。けれど、内容はわかっている。

 内務大臣であるミズシノハルタが公務からの帰り道に刺され意識不明の重体。現在は集中治療室。犯人は不法に入国してきた外国人で警備についていた軍の中将によって捕らえられたらしい。近頃続いていた不法滞入国者殺人事件のヘイトはついに国の中枢に向けられ、殺人の被害者候補だった彼らは一気に加害者に転じた。

 我慢できなくなって、ハルタのいる病院の名前だけ聞いて電話を切る。その時の彼女の声は不安げで、きっとまだ繋いでいたいんだろうけど、あいにくそんな余裕はなくて情けない限りだ。

 みんなの視線は俺からテレビに移っていて、キャスターの言葉に耳を傾けていた。どっかりと俺の隣に座り直したイズモの横顔に問いかける。

「イズモに教えたっけ?」

「貴族は噂好きだからな。なんとなく検討はついていた」

「あぁ、そっか…」

 別にバレて困ることではないからいい。主任だって知ってるし。

 けれど、知らない二人は困ったようにきょろきょろと俺とイズモを見つめてる。やがて、聞きにくそうにイチキが口を開いた。

「あの…ナジマさんと内務大臣って知り合いなんすか?」

「俺をLMBに入れた人だよ」

 何も隠さずそのまま教えてやると、驚いた声を上げたユノが立ち上がった。

「じゃあ、あの話って…」

「そう、ハルタがしてくれた話」

 それから呆けたようにすとんと腰を下ろした。

「どういう関係なんすか?」

「友達だよ。中学が一緒でね」

 言ってしまえばただの友達。それがいなくなるかもしれない。中学で出会ってからのことが走馬灯のように巡る。死にかけているのはハルタの方なのに。

 自分が唯一支えにしていた足場が崩れる気配がすぐ足元まで迫っている。怖い、と思った。

「そうだ、病院!病院行かなくていいんですか?」

 声を上げたユノは、傍目には俺なんかよりもずっと必死だ。

「仕事終わりに行くよ」

「今すぐ行ってください。仕事なら私たちでやるんで」

「俺は手伝わないぞ」

「はぁ?イズモさん正気ですか?」

「俺は手伝いますよ」

 ひょい、と手元の書類が持ち上げられてなくなった。視線を上げた先でイチキが人懐こく笑っている。

「カスミちゃんの話聞いてもらったし、お礼です」

 これがサンドイッチ分の働きになるんなら飯は奢ってくれなさそうだ。

 手元の書類を適当に分けたイチキは一番薄い紙束を自分のところにおいて、残りをユノとイズモの机にドンと置いた。相変わらずちゃっかりしている。

「ほらイズモさんも!ナジマさんには世話になってるでしょ」

「世話になんかなってない」

「いや、間違いなく世話になってると思います」

 イズモは置かれた書類に三白眼を細めたがそれだけで、突き返してくる様子はない。

 極めつけは主任だった。

「行っておいで、ナジマくん」

 相変わらず何もかも包み込むみたいに笑う。いつも俺たちを見守っているその笑顔に逆らえなかった。

「…すみません」

 鞄を掴んで立ち上がる。踏み出した足がふわふわしていた。現実が俺を置いて遠くに行ってしまったから。気を抜いたら膝に笑われてこけてしまいそうで、そんなことになったら後輩たちに笑われる。笑ってくれたらありがたい。

 幽霊みたいな頼りない足元で駐車場まで来て、それからスマホを取り出した。掛ける相手は親友の妹。サキちゃんと登録された連絡先を選んで数コール。憔悴した声は爪先で縋るように掠れていた。

『ヒロトくん…』

「病院、今から行こうと思うんだけど」

『うん。来てほしい』

 考えれば、ハルタの両親はもうとっくに亡くなっている。彼女にとって唯一の肉親の兄が危篤だというのは、きっと俺よりずっと怖い。こんなもの比べて測るものじゃないが、そう思って叱咤しないとアクセルを踏む足が震えてしまう。

 ここから病院までは十数分。前だけ見据えてハンドルを握っていればあっという間だった。

 夕方の病院は薄暗く、いっそのこときびすを返して帰ってしまいたいくらいには不穏で、しばらく駐車場から入り口までをのろのろと歩く。すると、玄関の自動ドアが慌ただしく開いて中からサキちゃんが駆け寄ってきた。

「ヒロトくん!」

 七つ下の彼女は確か次の春で大学を卒業するはず。学校からそのまま来ただろう服はお洒落だけど薄手で、この時間に外でいるには寒いんじゃないかと思いながら、腕を掴んできた彼女を支えるように手を添えた。泣いているのかわからないけど、震えて俯いている後頭部を眺めながら誰かに寄り掛かっているような安心感を勝手に覚える。

「…中、入ろっか」

「うん…」

 決して暖かくはない病院に入って、サキちゃんに腕を引かれながらハルタの手術室の前に行く。

 廊下の先にあるという手術室は、しかしスーツの大人たちがずらりと並んでいるせいで扉さえ見えなかった。その頭の隙間から赤いランプが見え隠れする。

「あの人たちは?」

「お兄ちゃんの仕事の人」

 それだけ言って、手術室からだいぶ離れた廊下の端のベンチに引っ張られるようにして座る。悲しそうな瞳を不機嫌に細めたサキちゃんはスーツの大人を見ようともせず、真っ直ぐ正面の白い壁を睨んでいた。

「お兄ちゃんが死んだらその仕事の穴埋めするために待ってるんだよ」

 ぎゅっと腕を握りっぱなしの手に力がこもる。まあそんなところだろうなとは思っていたけど不愉快な話だ。まるで仕事待ちの葬儀屋じゃないか。

「あたし、あの人たち嫌いだな」

「俺も」

 サキちゃんは少しだけ口角を上げて満足そうに微笑んだ。けれど、口元だけの笑みは失敗して泣きそうに見える。

 それから俺とサキちゃんは廊下の端で身を寄せ合って赤いランプが消えるのを待っていた。やがて陽が沈んで夜が進んで、俺たちの前をスーツの男が一人また一人と通り過ぎていく。

 赤いランプが消えたのは、スーツの男がみんないなくなってサキちゃんが俺の肩で寝息を立て始めた頃だった。


「あれ…」

 手術の結果を聞いて、サキちゃんを家まで送って、それで俺も帰路に着いたつもりだった。間違いなく家に着いたと思って車から降りて、けれど顔を上げた先は住んでるマンションじゃなくて見慣れたコンクリートの箱だった。家に帰ったつもりが職場に戻っていたらしい。

「戻ってきちゃったか」

 サキちゃんの電話からこっち、ぼんやりしっぱなしだ。一人暮らしの家より職場に向かうなんて。

 すぐに車に戻ってもよかったがなんとなく中へ足を進めてしまったのは、明かりの漏れる窓を一つ見つけてしまったからだった。

 真っ暗な階段を上って、三階。足が通い慣れているその場所から明かりが漏れていた。中を覗くと、窓際の大きな机の前に一人だけ。

「主任」

「おや、ナジマくん」

「何やってるんですか。もう日付変わってますよ」

 そのままドアの前に立っているのもなんだか変で、主任の前まで歩み寄る。綺麗に片付いた机に肘をついて笑いながら言った。

「ナジマくんがいないとなかなか仕事が片付かなくてね」

 ふふっとお茶目に笑った主任は、手を差し出して座るように促す。自分の席に彼と向かい合うように横向きで座った。

「お友達、容体は?」

「…手術は成功したんですが、目を覚ますかどうかはわからないそうです」

「そっか」

 主任は表情を変えない。変わらず優しい笑顔を浮かべてるだけだ。その視線を一身に受けるのは、今はなんだか落ち着かない心地がした。

 至極当然に流れる沈黙の中で主任が口を開く。それは沈黙を破るというより寄り添うような声だった。

「…少し昔の話をしてもいいかい?」

「どうぞ」

 これが本題で、こんな時間まで残っていた理由なんだろう。多分これからするのは、ハルタが俺をLMBに入れた時の話。

「キミがLMBに入れた理由は知ってる?」

「それは、ハルタのコネがあったからでしょう」

 俺の答えに主任は嬉しそうに笑った。思い通りにハズレたようだ。曰く、半分ハズレ、だと。

「内務大臣のコネがあれば入局は簡単だろうけどね。入局試験が難しいのはキミも知ってるだろう?入れない者の方が多い。それなのに友人だからという理由だけでキミを不正に入局させたりするような人じゃないんじゃないか、ミズシノくんは」

「まあ…確かに…」

 疑問に思ったことがないと言えばウソになる。自分の立場や家柄で奢ることなく努力してきた真面目なハルタが、明らかな規約違反を犯してまで俺を入局させたのは少し違和感があった。

「主任はその理由、知ってるんですか?」

「キミの入局が決まって『僕の友人をお願いします』と頭を下げられた時に聞いたんだ」

 まさかキミと十年以上のつき合いになるとは思っていなかったけど、と主任は笑っていたが、こっちからすれば自分の入局の際に友人がそんな親のような真似をしているとは思っていなかった。

「で?その理由、教えてくれないんですか?」

「見当つかない?」

「まったく」

 少し驚いたような顔をする主任の続きの言葉を待っていると、彼はもったいぶることなく教えてくれた。

「ナジマくんのような人間がLMBには必要なんだと言っていたよ」

「…は?」

 思いもよらない言葉に間の抜けた声が出た。折に触れて思っていたが、あいつは友人だからといって俺を買いかぶりすぎではないだろうか。

「僕もね、そう思っている」

 どうやら上司までも買いかぶっているらしい。

 何も言えず呆然としている俺に、主任はその理由まで丁寧に教えてくれる。今日は珍しくおしゃべりだ。

「この仕事は人の命を助けるものじゃない。手遅れになって死んだ人を眺め続けるだけだ。亡くなった当人からすればすぐに見つけてもらえてありがたいだろうけど、それをわかっていても辛いものだよ」

 俺を見つめ続けていた視線が不意に逸れて、ユノの席へ一瞬移った。

「でも、ナジマくんみたいな人がいてくれれば救われることもあるからね」

「…カウンセラーってことですか?」

 少し前のハルタとの会話を思い出す。しかし、首を振られてしまった。おまけに飲み込みの悪い生徒に呆れる教師のような表情まで向けられる。

「カウンセラーじゃだめだ。同じ仕事をして、ある程度苦しみを分け合った相手じゃないといけない」

「でもそれ俺じゃなくてもいいですよね」

「この支部でキミ以上の適任がいるかい?」

 そう言われて、同僚たちの顔を順繰りに浮かべる。

 まずイズモは論外、イチキも俺に丸投げだったし、ユノはまだ若いから現時点では難しいだろうし、残った主任は仕事が嫌いなんじゃないかと思うほどの放任主義だ。ユノのことも把握していたようだし、実際はそんなことないんだけど。

「ここだと、まあ、俺くらいしかいないですね…」

「そうだろう?ただそうなると一つ問題がある」

 ピッと指が一本、立てられた。

「なんですか?」

「キミを救ってくれる人がいないってことだよ」

「…ああ」

 別にそんなの要らないですよ、と言おうとしたが、現に入局直後に一か月塞ぎこんだ身としては何も言えない。

「だから、お願いされたんだよ」

「そういうことですか」

 怒ることもない代わりに積極的に助けてくれることもない上司だが、それでも頼れる存在という認識には変わりない。やっぱりあの時ハルタに連絡してくれてたのは主任なんだろう。

「でも、なんで今この話を?」

 こんな時間まで残っているということは俺を待っていたんだろうけど、そんな急を要する内容でもない。そもそも俺が病院から真っ直ぐ家に帰ってたらどうするつもりだったんだ。

「自分が誰かの救いになっていることはキミの救いになるんじゃないかと思ってね」

「へえ…じゃあ、俺が一か月休んだあの時のことは主任の救いになってるんですか?」

「…さあ、なんのことかわからないね」

 この期に及んではぐらかす上司にもう少し食い下がろうかと思ったが、帰ろうかと席を立たれてはできなかった。立ち上がった足は、支部に入る前より幾分かしっかりしている。

「辛い時は誰かと一緒にいることをおすすめするよ」

「…そうですね」

 ハルタは依然として目を覚まさないまま。事態は悪化も好転もしていない。ただ俺が少し楽になっただけ。主任の昔話で友人にとっての自分の位置を確認して、身勝手に救われただけだ。けれど、その身勝手さを責めるのは彼の生死がはっきりしてからでいいと思った。

「主任、ありがとうございました」

 今日のことも彼の救いになるんだろうか。

 俺の言葉に主任はあの時と同じく含みのある笑みで首を傾げる。

「なんことかな?」





 LMBエドガワ支部の水曜日は定休である。

 その日、チヨダ区の病院にやってきた俺は車を降りてから、見舞いの品を何も持ってきていないことに気がついた。面会許可の知らせが今朝に来たから慌ただしくここまでやってきたのだ。まあいいだろう。

 院内はあの日と違って随分明るく見える。受付で教えてもらった病室のドアを開くと、俺の寝室より広いかもしれない部屋で友人が膝に乗せたパソコンでせっせと何かしていた。恐らく仕事だ。

「…広すぎないか?」

「特権階級の病室って感じがして微妙に腹立つだろ」

 パタンとパソコンを閉じたハルタの隣に椅子を持ってきて座る。

 サキちゃんからの連絡を受けたのは先週のこと。「お兄ちゃんが目を覚ましました」と喜びで急いている口調で言われたのは事件から十日ほど経った頃だった。さすがに家族の面会はすぐに許可が下りたが、ハルタの立場上友人とはいえ第三者をあっさり入れるわけにはいかなかったらしい。

「ここ一週間性格の悪いおじさんしか見てなくて気分が悪かったから助かったよ」

「ああ…」

 手術室の前でたむろする大人たちと、それを睨むサキちゃんの目を一緒に思い出す。家族と仕事上の関係者のみに面会が許されていた一週間で彼女はあの大人たちと鉢合わせにならなかったのだろうか。貴族家の当主相手でも食ってかかる彼女が簡単に想像できてしまう。

「どこ刺されたんだっけ」

「腹だよ。ぎりぎり肝臓まで届いてたらしい」

「それ結構深いんじゃないか?」

 ぽんぽんと左側の腹を叩いて見せるハルタはいつも通りだが、あの日は本当に死ぬんじゃないかと気が気じゃなかった。犯人が捕まったというニュース速報にも気付かず、そのことをイチキに教えられて気のない返事をしたのはおぼろげに記憶にある。

「そういえば犯人捕まったんだってな」

「まあ、警察もずっと捜査してたし、俺が刺された時周りに警備の人たちいたしな」

 そもそもの問題となった不法入国者を殺してまわっていた奴もめでたく逮捕され、公国で起った異例の殺人事件は無事に根こそぎ解決した。忙しかった警察庁長官一家も落ち着いたらしく、イズモは家に人が多いとこの頃少しご機嫌ななめだ。

「そうだ」

 ふとそう呟いたハルタはこちらに手のひらを差し出した。言わんとすることは察したが、あいにく手持ちがない。首を傾げて見せると、あからさまに不貞腐れた顔をした。

「見舞いにきて手ぶらかよ」

「急いでたんだから仕方ないだろ」

「まあ、あの日サキの面倒も見てくれたみたいだし、別にいいけど」

 サキが俺の見舞いに来てもお前の話しかしないんだ、とぼやきだす。逆に俺といる時はあの子はハルタの話しかしない。

「サキちゃん、だいぶハルタのこと心配してたよ」

 気が強くてしっかりした子だから、あそこまで気が動転してるのは初めて見た。

 すると今のなにがそんなに面白かったのか、にやんと楽しそうな顔を向けられる。

「ヒロトもすごい心配してくれてたんだって?」

「…は?」

「サキが、あんなに落ち込んでるヒロトくん初めて見た、って言ってた」

 うざい。表情もうざいが、少し掠れた高い声でサキちゃんの真似をしてる声もうざい。しかも全然似てない。

「あの調子じゃ仕事にならないんじゃないかなって言ってたけど、どう?ちゃんと仕事できた?」

 別に刺されて瀕死になった友人を心配するのは当然だが、その心配していた様子を傍目から伝えられるとひどく恥ずかしい。おまけにからかうような口調と声が余計に拍車を掛ける。

「できたに決まってんだろ。そもそもそんなに心配してねえよ」

「ほんとかぁ?サワタリさんに電話で訊くか」

「サワタリさんって…主任かよ!おい、やめろ!」

 いつも主任としか呼ばないからすぐにわからなかった。

 スマホを奪おうと伸ばす手は掴まれて、寸でのところで届かない。コール音はもう鳴り始めていた。

「ここ病室だぞ!電話はダメだろ!」

「誰の病室だと思ってんだよ!内務大臣様だぞ!」

 この特権階級め。

 スマホを奪うのは諦めて、感情のままハルタの腹に手のひらを沈める。さっき軽く叩いていた左側を力を込めてぐりっとやると、天下の内務大臣様から悲鳴が上がった。

「うおっ!何すんだ、怪我人だぞ!」

「もう治ってんだろ、電話切れ!」

「治っててもヒヤッとするんだよ!」

 主任はなかなか電話に出ないようで一向にコール音は鳴りやまない。それもそのはずで、休日は家族サービスにと決めているらしい主任は、定休の二日間は普段奥さんに任せている家事を全て引き受けるらしい。仕事の日よりも休日の方が動いていると言われている。つまり主任は今家事の真っ最中。仕事用の電話にでもかけない限りは出ない。

 怪我人と見舞客での押し問答はしばらく続き、結局終止符を打ったのは看護婦長の「病院内ではお静かに!」の一言だった。

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